第三十一の手 崩れ落ちた誇り
「どうかこの人に……夫に、解毒薬をいただけませんか? このままでは……どうか、お願いエリシアさん」
「叔母様……」
深々と頭を下げる女性の登場に、会場は静まりかえった。
そっか……叔母様も参加されてても、おかしくないもんね。
「……エリシア」
レオニスがそっと私の肩を抱く。
「うん、分かってる。叔母様、どうぞ」
解毒薬が入った瓶を手渡すと、彼女は少し驚いたように目を見開いた。
「……ありがとう」
深く頭を下げると、叔父様の元へ駆け寄り、膝をついて口元に薬をそっと注いだ。
「さあ、あなた。これを飲んでください……もう大丈夫ですから。ほら、落ち着いて」
解毒薬が効き始めたようで、笑い声までかすれていた叔父様の呼吸は、少しずつ整っていった。
「あなた……グレゴール、もう隠さないで」
「な、なんのことだ」
叔母様は綺麗に整えられた眉を寄せ、目をきつく閉じた。
「……私が何も知らないとでも思っているの?」
彼女は、温厚そうな見た目からは想像できないような、低く冷たい声を出した。
叔父様は顔を引きつらせ、黙り込む。
「陛下、セドリック殿下……申し上げます。私はエリシア様の婚約が破棄されたときから、夫が関係しているのではと、薄々感じておりました」
「それは、どういうことかな? フォルスター夫人」
叔母様は私の方へ向き直ると、両手を胸に当て、切なそうに目を細めた。
「エリシア様。あの婚約破棄は、元々仕組まれたものだったのではないでしょうか」
「叔母様……?」
私は隣に立つレオニスと顔を見合わせた。
グレゴールの妻――ベアトリスは、時折戸惑いを浮かべながら、ゆっくりと語り始める。
「……夫の異変に気が付いたのは、エリシア様の婚約破棄が発表される3ヶ月ほど前のことでした」
叔母様は、次の言葉がなかなか出てこないようで、一度大きく息を吐き出した。
「お恥ずかしい話ですが……夫はこれまで幾度も浮気を繰り返しておりました。ただ、屋敷に愛人を連れてくるようなことは、決してしませんでした」
叔父様、浮気って……あんなに仲よさそうに見えたのに。
「ですが夫はその頃、特に執着していた相手を、とうとう屋敷に連れてきたのです。彼女は、若い女性をひとり伴っていました」
「夫人、まさかとは思うが……その若い女性とは、弟の浮気相手だろうか?」
それまで静かに彼女の話を聞いていたセドリック殿下が、言葉を引き取るように口を挟んだ。
「はい、殿下。ご明察の通りでございます」
どういうこと……なんで叔父様が?
恨まれるようなことでもしたのかと、必死にエリシアの記憶を辿ってみたけど、そもそも叔父様との接点がない。
「ち、違うんだ、ベアトリス! あの女とはそんな関係ではない――」
叔父様は必死に弁解しようと、叔母様の方へ手を差し出した。
「私に近寄らないで! もう二度とあなたに触れられたくないの!」
「そ、そんな……」
叔母様は、強く夫の手をはたき落とした。
「私を心から愛していると言いながら、次々と愛人を作っていたことは知っていたわ!」
怒りに震える彼女の声は、次第に大きくなっていく。
「人を信用できないからって、私に毎日の食事を用意させ、今回のパーティー用のワインですらそうだったじゃないの!」
えぇ……そんなことまでさせてたの!?
たしかにウチに来たときは、少し神経質かなとは思ったけど。
ベアトリスの剣幕に、会場中が息を呑み空気が張り詰めていく。
「彼は誰にも心を許さず、全て自分の思い通りに動かそうとする。でも、女性としての役目だけは強制してくるんだから奥さんも大変ね――なんて、愛人に面と向かって言われた私の気持ちが、あなたに分かる!?」
ひどい……叔母様、かわいそう。
「ち、違う! 私は本当に君だけを愛していたんだ、ベアトリス!」
「あなたのは、愛ではなくて支配よ!」
凜とした叔母様の声は、冷たい響きとなってこの場に落ちた。
誰もが口を閉ざし、固唾を呑んで成り行きを見守っていた。
「私は一度だって、自由を与えられたことがなかった。夜会は必ずあなたと一緒、お茶会への参加も許されず、実家に手紙を出せば中身まで読まれた」
叔父様の肩は小刻みに震えていた。
その震えは怒りか羞恥心か、それとも恐怖からだったのか……私には分からない。
「あなたが浮気していた間、私はずっと……屋敷の中でひとりぼっちだった」
叔母様は息を吐き出すと、震える手で一通の封筒を取り出した。
「……殿下、これは屋敷で見つけた書類です。夫がこれまで密かに進めてきた取引や、偽装工作の証拠が記されています」
「ベアトリス! お前、いつそんなものを……!」
叔母様から衛兵に封筒が手渡されると、会場中が一気にざわめいた。
受け取ったセドリック殿下は慎重に封を開け、その場で中身に目を通し始める。
「これは……! なるほど……確かに決定的な証拠になり得るな」
殿下の言葉に、叔父様の顔がさらに青ざめる。
「ち、違うんです! それは私の物ではありません!」
「屋敷の書斎で見つけたのよ、私が何も知らないと思ってたの? 家族を監視していたつもりでも、あなたこそ見張られていたの」
叔母様は冷たい声で告げると、叔父様を見据えた。
「私はずっと耐えてきたけど、もういいの。あなたの偽りの言葉には、これ以上付き合わない……あなたが本当に気持ち悪くて仕方ないわ」
「君は、あの女に騙されているんだよ。なぁ、皆もそう思うだろ!?」
叔父様は、会場の貴族たちに縋るように訴える。
だけど誰ひとりとして口を開こうとはせず、視線は逸らされるだけだった。
「殿下、お聞きください。私はこの国のために尽くしてきたのです。これまでもいくつもの難題を――」
「……その成果が、偽装工作と不正取引によるものだったとすれば、それは尽力ではなく謀略と言うんだよ」
セドリック殿下の指摘が、叔父様の言葉を冷たく遮った。
「ち、違います。私は……そんなつもりでは」
肩が震え、膝がガクガクと揺れる。
追い詰められた獣のように見開いた目で周囲を見回すけど、誰ひとりとして彼の味方をしようとはしなかった。
「父上!」
バン、と重たげな扉が勢いよく開く音が響いた。
誰もがその音に振り返る。
そこに立っていたのは、悲しそうな顔をしたダミアンだった。
その姿に、叔父様の表情が一瞬で凍りつく。
「……ダ、ダミアン。お前どうしてここに?」
「父上。どうか、真実を語ってください」
会場がざわめきを飲み込むように静まり返る中、彼はまっすぐに父親のもとへと歩を進めた。
「母上の言葉が嘘だというのなら、それを証明してください。けれどもし、これ以上言い逃れができないのなら……どうか、逃げずに向き合ってください」
低く、けれどはっきりとよく通る声だった。
「父上が教えてくれた誇りという言葉を……今こそ示してください」
その言葉に叔父様の口元がわななき、震える手は何かを掴もうとしたけど、何も掴めず、ただ力なく落ちた。
「……ワシはいつも、『お前は子爵家の婿養子か』と笑われてきた。兄は家督を継いだというのに、甥のレオニスにも敵わなかった……だからこそ、誰よりも上に立ちたいと、そう思ったんだ」
叔父様は、天井を仰ぎ見る。
「気づいたときには、全てが手遅れになっていた……」
会場に満ちていたざわめきは、重く沈んだ沈黙へと変わり、誰もその哀れな男に言葉をかけようとはしなかった。




