第十三話 再会の気配
宿へ向かう石畳の道は、夜気を吸って冷えていた。
白札のギルドカードはポーチの中にある。指先で触れれば確かにそこにあるはずなのに、どこかまだ自分のものではないような重さがあった。
街はもう暗い。
往来を行き交う人影もまばらで、店じまいの音だけが時折、遠くで乾いた余韻を引く。
その時、視界の端で黒が動いた。
ひとりの人影。
黒いローブをまとい、表通りから外れた薄暗い路地へ、迷いなく入っていく。
ロベリアは足を止めた。
ただの通行人かもしれない。
だが、胸の奥に引っかかるものがあった。冷たい、というより、沈んだ気配。共同墓地で感じた不穏さとも違う、けれど無関係とは思えない何か。
隣を歩いていたアズリスが低く喉を鳴らす。
「……あなたも、感じるの」
白銀の仔狼は答えず、青紫の瞳を細めて路地の闇を見た。
ロベリアは数拍だけ迷い、それから静かに進路を変えた。
石壁に挟まれた細い路地は灯りが乏しく、昼間よりもずっと狭く感じる。湿った空気が肌にまとわりつき、足音が妙に小さく反響した。
奥まで進んだところで、その人影は止まっていた。
黒いローブの裾が夜気に揺れる。
ロベリアが足を止めると、相手は振り向きもせずに言った。
「追ってくると思った」
低く落ち着いた声だった。
ロベリアの呼吸が、ほんのわずかに止まる。
「……セヴラン」
黒ローブの人物がゆっくりと振り向く。
深く被ったフードの奥、影の下に覗いた口元が、ごくかすかに笑ったように見えた。
「久しいな、ロベリア」
その一言で、胸の奥に沈んでいたものが静かに揺れた。
森を出てから、いくつものものが変わった。
街に来て、人に囲まれ、依頼を受け、白札になった。けれど今、目の前にいる男は、その前の時間を知っている。
驚きはあった。
安堵も、少し。
それ以上に、どうしてここにいるのかという警戒が先に立つ。
「……どうして、ここに」
「お前こそ、だな」
セヴランの視線がロベリアを上から下までゆっくりと辿る。
白基調の旅装、胸元のブローチ、深いフード。その目は外見だけでなく、その内側まで静かに測るようだった。
「少し見ないうちに、ずいぶん人の街に馴染んだ」
「馴染んでは、ない」
「そうかもしれない」
否定しても、セヴランは淡々としている。
その反応が、かえっていつも通りで、ロベリアの肩からわずかに力が抜けた。
アズリスがロベリアの足元から一歩前に出る。
セヴランはその姿を見下ろし、目を細めた。
「そちらも健在か」
白銀の仔狼は唸りはしなかった。ただ警戒を解いてもいない。
「……あなたは」
ロベリアは一度言葉を切り、路地の奥の冷えた空気を吸い込んだ。
「ラドルに、何をしに来たの」
セヴランはすぐには答えなかった。
壁にもたれるでもなく立ったまま、わずかに視線を上げる。路地の先の暗がり、その向こうにある街の夜を透かして見るような目だった。
「死の気配を追ってきた」
短い答えだった。
「この街の墓地に、眠るべきものが眠れていない。地の下で、歪みが溜まっている」
ロベリアは黙って聞く。
共同墓地で感じたあの重さ。
土の下から滲み出るような、静かに濁った気配。
あれは気のせいではなかったのだと、改めてわかる。
「共同墓地の下……」
「階段が見つかったそうだな」
ロベリアが顔を上げる。
セヴランはすでに知っていた。
「一層には遺骨が群れている。だが、それだけで済む気配じゃない」
「……知ってるの」
「少し見た。少し聞いた。少し読んだ」
セヴランらしい言い方だった。
見て、聞いて、読む。
死者や残滓を、ただ数えるのではなく、そのあり方そのものを読むような言い方。
ロベリアは息を潜める。
「何がいるの」
「まだ断言はしない方がいい。だが、ただ墓が荒れたから骨が起きた、という程度のものではない」
夜の空気がさらに冷えた気がした。
ロベリアの精霊眼は、何も見えていない今でさえ、その言葉の奥にある“深さ”だけは感じ取る。
「……そう」
「お前も気づいていたんだろう」
否定はできなかった。
共同墓地に足を踏み入れた時から、ただ静かな墓地とは違うものを感じていた。死者の気配というには曖昧で、瘴気というには弱い、落ち着かなさ。眠れていないものが土の下に沈んでいるような感覚。
ロベリアは小さく頷いた。
「感じた。……普通じゃないって」
「なら十分だ」
その言い方は、評価というより確認に近かった。
ロベリアの感覚を、疑うでもなく持ち上げるでもなく、そういうものとして受け取る。セヴランは昔からそうだった。
ふと、ロベリアの視線がセヴランの腰元へ落ちた。
外套の隙間から、見慣れた板状のものが覗いている。
街に来てから何度も見た、ギルドカードだ。
「……それ」
セヴランが視線だけで追い、少しだけ口元を動かした。
「気づくか」
「持ってるの」
「冒険者カードならな」
ロベリアはわずかに目を見開いた。
森にいた頃のセヴランは、もっと街や制度から遠い存在に見えていた。必要なものは知っていても、そこに属する人間ではないと思っていた。
「……意外」
「便利なものは使う」
それだけ言って、セヴランは肩をすくめるでもなく静かに立っている。
「街に長くいるなら、ない方が面倒だ」
たしかにそうかもしれない、とロベリアは思った。
依頼を受けるにも、出入りするにも、何かと札は要る。完全に制度の外に立ち続けるのは、この街ではかえって目立つ。
「お前は」
セヴランの視線がポーチの辺りへ向いた。
「もう白札か」
「……今日、なった」
「そうか」
その一言は短かったが、軽くはなかった。
祝うでもなく、驚きもしない。ただ、そこに至るまでの重みごと受け取ったような響きだった。
「共同地下墓地の緊急依頼も出た」
ロベリアがそう言うと、セヴランはわずかに目を細めた。
「受ける気か」
問いは平坦だった。
止める響きも、試す響きもない。ただ本当に確認しているだけだった。
ロベリアは少し黙った。
怖くないわけではない。地下一層に群れる遺骨、王都から来た聖女、動き出した教会、傭兵まで集めるという規模。大きすぎる話に足を踏み入れようとしていることは分かっている。
それでも。
「……行く」
声に迷いは残っていた。
けれど答えは揺れなかった。
共同墓地で見たものが、胸の奥に残っていた。
荒らされた墓標。倒れた供花台。土の下に沈んだまま、どこか落ち着かない気配。
あの場所にあるものを、見なかったことにはできなかった。
セヴランはその答えを聞き、否定しなかった。
「なら、自分の眼を信じろ」
ロベリアは顔を上げる。
「見えているものだけを見るな。見えないまま滲むものを見落とすな。地下では、形になった敵より、その前にある気配の方が先に命を取る」
精霊眼を持つロベリアへの、短い助言だった。
説明は少ない。けれど、言葉のひとつひとつが重い。
「眠れていないものは、怒りだけで起きるわけじゃない」
セヴランの声は低い。
「苦しみ、歪み、誰かの手。どれかひとつとは限らない」
ロベリアは胸の奥でその言葉を受け止めた。
死者はただの敵ではない。
それは、ずっと前からぼんやりと持っていた感覚でもある。森で失ったものたちを思えば、死をただ切り捨てることはできなかった。
セヴランは一歩、壁際へ下がった。
「また会うだろう。おそらく地下でな」
「……あなたも行くの」
「必要なら」
曖昧だが、行く気はあるのだとわかる答えだった。
「セヴラン」
呼び止めると、男は振り返る。
「……来てくれて、少しだけ安心した」
自分でも思っていなかった言葉が、静かに零れた。
セヴランはしばらく何も言わず、それからごくわずかに目を細めた。
「そうか」
それだけ残し、黒いローブは路地の闇へ溶けるように遠ざかっていく。
足音はほとんどしなかった。最初から夜の一部だったものが、元の場所へ戻っていくように見えた。
ロベリアはしばらくその場に立ち尽くしていた。
アズリスが足元に戻り、静かに鼻先を彼女の裾へ押しつける。
「……うん」
誰に向けたともつかない相槌を打って、ロベリアはようやく宿へ向かった。
◇
翌朝、空は薄曇りだった。
冒険者ギルドへ入ると、いつもより早い時間だというのに、内部はすでに落ち着かないざわめきに満ちていた。掲示板の前には人だかりができ、酒場側の卓でも低い声がいくつも交わされている。
「教会の連中、もう本格的に動くらしい」 「聖女も来てるって話だぞ」 「傭兵まで入れるとか、面倒なことになってきたな」 「一層であの数なら仕方ねえだろ」 「地下なんざ狭えし、数で押されたら終わりだ」
共同地下墓地。
口に出す者も、あえて出さない者もいる。
だが皆、その話をしているのは明らかだった。
ロベリアは人混みの隙間から掲示板を見る。
昨日張り出された緊急依頼票が、今も中央にある。紙一枚のはずなのに、それだけで場の空気を変えてしまう重さがあった。
受付へ向かうと、見覚えのある女性職員がロベリアに気づき、少しだけ表情を引き締めた。
「おはようございます、ロベリアさん」
「……共同地下墓地の依頼を受けたい」
職員は一瞬だけロベリアの顔を見たあと、静かに頷いた。
「正式登録直後ですから、本来なら慎重にと言いたいところです。ですが今回はこちらでもある程度の人数を確保したい状況です」
書類を引き寄せながら、声を落とす。
「無理だと思ったら下がってください。今回ばかりは、意地を張っていい依頼ではありません」
「わかってる」
「参加者への説明は、探索当日の朝に共同墓地で行われます。集合時刻はこちらに」
差し出された紙を受け取る。
そこに記された日時が、これから本当に始まるのだと告げていた。
「……聖女も来るの」
思わずそう問うと、職員は少しだけ言葉を選んだ。
「ええ。王都の教会から派遣されています。詳細はまだこちらにも全部は降りていませんが、浄化役として同行されるはずです」
その一言で、ギルドのざわめきがまた別の意味を持ちはじめる。
冒険者たちの間に混じる興味、警戒、面倒事への嫌悪。聖女は希望の象徴であると同時に、教会という外部の力そのものでもあるのだ。
受理を終えて振り返ると、何人かの冒険者がこちらを見ていた。
白札になったばかりの子どもが、この依頼を受けた。そんな目だ。
「行くのか、白いの」 「やめときゃいいのに」 「いや……あの墓地の最初の報告に関わってたんだろ、あいつ」 「それでも白札だぞ」 「白札だからって、全部震えて隠れてるわけじゃねえさ」
聞こえるが、もう足は止まらない。
視線は冷たいものも、測るものも、少しだけ認めるものも混じっていた。全部、今のロベリアの立ち位置だった。
ギルドを出ると、曇り空の下を風が抜けた。
冷えた空気の向こう、街の中心部――教会のある方角に、いつもより張り詰めた気配がある気がした。
鐘の音が、遠くでひとつ鳴る。
ロベリアは無意識に胸元のブローチへ触れた。
その奥で、アズリスがかすかに身じろぎした気がした。
共同地下墓地。
聖女。
セヴラン。
そして、まだ見ぬ地下の奥底。
白い息をひとつ吐き、ロベリアは静かに目を細めた。
大きな流れが、もうすぐ目の前まで来ている。
そんな予感だけが、冬の街の空気よりも鋭く胸に残っていた。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
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