第九の手 残された記録
「母しゃま、絵本読んで!」
「ええ、いいわよ」
レオニスの叔父であるグレゴール・フォルスター子爵から、テオは病弱だと聞いてはいた。
だけど、私が思っていたより元気そうに見える。
朝はぱっちり目を開けて「おはよ!」と笑い、昼には膝の上にのせて欲しいとねだる。
マリネの話では、以前よりずっとよく笑うようになったらしい。
それでも――夜になると、決まって咳き込み始める。
熱っぽい日もあれば、寝汗をかいてうなされることもあった。
「日中はあんなに元気なのに、どうして……」
私は苦しそうに息を荒くするテオにそっと手を当てる……額がじんわりと熱い。
女神様から授かったスキルは、たしかにテオの体の異常を伝えてはくれる。
でもそれが何のせいなのか、どうしたらいいのかまでは教えてもらえない。
中途半端すぎでしょ。
「……よし、こうなったら」
そっと立ち上がって、テーブルの片隅にあったノートと羽根ペンを手に取った。
社畜時代——異動申請、出張費、備品管理にクレーム処理。
常に記録、記録、記録でやってられないと思ってたはずなのに。
嫌というほど『書く』ことを叩き込まれたあの日々。
「慣れって、こわいよね……」
私は迷わずページを開き、日付と時間、それにテオの体調を毎日書き留め始めた。
相変わらず夫のレオニスからは、テオを気にかけるような手紙ひとつ届かなかったけど。
○月×日
昼:体温36.4度、脈拍正常、呼吸正常、食欲良好、元気に走り回る
夜:体温37.4度、脈拍やや高め、呼吸少し早め、軽い咳と顔の紅潮——。
今日も目の前に、テオの情報が浮かび上がる。
数値そのものは色が付いていて、正常なら緑、注意が必要なときはオレンジ、危険なときは真っ赤になるらしかった。
「これ体温も脈拍も、数字の色だけで今の状態が一目でわかるんだ……」
「奥様、どうかされましたか?」
「あ、ううん。なんでもないの」
思わず苦笑してしまう。
便利だけど、どうせなら原因まで教えてよ。
ぶつぶつ愚痴を言いながら数日記録を続けているうちに、ふと気がついた。
同じ時間帯に、同じ症状ばっかり出てない……これ。
「……マリネ。お医者様は、これといった病気は見当たらないって言ってたんでしょ?」
「ええ、そうなんです。原因が分からない以上、できることにも限りがあるそうで」
そんなことってある……?
必ずそうなる理由はあるはず。
「……私、できるだけ詳しく調べてみる」
小さく息を吐き、寝息がまだ少し不安定なテオのそばへ腰掛ける。
この子の夜が、もう少し穏やかになりますように……願うように、そっと背中を撫でた。
「奥様……」
「あなたにも手伝って欲しいの、私だけじゃ心細くって」
マリネはロウソクだけの薄明かりの中、私たちのそばに控えめに立っている。
振り返って頼りなげに肩をすくめて見せると、彼女はふっと目を細めた。
「ええ、もちろんですとも。坊ちゃまにとっても、奥様がそばにいてくださることは、何より心強いことだと思います」
「ありがとう、マリネ」
彼女の言葉に、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
テオは返事をするように寝返りを打って、ふにゃりと甘えたような声を漏らした。
小さな指が寝ぼけたまま、私の指をぎゅっと掴む。
──明日も、この子の笑顔が見られますように。
テオの髪をそっと撫でながら、私はそのままそばに身体を横たえ、静かに目を閉じた。
「ねぇ、エリシア様は噂とは違うみたいね?」
「猫を被ってるだけかもしれないわよ、油断しちゃダメ」
その朝も、長い廊下を歩いていると聞こえてきた。
この屋敷の中はいつも静かだけど、探るような視線をいつも感じる。
屋敷の使用人たちがヒソヒソと話しながら、物陰からこちらを窺っているから。
「……部屋にこもりがちで、あんまり外にも出られないわよね」
テオの面倒みてるだけだってば。
「ああ、めんどくさ……イヤホン欲しい」
小さな噂が、耳に届かないふりをするのにもそろそろ慣れてきた。
それにテオが私を見上げて、『母しゃま』と笑うと、それだけで忘れることができる。
それでも昼間は元気なあの子も、やっぱり夜になると、また咳き込んで熱を出す。
何でだろ……食事とか?
「もっと詳しく調べないとダメよね……私が口出せるといいんだけど」
部屋に戻り、テオを寝かしつけていると、控えめなノックの音が扉越しに響いた。
「……開いてるから入って」
静かに扉を開けて現れたのは、書庫の管理を任されている青年だった。
灰色がかったきれいな銀髪を短く整え、軽く耳にかけながら、軽く頭を下げる。
「奥様……こちらを書類の整理中に見つけました。坊ちゃまのお名前がありましたので、奥様にお渡しした方がよいかと思いまして」
そう言って差し出されたのは、使い古された薄茶色のノートだった。
表紙には、かすれた文字でこう書かれている。
《記録:テオの体調・観察・使用薬草一覧》
……この子の名前が書いてある。
「これ、どうしたの?」
「古い書類の束に紛れていたようです」
彼から受け取ると、思わずページをめくる。
そこには丁寧な字で、テオの日々の様子がびっしりと書かれていた。
「○月×日、咳き込みが酷い。朝は機嫌がよかったが、午後ぐずぐず」
「○月△日、薬草茶を飲まず。嘔吐。夜、熱あり」
私は、いつの間にかページをめくる手を止める。
「このノートは誰のもの……?」
問いかけると、青年は静かに一言だけ答えた。
「……先妻のキアーナ様がお書きになったものです」
背表紙を開くと、端の方に小さくKの文字が書いてあった。
少なくとも、このノートの中にはテオを気にかけていた跡が残っている。
「……きっと心配だったんだ、この子のこと」
記録のなかの小さな一文。
──夜、テオの手が冷たかった。
──ごはんを残したあと、眠そうに目をこすっていた。
そのひとつひとつに、彼女の迷いや不安が滲んでいるように見えた。
「……持ってきてくれて、ありがとう」
そっと呟いた私に、青年は驚いたように一瞬だけ目を見開く。
彼はふっと微笑むと、静かに一礼して部屋をあとにした。
「マリネ……見て。テオに使われた薬草も詳しく書いてあるみたい」
「まあ、これをキアーナ様が?」
ノートを覗き込んだマリネは、驚いたように小さく声を上げた。
キアーナの手で、処方されたらしい薬の名前も書かれている。
「……ここに書かれているお薬は、今も坊ちゃまが飲まれているものですね」
「じゃあ、ずっと同じ薬を飲んでるのね?」
「ええ、間違いありません」
マリネはノートに目を落としながら、確かめるように文字を指でなぞる。
「坊ちゃまには、このお薬が一番合っているのでしょう。キアーナ様もお薬の効果を確かめたくて、記録をつけていらしたのかもしれませんね」
「……そっか」
マリネから聞いていた先妻のイメージとは少し違っていて、彼女なりに息子のことを心配していたのだとこのノートが示していた。
一から調べずに済むのはすごくありがたい……。
私のポンコツスキルが示す数値は、薬のせいなのか、食べ物のせいなのか……それとも単にテオの体質的なものなのか、まだ何も分からない。
「私、この記録を参考にさせてもらうわ」
「ええ、それがようございますね」
受け取ったノートをそっと胸に抱きしめ、マリネと微笑みあっていると、部屋の扉をノックする音が響いた。
「……グレゴール子爵様がお見えになりました」
「えっ、こんな朝早くに!?」
「奥様、私が見てまいります」
マリネが扉を開けると、使用人たちが慌ただしく小走りで廊下を行き来しているのが目に入った。
訪問の知らせはなかったはずなのに……まだ朝早い時間に、いったい何があったんだろう。




