第八の手 先妻の影
テオがお昼寝に入ったタイミングで、マリネが温かいお茶を運んできて、そっとテーブルの上に置く。
私は彼を起こさないよう、静かにベッドから離れると、沈み込むようにソファに深く腰を下ろした。
息をひとつ吐き出し窓辺に視線を向けると、柔らかな日差しが部屋に差し込んでいて、時間が止まっているような感覚に襲われる。
「……坊ちゃまは、よく眠っておられますね。昨日より表情も穏やかです」
「良かった……熱があるって気がついた時は、かなり焦ったから」
カップに口をつけると、ほんのり甘い茶葉の香りが鼻先をくすぐった。
大事なことは、早めに彼女に聞いておかないとね……。
「……それで、マリネ」
私は視線を彼女に向け、少し気まずく思いながら問いかけた。
夫の予定を新婚の妻が知らないなんて、夫婦仲が上手くいってないって気付かれたとしても仕方ない。
「この家の主人は、いつ戻る予定なの?」
もう昼をとっくに過ぎて、明け方から出かけているなら、そろそろ戻ってきてもいい頃だ。
一瞬マリネの動きが止まり、彼女は少し口ごもる。
「……おそらく旦那様は、一度お屋敷に戻られたあと、そのまま北の戦地へ向かわれると思います。いつもそうですから」
「いつも……? ごめんなさい、私、フォルスター子爵からお話は聞いていたけど、そこまで知らなかったの」
辺境伯として、戦場で指揮をとっているとは聞いていた。
「先妻のキアーナ様が亡くなられてから……もうずいぶん長い間、こうした生活を続けておられます」
その言葉は、ひどく遠く感じられた。
先妻を愛する彼の気持ちは今も変わらず、醜聞まみれの私に冷たいのは、そういうことだったのか。
「……それは、ここに帰る気がないってこと?」
辛いのは分かる……愛する先妻の面影が残るこの屋敷で暮らすのは、彼にとっても心を抉られることばかりだろう。
自分でも、どうしてそんな風に聞いたのかわからなかった。
でもここには、彼の息子のテオがいるんだもの。
マリネは私の言葉を否定しなかった。
「そう……やっぱりキアーナ様をそれだけ愛してたんだ。私じゃどうやっても敵わないってことね」
「お、奥様……それは違います!」
「えっ?」
ふたりして口元を押さえ、テオの様子をうかがう。
すうすうと寝息をたてているのを確認すると、お互い顔を見合わせて苦笑した。
「旦那様とキアーナ様は、政略結婚だとうかがっております」
「……それって、キアーナ様との関係は、あまり良くなかったということ?」
「はい……おふたりはお心を通わせる前に、すれ違ってしまわれたようです」
マリネの声は穏やかだったのに、その柔らかさがかえって胸に痛かった。
そこまで言って、マリネははっとしたように口をつぐむ。
「大丈夫よ、続けて。あなたから聞いたって、誰にも言わないから。約束する」
私は首を横に振って、続きを促すように微笑んだ。
少し躊躇したマリネは、申し訳なさそうに目を伏せる。
「キアーナ様はその……感情を素直に表現されるというか。旦那様にひどく当たられることも、少なくありませんでした」
マリネは、そっと手元のポットに指を添えた。
「旦那様にとって、お辛いこともあったのでしょう……ですから、おふたりとも少し距離をとられたのです」
「つまり、レオニスは仕事ばかりに打ち込むようになって、不在がちだったってこと?」
彼女の言葉はオブラートに包まれているけれど、胸をきゅっと締め付ける。
ふ、とテオの寝顔に目をやった。
頬にかかるやわらかい髪。
小さな寝息。
何も知らずに眠る、あどけない横顔。
……この子は、ただ生まれてきただけなのに。
マリネは何も言わず、冷めたお茶を下げて、新しいお茶を淹れなおしてくれた。
「それなら、レオニスはテオに構う時間も少なかったでしょうね」
マリネは何も言わなかった。
けれど答えは、その沈黙だけで十分だった。
「……坊ちゃまの瞳が、亡くなられたキアーナ様にとてもよく似ておられるのです」
「そう……だったの」
この子が生まれたことすら、誰かにとっては『痛み』になるなんて。
自分でも気づかないほど静かな決意が、胸の奥でじわっと広がっていく。
「教えてくれてありがとう、マリネ。でも、私にとってテオはテオだから」
思わず出た言葉に、マリネは小さく目を見開いたけれど、すぐに微笑んでくれた。
「はい。坊ちゃまは奥様といらっしゃる時は、よく笑っておられます。一緒に過ごせることが本当に嬉しそうで」
「ふふ、だって可愛すぎるでしょ……でも、あなたから見て、そう感じられるなら良かった」
私はテオの寝顔を見ながら、マリネの言葉を噛みしめた。
自分の子を失ったからといって、この子を代わりにしようとは思わない……でも、そばにいたい。
「……奥様、旦那様がお戻りになられました」
「分かったわ、すぐに行きます」
静かな部屋に扉をノックする音が突然響いて、私は慌てて返事を返す。
「マリネ、テオをお願いね」
「承知いたしました」
私にまつわる噂を知っていても態度を変えない彼女なら、信じてもいいのかもしれない。
マリネがこれまでずっと守ってきたテオを、私も一緒に守りたい。
血の繋がりがなくても、そう思ってしまうくらいには、もう放っておけなかった。
侍女に案内されながら、急ぎ足で大階段を降り、エントランスへと向かう。
そこには、すでに使用人たちが整然と列をなして集まっていた。
張り詰めた空気の中、新参者の私を遠巻きに眺める、冷ややかな視線が刺さる。
その中心に立つのは、鎧姿の私の夫、レオニスだった。
傍らでは、執事のウォルターが低い声で言葉を交わしている。
「……では、手配に関してはそのように」
「畏まりました、旦那様」
ふたりの間にあるのは、私が簡単には入り込めない空気だった。
私の足音に気づいたウォルターが、視線をこちらに向ける。
「……奥様、旦那様がご出立でございます」
レオニスが、ゆっくりと振り返った。
その漆黒の瞳が、昨日突き放したあの冷ややかな光を宿したまま、まっすぐに私を射抜く。
「見送りには及ばないが……」
冷たく言い放つその声には、やはり何の感情も乗っていない。
「そうですか。ですが、形だけとはいえ妻ですから。見送りくらいはさせてください」
あとで責められても面倒だし。
私の返事に、彼は眉をぴくりと動かし、わずかに顎を引いた。
「……私はこのまま戦場へ向かう。戻りがいつになるかは分からん」
「ええ、どうぞお気を付けて。いってらっしゃませ」
整列している使用人たちが、ハラハラした表情を浮かべながら、私たちのやり取りを見つめているのが分かる。
まともな会話すら交わさぬまま、戦地へ赴く……それは明確な拒絶だ。
けれど、今の私はただ冷遇に耐えるだけの人間じゃない。
テオの小さな手が袖を掴んだ感触が、まだ残っている。
誤解に満ちたレオニスの眼差しを、私は逃げることなく、真っ向から見つめ返した。
「屋敷のことはすべてウォルターに任せてある……何かあれば、まず彼に相談するように」
それだけを冷たく言い残すと、レオニスは一度も振り返ることなく、重厚な扉の向こうへと消えていった。
好きにさせてもらうから心配なんていらない……それに、噂ぐらい結婚する前に調べなさいよ。




