第一話 プロローグ(前編)
初めまして。
今回が初めての投稿になります。
氷は、音を奪う。
白く閉ざされた大地の上に、ひとりの少女が立っていた。
吹きすさぶ風は鋭く、空は昏く、足もとには砕けた氷の欠片が青白く散っている。まるで世界そのものが、彼女の吐息ひとつで凍りついてしまったかのようだった。
長い銀白の髪が風に流れる。
その身を包むのは白を基調とした衣。幾重にも重なる布地は雪のように淡く、差し色の青紫は、凍てつく景色の中でなお鮮やかに浮かび上がっていた。
胸元には、青紫色の小さなブローチ。凍土の上に咲く花のようなそれだけが、かすかに昔のぬくもりを知っているように見える。
少女――ロベリア・ネメシスは、静かに前を見つめていた。
その瞳は美しかった。
透きとおるような青紫の光を宿しながら、そこには年若い娘のものとは思えないほど深い静寂が沈んでいる。
哀しみを流し尽くしたあとにだけ残る、凍りついた湖面のような静けさだった。
彼女の手にある杖の先で、淡い氷光が揺らめく。
その足もとには、青紫の花が咲いていた。雪と氷に閉ざされたこの地に、本来なら咲くはずのない花。けれどそれは、まるで死者を弔う供花のように、冷たい風の中でひっそりと揺れている。
誰かが、彼女の名を呼んだ。
ロベリアは答えない。
ただ、ほんのわずかに睫毛を伏せる。
その横顔はひどく美しく、ひどく遠かった。
かつて笑うことを知っていた少女には、もう見えなかった。
◇
その日は、よく晴れていた。
青く高い空を、やわらかな風が渡っていく。
丘いっぱいに咲いた花々は光を受けて揺れ、白や薄紫や青の色彩が、陽だまりの中でゆるやかに溶け合っていた。遠くでは小鳥がさえずり、草の匂いを含んだ風が、駆けていく小さな影の髪をふわりと持ち上げる。
「おかあさま、見て! こっちにもたくさん咲いてる!」
弾むような声が、花畑に響いた。
幼いロベリアは両腕いっぱいに花を抱え、くるりと振り返る。
まだあどけなさの残る顔いっぱいに笑みを浮かべ、その瞳は陽の光を映してきらきらと輝いていた。
銀白の髪はまだ短く、ところどころ跳ねている。
村娘らしい簡素な服に、少し大きめの厚手のローブ。外気の冷える土地らしく、フード付きのそれは素朴な仕立てだったが、花畑の中を駆け回る彼女には、それすら軽やかに見えた。
「そんなに走ったら転びますよ、ロベリア」
少し離れた場所で、母がやさしく声をかける。
ロベリアの母は、摘んだ花を籠に入れながら微笑んでいた。
その微笑みは穏やかで、春先の陽射しのようにあたたかい。けれど、ときおりふと遠くを見るその横顔には、まだ幼いロベリアにさえ、うまく言葉にできない翳りが差すことがあった。
「だいじょうぶだよ!」
そう言ったそばから、小さな靴が草に取られ、ロベリアは「きゃっ」と短い悲鳴をあげてつんのめる。
けれど倒れる寸前、どうにか両手をついて体を支えると、本人は何事もなかったように顔を上げた。
母は目を丸くしたあと、堪えきれずにくすりと笑った。
その笑い声を聞いた瞬間、ロベリアの表情はいっそう明るくなる。
転びかけたことなど少しも気にしていない様子で、彼女はぱっと立ち上がり、花を一輪つまんで母のもとへ駆け寄った。
「これ、いちばんきれいなの。おかあさまにあげる」
「まあ。ありがとう」
母はそう言って花を受け取り、目を細めた。
けれどその目の奥には、やはりほんのかすかな寂しさが沈んでいた。
ロベリアはそれに気づく。
気づいてしまう。
どうしてそんな顔をするのか、幼い彼女にはよくわからなかった。
母はいつもやさしく、いつも笑ってくれる。けれど、ときどきこうして、陽だまりの中にひとつだけ冷たい影が落ちるみたいに、さみしそうな顔をするのだ。
「……おかあさま?」
「どうしました?」
「ううん」
ロベリアは首を振る。
けれどその小さな胸の中には、もやもやとした気持ちが残った。
母が笑ってくれるのは嬉しい。
でも、もっと笑ってほしい。ずっと、ほんとうに、心から。
そんなことを思いながら、ロベリアは母の隣にちょこんと座り込んだ。
母は摘んだ花を束ねながら、静かな手つきで仕事を続ける。その指先は細く、少しかさついていた。雪深い土地での暮らしと、毎日の労苦を知る手だった。
「おかあさま」
「はい」
「おとうさまも、お花すきだった?」
その問いに、母の手がぴたりと止まった。
風が吹く。
丘の花々がさわさわと揺れ、遠くで鳥が鳴いた。
母はしばらく何も言わなかった。
けれどやがて、ロベリアの頭をそっと撫でながら、やわらかく微笑む。
「ええ。好きでしたよ」 「ロベリアみたいに?」
「そうですね。ロベリアみたいに、きれいなものを見るのが好きな人でした」
ロベリアは少しだけ嬉しくなった。
自分の知らない父と、自分が同じところを持っているような気がしたからだ。
父のことを、ロベリアはほとんど覚えていない。
物心がついて間もない頃には、もういなかった。
村の大人たちの話によれば、父は集落を下り、外の世界と物資をやり取りする役目を担っていたという。厳しい土地で生きるこの集落にとって、それはとても大切な務めだった。
けれどあるとき、外界へ向かった先で凶暴な魔物に襲われ、帰らぬ人となった。
そのことを、ロベリアは“そういうもの”として知っているだけだった。
死とはなにか、喪うとはどういうことか、まだ本当にはわかっていない。
ただ、父の話をするときだけ、母の微笑みに触れてはいけない傷が混じることを、なんとなく感じていた。
だからこそ、ロベリアは思う。
どうにかして、母を元気づけたいと。
もっと笑ってほしい。
悲しい顔をしないでほしい。
そのためになにができるのかはわからなくても、幼い胸に宿る願いだけは、ひどくまっすぐだった。
「おかあさま、あのね」
「はい?」
「すぐ、もっときれいなのあげる」
そう言ってロベリアは、両手を差し出した。
自分でも何をするつもりなのか、よくわからなかった。ただ、胸の奥に生まれた願いが、熱ではなく、ひんやりと澄んだ感触となって指先へ集まっていくのを感じた。
母が、不思議そうに目を瞬かせる。
次の瞬間だった。
ロベリアの手のひらの上に、淡い光がふわりと宿る。
空気が一瞬だけ冷え、きらきらと細かな粒が舞った。まるで朝露が光を受けて砕け散ったような、淡く繊細なきらめき。
それはゆっくりと形を結んでいく。
茎が伸び、花弁がひらき、透明な青を帯びた氷の花が、ロベリアの掌から静かに咲いた。
「……え……?」
最初に声を漏らしたのは、ロベリア自身だった。
自分の手の中に咲いたものが何なのか、理解が追いつかない。ただ、冷たいはずのそれが不思議とやさしく、痛みもなく、まるで最初からそこに在るべきだったように指先に馴染んでいた。
母は言葉を失っていた。
大きく見開かれた目が、氷の花とロベリアの顔を何度も見比べる。
「おかあさま?」
おそるおそる名前を呼ぶと、母ははっと息を呑んだ。
その表情には驚きがあった。戸惑いも、信じられないものを見た震えも。けれど、それだけではない。胸の奥深くにしまいこんでいた何かを不意に揺さぶられたような、どうしようもなく切ない色がそこには浮かんでいた。
ロベリアは不安になる。
失敗したのだろうか。母を困らせてしまったのだろうか。
「ご、ごめんなさい……」
今にも泣き出しそうな声でそう言うと、母は我に返ったように首を振った。
「ちがうの、ロベリア。ちがうのよ」
そしてそっと、ロベリアの小さな手ごと、その氷の花を包みこむ。
冷たいはずなのに、母の手はあたたかかった。
「とても……とてもきれい」
母はそう言って、微笑んだ。
それはロベリアのよく知る、やさしい笑顔だった。
けれどいつもより少しだけ、深く、やわらかかった。まるで長い冬の雲間から、ようやく陽の光が差しこんだみたいに。
ロベリアは目をぱちぱちさせたあと、ほっと息をつく。
それから、花畑いっぱいに広がる春の光にも負けないほど無邪気に笑った。
「ほんと?」
「ええ。世界にひとつだけの花ね」
「ロベリアがつくったの!」
「ええ、そうね」
母の声は少し震えていた。
けれどロベリアは、その理由までは知らない。ただ、自分の花で母が笑ってくれたことが嬉しくてたまらなかった。
丘の上を風が吹き抜ける。
花々が揺れ、陽の光が踊り、ロベリアの掌の上で氷の花が小さくきらめく。
その景色は、まるで奇跡のように美しかった。
このときのロベリアは、まだ知らない。
その手が咲かせる氷の花が、いつか愛おしいものを守るためではなく、喪ったものを抱いたまま世界を凍てつかせる力へと変わっていくことを。
まだ知らないのだ。
この穏やかな空の下にある幸福が、そう遠くない先に音を立てて崩れ去ることを。
けれど今だけは、ただひとりの幼い娘として、母の笑顔に胸を弾ませていた。
それだけで、世界は充分にあたたかかった。
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