第二十七の手 今、いいとこなのに!
「母しゃま!」
「テオ!」
マリネに抱きかかえられたまま、伸ばされた小さな手に思わず駆け寄り、力強く抱きしめる。
ほんの少し会えなかっただけなのに、ずいぶんと長く、その温かさに触れていなかったような気がした。
「お熱も下がったようで、奥様を探しておられましたから」
「マリネ、ありがとう……テオ、ちょっとお熱測るわね」
そっと額に手を当てると、全ての数値が緑色に変わっていた。
「下がってる……! よく頑張ったね」
この子が無事で本当に良かったと、心から思う。
柔らかな小さいほっぺを指でスリスリしながら、涙がこぼれそうになった。
「さあ、ソファに座ろっか」
テオを抱きかかえたまま座ると、隣のレオニスと向かいに座っているカイルが、じっとこっちを見つめているのに気付いた。
「あの……ふたりとも、どうかしました?」
テオもなぜか隣に座るレオニスから目を離さず、親子で見つめ合っている。
「いや、人の噂なんて当てにならないなと思いまして」
「ああ、あれですか? ふふ……勝手に一人歩きしてるから。でも私はこの子がいてくれて、すごく幸せなの」
私はテオの背中をさすりながら、優しく抱きしめる。
カイルは慌ててブンブンと手を振った。
「いやいや、俺は最初っから信じていませんでしたけどね? それに、奥様は十分魅力的な方ですよ」
「あなた、女性にモテるでしょ?」
「いやぁ、そんなことは……まあ、ありますけどね!」
「コイツは、自信過剰だからな……」
カイルとレオニスの様子に、思わず笑ってしまう。
「めっ! 母しゃま、とっちゃだめ!」
「……テオ?」
突然肩を小さな手でペチペチと叩かれて、レオニスは驚愕の表情を浮かべる。
「テオ、どうしたの?」
不満げな顔を覗き込むと、上手く言葉にできないみたいで余計に機嫌が悪くなった。
「あ、もしかしてヤキモチ焼いてらっしゃるんですかね?」
「えっ?」
カイルはニヤリと笑う。
「旦那、坊ちゃまにライバルと思われてますよ?」
「なっ……か、彼女は俺の妻だ」
レオニスの言葉に、私はちょっとだけムッとしてしまった。
「あら? 干渉するなとおっしゃったのは、旦那様じゃないですか」
「そ、それは……いや、改めて君と話をしたい。ふたりにも、きちんと謝罪したい。どうか俺に時間をくれないか?」
どう返事をするべきか、私はしばらく考え込む。
この身体の持ち主のエリシアのためにも、逃げちゃいけない気がするから。
◇
「やだっ! いやあぁぁー!」
テオが泣き叫ぶ声が廊下まで聞こえているのか、心配そうにマリネがそっと様子をうかがっているのが見える。
「大丈夫だから、ね? マリネと一緒にお部屋で寝よう?」
テオは私の服を掴んで、絶対に放そうとしない。
そばでオロオロしているレオニスは、困惑の表情を浮かべていた。
「ふたりに謝罪したい」
レオニスが私たちに言った翌日。
テオは、私のそばを片時も離れようとはしなかった。
「本当に申し訳なかった、君にもテオにも。簡単に許してもらえるとは思っていないが」
私は離れようとしないテオを抱きかかえたまま、冷遇されたことについて、レオニスから謝罪を受けた。
許すかどうかは別としてだけど。
「あとは君の気持ち次第だが、俺はいつまでも待つ……もし君が他の人生を選ぶと言うなら、できる限りの援助はさせてもらうつもりだ」
そう言って寂しそうに笑うレオニスが、なぜか少し気の毒に思ってしまった。
ただ私も、自分についての噂を知っていたのに、弁解しようとしなかったし。
「いやぁ! 母しゃま!」
「困りましたね……どうしたらいいんでしょう、旦那様」
どうしたんだろ……いつもはご機嫌なんだけどな。
表示される数値はどれも緑色で、特にこれといった異常も見つからなかった。
「ううむ……テオが寝入ってから話をしたくても、いつの間にか目を覚まして君を探すからな」
謝罪はしてもらったけど、子どもがいる前ではできない大人の話もある。
それに今はレオニスの叔父の件もあって、みんな忙しい。
全て終わってからでもいいと私は言ったけど、彼は案外頑固だった。
「それと、その……提案なんだが、聞いてもらえないか?」
「あ……はい。何でしょうか?」
「その言葉遣いを変えてもらえないだろうか。敬語はいらない、名前も呼び捨てでいい」
「よろしいのですか?」
「ああ、頼む」
レオニスは気まずそうにそっと視線を足元に下げると、ポリポリと指で頬をかいた。
「そ、それからその……」
「なんで——あ……何?」
「お、同じベッドで寝る……というのはどうだろうか?」
「えっ?」
私が目を見開いて驚くと、焦ったのか、レオニスは慌てて立ち上がった。
「い、いや、3人でだ! それに君が嫌なら無理強いはしない! ベッドももっと大きいものを作らせる……!」
しどろもどろになる彼を見て、私は思わず笑ってしまった。
「その……駄目か?」
「うーん、この子が許可してくれるなら……どうしよっか?」
私はもったいぶるようにテオの顔をのぞきこんで、小さな声でたずねた。
このぐらいはお返しさせてもらうんだから。
テオもレオニスの慌てる様子をキョトンとした顔で見ていたけど、私が微笑むとにこりと笑い返してくれた。
「ほ、本当か!? ありがとう、テオ!」
「この子はまだ何も言ってないけど?」
レオニスは私の話を聞いていないのか、満面の笑みを浮かべ、テオの両脇を抱えて高く持ち上げる。
飛行機のように優しく宙を泳がせ、クルクルと回った。
「きゃあ、きゃあぁ!」
フワフワとした感覚が楽しかったのか、テオは嬉しそうに笑う。
こんな人だったんだ……叔父の件がなければ、知らなかったかもしれない一面。
レオニスを拒絶するのは簡単だ。
でも結論を出すのは、少しずつ変わり始めた彼の話を聞いてからでも遅くないと思う。
私も、いずれ話さなければならないことがある……それがいつかは分からないけど。
◇
「……よし、しばらくはこれで我慢するか」
なんか今、後ろで聞こえたけど。
結局、夫婦の寝室には大きなベッドが運び込まれた。
真ん中にテオを挟んで、私たち夫婦は彼の左右で寝る形だ。
「それ、いつも使っているのか?」
テオが眠ったあとも、私はいつものようにノートへ記録を続けていた。
後ろから、レオニスがのぞき込んでくる。
「そう、毎日記録してるの。見てみる?」
「ああ」
レオニスはノートを手に、私の隣の席に腰掛けた。
以前なら、こんなふうに話すなんて考えられなかった。
でも今は、不思議とそうするのが自然に思える。
「……ずいぶん細かく記録しているんだな」
「この子の体調が悪化する原因が、分からなかったから」
そうか、と彼はつぶやいてページをめくる。
「君に任せっきりですまなかった……」
「もう謝罪は受けたけど?」
私がふふっと笑うと、彼も苦笑する。
夫婦ってこんな感じなのかな?
レオニスはノートを閉じ、私の目の前に置いて姿勢を正した。
「言い訳に聞こえるかもしれないが、俺がテオと向き合わなかった理由を聞いて欲しい」
「ごめんなさい、少し聞いて知ってるの……」
「……いや、いいんだ。キアーナと俺は政略結婚で、彼女はここに来てしばらくすると、毎日のように俺を詰るようになった」
「キアーナ様は寂しかったんじゃないかって、そう聞いたわ」
彼は軽く頭を振った。
「それもあるかもしれないが……彼女には恋人がいたらしい」
「え……そうなの?」
「その恋人が庶民で、キアーナの両親は付き合いを認めなかったそうだ」
「そうだったの……なんだか、あなたも彼女も気の毒だわ」
そうつぶやくと、目の前のレオニスはふっと微笑んだ。
「君は貴族らしくないんだな……元々そうなのか?」
「え……ええ、そうね」
笑って誤魔化すと、レオニスはさほど気にしていないようだった。
「キアーナの体調が目に見えて悪くなった頃には、彼女にすっかり嫌われていたからな……見舞いも拒絶されてしまった。君との結婚が決まったとき、その……噂を聞いて、関わらなければお互い傷つくこともないと思ったんだ」
「そうだったの。それで初対面でああ言ったのね」
うんうんと妙に納得している私が不思議なのか、レオニスは首を傾げる。
「君は怒らないのか……?」
私は、きゅっと唇を引き結んだ。
今、話してもいいのかな……本当のエリシアじゃないって。
彼は心を開いてくれたから、今度は私の番ね。
「私、本当はね――」
「旦那様、大変です! 屋敷の周りが……包囲されています!」
扉が激しく叩かれ、ウォルターの叫ぶ声が屋敷に響き渡った。




