第十四話 白き祈りの影
翌日から数日のあいだ、ラドルの街は表向きにはいつも通りに動いていた。
朝になれば市場が開き、荷車が石畳を軋ませ、子どもたちが路地を駆けていく。冬の空気は冷たく、吐く息は白い。それでも人々は足を止めず、商人は声を張り、職人は槌を振るい、宿屋は客を迎えていた。
けれど、そのいつも通りの下に、薄く張りつめたものがあった。
共同地下墓地。
その名をあからさまに口にする者は多くない。だが、ギルドに出入りする者も、共同墓地の近くに住む者も、教会へ足を運ぶ者も、皆どこかで同じ不安を共有しているようだった。
夜になると、扉を閉めるのが少し早くなる。
墓地に近い区画では、夕暮れのうちに子どもを家へ戻す親の姿が増えた。
朝、市場で交わされる噂話の端々にも、「王都」「教会」「聖女」といった単語が混じるようになっている。
ロベリアはその空気を、街に漂う音や匂いと同じように受け取っていた。
緊急依頼の集合日までは、まだ少しだけ日がある。
そのあいだも宿にいるだけでは落ち着かず、彼女は軽い雑務依頼や買い足しをこなしながら、街の中を歩く時間を増やしていた。
その日も、補充した包帯と保存食をポーチ型のマジックバッグへ収めたあと、ロベリアは石畳の道をゆっくりと歩いていた。アズリスは今はブローチの中に身を潜めている。人目の多い昼間、むやみに姿を見せない方がいいと、街で過ごすうちに自然と覚えた。
風は冷たかった。
白いローブの裾を揺らしながら進むうち、ふと、ロベリアは足を止める。
鐘の音がした。
澄んでいて、よく通る音。
街の中心部、教会の方角からだ。
ロベリアはそちらへ目を向けた。
特に用があったわけではない。だが、気になった。
先日の夜に感じた張りつめた気配が、今日は少しだけ輪郭を持っているように思えた。
しばらく迷ってから、ロベリアは教会へ続く通りへ足を向ける。
教会前の広場には、普段より人が多かった。
祈りのためというより、見物のために集まっている者が目立つ。露骨に騒ぎ立てる者はいないが、皆どこかそわそわと落ち着かず、視線だけが一点へ集まっていた。
白い外壁を持つ教会の前に、数人の人影が立っている。
ロベリアは通りの端で足を止めた。
最初に目を引いたのは、白に近い淡い色の法衣をまとった女性だった。
年は若い。けれど幼いというより、静かな清らかさが先に立つ。冬の日差しの下に立つ姿は、飾り立てているわけでもないのに、自然と人の目を引いた。
あの人が聖女なのだろう、とロベリアは思う。
「聖女セレスティナ様だ」
広場のどこかで、敬意を含んだ小さな囁きが聞こえた。
ロベリアはその名を胸の内で繰り返す。
セレスティナ。
澄んだ響きだった。冬の冷えた空気の中にも静かに届き、高みにあるだけではない、手の届かぬはずのものが不思議と遠すぎずに在るような名だった。
その瞬間、胸元のブローチがごく微かに熱を帯びたような気がした。
ロベリアの指先が止まる。
「……アズリス?」
声には出さず、心の中で呼ぶ。
返ってくる言葉はない。だが、ブローチの奥で何かが静かに身じろぎした気配があった。
それは警戒というより、反応だった。
聖なるものに触れた時の、澄んだ水面がわずかに揺れるような感覚。
ロベリアは視線を細める。
セレスティナの周囲にある空気は、たしかに澄んでいた。冷たさではなく、清浄さ。けれど押しつけがましくはない。ただ、そこに在るだけで濁りを遠ざけるような静かな明るさがある。
――本物だ。
説明より先に、そんな感覚が胸に落ちた。
精霊眼が捉えるのは輪郭ではない。もっと曖昧で、けれど誤魔化しのきかないものだ。少なくともあの女性は、見かけだけの飾りではない。
セレスティナの左右には、二人の聖騎士が控えていた。
一人は隙のない立ち姿をした男で、もう一人はそれよりいくらか柔らかな印象をしている。どちらも教会の人間らしい整った気配を纏っていたが、遠目に見ただけでは、それ以上のことまでは分からなかった。
セレスティナが教会の司祭らしき人物と言葉を交わし、見物人たちへ軽く一礼する。
その動きは控えめで、誇示するためのものではなかった。だからこそ、広場にいた人々は一層強く彼女を聖女として受け取ったのかもしれない。
「本当に来たんだな」
「王都の聖女さまだろ」
「これで少しは安心か……」
「安心、で済めばいいがな」
小さな囁きがあちこちで交わされる。
希望もあれば、不安もある。聖女の存在は救いの象徴だが、それだけ事態が大きいという証でもあった。
ロベリアは通りの端に立ったまま、その様子を静かに見つめていた。
胸元で、ブローチの奥がもう一度だけかすかに脈打つ。アズリスが、セレスティナの纏う清浄さに反応しているのだと、ロベリアはぼんやりと理解した。
やがて、セレスティナ一行は教会の中へ案内されていった。
重い扉が閉じると、広場の空気が少しだけ緩む。見物人たちもまた、何事もなかったように散り始める。けれど、その足取りは普段より遅かった。
ロベリアはその場に少しだけ残った。
教会の白い壁を見上げる。
澄んだ祈りの気配。それだけで片づけきれない、街全体の張りつめた空気。どちらも確かにそこにあった。
共同地下墓地は、ただギルドの依頼ひとつで終わる話ではないのかもしれない。
そんな考えが、ふと胸をよぎる。
ロベリアは広場を離れ、帰り道をゆっくりと歩き出した。
共同地下墓地の探索当日まで、もう長くはない。
セレスティナが来た。聖騎士も来た。教会も本格的に動き始めた。セヴランもまた、この街の地下にあるものを追っている。
それぞれが別の理由で、同じ場所へ向かおうとしている。
そのことが、ひどく落ち着かなかった。
宿へ戻る道すがら、ロベリアは何度か胸元のブローチへ指先を触れた。
そのたびに、奥で眠るように潜んでいるアズリスの気配が、かすかに返ってくる。
不安を消してくれるわけではない。
けれど、ひとりではないと確かめるには、それで十分だった。
冬の空は白く曇っていた。
陽はまだ高いはずなのに、どこか薄暗い。街の屋根の向こう、共同墓地のある方角を思うと、その曇り空の下で土の底まで冷えているような気がした。
ロベリアは足を止めずに歩き続けた。
まだ何も起きていない。
けれど、何かが起きる前の静けさだけは、もうはっきりと街の中に降りてきていた。
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