第三十六の手 選んだ家族のかたち
「昔のことって、どれくらい前?」
「3、4年くらい前かな」
そう答えると、ロザリーは少し考えるように視線を上げた。
「それなら私が知ってるより前ね」
「ロザリーがフィリップと知り合ったのは?」
「1年半くらい前よ」
じゃあ、キアーナと関係があった頃のことは知らないか。
少しだけ期待していたぶん、肩の力が抜ける。
もしかしたら、キアーナのことまで何か知っているんじゃないか。
そんな都合のいいことを、どこかで期待していたらしい。
だけど、今の話だけでも十分だった。
少なくとも、レオニスから渡された調査書に書かれていた『ごく普通の男』とは、ずいぶん印象が違う。
借金もない。
犯罪歴もない。
近隣との目立った揉め事もない。
それだけを見れば、本当にどこにでもいる普通の男だった。
でも実際には、相手が声を上げられないことを利用して、何人もの女性からお金を引き出している。
記録に残っていないからといって、何もしていないわけじゃない。
「ロザリー。さっきの話、もう少し詳しく聞かせてもらってもいい?」
「あなた、本当にあの男と何の関係もないのよね?」
念を押すように聞かれ、私は迷わずうなずいた。
「ないわ」
即答すると、ロザリーはようやく安心したように息を吐いた。
「ならいいわ」
そう言って、今度こそお茶へ口をつける。
さっき店員が運んできてからずっと放置されていたせいか、もう少し冷めてしまっているようだった。
ロザリーはひと口飲んでからカップを置くと、改めて私を見る。
「話してあげる。知ってること全部――」
私は小さく息を吸った。
聞けることは、できるだけ聞いておきたい。
フィリップがどんな人間なのか。
どうやって女性たちへ近づいて、何をしてきたのか。
そして、レオニスにはすぐに伝えた方がいい。
そう思った瞬間、私は今さら、自分が何も言わずに屋敷を出てきたことを思い出した。
…………まずい。
ものすごく、まずい気がする。
◇
「まったく君は……俺に相談してくれても良かっただろ?」
「ごめんなさい、我慢できなくて」
屋敷へ戻って事情を話すなり、レオニスは深いため息をついた。
怒っているというより、呆れているという方が近い。
だけど眉間のシワを見る限り、かなり心配はさせてしまったらしい。
「しかし、彼にそんな裏の顔があったとは」
「そうね、ロザリーに会えたのは運が良かったわ」
もし彼女に声をかけられていなかったら、私は調査書だけを見て、フィリップを『何の問題もない普通の人』だと思っていたかもしれない。
そう考えると、今さらながら背筋が寒くなる。
「君のおかげだ」
「じゃあもうテオはどこにも行かなくていいのね?」
思わず身を乗り出す。
私にとっては、結局そこが一番大事だった。
レオニスは少しだけ目を細めたあと、静かにうなずいた。
「ああ。それに妊娠していたとはいえ、俺がキアーナと結婚したんだ。その後に生まれたあの子は辺境伯の嫡男として認められる」
そうなんだ……この辺りは私がいた世界と同じなのかな。
少なくとも、フィリップが実の父親だからという理由だけで、突然テオの立場がなくなるわけではないらしい。
胸の奥に残っていた不安が、ようやく少しずつほどけていく。
でも……ほっとした途端、別のことが気になった。
「……今さらだけど、レオニスはそれでいいの?」
私がそう聞くと、彼は少しだけ目を見開いた。
「何がだ?」
「テオのこと。血がつながってないって分かったでしょう?」
ずっと自分の息子だと思っていたのに、平気なはずがない。
私はテオを手放したくない、そのことばかり考えていた。
でもレオニスがどう思っているのかは、ちゃんと聞いていない。
レオニスはしばらく黙っていたけど、やがて静かに息を吐いた。
「驚かなかったと言えば嘘になる」
「……うん」
「キアーナに騙されていたことにも、思うところはある」
その言葉に、私は何も返せなかった。
それは当然だと思うから。
「……だが」
レオニスが顔を上げる。
「テオが俺の息子ではなくなるわけじゃない」
「レオニス……」
「あの子が生まれた日から、父親は俺だった」
淡々とした口調だったけど、その言葉には迷いがなかった。
「血がつながっていようがいまいが、今さらそれで何が変わる」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
本当の父親の元へ行かせるべきだと言っていた人と同じとは思えない。
「……言ってること違うけど」
「それは言うな」
レオニスが少し気まずそうに目を逸らす。
「俺も混乱していたんだ」
「ふふ」
「笑うな」
たぶん私も同じだった。
テオを取られるかもしれないと思った瞬間、離婚だの家を借りるだの、働くだのと一晩で全部決めてしまったんだから、人のことは言えない。
「じゃあ、離縁状は返してくれる?」
「それとこれは別だ」
「どうしてよ」
レオニスは答えず、視線を逸らした。
まだちゃんと持ってるんだ、あれ。
「……捨てないって約束したからな」
「だからって大事に持ってなくてもいいでしょう?」
「君が捨てるなと言ったんだろう」
それはそうだけど、なんだか納得がいかない。
そのとき、扉の向こうから小さな足音が聞こえた。
「母しゃまー!」
勢いよく扉が開いて、テオが部屋へ入ってくる。
「テオ?」
「母しゃま、いた!」
そのまま私のところまで走ってきて、ぎゅっと抱きついた。
「どうしたの?」
「マリネが、おはなししてるからまっててって」
どうやら待ちきれなくなったらしい。
私は苦笑しながらテオを抱き上げる。
「ごめんね。もう終わったから大丈夫よ」
「ほんと?」
「うん」
テオは安心したように笑ったあと、今度はレオニスを見る。
「父しゃまも?」
「ああ」
レオニスがうなずくと、テオは嬉しそうに両手を伸ばした。
「父しゃまも、いっしょ!」
レオニスは一瞬戸惑ったあと、私の腕からテオを受け取った。
相変わらず抱き方が少しぎこちなくて危なっかしいけど、前よりはずっと自然になった。
「父しゃま、きょうもいる?」
「ああ。いる」
「ずっと?」
レオニスは少しだけ黙って、テオの頭をそっと撫でる。
「ずっといる」
その答えを聞いて、テオは満足そうに笑った。
私はその横顔を見ながら、ようやく肩の力を抜いた。
血がつながっているかどうかなんて、もうどうでもいい。
テオにとってレオニスは父親で、レオニスにとってテオは息子で。
そして私にとって、テオは大切な子供だ。
「母しゃま?」
「なあに?」
「母しゃまも、ずっといる?」
思わずレオニスを見ると、彼と目が合った。
なぜか、ものすごく真剣な顔をしている。
ここは空気を読めってことね……もちろん心得てるわ。
「うん」
私はテオの手を握る。
「いるよ」
「ほんと?」
「ほんと」
テオが嬉しそうに笑った。
その笑顔につられて、私も笑う。
レオニスは、少しだけ表情を緩めていた。
「では、この離縁状はいらないな」
「それはまた別の話」
「……なぜだ」
「捨てないって約束したでしょ?」
レオニスが盛大にため息を吐く。
あれ、私変なこと言ったっけ?
どうやら私の2度目の人生は、思っていたよりずっと騒がしいらしい。
でも悪くない……少なくとも今はそう思える。
テオの笑い声が、部屋いっぱいに響く。
これから先のことは、まだ分からない。
だけどきっと、この手で選んでいける。
今度こそ、私の人生を。
――そして、大切な家族との未来を。
【完】




