第3話 ボーナスの使い道
空の匂いがした。
今まで感じたことのない、風の肌触りと、やけに鮮明に見える景色の色彩が、今までこの瞳に映していたものとは全く違う世界を描いている。
「ナオちゃん、だよね?」
聞き馴染んだサカの声で意識を取り戻した。
「え? あ、はい。奈緒です」
私は奈緒。奈緒だけど......
なんだか身体の感覚が違う。軽いと言うか、なにやらか分からない大きな力に動かされているような。
そして匂いとか、音とか、やけに敏感に感じる。
大地の鼓動。その地を這う虫の足音。
空の広がりの果て。遥か上空を流れる風の輪郭と軌道。
空間を丸ごと触っているような万能感。
そして体の中を循環する血や目には見えないエネルギー。
私は腕を動かすように、それを動かすことができる。
私の体は根本から、全く別の性質のものへと変わったらしい。
キメラは、激しい威嚇をはじめると、猛スピードでこちらに走ってきた。
「ナオちゃん! とにかく逃げよう!」
サカは奈緒の手を引っ張ったが、彼女はびくともしなかった。
「サカさん、下がってて下さい」
「え?」
奈緒はサカを自身の後ろへ押しのける。
狂ったように突進してきたキメラの渾身の殴打が、奈緒を直撃する。
その衝撃は凄まじく、奈緒の足元を中心に地面が陥没した。
それと同時に爆発的な風圧で、サカや周囲の村人は押し戻されていく。
しかし、奈緒は何事もなかったかのように、そこに立っている。
「......あんた、見た目ほど強くないのね」
奈緒は頭に乗っかっているキメラの大きな前足を掴んだ。
「よくも私の......大切な......」
キメラはその人間の尋常でない握力に焦り始める。
「大切な髪を燃やしてくれたわねえええええ!」
キメラは前足の激痛に悶え苦しむ。
「ここまで伸ばすのにどれだけ苦労すると思ってるのおおおおおおおお!」
奈緒は、悶絶するキメラを思い切り背負い投げる。
「クソドラ猫があああああああああ!」
キメラはサカたちの頭上高くを悠々と超えて、高速で地面を転がっていった。
「ええええええええええええ!」
サカと村人は目の前の光景が信じられず声を漏らす。
「チリチリになってる...... うぅ.......。こんなのあんまりよ」
下瞼に涙をいっぱい溜めて、奈緒は嘆いた。
「.......許さない。絶対に許さない」
サカたちはもはや、ふつふつと怒りに燃えていく彼女に、キメラよりも恐ろしいものを感じていた。
キメラは今までとは明らかに違う、地を揺らすほどの、咆哮を響かせると、全身に魔力をみなぎらせながらこっち向かってきた。
鬣が逆立ち、漏れ出した魔力がスパークすると、全力で奈緒に向かって走り出した。
「おい。キメラもついに本気だぞ! でもこっちも.....」
奈緒の髪の毛も逆立って、白目でキメラを睨みつけた。
「店を壊して、村の人たちを傷つけて。 そして、私のこの、髪の毛を燃やした!」
ああ、そこは髪の毛のほうが大事なんだ......。
村人たちは皆心の中で呟く。
「あんたは絶対にいまここでかならjdhづsjskskdbfkd!!!」
奈緒はもはや言葉にも出来ないほど発狂して、向かってくるキメラに対し真っ向からぶつかりにいった。
その走るスピードも、人間離れした速さで、いくつもの波動を置き去りにしていく。
そのあまりの迫力に、キメラは血相を変えて、急ブレーキし、背を向けて逃げ始めた。
「逃げんじゃないわよおおお!」
すぐにキメラに追いついた奈緒は、尻尾である蛇の首を掴むと、そのまま後ろを向き、また背負い投げ地面に叩きつけた。
キメラはその衝撃で血反吐をぶちまける。もはや意識は途切れかけている。
奈緒はキメラを思い切り蹴り上げて中に浮かせる。
そして自身のもとに落ちてくるタイミングで、右の拳を構える。
その拳には光の粒子が集約していった。
「星の彼方まで飛んでいけえええ!」
奈緒の強烈なアッパーは、キメラの腹部にのめりこむ。
そして拳に溜まっていたエネルギーが爆発。
キメラは目にも止まらぬ速さで吹っ飛んでいき、文字通り星の光のようりキラリと瞬いて消えていった。
草原に静けさが戻る。
予想だにしない結末に、誰も口を開けなかった。
その様子を遠くから見ていた衛兵が、ゾロゾロと近づいてきた。
「お、お前は......一体何者だ」
衛兵は奈緒を囲んで槍を向ける。
「名を名乗れ! どこからきた!」
「えなに!? なんで私に武器を向けるの!?」
奈緒は驚いて両手をさっと上にあげた。
「素手でキメラを倒す人間など見たことない! 貴様本当に人間か!?」
「人間です! 奈緒と言います。私は! 私は決して危ないものじゃありません! 危ないもの......じゃ.......」
奈緒はそう言いながら、周囲を見渡し、半壊した街道や、クレーターだらけの草原、それらが自身を中心に散らばっていることにきづくと、言葉の勢いを失っていく。
「ど、どういったらいいのか、私にもわからないんです! 何が起きたのか、何が......起き......た......」
あれ、私......
ひどい目眩に襲われると、急に景色が歪み、奈緒は立っていられなくなった。
倒れかけた奈緒を、サカが受け止める。
「彼女は私の店を手伝ってくれていた、ただのアルバイトだ。それ以上でもそれ以下でもない。この数週間ずっとみてきた。愛想のいい、仕事のできる良い子だ。槍を下ろしてくれ」
衛兵は警戒を緩めない。
「だが、危険なことに変わりはない!」
「危険なもんか! 今見てただろ! 無惨に殺されるはずだった俺たちを、身をもって守ってくれた! 守るためにその力を使ったんだ! 何を責められるいわれがある!」
「その力は、この国の喉元に届き得る可能性がある!」
「素性もわからぬのに、危険過ぎる!」
「一度身柄を抑えて上の指示に従うべきだ!」
「そうだ! 身柄をわたせ!」
衛兵は奈緒の力に怯え、恐怖が連鎖するように雷同していく。
「そんな......私......」
憔悴し、言い返す気力もない中、心だけが傷ついていった。
サカの怒りは、もう限界だった。
「お前ら......いい加減にしろよ」
サカは奈緒をしっかり抱き抱えた。
「身柄だと? ナオちゃんを一体なんだと思ってんだ! 抑えるって、彼女が一体何をしたってんだ!」
「だからその女の力が.......」
「その力で誰か一人でも傷つけたか? お前らのように情けなく尻込みついてたか! 元はと言えばお前らがしゃんと仕事出来てねぇから、俺たちが危険な目に遭ったんじゃねえか! お前らのケツ拭いたようなもんだぞ! その見返りがそんな態度か! ふざけんじゃねえぞ.....お前らが彼女を捉えていい理由なんか、ひとつもないんだよ! 」
「だがもしその女が裏切......」
「お前らが言って良いことはただ一つ、
“ありがとうございました” だ!」
衛兵はその一介の商売人の気迫に沈黙する。
「そうだ.......奈緒ちゃんはいい子だ」
「この国の兵士は仕事やってもらってて、礼の一つもできねぇのか!」
「情けねぇ! 商売人なめんじゃねえぞこら!」
「仕事舐めてんじゃねぇぞ!」
村人は奈緒を囲むように集まると、衛兵達に次から次へと言葉をぶつけた。
衛兵は民意の圧力に、徐々に後退せざるを得なくなった。
「話ならいつでも聞いてやる、どんな偉いやつでも好きなだけ連れてこい。だが、今度うちのバイトに筋の通らねぇこと言ってみろ」
その目にはもう、商売人の穏やかさはなかった。
「――殺すぞ」
サカは温度のない冷めた眼光で、衛兵を睨みつけると、一言も発することなく衛兵たちは下がっていった。
奈緒は薄れていく意識の中で、自身にまとわりつく大人の喧嘩を聴いていた気がしていた。
寂しい思いもあったが、最後にはなにやら暖かい腕の中、いつのまにか眠りについていた。




