第四話 小さなぬくもり
【登場人物】
ロベリア
白い髪と、青紫の瞳を持つ幼い少女。
ハイエルフの集落で母とともに暮らしていたが、ある夜、そのかけがえのない日常を失う。
青紫の瞳には“精霊眼”と呼ばれる特別な力が宿っており、ときに他の者には見えないものや、言葉にならない気配を感じ取る。
母から託された青紫の宝石のブローチを胸に、小さな命とともに生きる日々を始めている。
アズリス
白銀の神獣のもとに遺された、小さな幼獣。
まだ幼く頼りないながらも、静かな気配と確かなぬくもりを宿している。
ロベリアに名を与えられ、その傍らで新たな日々を共にする存在。
ロベリアの母
ロベリアと同じ白髪と、透き通る青い瞳を持つハイエルフの女性。
穏やかでやさしい母であり、ロベリアの秘密を知る数少ない存在でもあった。
その言葉と想いは、今もなお娘の胸に深く残り続けている。
白銀の神獣
双子山に棲むと伝えられる、神秘的な白銀の狼。
気高く静かな気配を纏う存在であり、ロベリアにとっては喪失の果てで出会った、忘れがたいぬくもりでもある。
【用語・設定】
精霊眼
ロベリアの一族に伝わる、青紫の瞳に宿る特別な力。
魔力、精霊、妖精、霊など、この世ならざるものの気配や存在を見通すことができるとされる。
幼い今はまだ不安定で、その感覚もまた揺らぎを伴っている。
青紫の宝石のブローチ
ロベリアの母が遺した、青紫色の宝石のブローチ。
精霊や妖精にまつわる力が宿ると伝えられており、高位の妖精あるいは精霊が神秘の力で作り出した古代の遺物、アーティファクト。
母の形見として、今もロベリアの胸元にある。
神獣の魔石
白銀の神獣が遺した、魔力を内包する特別な石。
静かな白銀の輝きの内に、青紫の光を宿す不思議な魔石であり、ロベリアの傍らに残された大切な遺物でもある。
狩人の物置小屋
集落の外れにある、古びた小さな小屋。
雨風をしのげるだけの質素な場所だが、ロベリアとアズリスにとっては、新たに暮らしをつなぐ足場となっている。
双子山
ロベリアの故郷から見える、並び立つふたつの山。
古くから神獣が棲むと語られており、ロベリアにとって特別な記憶と結びついた場所でもある。
目を覚ましたとき、最初に感じたのは冷たい空気だった。
古びた物置小屋の壁の隙間から、細い風が絶えず入り込んでいる。床は硬く、敷いた布も薄い。夜の冷えはまだ小屋の中に残り、朝の薄明かりの中で空気は白く澄んでいた。
けれど、ロベリアはしばらくそのまま動かなかった。
腕の内側へ視線を落とす。
そこには白銀の小さな身体が、ぴたりと寄り添うように眠っていた。やわらかな産毛がほのかな光を含み、小さな胸が静かに上下している。アズリスだった。
そのぬくもりだけが、この寒い小屋の中で確かなものだった。
ロベリアはそっと息を吐く。
双子山から吹き下ろしてくる風は冷たい。夜の床も、川の水も、身を切るような温度をしている。けれど不思議なことに、ロベリアは思ったほど寒さに負けなかった。つらくないわけではない。冷たいものは冷たく、肌も指先も痛む。だが、凍えて動けなくなるほどではないのだ。
どうしてなのか、自分でもわからない。
ただ、それで温もりがいらないわけではなかった。
火のそば。
毛皮のやわらかさ。
誰かの体温。
そうしたものに触れたとき、寒さだけでなく、胸の奥の強ばりまで少しほどけるのを、ロベリアはもう知っていた。
「……おはよう、アズリス」
小さく声をかけると、アズリスが耳をぴくりと動かした。少し遅れて目を開け、青みを帯びた瞳でロベリアを見上げる。
短く鳴いて、眠たげに鼻先を押しつけてくる。
その仕草だけで、張りつめていたものがほんの少し緩んだ。
朝になってしまえば、もう何も考えないわけにはいかない。
ここでどう生きるのか。何を食べて、どう寒さをしのぎ、この小さな命をどう守るのか。昨日は小屋に辿り着くだけで精一杯だったが、今日からは違う。
立ち上がらなければならない理由が、もう自分ひとりの分だけではない。
ロベリアはそっと身を起こした。
◇
朝のうちに、ロベリアは小屋の中を見て回った。
扉の近くには古い縄や木箱が積まれ、壁際には錆びた刃物や狩りの道具らしきものがいくつか残されている。獣の毛皮もあった。少し埃っぽく、端は痛んでいたが、まだ使えそうだった。
何もないわけではない。
それだけでも少し心強い。
まず必要なのは、水と火、それから食べられるものだった。
ロベリアは小さな桶代わりになりそうな器を見つけると、アズリスを連れて小屋の外へ出た。空気はよく澄み、朝の森は静かだった。母に教わった薬草や野草の知識を思い出しながら、歩ける場所を探っていく。
川辺まで下りた時、石のあいだを流れる水は透き通っていた。指をひたすと、刺すように冷たい。だがやはり、その冷たさは痛みとしては感じても、すぐに耐えられなくなるほどではなかった。
ロベリアは少しだけ眉を寄せる。
本当ならもっとつらいはずなのに、とどこかで思う。
けれど立ち止まってはいられない。器へ水を汲み、慎重に小屋まで持ち帰る。
次に火だった。
小屋の隅を探すと、古い火打石と火口に使えそうな乾いた繊維が見つかった。ロベリアはそれを見た時、ふと母の手元を思い出す。薬草を煎じるとき、夜の灯りをともすとき、母は迷いなく火花を散らしていた。
自分にもできるだろうか。
床へ膝をつき、乾いた草を寄せ、火打石を打つ。
かちっ、と乾いた音がして、小さな火花が散った。
けれど、それだけだった。
もう一度。
また一度。
何度繰り返しても、火は移らない。火花ばかりが一瞬だけ生まれて、すぐ消える。指先は痛くなり、肩にも力が入っていく。
「……ちがう」
母はもっと、自然にやっていた気がする。
角度だったのか、力加減だったのか。見ていたつもりでも、自分の手でやってみると何ひとつ確かなものになっていない。
それでも、やめるわけにはいかなかった。
何度目かの火花が乾いた繊維に落ち、ほんの小さく赤が残る。
ロベリアは息を止め、そっと顔を寄せた。
消えないで。
お願い。
慎重に息を吹きかける。
赤は揺れ、やがて細い煙を立てた。
その瞬間、火が生まれた。
ごく頼りない、小さな火だった。
けれど確かにそこに在る。
ロベリアは目を見開き、それからようやく息を吐いた。胸の奥の何かが、少しだけほどける。
「……できた」
掠れた声で呟く。
アズリスがそのそばで耳を立て、興味深そうに火を見つめていた。
ロベリアは汲んできた川の水を小さな鍋に移し、その火へかけた。しばらくして湯気が立ちのぼりはじめると、小屋の中の空気が少しだけやわらかくなる。
十分に熱くなった水を下ろし、小屋に残っていた古い布を浸して絞る。
それで顔をぬぐい、手を拭き、首筋や腕の土をそっと落とした。
黒ずんだ水が布へ移る。
煙と泥と汗の匂いが、少しだけ薄れていく。
それだけのことなのに、不思議と胸が落ち着いた。
自分がまだ、人としてここにいると思えた。
母ならきっと、こうしなさいと言っただろう。
どんな時でも、身体を冷やしすぎないこと。汚れをそのままにしないこと。手を動かして、暮らしを保つこと。
ロベリアは布を握りしめ、しばらく俯いた。
懐かしさと寂しさが、温かい湯気といっしょに胸へ広がってくる。泣きそうになるのを堪えながら、今度は濡らした布でアズリスの足先や腹のあたりも軽くぬぐってやる。
アズリスはくすぐったそうに身じろぎし、それでも嫌がらずにじっとしていた。
「あなたも、きれいにしようね」
そう言うと、白銀の幼獣は短く鳴いた。
◇
よく晴れた朝には、ロベリアは早くから川へ向かった。
衣類を洗うためだった。
着替えなどほとんどない。だからこそ、身につけているものを少しでも清潔に保たなければならない。川の水は冷たく、布を浸して洗うたびに指が痛んだ。けれどやはり、ロベリアはその冷たさに耐えられてしまう。つらいのに、動けなくはならない。そのことが時折、自分でも少し不思議だった。
洗った衣類は小屋のそばへ広げ、火の気が残っているうちに乾かす。
そのあいだ、ロベリアは小屋にあった毛皮を肩へ巻きつけ、焚き火のそばへ座った。
アズリスを抱けば、その小さな身体からやわらかい熱が伝わってくる。
寒さをしのぐためだけではない。
火の色を見つめ、毛皮にくるまり、アズリスの体温へ触れていると、胸の奥の凍えた場所まで少しずつ解けていく気がした。
寒さには耐えられる。
けれど、温かさがなくていいわけではない。
むしろ今のロベリアには、そうしたぬくもりがなければ心の方が先に折れてしまうのだとわかっていた。
アズリスは腕の中で丸くなり、ときどき鼻先を動かしてはロベリアの服の匂いを嗅いだ。乾きかけた布を気にしているのか、それともただロベリアのそばにいたいのかはわからない。
けれど、その重みがあるだけで、ただひとりで火を見つめている時とは違った。
◇
暮らしは、簡単ではなかった。
持ち帰った草や木の実だけではすぐに腹が減る。小さな獣の気配を追っても、そう簡単には捕まえられない。夜の冷えは厳しく、火がうまく保てない日には毛皮にくるまってじっとやり過ごすしかなかった。
それでも、日々の中には少しずつ形ができはじめていた。
朝になれば水を汲む。
火を起こす。
食べられるものを探す。
できる日は身体や衣類を清める。
夜になればアズリスと身を寄せて眠る。
その繰り返しの中で、ロベリアは小さな変化にも気づくようになっていった。
森を歩いていると、どうしても近づきたくない場所がある。
木々の影が濃いだけの茂み。何の変哲もない石場。けれど、その近くへ行くと胸がざわつき、足が止まる。逆に、水の澄んだ場所や獣道のようなものは、なぜか見つけやすかった。
理由はわからない。
ただ、森の中には「いい場所」と「よくない場所」が、初めから色分けされているように感じられる時があった。
アズリスもまた、そうした時には同じように反応した。
危うい場所では耳を伏せ、低く唸る。安心できる場所では、足取りが軽い。
名前を呼べば耳を動かし、眠る時はぴたりと寄り添い、外へ出れば小さな足で懸命についてくる。時には転びそうになりながら、それでもロベリアを見失うまいとする姿は幼く、愛おしかった。
そして時おり、胸の奥へ感情の欠片が流れ込んでくる。
空腹。
不安。
安心。
甘えるようなぬくもり。
頭の中に言葉が響くわけではない。
けれど、それがアズリスのものなのだとわかる。
ある時、火がなかなか起こらずロベリアが俯いていると、アズリスが鼻先でその手をつついた。次の瞬間、心配そうな気配が胸へ触れてくる。
「……だいじょうぶ」
そう言うと、今度は少しだけ落ち着いたぬくもりが返ってきた。
不思議だった。
けれど嫌ではなかった。
その気配がなければ、自分はもっと早く立ち尽くしていただろうとロベリアは思う。
◇
ある夕暮れ、小屋へ戻る前にロベリアは胸元にしまっていた魔石を取り出した。
白銀の石は、薄闇の中でひそやかに光を溜めている。触れた指先へ返るのは、冷たさだけではなかった。石の奥で、ごく微かに何かが脈打っているような感覚がある。
その時、足元にいたアズリスがふと顔を上げた。
白銀の毛並みに、色が差したように見えた。
青。
いや、青紫。
夕暮れの影だけでは片づけられない、淡い色の揺らぎだった。首筋から肩へかけて、ほんの一瞬、水面の光のようにそれが走る。
ロベリアは息を呑む。
同時に、手の中の魔石の奥にもひとすじの青紫が静かに灯った。
「……同じ」
思わず零れた声は、ほとんど囁きだった。
アズリスの中の色。
魔石の中の色。
それは自分の瞳や、母の遺したブローチの色ともどこか響き合っているように思えた。
なぜなのかはわからない。
どうして同じ色が宿るのかもわからない。
けれど、それがただの偶然ではないことだけは感じられた。
アズリスは短く鳴いて、ロベリアの膝へ身体を寄せる。
その瞬間、安堵のような感覚がまた胸へ流れ込む。
ロベリアは魔石を握りしめ、そっとアズリスの背を撫でた。
「……あなたも、わからないの?」
答えはない。
けれど、わからないままでも抱えていくしかないのだと思った。
母の遺したものも。
神獣の遺したものも。
自分の中にある、名前のつかないものも。
全部。
◇
それからさらに、いくつかの朝と夜が過ぎた。
空腹に慣れたわけではない。
悲しみが薄れたわけでもない。
夜中に目を覚まして、母の夢に泣くこともあった。墓を思えば胸は痛み、小屋の隅で声を殺して涙をこぼすこともある。
それでも、朝になればアズリスがいる。
水を汲まなければならない。
火を起こさなければならない。
食べるものを探さなければならない。
生きることは、止まってはくれない。
その繰り返しの中で、ロベリアはほんの少しずつだけ前を向きはじめていた。
ある日のことだった。
森の中で、小さな獣の気配を追っていた時。
隣を歩いていたアズリスが、ふいに足を止めた。
ぴんと耳を立て、低く唸る。
その警戒が、胸の奥へそのまま流れ込んでくる。
ロベリアも反射的に息を潜め、木々の向こうへ視線を向けた。
そこに、人影があった。
黒い厚手のローブを纏い、杖をついた男。
村のハイエルフたちとはまるで違う、異質な姿。森の緑にも土の色にもなじまず、その存在だけが場に浮き上がって見えた。
左手には、人の頭蓋骨があった。
ロベリアは息を呑む。
得体が知れない。
怖い。
逃げなければならない気がするのに、足が動かない。
男がこちらを見ているのかどうかも、距離があってわからない。
だがその場に立っているだけで、森の空気が静かに張りつめていくようだった。
アズリスがもう一度、低く唸る。
ロベリアは無意識にその小さな身体を庇うように腕を伸ばした。
森の奥で、異様な黒衣の男はただ静かに立っていた。
それが、自分たちの小さな日々を変える出会いになることを、ロベリアはまだ知らなかった。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
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