第十二の手 仮面夫婦の夜会
……またいないんだけど、この人。
隣のベッドを見つめながら、朝から深いため息をついた。
乱れた寝具だけを残して、レオニスの姿はどこにもない。
寝起きの顔を見られたら負け、みたいな勝負してるんだっけ?
「奥様、お目覚めでございますか?」
控えめな声とともに、ウォルターが扉の向こうから声をかけてきた。
テオはまだ私の隣で穏やかな寝息を立てている。
「もう起きてるから入って」
「失礼いたします」
静かに入ってきた執事は、眠るテオを見て、ほっとしたように目元を緩めた。
「坊ちゃまは、昨夜はよくお休みになられたようですね」
「ええ。咳も出なかったみたいよ」
夕食を慎重に確認したおかげなのか、ただの偶然なのかは分からないけど、昨夜テオは苦しまなかった。
「……それで、旦那様は?」
「夜明け前に砦へ向かわれました」
「そう……忙しいのね」
ウォルターは困ったように眉を下げた。
「奥様へ伝言を預かっておりますよ」
「伝言?」
「今夜、領主館で開かれる夜会に同行するように、とのことでございます」
……はい?
「ずいぶん急なのね。あなたは知ってたの?」
「申し訳ございません、旦那様がお伝えしているとばかり……」
「そう……でも、ウォルターが謝ることじゃないわ」
今夜って……悪いのは、必要なことを伝えずに出かけるレオニスだ。
たぶん、辺境伯夫人としてのお披露目か何かなんだろう。
……正直、気が重いな。
王都で流された噂が、この北の土地でどれだけ広まっているのかは分からないけど、いちいち誤解を解いて回るのもめんどくさい。
「テオのことはお願いね」
「もちろんでございます。坊ちゃまにはマリネをつけますので」
「それと……食事も、私が戻るまで変わったものを食べさせないで」
「……承知いたしました」
ウォルターは少し間を置き、静かにうなずいた。
昨日の朝のスープの件は、まだ誰にも話していない。
ウォルターは、あの匂いに気付いていたのかな?
「それから、ニコラスにも伝えておいて。テオが食べるパンは、昨日と同じように柔らかいものをお願いしたいの」
「かしこまりました」
隣で小さく身じろぎする気配がして、寝ぼけた声で、テオが私の袖を掴む。
「……母しゃま?」
「おはよう、テオ」
「おはよ……」
ぼんやりと笑みを浮かべるテオに、私の頬は思わず緩んだ。
この子を置いて夜会に行くのは不安だけど、辺境伯夫人として逃げるわけにもいかない。
夕刻、支度を終えた私は、鏡の前で自分の姿を確認していた。
華美すぎず、地味すぎない——選んだのは、淡い青を基調にしたドレスだった。
「よくお似合いです、奥様」
「ありがとう。これなら少しは私の印象も変わるかしら?」
侍女たちは、気まずそうに視線をそらす。
「貴女たちを責めてるわけじゃないのよ?」
そう言って苦笑すると、彼女たちはほっとしたように胸を撫で下ろした。
「じゃあ、行ってくるわね」
馬車寄せへ向かうと、すでにレオニスが待っていた。
昼間の疲れが残っているのか、相変わらず表情は硬い。
「お待たせしました」
「……ああ」
彼の返事は短く、差し出された手に指先を重ねると、レオニスは一瞬だけ私のドレスを見た。
「……ずいぶん控えめだな」
「派手な方が良かったかしら?」
「そういう意味ではない」
じゃあ、どういう意味よ……?
馬車に乗り込むと、車輪の音だけが狭い空間に響いて、しばらく沈黙が続いた。
「今夜は、余計なことを言うな」
「余計なこととは?」
言い返されるとは思っていなかったのか、レオニスの眉がピクリと反応する。
「……噂がさらに広まるようなことだ」
私は思わず、笑いそうになった。
「……君はただでさえ目立つからな」
レオニスがこちらを見るその目には、苛立ちと戸惑いが混ざっていた。
嫌味を言いたいのか、警告したいのか……本当に分かりにくい。
「心配しなくても、辺境伯夫人として恥ずかしくないよう振る舞います」
「……そうしてくれ」
会場となっている領主館に着くと、すでに多くの招待客が集まっていた。
北の有力者や騎士、軍関係者、その家族たちでひしめき合っている。
王都の夜会は華やかだったけど、ここはどこか実務的な硬さが感じられた。
……ただ、噂好きはどこにでもいる。
「あの方が、新しい辺境伯夫人? 王都で婚約破棄されたという」
「ずいぶんお綺麗だけれど、噂では——」
ささやく声が、風のように耳へ届く。
聞こえていないふりをしながら、私はレオニスの隣で微笑んだ。
勝手に言ってなさいよ……顔は覚えたからね。
「辺境伯夫人。お初にお目にかかりますわね」
最初に声をかけてきたのは、若い女性だった。
柔らかな笑みを浮かべながらも、まるで品定めするように私を上から下まで眺めている。
「王都では、ずいぶん華やかな噂をお持ちだったとか」
……分かりやすくて助かる。
私は扇を軽く持ち直し、笑みを深めた。
「あら、どなたでしたかしら?」
「……お会いするのは今日が初めてですわ」
「では、その噂とやらが本当かどうかはご存じないのでしょう? 誰が広めているのか……もう少し詳しく聞かせていただけるかしら」
女性の顔がわずかに引きつって、隣でレオニスが小さく息を呑んだ気配がした。
……言い返さないとでも思ってた?
理不尽な上司の嫌味を浴び続けた社畜の身としては、このくらいで折れるわけないでしょ。
レオニスにも同じように言えたら、少しは違ったのかもしれない。
でも最初から聞く耳を持たない相手に、こっちから弁明してあげるほど私は優しくない。
「きゃっ……も、申し訳ありません!」
近くで、かしゃん、とグラスの倒れる音がして、若い侍女がふらつき、手にしていた果実酒を私のドレスにこぼしてしまった。
淡い青の布に、濃い赤がじわりと広がっていく。
周囲の空気が凍って、侍女は真っ青な顔でその場に膝をつきそうになる。
「も、申し訳ございません……! 私、なんてことを……」
「そんなの、あとでいいから」
私は反射的に手を伸ばし、まだフラついている侍女の腕を支えた。
「顔色が悪いけど、気分が悪いの?」
「い、いえ、私は……」
「無理に立たないで。誰か、椅子と水もお願い。できれば女性の付き添いと、医師を呼んで」
周囲がざわつく中、私は侍女を椅子に座らせつつ、きつそうな襟元に目をやった。
「首元苦しくない? 少し緩められる?」
「は、はい……」
手に触れると、白き手の表示がぼんやり浮かぶ。
体温は少し高くて、脈も速い。
だけど数値は緑で、今すぐ命に関わるような状況ではなさそうだった。
……貧血、とか?
「ふ、夫人、ドレスが……」
侍女が震える声を漏らす。
原因までは分からなかったけど、少なくとも今はドレスの汚れを気にする場面じゃない。
「この程度ならしみ抜きすればどうにかなるわ。それより控え室へ行きましょう」
私がそう言うと、侍女は今にも泣き出しそうな顔で私を見た。
「本当に、申し訳ございません……」
「だから、謝るのはあと。今は落ち着いて」
私はできるだけ穏やかに声をかける。
彼女が震えながら息を吸うのを確認して、あとは心配そうに集まってきた他の使用人たちに任せた。
ふと視線を感じて顔を上げると、レオニスがこっちをじっと見つめていた。
驚いたような、何かを確かめるような瞳だった。
何よ……私が人の心配をしたら、そんなにおかしいの?
「辺境伯夫人」
声の方へ顔を向けると、主催者らしき年配の夫婦が立っていた。
「お召し物が汚れてしまいましたわね。控え室をお使いになりますか」
「ありがとうございます。ですが替えを用意しておりませんので、今晩は早めに失礼させていただきます」
夫人は穏やかに微笑むと、静かにうなずいた。
「承知いたしました。すぐに馬車の手配をいたしますわ」
私は赤く染まったドレスの裾を見下ろした。
せっかく控えめなものを選んだのに、これだと別の意味で目立ってしまう。
まったく、夜会って面倒ね。
「私は先に失礼しますから、旦那様はごゆっくりどうぞ」
「ひとりで帰るつもりか?」
「ええ、そうですけど?」
噂が広まるようなことをするなって言ったのは、レオニスでしょ。
それに、顔を出したんだから義理は果たしてる。
「君は——」
「まあ、大変。急いで汚れを落とさないと」
レオニスの言葉を遮って、さっきの様子を見物していた女性が声をかけてくる。
「ええ。このドレスは、成人した時に母が買ってくれたものなんです。だからとても大事なもので」
エリシアがこれを大切にしていたのも本当のことだ。
ほんの少し寂しそうに伏し目がちに言えば、女性は感嘆の声をあげた。
「では急がなくてはね? 馬車の用意はできたかしら」
強引に手を引かれ、女性の後について会場を出る。
「あの……ありがとうございました」
「ふふ、何のことかしら?」
彼女は扇子でいたずらっぽい笑みを隠しながらも、その瞳はやさしい。
「今ならまだすんなり出られるわ。帰りはいつも馬車で混み合って大変なの」
女性が御者に合図を送ると、私ひとりを乗せた馬車は静かに走り出した。
軽く手を挙げた彼女に、少し戸惑いながらも笑みを返す。
「はあ……疲れた。でも早めに出られてよかった」
窓の外を流れる街並みをぼんやりと眺めていると、順調に走っていた馬車が突然急停止して、私は危うく頭をぶつけるところだった。
外で馬がいななき、御者の慌てた声がする。
「エリシア!」
聞き覚えのある声に窓の外を見ると、馬上のレオニスがこちらを睨むように見下ろしていた。
「え……レオニス? なんでいるの!?」




