第十一の手 変わりゆく日常
なに、この匂い……いつもこんな感じだったっけ?
普段は広々とした食堂で、人の出入りも絶えない。
この部屋は閉め切られていて、朝食の香りが充満していたから、いつもより強く感じたのかも。
「お、おはようございます、奥様! 坊ちゃまのお食事をお持ちしました」
扉の影から見慣れない少年が、料理を載せたカートを慎重に押しながら部屋へ入ってくる。
黒髪を後ろで束ねた、まだあどけなさの残る男の子だった。
「あなた、見ない顔ね?」
「はい、先日から、こちらで働かせていただくことになりました。料理見習いのニコラスと申します」
元気な返事とともに彼が運んできたのは、まだわずかに湯気の立つふわふわの白いパンだった。
「出来たてなのね。もしかして、あなたがこれを作ってくれたの?」
驚いて尋ねると、少年は顔を真っ赤にしてうなずいた。
この世界でも元の場所でも、焼きたてのパンを部屋まで運んでもらうなんて、そうそうあることじゃない。
「はい。坊ちゃま用に、柔らかくて食べやすいようにと思いまして……」
あんなにおもちゃに夢中だったテオでさえ、目を輝かせて、小さな手でパンを掴んだ。
「パン、食べたい……!」
「ありがとう、この子も喜んでいるみたい」
少年は少し照れたように微笑んだ。
どこか不器用ながらも、真っ直ぐな空気をまとっている。
ニコラスは、私の噂を気にしていないのか……それとも知らないのかな。
テオの料理に使われている材料を調べるのに、彼の協力が得られたらいいんだけど。
「さあ、いただきましょう」
私はパンをテオの前に置き、スープの皿だけを、さりげなく自分の方へ寄せた。
部屋には数人のメイドしかいなかったけれど、それでも胸の鼓動は少しずつ速くなっていく。
結局、そのスープには手をつけさせないまま、パンと果物で朝食を済ませた。
「……奥様」
いつもの薬はそのままテオに飲ませると、執事のウォルターがそっと近づいてくる。
「旦那様が本日、一時帰還なさいます」
「そう。分かったわ」
……ああ。
心の中で深いため息をつく。
今さら何かを期待しているわけじゃないけど、レオニスと顔を合わせるのは、やっぱり憂鬱以外の何ものでもない。
外が暗くなる少し前、エントランスに現れた夫は、軽装に着替えてはいたものの少し疲れた顔をしていた。
見た目だけなら完璧だけど、その瞳はどこか虚ろだった。
「おかえりなさいませ」
淡々と挨拶をする私にしがみ付いていたテオは、じっと父親の顔を見つめていた。
レオニスは困惑しているのか、わずかに眉をひそめる。
なんで、そんな目で見るの……まあ以前は、私の顔すら見ようとしなかったけどね!?
「お邪魔します! 旦那、予定より早めに到着できて良かったですね」
「お前も疲れただろう、早く帰って休め」
レオニスの後ろから姿を見せたのは、夫の部下のカイルだった。
背の高い彼は、周囲より頭ひとつ抜けている。
少しクセのある柔らかな茶髪と優しい微笑みは、女性受けが良さそうだ。
「そんな、つれないなぁ……せっかくですから、奥様にご挨拶させてくださいよ」
「……余計なことはしなくていい」
カイルはレオニスの冷たい言葉を意に介さず、にこにことこっちへ歩み寄ってきた。
「お会いするのは結婚式以来ですね、奥様。それにテオ坊ちゃんにも、久しぶりにお目にかかれて嬉しいです」
「お久しぶりですね、カイル様。ほら、テオもご挨拶して」
テオは私のドレスをぎゅっと掴んだまま、カイルを見上げている。
「ごめんなさい。この子、少し人見知りするみたいで」
「お気になさらず。テオ坊ちゃんに、お土産でも用意して来るべきだったかな……?」
少しおどけた様子で頭をかくカイルは、気配りができるうえに話しやすい人のようだった。
にっこり微笑んで顔を近づける彼に、小さな手が伸びる。
カイルの髪を引っ張ろうとしたところで、私は慌ててテオを抱き上げた。
「テオ、ダメよ。あの……よろしければ、カイル様も夕食をご一緒されませんか? 夫が許可すれば、ですが」
そう言ってテオを抱え直し、チラリとレオニスに視線を向ける。
「……必要ない。彼は帰らせる」
「えぇ!? どうしてですか、旦那」
「お前の家族も帰りを待ちわびてるだろ」
「三男坊なんで、そんなことないですって。さあ奥様、坊ちゃん、行きましょう」
「あっ、おい! 勝手に行くな」
カイルはまるでこの屋敷を知り尽くしているかのように、足早に先を歩いていく。
執事のウォルターや使用人たちは、そんなカイルの様子にもすっかり慣れているのか、思わず苦笑いを浮かべていた。
ふふん、これで息が詰まりそうだった食事も、少しは肩の力が抜けるでしょ。
私は不満そうな顔のレオニスを無視して、足早に先を行くカイルの背中を追った。
「おいちい!」
「本当? 良かった」
私の隣に座るテオに、パンを小さくちぎって食べさせ、スープを冷ましてからそっと口元に運ぶ。
笑って声をあげるたびに、私は自然に微笑み返していた。
今のところ、変な匂いがする料理はなさそうね……。
ひとつひとつ慎重に確認しながら、食事を進めた。
ふと視線を感じて顔を上げると、驚いたような、戸惑ったような目でレオニスとカイルがじっとこちらを見つめていた。
……何なの、ふたりして。
眉を寄せつつ視線で威嚇しながら、私はまたテオにスープを飲ませた。
「食事はいつも坊ちゃんと一緒にとられてるんですか?」
「え……ええ、そうですけど」
目の前に座る男性ふたりの沈黙が続くなか、先に口を開いたのはカイルだった。
「それに、ずいぶんと奥様になついてらっしゃるようだ」
探るような声音に気づいて、私はスプーンを持つ手を止めた。
なんとなく、目は笑っていないようにも見える。
あの噂を信じてたら、そういう態度になるのも仕方ないけど。
「そう? でも、すごく可愛いでしょ?」
にこりと笑って返すと、カイルは一瞬だけ目を丸くして、すぐにそれを隠すように笑顔を見せる。
……軽い感じかと思っていたけど、案外思慮深いのかも。
彼が私に直接尋ねる横で、レオニスは何度もこちらをチラチラとうかがっている。
「おい……いつもこうなのか?」
彼はそっとウォルターを呼び寄せ、押し殺した低い声で尋ねた。
こっちまで聞こえてるってば……ウォルターは何て答えるんだろ?
執事の方に視線を向けると、彼はほんの少し口元を緩めていた。
「はい、今ではこれがすっかり日常の光景となっています。奥様は坊ちゃまと片時も離れず、一生懸命お世話をされていますよ」
ウォルターの声は静かだったけど、どこか誇らしさがにじんでいた。
ただ自分のやりたいようにしているだけなのに、私は認められた気がして嬉しかった。
「……片付けてくれ」
「あれ、旦那。もう食べないんですか?」
夫はそれ以上何も言わず、料理にもほとんど手をつけないまま、しばらくして席を立つと部屋を出て行った。
衝撃受けてるみたいだけど、失礼な人ね。
私が自分の思うような人間じゃなかったから、ショックだったとか?
だけど、まあいっか……こっちはそれどころじゃないし。
「ほら、テオ、あーんして」
「あーん」
あなたがこの子に関心がない分は、私がちゃんと大事にしてみせる。
「ごちそうさまでした、奥様」
カイルがにこやかに頭を下げる。
「ええ、また遊びにいらしてね」
彼が帰る頃には、レオニスもいつの間にか戻ってきていた。
「……気をつけて帰れ」
相変わらず不機嫌そうな顔をしていながらも、見送りのために出てくるあたり、義理堅いというか部下思いなんだろう。
……でも私は絆されないけどね。
手を振るカイルの姿が見えなくなると、レオニスは私には見向きもせず、スタスタと寝室へと向かって行く。
「……これは一体、どういうことだ?」
「どうって……はしゃぎすぎたから疲れたんでしょう。メイドに運んでもらったのよ」
食事を終えて眠そうにしていたテオは、スヤスヤと先に眠っていた。
眉間にシワを寄せるレオニスの前には、彼のベッドと、私とテオのベッドがふたつ並んで設置してある。
「……テオには自分の寝室があるだろう」
「大きな声を出すと起きてしまうでしょ。それじゃ、おやすみなさい」
テオは夜中に熱を出すし、咳き込むこともあるの。
家族を顧みないあなたには分からないでしょうけどね……。
レオニスが戻ってくると聞いてすぐ、私は執事に指示を出していた。
「ウォルター、テオと私が使えるように、大きめのベッドを寝室に運んでおいて」
もう前みたいに息苦しい思いはしたくないから。
レオニスは何か言いたげに私を見ていたけれど、結局それ以上は口を開かなかった。
不満があるなら、はっきり言えばいいのに……。
幸い、その夜のテオは咳き込むこともなく、私の隣で静かに眠っていた。
ほっとしたせいか、私もいつの間にか眠ってしまったらしい。
翌朝、目を覚ますと、テオはまだ穏やかな寝息を立てていた。
よかった、昨夜は大丈夫だったみたい。
胸を撫で下ろしてから、ふと向かいのベッドへ視線を向ける。
そこに、レオニスの姿はなかった。
「……またいないじゃない、この人」




