第十の手 置き土産
マリネが部屋を出てから数分後。
パタパタと小走りで戻ってきた彼女の顔には、明らかな焦りが浮かんでいた。
「奥様、足元にお気を付けて」
「ええ、ありがとう」
慌てて部屋を飛び出し、一階のサロンへ向かう。
そこには旅装のままの義叔父グレゴール・フォルスター子爵が、家族と一緒にソファへ腰掛けていた。
「朝早くに突然押しかけてしまってすまないね、エリシア」
「一体どうなさったんですか?」
グレゴールは、申し訳なさそうに眉を下げて笑う。
「領地から戻る途中で、馬車の車軸を傷めてしまってね。近くの町で修理を待つよりは、いっそこちらで休ませてもらおうということになったんだ」
「そうでしたか、それは大変でしたね」
「エリシア様、お騒がせしてしまって本当にごめんなさい。レオニスが不在とうかがって心配しておりましたが、お元気そうで安心しました」
グレゴールの隣で伏し目がちに謝っているのは、いかにも常識的で優しげな義叔母のベアトリスだ。
少し疲れた様子もあったが、穏やかな笑顔を向けてくれた。
「おはようございます、エリシア義姉様。テオはもう起きてますか? 僕、お土産に可愛い木のおもちゃを持ってきたんです」
その後ろから、まだ少し眠そうに目をこすりながらも、小箱を抱えた従兄弟のダミアンが顔をのぞかせた。
グレゴールの家族とこうやって会話するのは、結婚式以来のことだった。
「ごめんなさいね、テオはまだ休んでいるの」
「そうですか……残念だな」
ダミアンは胸に抱えた小箱へ視線を落とし、しゅんと肩を落とした。
柔らかな栗色の髪が、幼い仕草に合わせて小さく揺れる。
「ダミアン、エリシア様を困らせてはダメよ」
「はい、母上。ごめんなさい、義姉様」
ベアトリスは、蜂蜜色の髪をゆるく結い上げた、穏やかな雰囲気の女性だった。
責めるというより、息子のはやる気持ちをそっと抑えるような声音に、少しだけ肩の力が抜ける。
「そんな……謝らないで。大したことではないでしょう? それに叔母様、私のことはエリシアとお呼びになってください」
ベアトリスは少し驚いたように私を見たけど、すぐに淡い色の瞳をやわらげ、嬉しそうに微笑む。
この人もエリシアの噂を真に受けてたみたいね……でも、こうやって地道に誤解を解いていくしかないか。
「……失礼いたします。グレゴール様、今期の納入品についてご相談があるのですが」
扉をノックして静かに入ってきたのは、執事のウォルターだった。
「うむ……ここで構わんか?」
「いえ、できれば執務室でお願いいたします。ここでは必要な書類が揃いませんから」
口では応じる素振りを見せたグレゴールだったが、なかなか腰を上げようとはしない。
「グレゴール様、どうかされましたか?」
ウォルターがわずかに首を傾げる。
「ああ、いや……」
「旦那様」
ベアトリスに声をかけられて、ようやく叔父はゆっくりと立ち上がる。
妻子の方へ一度だけ視線を残し、彼は執事に促され部屋を出て行った。
どうしたんだろ……何か気になることでもあった?
「ふぅ……」
小さく息を吐き出したベアトリスと目が合う。
「ふふ、ごめんなさい……せっかくだからいただきましょう、ダミアン」
「冷めてしまったみたいですから、新しいものを用意させましょう」
控えていたメイドに指示を出すと、彼女たちは手際よく新しい茶葉をポットに入れていく。
……そういえば、3人とも出されたお菓子やお茶に一切手を付けていない。
ダミアンはベアトリスに許可を得ると、テーブルにきれいに並んだクッキーへと手を伸ばした。
口に入れた途端、驚いた顔から幸せそうな笑顔へと、表情がくるくると変わっていく。
「美味しい! 母上も食べてみて!」
「気に入ってもらえたみたいで良かったわ」
「その、夫は用心深くて……気分を悪くさせたなら、ごめんなさいね」
「ああ、そんなこと気にしないでください。屋敷には多くの者が出入りしますから、警戒なさるのも分かります」
なるほど……叔父様は、ここの人たちを信用していないんだ。
だから、ふたりにも不用意に口にしないよう言っているのかな。
「母上……」
マズい……ダミアンまで静かになっちゃってる。
「ねぇ、あなたが持ってきてくれたおもちゃ、テオはきっと喜ぶと思うの」
「本当ですか!? 楽しみだなぁ」
大人の事情なんて、こんな小さな子が気にする必要はない。
すぐにダミアンは笑顔になって、次に口に放り込むお菓子を選び始めた。
私はベアトリスと視線を交わして、お互いクスリと笑った。
「奥様、新しいものにお取り替えします」
「ええ、ありがとう」
メイドは、ダミアンが手を伸ばしていた皿をさりげなく下げ、新しい菓子を並べた皿をテーブルに置いた。
空になった私のカップにも、琥珀色のお茶が注がれる。
しばらくすると、廊下から足音が聞こえてきて、ベアトリスとダミアンの手がぴたりと止まった。
「……では、先ほどの件はこちらで対処しておきます」
「うむ、よろしく頼む」
部屋へ戻ってきたグレゴールと執事のウォルターは、手に持った書類を確認しながら話し込んでいた。
ソファにゆったりと腰を下ろした叔父が、妻子の前に置かれているカップとテーブルの上の皿に目を走らせて、満足そうに笑った。
「待たせてしまったな。そろそろ修理も終わっている頃だろう。お暇することにしよう」
「……ええ、旦那様」
ベアトリスの視線が少し泳ぎ、彼女は慌てて目を伏せる。
叔父が戻ってくると分かった時点で、私はほとんど手をつけていない自分のカップと、彼女のものを入れ替えていた。
このぐらいいいでしょ……彼女はお茶会でさえ、叔父同伴じゃないと参加させてもらえないんだから。
ダミアンがお菓子と持参したおもちゃに夢中になっている間、ベアトリスは、夫の用心深さに困っていることを少しだけ話してくれた。
「お邪魔したね、レオニスとテオにもよろしく伝えてくれ」
「はい、お気を付けて。ウォルター、送って差し上げて」
「承知いたしました、奥様」
執事が指示を出すと、準備のために、すぐに使用人たちは慌ただしく動き始める。
修理に出した馬車がある町まで、辺境伯家の馬車で送る手筈が整えられた。
用意された馬車に乗り込むベアトリスへ、叔父は自然に手を差し伸べる。
その仕草からは、妻子を大切にしている様子がはっきりとうかがえた。
「エリシア姉様、また遊びに来てもいいですか?」
ダミアンだけは、ふかふかの座席に目を輝かせていた。
「ええ、もちろんよ。いつでもいらっしゃい」
馬車の窓から満面の笑みを見せるダミアンとは対照的に、叔父夫妻はどこか複雑な表情をしている。
一家を乗せた馬車が見えなくなるまで、私はずっと手を振り続けた。
「奥様、突然のことでお疲れでしたでしょう」
「大丈夫よ、ウォルター。ベアトリス叔母様とも、たくさんお話できたし」
私の斜め後ろに立つ彼は深く一礼したあと、にこやかな笑顔のまま馬車を見送る。
「そうでしたか。それはようございました」
「ダミアンにもらったおもちゃを見たら、テオはきっと喜ぶでしょうね」
「では、朝食はお部屋に運びましょうか」
「ええ、お願い」
頭を下げる使用人たちの間を抜け、部屋に戻ると、テオはまだベッドの中で少しだけぐずっていた。
昨夜も、微かに咳き込んでいたせいだろう。
私はそっと彼の背中を撫でながら、ベッドから起き上がらせる。
「おはよう。今日はいい天気よ?」
「……おはよ、母しゃま」
後ろに隠していた袋をそっと見せると、眠たげな目がぱっと見開かれた。
「おもちゃ!」
「さっき、ダミアンとグレゴール叔父様たちがいらしてたの。テオに渡してほしいって」
小さな手が伸びかけたところで、私は袋を胸元に引き寄せた。
「でも、先に朝ごはんを食べようね。食べ終わったら、一緒に遊ぼう?」
「……まだ、イヤ」
抱き上げると、テオは名残惜しそうに袋へ手を伸ばす。
表示された数値は緑色で、テオの体調が安定していることを示していた。
なんとか宥めて部屋の椅子に座らせると、ちょうど食事が運ばれてくるところだった。
あれ……ちょっと、香草の香りが強すぎない?
使用人が運んできたスープから漂う香りに、ほんのわずかな違和感を覚え、胸の奥で小さな警鐘が鳴った。




