第一話 プロローグ(後編)
【登場人物】
ロベリア
白い髪と、青紫の瞳を持つ幼い少女。
母とともにハイエルフの集落で慎ましく暮らし、花畑を駆け回るような無邪気さと、周囲の気配を人一倍繊細に感じ取る感受性をあわせ持つ。
その瞳には、一族に伝わる特別な力――“精霊眼”が宿っているが、幼い彼女はまだその意味も、やがて背負う運命も知らない。
ロベリアの母
ロベリアと同じ白髪と、透き通る青い瞳を持つハイエルフの女性。
穏やかでやさしく、花や薬草を摘みながら娘をあたたかく育てている。微笑みの奥には、夫を失った悲しみと、娘に受け継がれた特別な力への複雑な想いが静かに沈んでいる。
ロベリアの秘密を知る数少ないひとり。
【用語・設定】
ハイエルフの集落
深い森と岩肌に守られるように存在する、小さな隠れ里。
厳しい寒さの土地にありながら、花や薬草を育て、毛皮や細工物などを外界と細々と交易しながら暮らしている。
ロベリアにとっては幼少期の世界のすべてであり、幸福と喪失の原点となる場所。
精霊眼
ロベリアの一族に伝わる、青紫の瞳に宿る特別な力。
魔力、精霊、妖精、霊など、この世ならざるものの気配や存在を見通すことができるとされる。
幼いころは魔力が安定しないため、見える時と見えない時があり、本人もその力をまだ十分には理解していない。
青紫のブローチ
ロベリアの母が身につけている、青紫色の宝石のブローチ。
高位の妖精あるいは精霊が神秘の力で作り出した古代の遺物、アーティファクトである。
花畑からの帰り道、ロベリアは摘んだ花と薬草の入った小さな籠を胸に抱え、弾む足取りで母の前を歩いていた。
籠は、幼いロベリアのために編まれた小ぶりなものだったが、今日はその中がいっぱいだった。白い花、淡い青の花、細い茎の薬草、香りの強い葉。どれも彼女が母の真似をしながら、一生懸命に摘んだものばかりだ。
「おかあさま、見て。こんなにたくさん」
「ええ、たくさん取れましたね」
「ロベリア、ちゃんとおてつだいできた?」
振り返る瞳は、褒めてほしくてたまらない子どものものだった。
母はその視線を受け、やさしく目を細める。
「もちろんです。とても助かりましたよ」
その言葉だけで、ロベリアの胸は花が咲いたみたいにふくらんだ。
彼女はうれしそうに頬をゆるめると、またくるりと前を向き、集落への道を駆けていく。
山あいにひらけたハイエルフの集落は、深い森と岩肌に守られるようにひっそりと息づいていた。厳しい寒さの土地ではあったが、石と木で作られた家々にはどこかあたたかみがあり、夕暮れどきには煮炊きの煙が細くのぼる。幼いロベリアにとって、そこは世界のすべてだった。
「あっ、おじさん!」
集落の入口近くで、ロベリアはひときわ大きな声をあげた。
そこに立っていたのは、狩りを終えたばかりらしいハイエルフの男だった。
肩幅が広く、日に焼けた肌にはいくつもの古傷があり、鋭い目つきのせいで子どもには少し怖く見える。けれど集落の誰もが知っていた。その険しい顔つきの奥に、不器用なやさしさがあることを。
「また走っているのか、小娘」
低い声が落ちる。
たしなめるようでいて、その声音にはほんのわずかな苦笑が混じっていた。
ロベリアは気にした様子もなく、男の前まで駆け寄ると、得意げに籠を掲げた。
「見て! ロベリア、こんなにいっぱい取れたの!」
男は無骨な手で顎をひとなでし、籠の中をのぞきこむ。
花と薬草がぎっしり詰まったそれを見て、片眉を上げた。
「ほう。大したものだ」
「すごいでしょう?」
「少なくとも、そのへんで遊んで転げ回っていただけではなさそうだな」
からかうように言われ、ロベリアはむっと頬をふくらませた。
「ちゃんと、おてつだいしたもん」
そう言いながら、彼女は籠の中から花を一束、薬草を一束、慎重に取り出した。
両手で大事そうに持ち、男へ差し出す。
「これ、おじさんにあげる」
「……俺に?」
「うん。いっぱい取れたから」
男は一瞬だけ目をしばたたいた。
こういう無邪気な贈り物に慣れていないのか、しばらく無言のままロベリアと花束を見比べていたが、やがて咳払いひとつして、それを受け取った。
「ありがたくもらっておこう」
言葉はそっけない。
けれどその手つきは、見た目ほど乱暴ではなかった。
そして代わりに、狩りの袋から小さく切り分けた獣肉を包みごと取り出し、ロベリアへ差し出す。
「ほら。働いたぶんの見返りだ」
「わあ……!」
ロベリアはぱっと顔を輝かせた。
両手で包みを抱きしめるように受け取ると、宝物でももらったかのように目をきらきらさせる。
それを見て、後ろから来た母が静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「なに、こいつがちゃんと役に立ったなら安いものだ」
「ロベリア、役に立ったの!」
「そうですね」
母はくすりと笑い、ロベリアの頭をそっと撫でた。
そのやりとりを遠巻きに見ていた村の子どもたちが、気づけばこちらへ走ってきていた。
「ロベリアー!」
先に声をあげたのは、年の近い少年だった。
その後ろには、ロベリアと特に仲の良い少女もいる。ふたりとも頬を赤くしながら、今しがた帰ってきたばかりのロベリアの前に立った。
「今から遊ぼうぜ。広場のほうで追いかけっこしてるんだ」
「ロベリアも来ない? 一緒にお花で冠つくろうって話してたの」
誘われて、ロベリアの足がぴたりと止まる。
行きたい。とても行きたい。表情が一瞬でそう語っていた。
けれど次の瞬間、彼女はぎゅっと母の服の裾をつかんで、首を横に振る。
「今日はだめ」
「えー、なんでだよ」
「おてつだい中だもん。ね、おかあさま」
そう言って、ロベリアは母の手を取った。
母は少し驚いたように目を瞬いたあと、やわらかく微笑む。
「あとで時間があれば、少しだけね」
「ほんと?」
「ええ」
それを聞いて、少年と少女も不満そうにしながら、すぐに笑った。
「じゃあまたあとでな!」
「待ってるね、ロベリア」
「うん!」
手を振り返しながら、ロベリアは母と並んで家路につく。
つないだ母の手は、ひんやりした外気の中でもやさしいぬくもりを持っていた。
◇
その夜、家の中には煮炊きの香りが満ちていた。
狩人から分けてもらった肉は、香草と一緒に煮込まれ、素朴だがあたたかな食卓をつくっている。木の器に盛られた湯気立つ食事を前に、ロベリアは上機嫌だった。
「これ、ロベリアがおはなあげたからもらえたんだよね?」
「そうですね。ロベリアが頑張ったごほうびかもしれません」
「じゃあ、もっといっぱいおてつだいしたら、もっとすごいのもらえる?」
「ふふ、それはどうでしょう」
母の笑みに満足して、ロベリアは夢中で食事を口に運ぶ。
けれど、花畑を駆け回り、家まで歩き、はしゃぎ、そして生まれて初めて魔法まで使った疲れは、幼い身体には大きかったらしい。
食事を終えるころには、彼女の瞼は何度も重たげに落ちていた。
「……ねむいの?」
母が尋ねると、ロベリアはこくりと頷く。
だがその頷きも途中から鈍くなり、座ったまま舟をこぎはじめた。
「今日はたくさん頑張りましたものね」
母は苦笑しながらロベリアを抱き上げ、寝台へと運ぶ。
幼い身体は驚くほど軽く、それがいっそういとおしい。
寝台に横たえられたロベリアは、もう半分眠っていた。
それでも母の気配を感じたのか、うっすら目を開けて、小さく笑う。
「おかあさま……」
「はい」
「きょう、たのしかった……」
「ええ。私も楽しかったですよ」
その返事を聞いて安心したように、ロベリアは目を閉じる。
母はそっと額にかかった髪を払ってやり、その頭をやさしく撫でた。
そして布をかけ直し、冷えないよう肩元まで丁寧に整える。
「おやすみなさい、ロベリア」
返事はなかった。
もう深い眠りに落ちている。
母はしばらくその寝顔を見つめていた。
無垢で、あどけなくて、何も知らず、ただ自分を信じきって眠る小さな娘。
その顔を見ていると、胸の奥の痛みも、いっときだけやわらぐ気がした。
けれど同時に、今日見た“氷の花”のことが、静かな波紋のように心に広がっていた。
あの子は、いったい何を宿しているのだろう。
問いに答える者はなく、夜はただひっそりと更けていった。
◇
翌朝、空気は澄みきっていた。
ロベリアが目を覚ましたとき、母はもう支度を整えていた。
昨日摘んだ花と薬草を束ね、籠へ丁寧に収めている。
「おかあさま、どこいくの?」
「村の若い人に、これを渡してきます。外へ持っていくものですから」
集落では、ときおり若いハイエルフたちが山を下り、外界との細々とした交易を担っていた。花や薬草、毛皮や細工物を渡し、その代わりに塩や布、道具に必要なものを得るのだ。
ロベリアは寝起きの目をこすりながら、母の言葉に頷いた。
「ロベリアもいく?」
「すぐ戻りますよ。それより、今日は約束していたでしょう?」
「……みずくみ!」
「ええ。帰ってきたら、一緒に行きましょう」
その言葉だけで、ロベリアはたちまち機嫌を直した。
母と並んで歩けるのがうれしいのだ。
「じゃあそれまで、あそんでる」
「遠くへ行ってはいけませんよ」
「はーい」
母が家を出たあと、ロベリアは昨日の少年と少女を見つけて、朝のうちしばらく一緒に遊んだ。
追いかけっこをして、石を並べ、花を編み、笑い声をあげる。幼い時間はどこまでも明るく、長く続くもののように思えた。
やがて母が帰ってくる。
「ロベリア、約束を覚えていますか?」
「うん!」
ロベリアはすぐに駆け寄り、母の手を取った。
空の桶を持って、ふたりで水汲み場へ向かう道は、穏やかな昼下がりの光に満ちていた。
◇
水汲みを終えたころには、日がだいぶ傾いていた。
桶の中で水面が揺れ、橙色の空を映している。
帰り道、ロベリアは桶を持つ母の隣をぴょこぴょこと歩きながら、今日遊んだことを夢中で話していた。
「それでね、きのうのあの子が転んで――」
ふいに、母の足が止まった。
「おかあさま?」
つられて立ち止まり、ロベリアも顔を上げる。
そのとき、風が流れてきた。
焦げた匂いだった。
鼻の奥を刺す、嫌な匂い。
焚き火とも、煮炊きとも違う。もっと重く、苦く、胸の底をざわつかせるような匂い。
母の表情が変わる。
ロベリアもつられて、集落のある方角を見た。
夕暮れに染まりかけた空の向こう、そのあたりだけが薄く煙っているように見えた。
「ここにいて」
母の声が、ひどく低くなる。
ロベリアはどきりとした。
「おかあさま?」
「様子を見てきます。ロベリアはここを動いてはいけません。いいですね」
「でも――」
「いいですね」
今まで聞いたことのないほど強い口調だった。
ロベリアは息を呑み、小さく頷くことしかできない。
母はそれを確かめると、桶をその場に置き、集落の方へ走っていった。
フード付きのローブの裾が、夕風の中でひるがえる。
ロベリアはひとり、その場に残された。
風が吹くたび、焦げた匂いが濃くなる。
胸の奥が、いやにざわざわした。落ち着かない。何かが悪いと、本能のようなものが訴えてくる。
けれど母は戻らない。
日が沈みかけ、あたりの影が長く伸びても、戻らない。
「……おかあさま……」
声に出してみても、返事はなかった。
心細さが喉を締めつける。
待っていなさいと言われた。
でも、心配だった。どうしようもなく、心配でたまらなかった。
やがてロベリアは、ぎゅっと拳を握る。
「……いかなきゃ」
ほとんど泣きそうになりながら、彼女は集落の方へ駆け出した。
◇
近づくにつれて、匂いはますますひどくなった。
焦げた木の匂い。
焼けた土の匂い。
そして、それだけではない、幼いロベリアの知らない異臭。
集落へ辿り着いた瞬間、彼女の足は止まった。
「……え……」
そこにあったはずの景色が、壊れていた。
家々は黒く焼け、崩れ、まだところどころから煙が上がっている。
道に散らばる木片、ひび割れた石、倒れた柵。さっきまで人の暮らしがあった場所とは思えないほど、すべてが無残に変わり果てていた。
ロベリアの喉から、掠れた息が漏れる。
視界の端に、人影が見えた。
けれどそれは、起き上がる人ではない。動かない。倒れ伏し、血に濡れ、焼け跡の中で折り重なるように横たわっている。
「いや……」
理解したくないのに、目がそれを捉えてしまう。
知っている大人たちだった。
さっきまで笑っていたかもしれない人たち。昨日まで言葉を交わしていた人たち。あの怖い顔の狩人も、遊びに誘ってくれた少年も、仲の良い少女も、どこにいるのかわからない。
ロベリアの胸の中で、恐怖が一気に膨れ上がる。
「おかあさま……おかあさま……!」
もう他のことなど何も考えられなかった。
ロベリアは焼け跡の中を走る。足もとで何かが砕け、煙が目にしみても止まらない。
家へ。
母のいるはずの家へ。
けれど、辿り着いた先で、彼女は立ち尽くした。
「あ……」
家は、なかった。
正確には、あったものが崩れ落ち、形を失っていた。
柱は折れ、壁は焼け、屋根は半ば潰れて、かろうじて家だった名残をとどめているだけだ。
ロベリアの呼吸が浅くなる。
視界がぐらぐらと揺れた。
「おかあさま! おかあさま、どこ!?」
返事はない。
泣きながら崩れた木材に手をかけ、押して、引いて、必死に隙間をのぞきこむ。
小さな手ではびくともしない瓦礫ばかりで、それでもロベリアはやめなかった。
そのときだった。
崩れた梁の下、焼け焦げた布の隙間から、見覚えのあるローブの端がのぞいているのが見えた。
「……っ!」
ロベリアは息を止めた。
駆け寄り、震える手で瓦礫のそばへ膝をつく。
「おかあさま……?」
そこにいた。
瓦礫の下敷きになり、血に濡れた母が、かろうじて息をしていた。
顔色は白く、唇は乾き、ローブはあちこち裂けている。
けれどその瞳は、まだ完全には閉じていなかった。うっすらと開いた目が、ロベリアの姿を見つける。
「……ロ、ベ……リア……」
かすれきった声。
それでも、たしかに娘の名を呼んでいた。
「おかあさま……! おかあさまっ!」
ロベリアはその場に崩れ落ちるように膝をつき、母の身体にすがりついた。
熱いのか冷たいのかもわからない。血の匂いと焦げた匂いが入り混じり、息がうまくできない。
「やだ……やだよ……おかあさま、しなないで……!」
涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
視界は滲み、母の顔も、伸ばした自分の手も、何もかもが歪んで見えた。
母は苦しげに息をしながら、それでもわずかに口元を動かす。
泣きじゃくるロベリアを安心させようとするみたいに、いつものように微笑もうとして――けれど、その笑みはあまりに痛ましかった。
ロベリアはただ泣くことしかできなかった。
花畑で笑っていた時間が、遠い夢のように思える。
ついさっきまで確かにあったぬくもりが、手の届かないところへ崩れ落ちていく。
「おかあさま……おかあさま……!」
幼い叫びが、焼け落ちた集落に響く。
返る声はなく、夕闇だけが静かに降りてきていた。
母の指先が、かすかに動いた。
血に濡れ、力を失いかけたその手が、震えながら胸元へ伸びる。
ロベリアは泣きじゃくりながら、その動きを追った。
「おかあさま……? だめ、しゃべっちゃだめ……」
母は苦しげに息を吸い、何かを外そうとする。
胸元に留められていた、青紫色のブローチだった。焼け跡の薄暗がりの中でも、それだけは不思議なほど澄んだ光を湛えているように見えた。
震える指ではうまく外せず、金具が布に引っかかる。
ロベリアは慌てて涙を拭い、母の手元に自分の小さな手を添えた。
「これ……?」
母はほんのわずかに頷いた。
ようやく外れたブローチを、母はロベリアの掌へ押しこむようにして渡す。
冷たい金属の感触。けれどその奥に、かすかなぬくもりが残っている気がした。
「ロベリア……」
呼ばれて、ロベリアは顔を上げる。
涙で滲んだ視界の向こうで、母の瞳がかすかに揺れていた。
「むかし、から……あなたは……ときどき……みんなに、見えていないものを……見ていた、でしょう……」
途切れ途切れの声だった。
一言ごとに息が詰まり、今にもそのまま意識を手放してしまいそうなほど弱々しい。
ロベリアは唇を震わせる。
「……みえてない、もの……?」
言われて、幼い記憶の断片が胸の奥で揺れた。
誰もいないはずの窓辺で、きらきらした光が踊っているのを見たこと。
水辺で歌うような小さな声を聞いたこと。
森の奥で、白い靄のようなものがこちらを見ていたこと。
けれど、それを口にすると、大人たちは不思議そうな顔をした。
母だけが、否定せずに黙って話を聞いてくれた。
「それ、は……この集落の、一族に伝わる……力……」
母は苦しげに息を継ぐ。
喉の奥で血の絡む音がして、ロベリアの肩がびくりと震えた。
「ロベリアの、その……綺麗な……青紫の瞳は……精霊眼……と、呼ばれるもの……」
「せい……れい、がん……?」
聞いたことのない言葉だった。
ロベリアはただ、おうむ返しにすることしかできない。
「魔力……精霊……妖精……霊……そういう……この世ならざるものを……見通すことが、できると……言われて、います……」
母の言葉は、ロベリアの頭の中でうまく形にならなかった。
怖い。わからない。どうして今そんな話をするのかもわからない。
ただ、母がとても大切なことを伝えようとしているのだけは、痛いほどに感じた。
「ちいさい……うちは……魔力が、安定しないから……見えるときと……見えないときが、あるの……」
ロベリアは泣きながら何度も頷いた。
わかったから、もう喋らないで。そんな気持ちでいっぱいなのに、声にならない。
「あなたの、その目のことは……村長と……私をふくめた、ほんの数人しか……知らない、の……」
そこで母は、一度大きく息を乱した。
胸が苦しそうに上下し、顔からさらに血の気が引いていく。
「おかあさま……もういいよ……もういいから……」
「だめ、よ……聞いて……ロベリア……」
母はかすかに首を振った。
その仕草だけで、ロベリアの胸は引き裂かれそうになる。
母の視線が、ロベリアの掌の中のブローチへ落ちる。
「その……青紫の、ブローチには……精霊や、妖精の……力が……宿っていると……言われて、います……」
ロベリアは掌を見下ろく。
涙の粒がぽたりと落ち、青紫の石の上で砕けた。
母がいつも身につけていた、大切そうに撫でていた飾り。自分も似た色のものを持っている。幼いロベリアにとっては、それは母と自分を繋ぐ、おそろいのきれいな飾りでしかなかった。
「おそろい……の……」
「ええ……」
母は、ほんの少しだけ微笑んだ。
血と痛みにまみれた中で、それでもその笑みだけは、あの日花畑で見せたものと同じやさしさを残していた。
「あなたが……ひとりで、なくならないように……」
言葉の意味は、ロベリアには半分もわからなかった。
けれど“ひとり”という響きだけが、胸の中へ冷たい針みたいに沈んでいく。
「いや……」
ロベリアは首を振る。
わかりたくなかった。そんな言葉を聞きたくなかった。
「いやだよ……おかあさま……ロベリア、ひとりやだ……」
母は瓦礫の下から、わずかに腕を持ち上げた。
その手が、ロベリアの頬に触れる。ひどく弱く、今にも消えてしまいそうな感触だった。
「泣かないで……」
無理だった。
そんなふうに優しく言われるほど、涙はあふれた。
「ごめん、なさい……守って……あげたかった……」
「ちがう……ちがうよ……!」
何が違うのか、自分でもわからないまま、ロベリアは叫ぶ。
母が謝ることなど、何ひとつないと思った。ただ、いなくならないでほしかった。
母の瞳が細められる。
もうほとんど見えていないのかもしれない。それでも娘の顔を、声を、ぬくもりを、必死にたしかめるように。
「ロベリア……」
呼ばれるたび、心が引き裂かれる。
「愛しています……」
その言葉は、ひどく静かだった。
焼け跡の臭いも、遠くで鳴る木の崩れる音も、その一瞬だけ消えてしまったように思えた。
ロベリアは息を呑み、涙に濡れた顔のまま母を見つめる。
「ずっと……あなたの、そばで……見守って……います……」
「やだ……」
声が掠れる。
「やだよ……おかあさま……いっちゃやだ……」
母の唇が、最後にわずかに動いた。
何かもうひとこと、言おうとしたようにも見えた。けれど音にはならなかった。
頬に触れていた手から、力が抜ける。
指先が、するりと落ちた。
「……おかあさま?」
返事はない。
「おかあさま……?」
もう一度呼ぶ。
その瞳は閉じかけたまま、二度とロベリアを映さなかった。
「……おかあさま」
理解は、遅れてやってきた。
いや、理解したくない気持ちと、目の前の現実が、幼い胸の中でぐちゃぐちゃにぶつかり合った。
冷たい。
さっきまで、かすかでもたしかにそこにあったぬくもりが、指の先からこぼれていく。
「おかあ、さま……?」
ロベリアは何度も呼んだ。
肩を揺すり、手を握り、泣きながら顔をのぞきこむ。
けれど、母はもう動かなかった。
「やだ……やだぁ……」
嗚咽が喉を裂く。
胸が痛い。苦しい。息ができない。どうしてこんなことになったのかわからない。
さっきまで一緒にいたのに。今日だって、水を汲みに行く約束をしたのに。
掌の中で、青紫のブローチが食いこむほど強く握りしめられていた。
その硬い感触だけが、今ここにある現実を残酷なほどはっきりと伝えてくる。
ロベリアは母の胸にすがりついたまま、声をあげて泣き崩れた。
夕闇は深まり、焼け跡の集落を冷たく包んでいく。
その中で、幼い少女の泣き声だけが、長く、長く響いていた。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
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