第三の手 切り札
「旦那様……使者は『一刻も早くお戻りいただかないと、お嬢様の身が危うい』などと申しております」
執事の報告に、コンラートは顔を真っ赤にして立ち上がった。
「なにを馬鹿なことを! 深夜に娘を連れ戻しに来るなど、アレクシス殿下は正気を失っておられるのか!」
彼の背中からは、怒りと、私を絶対に渡さないという強い決意が伝わってくる。
「そうですわ、エリシアを行かせるわけないじゃないですか」
その隣でナタリアも、私の手をぎゅっと握りしめた。
この家の人たちは、本当にエリシアを愛していたのね……娘が亡くなったと知ったら、どれだけ悲しむだろう。
私は、自分のお腹にそっと手を当ててみる。
エリシアの身体に憑依してしまった以上、私はここで生きていくしかない。
それでも、彼らに私と同じ悲しみを味わわせないよう、できるだけのことはしたい。
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、私はコンラートの袖を軽く引いた。
「お父様……」
「心配するな、エリシア。使者の方には帰っていただくから。お前は何も案ずることはない」
そう言って頭を優しく撫でてくれようとしたけど、私はその手をそっと制して、真っ直ぐに彼の瞳を見つめる。
「そうではなく、お医者様に診ていただきたいんです」
「……医者?」
予想外の言葉だったのか、優雅に茶をすすっていたオズワルドまでもが、ぴくりと眉を動かした。
「ええ。アレクシス殿下に手を振り払われた際、頭を打ってしまったんです。今は気が張っていますけど、後から何があるか分かりませんから」
私は努めて冷静に、それでも訴えかけるように、父親のコンラートを見上げた。
「婚約破棄については、あの場にいた全員の前で、お互い了承しています。今さら撤回すると言われても、私も納得できません」
頭を打ったことまではオズワルドから聞いていなかったようで、コンラートの目が動揺に揺れる。
しん、と応接室が静寂に包まれた。
王子側の要求に対して怒るでもなく、まずは医療という明確な優先順位を突きつけた私に、家族は呆然としていた。
「ふふふ……素晴らしい判断だ、エリシア嬢」
その沈黙を破ったのは、低く心地よい笑い声だった。
オズワルドはソファの背にゆったりと身を預け、目を細めて私を見ていた。
その微笑みはさっきまでのとは違い、どこか愉悦が混じっているように感じられる。
「侯爵、彼女の言う通りだ。まずは医師を呼んで記録に残すといい……甥への切り札になる」
彼はコンラートへ視線を向けると、その口元をさらに深く歪める。
「それに、深夜に怪我人を無理やり連れ出そうとする使者を追い返すには、十分な理由になるだろう?」
「なるほど、切り札ですか……誰か、すぐに医者を手配してくれ!」
「私がお連れしてきます!」
コンラートが声を掛けると、ひとりの使用人が慌てて駆け出して行く。
メイドたちは執事の指示に従い、容器に水を張って、小さなタオルを浸しながら持ってきてくれた。
でも王弟殿下って、同じ王族なのに大丈夫なのかな……問題ないと分かっていて言っているようには見えるけど。
それに、医師の記録を取るという考えがすぐ出るあたり、彼はかなり頭が回りそうだ。
「……単なる治療ではなく、公的な記録を残すのですね、殿下」
私の言葉に、彼はまるで面白いものを見つけたかのように瞳を輝かせる。
その視線の熱量に、わずかな寒気を覚えた。
「そうだよ。甥からの一方的な、それも暴力や暴言を伴う婚約破棄。その事実は、侯爵家の今後の出方を決める上で、重要な証拠となるだろう」
殿下は努めて淡々と、さも当然のことのように言い切った。
確かに、現代社会では基本中の基本で、示談にするにしても裁判にするにしても、まずは医師の診断書。
これがないと始まらない。
「……侯爵、使者にはこう告げるといい」
オズワルドは立ち上がり、扉の外で待機している執事に視線を向ける。
その声は絶対的な王族の威厳を帯びていた。
「エリシア嬢はアレクシスの乱行により負傷し、現在医師の診断を受けている。この件は明日、私が陛下に直接報告する――とね」
……これで今夜はあの使者からも、アレクシスからも逃げ切れそうね。
コンラートが力強く頷くと、執事が脱兎のごとく門前へ走っていく。
これで、あのアレクシス王子の使者を、王弟殿下という盾を使って追い返せる。
その後は、驚くほど迅速に医師が到着した。
私の頭の怪我は丁寧に診察され、オズワルドの立ち会いの下、しっかりと「負傷の記録」が作成された。
ナタリアは「傷が残ったらどうしましょう……」とハンカチを握りしめていたけど、私はむしろこれで、あのアホと二度と関わらなくて済む切符を手に入れた気分だった。
診察が終わり、ようやく夜の静寂が戻ってきた頃。
オズワルドは、ようやくその重い腰を上げる。
「さて。私の役目はここまでのようだね」
玄関ホールまで見送りに出た私たちに、彼は微笑みを向ける。
彼は私の手をそっと取ると、その指先に、まるで契約を交わすかのように深い口づけを落とした。
「……エリシア嬢、安心してくれていい」
至近距離から囁かれる、妙に甘い声。
オズワルドの長い指先が、私の頬を、まるで壊れ物を愛でるように一筋なぞった。
「また近いうちに会うことになるだろう……今日はゆっくりお休み」
固まる私を置き去りにして、オズワルドは優雅に馬車へと乗り込み、夜の闇へと消えていった。
残されたのは、殿下を呆然と見つめる父親のコンラートと、「あらあら、まあまあ!」と頬を赤らめている母のナタリア。
それに、アレクシスより手強いかもしれない……という、私の絶望的な予感だけだった。
「お母様、今のはどう受け取ればいいんでしょうか……」
「うふふ、もしかしたら縁談の申し込みがあるかもしれないわね」
えぇ……まさか、さすがにそれはないでしょ?
近いうちにまた会えると言っていたオズワルドの声と、前世の記憶が、その晩の夢の中でぐちゃぐちゃに混ざっていた。
山のように積まれた書類、ミスを責め立てる声。
「仕事と子育て、両立は無理なんじゃないのかね?」
直属の上司にそう言われ、意地になって残業をこなした日々。
……私、頑張っていたのにな。
「エリシア、もう安心していいよ……」
囁かれて飛び起きた私の目に映ったのは、見慣れたはずの天井とは違う光景だった。
「あれ、ここは……そっか、今はエリシアだったっけ」
ゆっくりと視線を動かすと、天蓋付きのベッドに、しっとりとした手触りの厚手のカーテン。
異国……ここにはどこか、物語の世界みたいな空気が漂っていた。
「それにしても、さっきのは一体何だったんだろう……」
顔にかかった髪をはらおうと、腕をそっと持ち上げると、透き通るような白い肌が目に入る。
「エリシアって、やっぱり本物のお嬢様なんだ……」
ぽつりとこぼした声は、自分のものとは思えないほど静かだった。
侍女に手伝ってもらいながら朝の身支度を済ませ、部屋を出ると、屋敷内には昨夜の騒ぎが嘘のように、窓の外から穏やかな朝日が差し込んでいた。
……でも、私の心はこれっぽっちも穏やかではいられなかった。
「ねぇ、エリシア! こっちも見てちょうだい、この見事なバラ!」
「……ええ、お母様。嫌でも目に入ってきます」
通りがかったエントランスは、まるで王宮の庭園が引っ越してきたかのような惨状になっていた。




