第五の手 後妻として、北へ
※本作は、以前投稿していた『後妻はもう恋をしない。愛をくれたのはこの子だけでした』のリメイク版です。
旧版とは設定・展開・結末などが異なる部分があります。
「保守派の貴族たちが、甥の元婚約者を娶るなど言語道断と、大騒ぎしているらしい」
……やっぱり、貴族たちの警戒のスイッチが入ったようね。
ただでさえ強大な権力を持つ我が侯爵家が、アレクシス殿下であれオズワルド殿下であれ、再び王家と深く結びつく。
それは周囲の貴族たちにとって、これ以上ない脅威だ。
侯爵家がこれ以上力をつけるのが気に入らないという本音が、モラルや外聞という綺麗な言葉に包まれて、反対の嵐となって吹き荒れている。
オズワルド殿下は、このチャンスを逃すまいとさらに強硬に出るだろう。
第一王子派も、オズワルド殿下が後ろ盾を得るのを阻止しようと全力で動き出すはずだ。
「我が侯爵家は今、王位を巡る権力争いに引きずり出されようとしている。このままでは、どちらの派閥からも生贄として踏み潰されかねん……!」
コンラートの手は、小刻みに震えていた。
娘の言葉が、最悪の形で現実味を帯びていく恐怖に耐えているんだろう。
外堀は、もう完全に埋まりかけている。
王家の男たちに左右から腕を引っ張られ、周囲の貴族からは冷ややかな刃を向けられているような状態。
本当に、一刻の猶予もない。
ここから合法的に、誰も文句が言えない形で逃げるには――。
「お父様……あれから、縁談についてはどうなりました?」
私は落ち着いた声で問いかけながら、彼を見つめた。
「実はひとつだけ、当てがあるのだが……。この国の北の最果てにある辺境伯が、後妻を探しているらしい」
「辺境伯ですか……?」
私が聞き返すと、コンラートはどこかホッとしたような、それでいて申し訳なさそうな複雑な顔で頷いた。
「今は先代と長男が相次いで亡くなって、次男が当主を継いでおる……彼の叔父とは仕事で顔を合わせることも多くてな。我が家が難しい立場に立たされているのを知って、エリシアさえよければ縁談を取り持ってもいいと声をかけてくれたのだ」
「お父様、そのお話、詳しく聞かせてください」
この時の私は、ただ王都のドロドロから逃げたい一心だった。
……保守派の皆様、もっと反対の声を大きくしてて。
「ああ……しかし、あの場所は過酷な土地だ。それに、先妻との間にまだ幼い子供もいると聞く。お前にとって、決して楽な婚姻ではないのだぞ?」
「構いません。王家に振り回され、実家ごと破滅するくらいなら、北の地で静かに過ごす方がマシです」
コンラートは私の気迫に押されたように目を見張り、それから小さく息を吐いた。
「そうか……お前がそこまで言うなら、すぐに連絡を取るとしよう。あちらも急ぎの婚姻を望んでいるようだ、話は早く進むだろう」
「ええ、よろしくお願いします」
私は深く一礼しながら、胸の内でそっと拳を握った。
よし……今のうちに、この泥沼の王都から離れさせてもらうから。
数日後には、コンラートがおそろしく早い返事を持って帰ってきた。
「フォルスター子爵を通じて、辺境伯家から承諾の返事が来た」
「え……もうですか?」
思わず聞き返してしまった。
いくら急ぎの婚姻を望んでいるとはいえ、早すぎない?
手紙を送って、辺境伯本人が読んで返事を寄越したにしては、あまりにも手際がいい。
だけど、コンラートはそれを幸運だと受け取ったらしい。
「あちらも幼い跡継ぎのために、一刻も早く新しい女主人を迎えたいのだろう。仲介を申し出てくれたフォルスター子爵も、ずいぶん親身になってくれている」
「フォルスター子爵ですか」
「ああ、辺境伯の叔父にあたる方だ。王都での取引のため、こちらに滞在することも多い。穏やかで、話の分かる人物だよ」
穏やかで、話の分かる人物。
その言葉に、なぜか胸の奥がほんの少しだけ引っかかった。
けれど、今の私に選べる道は多くない。
王弟殿下の求婚、アレクシス殿下の未練……王宮に渦巻く派閥争い。
そのすべてから逃げるには、王都を離れるしかない。
「お父様。その縁談、進めてください」
「本当にいいのだな、エリシア」
コンラートは念を押すように、私を見つめた。
その目には、父親としての迷いがある。
娘を北の果てへ嫁がせたくない、幼い子供のいる男の後妻にしたくない、そんな思いが痛いほど伝わってくる。
……それでも私は、頷いた。
「はい。私が王都に残れば、我が家は王家の争いに巻き込まれます。ですから、私は行きます」
たとえそこが、過酷な土地だとしても。
誰かの思惑に絡め取られて、実家ごと潰されるよりはずっといい。
「……分かった。ならば、私も腹を括ろう」
コンラートは苦しげに目を伏せ、それから静かに息を吐いた。
「子爵が、近いうちに屋敷を訪ねたいと言っておる。正式な話は、その時に詰めることになるだろう」
「承知いたしました」
その翌々日、侯爵家を訪ねて来た男性はグレゴール・フォルスターと名乗った。
侯爵家の応接室で、私と両親は子爵と対面した。
本来なら兄も同席する予定だったが、どうしても外せない用事が入っていた。
「あいにく息子は会合に出掛けておりましてな」
「いやいや、次期侯爵ともなれば、付き合いも多いでしょう。お気になさらず」
コンラートが言っていた通り、グレゴールは穏やかな笑みを浮かべ、人当たりもいい。
「さあ、どうぞそちらへ」
「失礼いたします」
コンラートが席を勧めると、彼はにこやかに腰を下ろした。
ほどなくして、侍女が茶と焼き菓子を運んでくる。
けれどグレゴールは、目の前に置かれた茶器にも菓子にも手を伸ばそうとはしなかった。
「……お口に合いませんでしたでしょうか?」
ナタリアが気遣うように問いかけると、彼は困ったように眉を下げた。
「とんでもない。せっかくのおもてなしに、このような無礼をして申し訳ない。私は少々胃が弱いので、外では妻が用意したもの以外を口にしないようにしておるのです」
そう言って、グレゴールは懐から銀製の小さな携帯瓶を取り出した。
「これも妻が用意してくれたものでして。あれは心配性で、少しでも約束を破ると、ひどく悲しむのですよ」
「まあ……奥様思いでいらっしゃるのですね」
ナタリアが柔らかく微笑んだ。
「いえいえ、私など、妻に生かされているようなものです」
穏やかに笑うその姿は、愛妻家の紳士にしか見えない。
「……さて、本題に入りましょうか」
子爵は水筒の蓋を静かに閉じると、こちらへ視線を向けた。
「このたびの縁談について、辺境伯側としても異存はございません。むしろ、こちらからお願いしたいほどです。幼い跡継ぎには、どうしても新しい母親が必要でしてな」
幼い跡継ぎ。
その言葉に、胸の奥がかすかに痛んだ。
私は膝の上でそっと手を握りしめながら、子爵の言葉に耳を傾ける。
「……それで、跡継ぎのご年齢は?」
コンラートが慎重に問いかけると、グレゴールは目元を和らげる。
「三つになりますな。名はテオドール。皆から、テオと呼ばれております」
三つか……まだ小さいのね。
「ただ少し体が弱く、いろいろ手を尽くしてはおるのですが、なかなか良くならんようで」
「……その子の母君は?」
「病で亡くなりました。甥にとっても、それは大きな痛手であったようです」
グレゴールは静かに目を伏せた。
哀悼の形をしたその仕草は、あまりにも整っていて、逆に心の奥を撫でられるような違和感があった。
「辺境伯は領地を守る責任を担っております。北の地には魔物の脅威や隣国との小競り合いもあり、屋敷のことばかりに気を配ってはおれんのです」
「なるほど……だから、新しい女主人が必要だと?」
コンラートが尋ねると、グレゴールはにこりと笑った。
「ええ。幼い跡継ぎを慈しみ、屋敷を支え、家中を整えてくださる方が必要なのです」
私にできるのかしら……エリシアは王子妃の教育を受けているから、その知識はあるけど。
「もちろん、侯爵家のお嬢様に北での暮らしを強いるのです。こちらも無茶な条件を出すつもりはなく、持参金なども多くは求めておりません」
コンラートがかすかに眉を動かした。
「それは、ずいぶんと寛大なお話ですな」
「こちらがお願いする立場ですからな。ですが……」
グレゴールはそこで一度言葉を切り、気遣うように私を見た。
「王都の情勢が情勢です。エリシア嬢の御身を思えば、話がまとまり次第、なるべく早く北へ向かわれた方がよろしいかと——」
グレゴールが帰ったあと、応接室にはしばらく重い沈黙が残った。
「……本当に、これでいいのかしら」
最初に口を開いたのは、ナタリアだった。
彼女は私の手を取り、痛いほど強く握りしめる。
「結果的にこうなってしまったとはいえ、北の地は遠いわ。あなたをそんな場所へ嫁がせることになるなんて……」
「お母様」
その声があまりにも不安げで、私は無理に笑顔を作ってみせる。
この人たちは、エリシアを利用しようとしているわけじゃない。
守りたいのに、守りきれないだけだ。
「大丈夫です。私はこの侯爵家を、王家の争いに巻き込まないために行くのです」
ナタリアの目に涙が浮かび、コンラートは唇を噛んで、悔しげに拳を握りしめていた。
「すまない、エリシア。もっとワシが早くに対処すべきだった」
「いいえ、それは私が選んだことです」
そう言って微笑んだつもりだったけど、うまく笑えていたかは分からない。
エリシアも私も、この人たちに対する気持ちは同じ。
だから私は後妻として、北へ行く。




