第五話 森に立つ影
【登場人物】
ロベリア
白い髪と、青紫の瞳を持つ幼い少女。
母を失い、今は集落の外れにある小さな物置小屋で、神獣の幼獣アズリスとともに暮らしている。
青紫の瞳には“精霊眼”と呼ばれる特別な力が宿っており、ときに他の者には見えないものや、森に残る気配を感じ取る。
喪失を抱えながらも、生きるために少しずつ前を向きはじめている。
アズリス
白銀の神獣のもとに遺された、小さな幼獣。
まだ幼く頼りないながらも、静かな気配と確かなぬくもりを宿している。
ロベリアに名を与えられ、その傍らで日々を共にする存在。ときおりその感情は、言葉にならないかたちでロベリアへ伝わる。
セヴラン
森の中でロベリアが出会う、黒いローブを纏った謎めいた男。
杖と人の頭蓋骨のような物をを携え、森の奥にただ静かに立つその姿は、ひどく異質で不気味な印象を帯びている。
死にまつわる術と、見えないものを読む知識を持つ者。
【用語・設定】
精霊眼
ロベリアの一族に伝わる、青紫の瞳に宿る特別な力。
魔力、精霊、妖精、霊など、この世ならざるものの気配や存在を見通すことができるとされる。
幼い今はまだ不安定で、森の中でも「いい場所」と「よくない場所」を感覚的に察することがある。
青紫の宝石のブローチ
ロベリアの母が遺した、青紫色の宝石のブローチ。
精霊や妖精にまつわる力が宿ると伝えられており、高位の妖精あるいは精霊が神秘の力で作り出した古代の遺物、アーティファクト。
母の形見として、今もロベリアの胸元にある。
神獣の魔石
白銀の神獣が遺した、魔力を内包する特別な石。
静かな白銀の輝きの内に、青紫の光を宿す不思議な魔石であり、ロベリアとアズリスの傍らに残された遺物でもある。
狩人の物置小屋
集落の外れにある、古びた小さな小屋。
雨風をしのげるだけの質素な場所だが、ロベリアとアズリスが身を寄せ、生きるための暮らしをつないでいる。
死霊術師
死や、その痕跡にまつわる術を扱う者。
死の気配や、そこに残る魔の痕跡を辿ることができるとされ、外の世界では“ネクロマンサー”とも呼ばれる。
ロベリアが初めて触れる異質な知識のひとつとなる。
アズリスの唸り声は、これまでのものとは違っていた。
低く、鋭く、毛を逆立てるような警戒。
その緊張はロベリアの胸にもそのまま流れ込み、呼吸を浅くする。
木々のあいだから見えた人影は、森の色から浮いていた。
黒い厚手のローブ。
節くれだった杖。
そして左手に提げられている、人の頭蓋骨。
ロベリアは息を呑んだ。
知らない男だった。
集落のハイエルフたちとは違う。森を行き来する狩人や採集人とも違う。そこに立っているだけなのに、まるで死そのものが形を取って森の奥へ入り込んできたように見えた。
逃げなければならない、と思う。
けれど足が動かなかった。
迂闊に走れば、気づかれる。
いや、もしかしたらもう気づかれているのかもしれない。
ロベリアはしゃがみ込むように身を低くし、アズリスを抱き寄せた。白銀の小さな身体はぴんと強ばり、青みを帯びた瞳を男へ据えている。
次の瞬間、男がゆっくりとこちらへ顔を向けた。
ロベリアの背筋が凍る。
やはり気づいていた。
男は驚いた様子も見せず、ただ静かに視線を寄越す。その目は暗く落ち着いていて、何を考えているのか読み取れない。だが獣のように飛びかかってくる気配はなく、逆にそれが不気味だった。
しばらくの沈黙のあと、男が口を開いた。
「そう警戒しなくていい」
低い声だった。
静かで、乾いていて、感情の色が薄い。
「こちらに害意はない」
その言葉を、ロベリアは少しも信じられなかった。
害意のない者が、頭蓋骨など持って森の奥に立っているはずがない。
そう思うのに、男は本当にそれ以上近づこうとはしなかった。ただ距離を保ったまま、ロベリアとアズリスを見ている。
アズリスの唸りは止まない。
ロベリアもまた、その小さな身体を庇うように抱きしめたまま、喉の奥で息を詰まらせる。
逃げるべきか。
けれど背を向けた瞬間に何かが起きる気もする。
恐怖で唇が震えた。
それでも、黙ったままではいられなかった。
「……だれ」
掠れた声が、かろうじて出る。
男は一瞬だけ目を細めた。
怯えきって泣き出すのではなく、問いを返してきたことが意外だったのかもしれない。
「セヴラン」
短く、それだけを告げる。
ロベリアはその名を胸の内で繰り返した。
知らない響きだった。少なくとも村では聞いたことがない。
「……何をしにきたの」
男――セヴランは答えるまでに少し間を置いた。
まるで、どこまで言うべきか測っているようだった。
「死の気配を辿ってきた」
ロベリアは目を見開く。
死の気配。
その言葉が、ひどく冷たく聞こえた。
けれど同時に、どういうことなのか理解できず、耳がそこに引き寄せられる。
セヴランは淡々と続けた。
「この山には濃く残っている。多くの死と、強い魔の残滓がな。黙って通り過ぎられるものではなかった」
ロベリアの指先が強ばる。
集落のことだ、とすぐにわかった。
母が死に、神獣が倒れ、多くの命が失われたあの場所。あの惨劇の名残を、この男は追ってここまで来たというのか。
そんなことが、本当にできるのだろうか。
恐ろしいと思った。
なのに、怖さとは別のざわめきが胸の奥に生まれる。
見えないものを辿る力。
死の痕跡を読む力。
そんなものが、この世界にはあるのだと、ロベリアは初めて知った。
視線が、自然と男の左手へ向く。
人の頭蓋骨は不気味なほど静かに揺れていた。
その視線に気づいたのか、セヴランはわずかに手を持ち上げた。
「怖いか」
問う声にも感情は薄い。
ロベリアは答えられなかった。
怖いに決まっていた。だがそれだけでもなかった。
セヴランは構わず言った。
「私は死霊術師だ」
その言葉も、ロベリアには初めて聞くものだった。
「外ではネクロマンサーと呼ぶ者もいる」
ネクロマンサー。
知らない響き。
けれど一度聞いただけで、忘れられない言葉だった。
ロベリアは小さく息を呑む。
死霊術師。
死に触れる者。
死を辿り、死の気配を知る者。
ぞくりとした。
その術が何を為すものなのかはわからない。ただ不吉で、母が顔をしかめそうな響きだと思う。けれど、耳を塞ぎたいほど恐ろしいその言葉が、どうしても胸のどこかに引っかかった。
死んだ者に関わる術。
母を失った今、その響きはロベリアにとって恐怖であると同時に、目を逸らせない何かでもあった。
セヴランはしばらく黙ったままロベリアを見ていたが、やがて視線をアズリスへ移した。
「……それは普通の獣ではないな」
ロベリアの肩が跳ねる。
思わずアズリスを抱く腕に力がこもった。
アズリスは低く唸り、白銀の毛を逆立てる。
「返事はしなくていい」
セヴランはそう言った。
問い詰める調子ではない。ただ確かめているだけのような声音だった。
「だが、珍しい。いや……それでは足りんな」
視線がさらに下がり、ロベリアの胸元へ向けられる。
そこに隠している魔石。
そして母の形見の、青紫の宝石を嵌めたブローチ。
ロベリアは反射的に胸元を押さえた。
その仕草を見ても、セヴランは笑わなかった。
ただ静かに観察している。
「その石と、その子の気配は近い」
ロベリアの喉がひくりと鳴る。
やはりこの男は、何かを感じ取っている。
アズリスのことも、魔石のことも、もしかしたらブローチのことさえ。
それだけではない。
セヴランの目は、ロベリア自身からも何かを拾い上げているようだった。
「妙な目をしているな」
ロベリアははっとする。
「見えているはずのないものを、少しばかり見ている目だ」
言葉の意味はすぐにはわからなかった。
だが、自分が森で感じてきた違和感――近づきたくない場所、水の澄んだ流れ、安全な道筋――そうしたものを、この男は知らぬまま言い当てているようにも思えた。
セヴランはさらに、わずかに眉を寄せる。
「それに……冷たい質を抱えている」
ロベリアは無意識に息を止めた。
冷たい質。
それはまるで、山の朝の空気や、川の水に触れた時に自分の内側で静かに残る感覚を、そのまま言葉にされたようだった。
自分でも説明できないものを、目の前の男は初めて別の形で言い当てた。
怖い。
見透かされるのが怖い。
なのに、その一方で、知らず胸の奥が強く揺れた。
この男は、自分の知らないことを知っている。
アズリスのことも、魔石のことも、自分自身のことも。
逃げた方がいい。
関わってはいけない。
そう思うのに、その思いの奥に、細い棘のような好奇心が刺さっている。
ネクロマンサー。
死霊術師。
死の気配を辿る術。
見えないものを知る目。
外には、こんなものがあるのか。
母も村も教えてくれなかった世界が、まだその先に広がっているのか。
セヴランが一歩だけ足を動かす。
ロベリアの身体が強ばり、アズリスが唸りを深くした。
しかし男はそこで止まり、それ以上近づかなかった。
「その先へは行くな」
唐突に、セヴランは森の奥の一角へ目を向けて言った。
ロベリアもつられて視線を向ける。
そこは、以前からどうしても胸がざわついて近づけなかったあたりだった。
「瘴気が残っている。子どもが踏み込めば、じわじわと蝕まれる」
ロベリアの顔色が変わる。
アズリスもまた、その方向を見て耳を伏せた。
やはりあの嫌な気配には、意味があったのだ。
自分が感じていたものは気のせいではなかった。
セヴランは杖を軽く地についた。
「火を使うなら湿った薪を混ぜるな。煙ばかり立って、匂いが残る」
思いがけない言葉に、ロベリアは目を瞬いた。
「それから、水はなるべく上流から汲め。下に獣が入ればすぐ濁る」
どれも、生きるための、ごく現実的な助言だった。
それがかえって、ロベリアを戸惑わせた。
死霊術師。
ネクロマンサー。
頭蓋骨を持つ黒衣の男。
そんな異様な相手の口から、どうしてそんな当たり前の助言が出てくるのか。
「……どうして」
気づけば、そう零していた。
セヴランが目を向ける。
「どうして、教えるの」
問いかけたあとで、ロベリアは少し後悔した。
そんなことを聞けば、逆に何かを求められるかもしれない。
だがセヴランはしばらく黙ったあと、低く答えた。
「死ぬにはまだ早い顔をしている」
その言葉に、ロベリアは息を詰まらせた。
母を失ってから、自分がどんな顔をして生きているのかなど考えたこともなかった。
けれど、その一言は不思議なほど胸に残った。
セヴランはそれ以上何も言わず、わずかに身を翻した。
「私はしばらくこの山を見て回る」
去るつもりなのだ、とロベリアは遅れて気づく。
それなのに、胸のどこかが妙に落ち着かなかった。
「おまえは何も知らぬままではいられまい」
足を止めずに、セヴランは続ける。
「その子も、おまえも、じきに変わる」
ロベリアは言葉を失った。
呼び止めることも、否定することもできない。
ただ、遠ざかっていく黒衣の背を見つめる。
やがて木々のあいだへ溶けるように姿が消えても、しばらくその場を動けなかった。
腕の中のアズリスが小さく鳴く。
その声でようやく我に返り、ロベリアは強く抱きしめる。
怖かった。
今もまだ、胸は速く打っている。
けれど恐ろしさだけではない。
セヴランという名。
ネクロマンサーという呼び名。
死の気配を辿る力。
自分の中の冷たい質。
見えているはずのないものを見る目。
知らないことばかりだった。
知らないのに、どれも心のどこかへ引っかかった。
自分の知らないことを、あの男は知っているかもしれない。
アズリスのことも、魔石のことも、母の遺したブローチのことも。
もしかしたら、自分自身のことさえ。
その思いは警戒の奥で、小さな火種のように残った。
ロベリアは森の奥、セヴランが消えた方をもう一度だけ見つめる。
それから、アズリスを抱え直し、ひとまず小屋へ戻るために歩き出した。
胸の中にはまだ恐れがあった。
けれどその恐れの底で、世界が少しだけ広がってしまったことを、ロベリアはもう知らずにはいられなかった。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
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