第十六の手 遅すぎた問い
「お邪魔しました」
「ごちそうさまでした」
「……気をつけて帰れよ」
私は口を開かなかった。
ふたりの前でレオニスと言い争うような形になった気まずさもある。
最初にケンカを仕掛けてきたのは、あっちだしね。
そんな私の様子に、カイルは困ったように眉尻を下げた。
「この子をお願いできる?」
「承知いたしました」
彼らが屋敷を出て行くと、眠そうに目をこするテオを乳母のマリネに預け、私は何か言いたげなレオニスを置いて、厨房へと向かった。
「ニコラスはいるかしら?」
「奥様! お待ちしておりました」
厨房に入ると、彼は作業台の前で背筋を伸ばした。
夕食の片づけをしていた料理人たちが、一斉に手を止めてこちらを見る。
「仕事中にごめんなさいね。少しだけ、テオの食事について聞きたいことがあるの」
「はい。俺に分かることでしたら、何でもお答えします」
ニコラスの返事に迷いはない。
だけど、周囲の視線が集まる中で、あのスープの話をする気にはなれなかった。
「できれば、ふたりで話せる場所はある?」
「でしたら、食料庫の前に小さな作業部屋があります。今は誰も使っていないはずです」
案内された部屋には、小さな机と椅子が置かれていた。
壁際には使われていない木箱が積まれ、厨房から聞こえる食器の音もここまではほとんど届かない。
「それで、確認したいことというのは……」
「テオの食事は、いつも誰が作っているの?」
ニコラスは少し考えたあと、指を折りながら答え始める。
「朝食と昼食は、その日の担当が交代で作っています。夕食は料理長が中心です。坊ちゃまの分は、食べやすいように柔らかくしたり、香辛料を減らしたりしています」
「材料を選ぶのも、その担当者?」
「基本的には料理長です。ただ、坊ちゃまの薬に使う香草だけは、医師から渡されたものを使っています」
香草は直接なんだ……。
「その香草は、どこで保管しているの?」
「鍵のかかる棚です。鍵は、料理長か執事長が管理しています」
執事長というのはウォルターのことだろう。
でも、彼がテオを害する理由なんて思いつかない。
「数日前の朝、テオに出されたスープを覚えている?」
「えっと……香草のスープでしょうか」
すぐに答えが返ってきたことに、思わず身を乗り出す。
「そう。いつもより匂いが強かった気がするの」
「奥様も、そう思われましたか?」
「あなたも気づいていたの?」
「はい。でも、俺が確認したときは、香りも味もいつもと同じだったんです」
ニコラスは不安そうに眉を寄せた。
「どういうこと?」
「俺が鍋から取り分けたときは、普段出されているものと同じでした。坊ちゃまの部屋へ運ぶ前に、料理長から別の仕事を頼まれて……戻ったときには、もう配膳のワゴンに載せられていたんです」
「じゃあ、その間に、誰かがスープへ何かを加えた可能性があるってこと?」
ニコラスは目を見開き、慌てて首を振った。
「いや、そこまでは分かりません。誰かが手を加えたところを見たわけではありませんから」
「そうよね。ごめんなさい」
今の段階で、決めつけるわけにはいかない。
けれど、厨房で作られた時点では匂いが強くなかった。
それが本当なら、違和感が生まれたのは料理が完成したあとだ。
「ニコラス。これからしばらく、テオの食事に使った材料と、作った人を覚えておいてもらえる?」
「記録するということですか?」
「ええ。できれば、料理が完成してからテオの部屋へ届くまで、誰が触れたのかも」
ニコラスの顔から、先ほどまでの明るさが消えた。
「それは……坊ちゃまの体調と、何か関係があるんでしょうか」
「まだ分からない、だから調べたいの」
私は不安そうなニコラスへ、安心させるように微笑んだ。
「でも、このことは誰にも話さないで。余計な騒ぎを起こしたくないの」
「料理長にも、ですか?」
「ええ、今はまだ」
ニコラスは緊張した面持ちで唇を引き結び、やがて深くうなずいた。
「分かりました。坊ちゃまのためなら、俺にできることは何でもします」
「ありがとう。頼りにしてるわ」
味方だと決めるには、まだ早いのかもしれない。
それでも、テオがパンを食べたときに見せた、あの真っ直ぐな笑顔を信じてみたかった。
作業部屋を出ると、厨房の入口近くに人影が立っていた。
「……どうして、ここに?」
壁にもたれて腕を組んでいたレオニスが、ゆっくりと顔を上げる。
「ずいぶん長話だったな」
「聞いていたんですか?」
「いや。聞こえないように話していただろう?」
その声に責めるような響きはなかった。
ただ、何かを知りたそうな視線だけが、まっすぐに私へ向けられている。
「私には話せないことなのか?」
少し前の彼なら、そんな尋ね方はしなかった。
だからといって、すぐに信用できるわけもない。
「……ええ、そうですね」
そう答えて横を通り過ぎようとすると、レオニスはそれ以上追及せず、静かに道を空ける。
「君は——」
後ろから聞こえてきた他人行儀な呼びかけに、足を止める。
君は、君はって、私には「エリシア」って名前があるんだけど?
「何かご用でしょうか、旦那様?」
振り返って応えると、一瞬、眉間にシワを寄せたレオニスは、気を取り直すように大きく息を吐いた。
「……君のあの噂は、本当のことなのか?」
「今さらそれを聞いてどうするんです?」
いくらでも確認する機会はあったのに、噂を真に受け、私に辛く当たったのは彼だ。
結婚式前に言われた言葉……今も忘れてないから。
「それは……」
「お話は以上ですか? テオが待ってますので」
口ごもるレオニスに痺れを切らし、私はこの不毛な会話を無理矢理終わらせた。
この結婚を契約だと言ったのは彼だ……必要以上に仲良くする義理もない。
「旦那様、お急ぎください。緊急の呼び出しでございます」
運良く執事のウォルターが、手紙を手に早足でこちらへ向かってきた。
「お気を付けて、行ってらっしゃいませ」
不満と焦りの入り交じった表情のレオニスに頭を下げ、背中に視線を感じながら、私はテオの待つ部屋へと足を速めた。
部屋へ戻ると、すでにマリネの腕の中でテオは眠っていた。
「お待ちしているうちに、眠ってしまわれました」
「そう……ありがとう。あとは私が見るから休んでて」
ベッドへ移されたテオの額に触れる。
今のところ、いつもと変わらず、白き手に映る数値にも目立った異常はなかった。
「そうだ、メモしておかないとね」
私はそばに椅子を寄せ、ニコラスから聞いたことを紙へ書き出した。
厨房で作られた時点では、香りも味も普段と同じだった。
異変があったとすれば、ニコラスが鍋のそばを離れてから、スープがテオの部屋へ届くまでの間。
だけど、誰が触れたのかは分からない。
料理長か、配膳を担当した使用人か、それとも、まったく別の誰かなのか。
「本当に誰かがこの子を……?」
小さく呟いて、眠るテオの手をそっと握った。
◇
翌朝、目を覚ました私が最初に感じたのは、手の中にある異様な熱だった。
「テオ……?」
呼びかけても、いつものような返事はない。
荒い呼吸を繰り返す小さな身体に触れた瞬間、白き手の表示が目の前に浮かび上がった。




