第二話 喪失と神獣
【登場人物】
ロベリア
白い髪と、青紫の瞳を持つ幼い少女。
ハイエルフの集落で母とともに暮らしていたが、ある夜、かけがえのない日常を失うこととなる。
やさしく無邪気な心を持ちながらも、その瞳には“精霊眼”と呼ばれる特別な力が宿っており、ときに他の者には見えないものを感じ取る。
母から託された青紫の宝石のブローチを胸に、喪失の中でなお前へ進もうとする。
ロベリアの母
ロベリアと同じ白髪と、透き通る青い瞳を持つハイエルフの女性。
花や薬草を摘み、娘をやさしく育てる穏やかな母であり、ロベリアの秘密を知る数少ない存在でもある。
その言葉と想いは、娘の胸に深く残り続けている。
白銀の神獣
双子山に棲むと伝えられる、神秘的な白銀の狼。
人里から遠い場所に在り、ロベリアの母がかつてその姿を見たことがあるという存在。
気高く静かな気配を纏い、ロベリアにとっては喪失の果てで出会う、もうひとつのぬくもりでもある。
白銀の幼獣
神獣の傍らに寄り添う、小さな白銀の獣。
まだ幼く、か細いながらも確かな命の気配を宿している。
ロベリアが双子山で出会う、新たな存在。
【用語・設定】
ハイエルフの集落
深い森と岩肌に守られるように存在する、小さな隠れ里。
寒さ厳しい土地にありながら、花や薬草を育て、外界と細々と交易しながら暮らしている。
ロベリアにとっては幼少期の世界のすべてであり、失われた故郷でもある。
精霊眼
ロベリアの一族に伝わる、青紫の瞳に宿る特別な力。
魔力、精霊、妖精、霊など、この世ならざるものの気配や存在を見通すことができるとされる。
幼い今はまだ不安定で、見えるものと見えないものに揺らぎがある。
青紫の宝石のブローチ
ロベリアの母が身につけていた、青紫色の宝石のブローチ。
精霊や妖精にまつわる力が宿ると伝えられており、高位の妖精あるいは精霊が神秘の力で作り出した古代の遺物、アーティファクト。
母からロベリアへ託された大切な形見でもある。
喪失のあとも、彼女の胸元で静かに存在し続ける。
双子山
ロベリアの故郷から見える、並び立つふたつの山。
古くから神獣が棲むと語られており、幼いロベリアにとっては母の言葉とともに記憶に残る場所でもある。
神獣
この地に古くから語り継がれる、神秘的な獣の総称。
人の手の届かぬ場所に在り、畏れと敬意をもって語られる存在である。
双子山に棲む白銀の狼も、そのひとつとされる。
炎の色は、もはやほとんど失われていた。
焼け落ちた家々の残骸からは細い煙だけが立ちのぼり、夜気へ溶けるように消えていく。血の匂いと焦げた木の匂いが入り混じり、つい先ほどまで見慣れていたはずの集落は、すでにロベリアの知る場所ではなくなっていた。
誰もいない。
いや、正しくは――もう、誰も動かない。
ついさっきまで声があった。笑い声があった。叱る声も、呼ぶ声も、たしかにそこにあったのだ。だが今は、ただ静寂だけが広がっている。耳が痛くなるほどの静けさだった。
ロベリアはそのただ中に、ひとり立ち尽くしていた。
泣けなかった。
悲しいはずだった。苦しいはずだった。
それなのに胸の奥は凍りついたように動かず、何も感じることができない。ただ、足先からじわじわと冷えが這い上がり、指先の感覚までも遠のいていくような気がした。
視線を動かせば、見たくもないものまで見えてしまう。
崩れた柵。
踏み荒らされた道。
赤く汚れた石畳。
倒れ伏したまま動かぬ人々。
そして――母の姿。
その姿を認めた瞬間、息が詰まった。
けれど、駆け寄ることも、声を上げることもできなかった。足が地面に縫いつけられたように動かない。ただ、その場で浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
おかあさま。
声にならない呼びかけが、喉の奥で砕ける。
どれほどそうしていたのか、自分でもわからない。
ほんの一瞬だったのかもしれないし、ひどく長い時間だったのかもしれない。時間の感覚は曖昧で、現実だけが妙に遠かった。
やがてロベリアは、ふらりと踵を返した。
この場所に、もう立ってはいられなかったのだ。
どこへ向かうのかもわからないまま、ただ足を前へと動かす。よろめきながら、何かに引かれるように歩いていく。その先が、母と何度も訪れた花畑の丘だと気づいたのは、ゆるやかな坂道に差しかかった頃だった。
夜風が頬を撫でる。
冷たかった。
けれど、その冷たさすら今はどこか心地よく感じられた。胸の中に穿たれた空洞へ、同じ温度のものが静かに流れ込んでくるようで。
どれほど歩いたのだろう。
ようやく辿り着いた丘の上では、風に揺れる花々がかすかな音を立てていた。月明かりに照らされた花畑は静かで、何も知らぬまま、あの日と変わらずそこにあった。
その変わらなさが、たまらなく苦しかった。
ロベリアは数歩進んだところで、膝から崩れ落ちた。
「……っ、ぁ……」
声にならない音が漏れる。
目の前の景色が滲んだ。ひどく苦しくて、胸が痛くて、息がうまくできない。何かを堪えようとしていたはずなのに、気づけば涙がぽろぽろと零れていた。
「おかあさま……っ」
呼んでも、もう返事はない。
それでも名を呼ばずにはいられなかった。しゃくり上げながら、ロベリアは両手で顔を覆う。
母と過ごした日々が、次々に脳裏へ蘇った。
笑いながら花を摘んでいたこと。
薬草を見分ける母の手つき。
風に揺れる髪。
自分を見つめるやさしい眼差し。
頭を撫でてくれる、あたたかな手。
そして、あの日も――この丘で。
『この丘から見える、あの大きな二つの山が見える?』
不意に、母の声が蘇る。
涙に濡れた視界の向こう、夜の空の下に並ぶ双子の山影が見えた。
『あの山は双子山っていうのよ。神獣様がいるの』
幼いロベリアは、摘み取ったばかりの花を抱えたまま、きらきらと目を輝かせて母を見上げていた。
『しんじゅうさま?』
『ええ。私は一度だけお目にかかったことがあるの。とても綺麗で、神秘的だったわ』
懐かしい微笑みが、まるで目の前にあるようだった。
『ロベリアも、神獣様に会える?』
そう尋ねた幼い自分に、母はくすりと笑った。
『良い子にしていれば、いつか会えるかもね』
そう言って、母はそっとロベリアの髪を撫でたのだ。
記憶の中のぬくもりが、かえって今の喪失を鋭くした。
ロベリアは唇を噛みしめ、乱暴に涙を拭う。そして丘の先に見える双子山を、じっと見つめた。
神獣様。
会ったところで何かが変わるわけではない。
母が戻るわけでもない。
何か答えを与えてくれる保証もない。
それでも、行かなければならない気がした。
母が綺麗だと言った存在を、この目で見たかった。
今はただ、それだけに縋るような思いだった。
――生きて。
ふいに、胸の奥で母の最期の声が蘇る。
ロベリアはぎゅっと胸元を押さえた。そこには、母から託された青紫のブローチがあった。小さな掌越しにも、硬い感触がたしかに伝わってくる。
生きる。
どうやって。
何のために。
何ひとつわからない。
けれど、ここで立ち止まってはいけないのだとだけは、その声が告げていた。
ロベリアは震える足で立ち上がると、双子山へ向かって歩き出した。
山から流れてくる川を辿れば、きっと麓へ行ける。そんな曖昧な記憶だけを頼りに、ひたすら前へ進む。
川のせせらぎが、静かな夜に響いていた。
人の気配はない。
あるのは風の音と、水の流れる音と、草を踏む自分の足音だけだった。
疲労はとうに限界を越えていた。何度も視界が揺れ、足元も覚束なくなる。それでも足を止める気にはなれなかった。止まってしまえば、本当に何もかも終わってしまうような気がしたからだ。
どれほど歩いただろう。
川沿いの木々が開けた先、月光の差す静かな場所で、ロベリアはついにそれを見た。
白銀の狼だった。
闇に溶けることなく、むしろ月の光をその身に集めるように伏す姿は、あまりにも美しかった。毛並みは雪のように白く、冷えた夜気の中にありながら、その存在だけが澄みきった光を纏っているかのようだった。
――神獣様。
母の言葉は、本当だったのだ。
胸の奥が、かすかに震えた。
だが同時に、ロベリアは息を呑む。
その神獣のまわりには、目には見えぬはずのものが、薄く滲んでいた。
冷えた光のようなもの。
今にも消えそうな、淡い揺らぎ。
それは恐ろしいものではなかった。けれど、終わりに近いものだと、なぜかロベリアにはわかってしまった。
この白銀の神獣は、もう長くは生きられない。
説明はできない。
誰かに教わったわけでもない。
それでも、そうとしか思えなかった。
さらに目を凝らした時、ロベリアは別の気配に気づいた。
神獣の身体の陰、その前脚のあたりに、ひどく小さく、ひどく弱い命の揺れがあった。親のぬくもりに縋るように寄り添う、まだ不安定な気配。
子どもだ。
ロベリアの喉が、小さく鳴った。
目をこらせば、白銀の毛並みの間に、ひとまわりもふたまわりも小さな影がうずくまっているのが見える。母神獣の腹に鼻先を埋めるようにして、じっと動かない。
美しさと、死と、かすかな始まり。
そのすべてが、月下の一点に寄り集まっていた。
ロベリアは思わず一歩退いた。
自分は、ここにいてはいけない気がした。
こんな神聖な場所に、血と喪失を抱えたまま踏み込んではいけないように思えたのだ。
そうして踵を返しかけた、その時だった。
神獣が、ひと声、鳴いた。
それは獣の咆哮というより、澄んだ鈴の音を夜空へ溶かしたかのような、不思議な響きだった。鋭さはない。ただ静かで、やさしく、どこまでも透きとおっている。
呼び止められたのだと、ロベリアは思った。
おそるおそる振り返る。
神獣は、じっとロベリアを見つめていた。
その眼差しは何もかも見透かしているようでいて、それでいて拒絶の色はなかった。むしろ、その奥にあるのは静かな疲労と、何かを見届けようとする意志のように思えた。
ロベリアは、かすれた声で問う。
「……ここに、いてもいいの?」
神獣はしばらく黙したままロベリアを見つめていたが、やがて静かに目を閉じた。
それが答えなのだと、ロベリアにはわかった。
導かれるように近づいていく。
神獣は逃げなかった。怯えも警戒も見せない。ただそこに在り、ロベリアを受け入れていた。
その傍らに膝をついた瞬間、ずっと張り詰めていたものが、ぷつりと音を立てて緩んだ気がした。
もう、限界だったのだ。
ロベリアの身体はゆっくりと傾ぎ、そのまま神獣のそばへともたれかかる。すると母神獣は大きな身体をわずかに寄せ、幼子を包むようにその身を預けさせた。
あたたかい。
そのぬくもりに触れた途端、どうしようもなく母を思い出した。
優しく抱き寄せてくれた腕。
髪を撫でる手。
名前を呼ぶ声。
もう二度と戻らないはずのものが、ぬくもりだけとなって胸の奥に蘇る。
ロベリアのすぐそばで、小さな気配がかすかに動いた。
視線を落とすと、白銀の幼獣が母神獣の毛並みの陰からこちらを窺っていた。まだあどけない顔立ちをした小さな狼の子だった。怯えてはいる。けれど、ロベリアを完全に拒んではいない。ただ母の傍から離れられず、じっと様子を見ている。
ロベリアは手を伸ばしかけて、やめた。
触れてはいけない気がした。
今この子にとって必要なのは、自分ではなく母のぬくもりなのだと、幼いながらにわかったからだ。
抗うことのできない眠気が、ゆっくりと意識を沈めていった。
母神獣の体温と、小さな幼獣の気配に挟まれるようにして、ロベリアは目を閉じた。
夢を見た。
花畑の丘だった。
風に揺れる花々の中で、母が膝をついて座っている。摘み集めた花と薬草をまとめながら、穏やかな顔で微笑んでいた。
幼いロベリアは、その背に駆け寄り、母の膝にすがりつく。
母は何も言わず、ただやさしく受け止めてくれる。
そのぬくもりが嬉しくて、離れたくなくて、ロベリアはぎゅっとしがみついた。
けれど、夢の中のぬくもりはあまりにもやさしい。
だからこそ、それが現実にはもう決して届かぬものなのだと思い知らされる。
眠りの中で、ロベリアの頬を一筋の涙が伝った。
夜は静かだった。
双子山の麓、白銀の母神獣は、眠るロベリアとその幼子を守るように寄り添っていた。尽きかけた命をその身に宿しながら、それでもなお最後のぬくもりを残すように。
その夜は、喪失の底に沈んだ少女にとって、あまりにも短く、あまりにも静かな安息だった。
そして朝。
差し込んだ薄い光に瞼を押され、ロベリアはゆっくりと目を覚ました。
最初に感じたのは、冷えだった。
昨夜まで傍にあったはずの大きなぬくもりが、もう動かないものへ変わっている。
ロベリアははっとして身を起こした。
母神獣は、静かに横たわっていた。
その白銀の毛並みは変わらず美しかったが、もう呼吸の上下はない。昨夜感じた淡い揺らぎも、今はすでに薄れ、朝の空気へ溶けるように消えかけている。
「……」
声が出なかった。
わかっていた気がした。
この出会いが長く続くものではないことを。
それでも、実際に動かなくなった姿を前にすると、胸の奥にひどく冷たいものが落ちた。
また、母を失ったのだと思った。
自分の母ではない。
けれど、この一夜だけでも、たしかに守ってくれたぬくもりだった。
その時、小さな鼻先がロベリアの手に触れた。
見れば、白銀の幼獣が、母神獣の傍らからおずおずとこちらへ歩み寄ってきていた。震えるように小さな足を進め、それでも逃げずにロベリアの膝元まで来る。
その青みを帯びた瞳が、じっとロベリアを見上げていた。
ロベリアは息を呑んだ。
この子も、ひとりになってしまったのだ。
その事実が胸に迫り、痛みと同時に不思議な親しみを生んだ。
自分と同じだと思ってしまった。
幼獣は小さく鳴いた。
甘えるようでもあり、確かめるようでもある声だった。
ロベリアはそっと手を伸ばした。
今度、幼獣は逃げなかった。
指先が白銀の柔らかな毛に触れる。
ひどくあたたかく、ひどく小さい命だった。
「……あなたも、ひとりなの」
呟いた声は、掠れていた。
幼獣は答えない。
ただ、もう一歩だけ近づいて、ロベリアの手に頬を寄せた。
それだけで十分だった。
ロベリアは唇をきゅっと結ぶと、もう一度だけ母神獣の亡骸を見た。
美しく、静かで、もう動かない。
まるで最期に、自分たちを引き合わせるためだけに残っていてくれたようだった。
ロベリアは震える腕で幼獣をそっと抱き上げた。
軽かった。けれど確かな重みがあった。
母から託されたブローチが胸元にある。
腕の中には、新たに遺された小さな命がある。
そのどちらも、失ってはいけないと思った。
ロベリアは幼獣を抱いたまま、白銀の亡骸の前で小さく頭を下げた。
何を言えばいいのかわからなかった。
祈りの言葉も、見送るための正しい作法も知らない。
けれど、このまま何もせず立ち去ることだけはできなかった。
「……ありがとうございます」
幼い声が、朝の静けさに溶けた。
それは別れの言葉であり、託されたことへの返事でもあった。
ロベリアは腕の中の幼獣を抱きしめる。
するとその小さな身体もまた、かすかに寄り返してきた。
もう、自分だけではない。
けれど、だからといって喪失が消えるわけでもない。
それでも。
それでも、歩かなければならないのだと、ロベリアは思った。
母の「生きて」という言葉と、今しがた失われたばかりの白銀のぬくもりに背を押されるようにして、ロベリアは双子山の朝の光の中へ、静かに立ち上がった。
その小さな腕の中で、幼獣は静かに目を閉じていた。
まだ名もないその命が、彼女のこれからを大きく変えていくことを、ロベリアはまだ知らなかった。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
失意の中、神獣との出会いはロベリアに何を齎すのか…。
続きは次回更新をお待ちください。




