第三十五の手 報告書にない顔
「離婚して、私がテオを引き取る」
「……何だと?」
ようやく眠気が吹き飛んだらしい。
レオニスは床に座り込んだまま、信じられないものを見るように私を見上げた。
「もしフィリップって人がお金を要求するなら払う。それでもテオを引き取るって言うなら、すぐ近くに家を借りる」
「……エリシア」
口を挟もうとするレオニスを無視して、私は一晩中考えていたことを一気にまくしたてる。
「毎日会いに行く。ちゃんと食べてるか、眠れてるか、泣いてないか、全部確認するから」
「ちょっと待て、エリシア」
「テオと離れたくないの! もし引き取れるなら働いてでも自分で育てる。実家には少しだけ迷惑かけるかもしれないけど、必ず自立してみせる」
ここへ来る前の私は、自分で働いて生活していた。
この世界で同じようにできるかなんて分からない……それでも、テオのためなら何だってする。
「……言ったはずだ、君が願うなら最大限の援助はすると」
「あ、たしかに言ってたわね。でもやっぱりレオニスに迷惑はかけられないから」
なぜかレオニスの眉間のシワが、さらに深くなった。
「君は……こんな場面でも俺を頼るつもりはないのか」
「え……?」
思わず首をかしげる。
そこ、今そんなに重要?
レオニスは何か言いたそうに私を見つめたあと、大きく息を吐いた。
「まずは落ち着くんだ、エリシア。離婚に応じると言ったのは俺だ、嘘を吐くつもりもない。だがその父親について調べてからでも遅くはないだろう?」
その言葉に、さっきまで頭の中を駆け回っていた考えが少しだけ止まる。
たしかに、私たちはまだフィリップという名前しか知らない。
どこにいるのか、生きているのかさえ分からない。
「それは、そうしてもらえるならありがたいけど……でも、テオは譲らないわよ」
胸の前でぎゅっと拳を握る。
わがままだって、自分勝手だって思われようがどうでもいい、できる限りの手は打つ。
レオニスはしばらく黙ったまま、胸の前で拳を握る私を見ていた。
やがて床に落ちていた離縁状を拾い上げ、ゆっくりと立ち上がる。
「分かった。フィリップという男については、すぐに調べさせる」
「本当?」
思わず身を乗り出すと、レオニスは小さく頷いた。
「ああ。日記に書かれていることが事実なのかも含めて、できる限り調べよう。だが――」
手にした離縁状へ視線を落とす。
「これは俺が預かる」
「どうして? 私が書いたものなのに」
「君の意思を尊重すると約束した。だが、今すぐ離婚に応じるとは言っていない」
「えっ、でもさっき……」
「フィリップを調べてからでも遅くはないと言ったはずだ」
離縁状を取り返そうと手を伸ばしたけれど、レオニスは渡してくれない。
「それに、昨日は本当の父親が望むなら、その元へ行かせるべきだと言ったが……君の言う通り、俺たちはその男のことを何も知らない」
私は伸ばしていた手を止めた。
「じゃあ、すぐにテオを渡したりはしない?」
「ああ。相手がどんな男かも分からないまま、引き渡すつもりはない。君とも話し合う」
その言葉を聞いた途端、全身から力が抜けた。
よかった。今すぐテオをどこかへ連れていかれるわけじゃない。
安堵する私を見て、レオニスは眉間を押さえた。
「君は一晩中、こんなことを考えていたのか」
「だって、私とテオの今後に関わる大事なことでしょ?」
「……否定はしない。だが、少しは眠った方がいい」
「眠ってる場合じゃないから」
「君が眠っている間に、何かを決めたりはしない」
念を押すように見つめても、レオニスは目を逸らさなかった。
そこまで言うなら、少しくらい休んでも大丈夫だろうか。
「分かった。でも離縁状は捨てないで」
「……それも約束しなければならないのか?」
レオニスは再び大きく息を吐くと、手にした離縁状を丁寧に折り畳んだ。
◇
フィリップについて調べ始めてから、数日が経った。
レオニスが人を使って調査させたところ、これといって怪しい話は出てこなかったらしい。
現在は町で仕事をしながら暮らしていて、大きな借金もなければ、犯罪に関わった記録もない。
近隣との揉め事もなく、少なくとも調査した範囲では、ごく普通の生活を送っている男だった。
「……何も出なかったの?」
「ああ。少なくとも、今のところはな」
レオニスから渡された報告書へ、もう一度目を落とす。
正直、少しくらい何かあるんじゃないかと思っていた。
けれど、書かれている内容を見る限り、警戒しなければならないような人物には思えない。
だからといって、テオを渡していいとは思わないけど。
それとこれとは別。
だけどやっぱり自分の目で確かめたい。
テオのことは伏せて、フィリップ本人に話を聞けたらいいんだけど。
私はレオニスに黙って、彼が暮らす家を訪れた。
建物の陰からそっと様子をうかがうと、彼はちょうど仕事終わりのようだった。
辺りはごく普通の町で、人通りもそれなりにあり、店先では商人たちが客を呼び込んでいる。
本当に、ただここで普通に暮らしている人なのかもしれない。
「あなた! 彼の新しい恋人?」
「えっ……!? あ、あの、私……」
突然背後から声をかけられて驚いて振り向くと、両手を腰にあて不敵な笑みを浮かべる若い女性が立っていた。
誰……?
というか、彼って誰のこと?
私が答えられずにいると、女性は私の顔をじっと見つめたあと、なぜか納得したように何度もうなずいた。
「ダメよ、あの男は。諦めなさい」
「それって、もしかしてフィリップって人のこと?」
彼女は大きくうなずいて、私の両腕を掴んだ。
「アイツはクズよ。騙された女性はたくさんいるんだから!」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
騙された女性が、たくさん?
さっきまで頭の中にあった報告書の内容を思い返す。
借金なし。
犯罪歴なし。
近隣との大きな揉め事もなし。
どこにも、女性関係の問題なんて書かれていなかった。
「ちょ、ちょっと待って。騙されたって、どういうこと?」
女性は私の腕を掴んだまま、呆れたように眉を上げた。
「そのままの意味よ。あなた、何も知らなかったの?」
……なんだか、話が違ってきたんだけど。
「ちょっとこっち来なさいよ」
「あ、待って」
私は半ば引きずられるように、少し混み始めたカフェに連れて行かれた。
カフェの奥の席へ座るなり、彼女は慣れたように店員にお茶をふたつ注文した。
「まず、自己紹介しておくわね。私はロザリー・モンテル。モンテル男爵家の娘よ」
「男爵令嬢……?」
思わず目を瞬く。
どうして男爵令嬢が、フィリップの家の前で見張りみたいなことをしていたんだろう。
そんな疑問が顔に出ていたのか、ロザリーは苦い顔で笑った。
「私も、あの男に騙されたひとりなのよ」
「え……」
運ばれてきたお茶には手をつけず、ロザリーはテーブルの上で両手を組んだ。
「最初は本当に優しかったわ。貴族だからって変にへりくだることもないし、私自身を見てくれてるんだって思ってた」
その口調には怒りよりも、どこか自分を呆れるような響きがあった。
「それで付き合っていたの?」
「まあ、そんなところね。もっとも、正式に婚約していたわけじゃないけど」
ロザリーは肩をすくめる。
「しばらくすると、仕事で困ってるとか、知り合いに金を返さないといけないとか言い出してね。最初は少しだけだったのよ」
「お金を貸したの?」
「ええ。少しくらいならって」
それが何度も続いたらしい。
最初はすぐに返すと言っていた。
けれど一度貸せば次はもう少し、その次は、もっと。
「それで返してほしいって言ったら、急に態度が変わったわ」
ロザリーの口元から笑みが消えた。
「私たちのことが周りに知られてもいいのかって言われたの」
「ひどい……脅されたってこと?」
「はっきりそう言ったわけじゃないのよ。そこが腹立つところなんだけど」
ロザリーは指先でカップの縁をなぞった。
「男爵令嬢が、平民の男と付き合って、おまけにお金まで渡していた。そんな話が広まったら、困るのは私の方でしょう?」
確かに……フィリップ自身は平民で、噂になったところで、多少居心地が悪くなる程度かもしれない。
でも貴族令嬢となれば話は違う。
婚姻にも影響するだろうし、家にも迷惑がかかる。
「だから、何も言えなかったの?」
「ええ、それに私だけじゃないわ」
ロザリーは声を落とした。
「あの男、そういう女性ばかり狙ってるのよ」
「そういう女性?」
「私みたいな、あまり身分の高くない貴族の娘とか。あとは少しお金を持っている商家の娘とかね」
ロザリーは眉を寄せる。
「騙されたなんて知られたくない。男と関係があったなんて噂を立てられたくない。そういう人を選んでるの」
「……だから表沙汰になってないんだ」
「そういうこと」
ようやく、レオニスの調査で何も出てこなかった理由が分かった。
揉め事にしたくても、被害に遭った側が声を上げられない。
「他にも被害に遭った人を知ってるの?」
「何人かはね。私も後になって知ったのよ」
「それで、フィリップを見張ってたの?」
そう聞くと、ロザリーは一瞬だけ気まずそうに目を逸らした。
「……まあね」
「ずっと?」
「ずっとじゃないわよ。暇なときだけ」
それ、結構見張ってない?
思ったけれど口には出さなかった。
ロザリーは咳払いをひとつすると、私を真っ直ぐ見つめる。
「これ以上、同じ目に遭う人を増やしたくないのよ。だから、あなたがあの男の家を見てるのを見つけて……またかと思ったの」
「私、そんなんじゃないわ」
「そうなの?」
ロザリーは目を丸くした。
「じゃあ、どうしてフィリップのことを調べてるの?」
「それは……」
口を開きかけて止まる。
テオのことは伏せておきたい。
フィリップが本当の父親かもしれないなんて、今ここで他人に話していいことじゃない。
「ちょっと事情があって」
「事情?」
「詳しくは言えないんだけど、昔のことを調べてるの」
ロザリーは怪訝そうな顔をしたものの、それ以上は追及してこなかった。




