第十一話 街に広がる地下の噂
エドガル商会を出た時、昼の光はもう石畳の上へまっすぐ落ちていた。
白い旅装の裾が、歩くたびにかすかに揺れる。新しい布の感触はまだ少しだけ馴染まない。けれど、仮の衣服だった頃よりもずっと身体に沿い、動きに無駄がない。腰のポーチも歩幅を邪魔せず、胸元の青紫のブローチもいつもの位置で静かに冷えていた。
ロベリアは人通りの中を縫うように歩きながら、ギルドの方角へ目を向ける。
共同墓地の件は終わっていない。
昨日の見回りだけで片づくような違和感ではなかった。
あの古い区画の下には、まだ何かがある。
そう思うたび、胸の奥に小さな冷えが残る。
けれど今の自分にできることは限られている。仮登録のままでは受けられる依頼も少ない、ギルドでの言葉の重みもまだ薄い。ならば、まずは仕事をこなすしかない。
いくつか依頼を受けて、宿へ戻る。
それが今日のつもりだった。
◇
冒険者ギルドの扉を押し開けた瞬間、ロベリアは昨日までとは違う空気を感じ取った。
ざわめきはいつもより大きい。だが、ただ騒がしいのではなかった。人の声が散っているようでいて、実際にはひとつの話題へ収束している。落ち着かない興奮と、不安と、野次馬めいた熱が、建物の中へ低く溜まっていた。
酒の匂い。革の匂い。乾いた紙の匂い。
その中に混じるのは、何か大きなことが起きる前の、人のざわつきだった。
中へ一歩入っただけで、いくつかの視線がこちらへ向く。
それはすぐに、昨日までとは違う形でロベリアへ刺さった。
子どもを見る目だけではない。
墓地の件を知っている目だけでもない。
今日はその上に、身につけているものを測る目があった。
「……あれ、昨日の白いのか?」 「服、変わってねえか」 「商会で整えてもらったんだろ」 「仮登録のくせに、ずいぶんまともな格好になったな」
囁き声が、完全には潜まないまま流れる。
ロベリアは足を止めずに進む。
だが視線の種類が増えたのはわかった。
顔を見て、すぐ逸らす者がいる。
白いローブの裾から靴までじろりと見る者がいる。
腰のポーチを見て、軽く眉を動かす者もいた。
装備の質を見ているのだろう。
そして何人かは、胸元の青紫のブローチにまで一瞬だけ視線を走らせた。
「前より“らしく”はなったな」 「逆に何者かわかんねえ感じも増したが」 「ガキにしちゃ浮いてる」 「いや、ぼろ布よりはよっぽど目立たねえだろ」 「……目立ってるさ。別の意味でな」
別の意味。
その言葉が、妙に耳に残った。
ミレナは、弱く見えすぎても駄目だと言った。
エドガルは、侮られすぎず挑発しすぎない形が要ると言った。
たぶん今の自分は、そのちょうど境目に立っている。
子どもにしか見えないのに、ただの子どもとして片づけにくい。
装備が整ったことで、かえって“事情がある”感じが濃くなったのかもしれない。
長机のそばでは三人組の冒険者が低い声で話していた。そのうちのひとり、頬に古傷のある男がロベリアを見て鼻を鳴らす。
「随分といいもん着せてもらってるじゃねえか」 「エドガルの旦那の趣味か?」 「馬鹿言え。あの旦那は見込みがなきゃ金をかけねえよ」
その返しに、周囲の何人かが短く笑った。
完全な嘲りではない。
だが、好意でもない。
装備が変わったことで、今度は“誰が後ろにいるのか”まで見られている。
掲示板の前には、普段より人が多かった。依頼票を見に来ているというより、噂の続きを拾いに来ているような立ち方だ。紙の前に立ちながら耳だけで周囲の話を追っている者もいる。
「だから言っただろ、ただの墓荒らしじゃねえって」 「古い区画の下に階段が見つかったらしいな」 「共同墓地の地下だぞ。そんなの聞いてねえ」 「一層まで降りた連中が戻ってきたんだと」 「で?」 「遺骨が魔物化してた。かなりの数だ」 「かなりってどの程度だよ」 「まともに数えられる状況じゃなかったって話だ」
ロベリアの指先が、無意識にわずかに強ばる。
古い区画の下。
階段。
地下墓地。
昨日、自分が近づくなと言った場所の下に、そんなものが眠っていたのか。胸の奥にあった違和感が、冷たい形を持って戻ってくる。あのざわめきは、やはり地の下へ通じていた。
「一層であれだけいるなら、奥はどれだけ詰まってんだ」 「この街の衛兵と、ここの冒険者だけでどうにかなる数じゃねえだろ」 「狭い地下は最悪だぞ。逃げ道も限られる」 「下手に崩れたら終わりだしな」
話している男たちは、軽口のつもりで言っているのではなかった。皆、仕事として危険を想像している声だった。だからこそ余計に、地下の暗さが現実味を帯びる。
ロベリアは掲示板の下段へ視線を落とす。仮登録向けの依頼は相変わらず少ない。採取、雑務、運搬補助、見回り確認。地味で、危険の浅いものばかりだ。
そのすぐ後ろで、別の声が上がる。
「聞いた話じゃ、ギルドとこの街の領主の依頼で、王都から聖女ご一行が来るらしいぜ」 「本当か?」 「教会まで動くってんなら、相当だな」 「俺、聖女なんて見たことねえんだが」 「お前は何でも見世物扱いするな」 「いや、でも実際どんなもんか気になるだろ」
数人が笑った。けれどその笑いも長くは続かない。聖女という存在は、この街の者にとって遠い。王都の、そのまた向こうにいるようなものだ。その名が出るほど、この件が大きくなっているのだと誰もが感じていた。
ロベリアはフードの影から周囲を見た。
聖女。
教会。
共同墓地の地下。
死者の遺骨が起き上がる場所へ、祈りの側の者たちが来る。
不思議と胸が落ち着かなかった。正しいことのようでいて、うまく噛み合わない何かがある気がする。何が、とはまだ言えない。ただ、森で死の残滓について聞いた時の感覚に少し似ていた。
「ギルドの職員に聞いた話じゃ、近いうちに地下探索の緊急依頼が張り出されるらしいぞ」 「探索って、もう討伐込みだろ」 「白札じゃ足りるか?」 「白だけで済むわけねえ。灰か青が混ざるんじゃないか」 「仮登録や新米を入れてる場合じゃねえな」
その言葉のあと、誰かの視線がロベリアへ滑った。
ひとりではない。
二人、三人。
そしてその視線は、今度は顔だけでなく、新しい旅装ごとロベリアを測っていた。
「……でもあいつ、昨日の件の」 「だからって地下に連れてくのは別だろ」 「格好だけならそれっぽいがな」 「装備が整ってても札は仮だ」 「逆に厄介だな。見た目だけで舐めにくくなってる」
ロベリアは目を伏せる。
足手まとい、とは言われなかった。
けれど、入れる側ではないことは十分に伝わった。
装備が整ったからこそ、なおさら“札とのズレ”が目につくらしい。
悔しさとは少し違う。
自分でもわかっていることを、他人の視線で何度もなぞられる感覚だった。
昨日、共同墓地で異常を見つけた。小型魔物も倒した。けれどそれだけで地下へ降りる資格が与えられるわけではない。ここには制度があり、札があり、信用があり、人の目がある。
受付へ向かう。
並んでいた男が、ロベリアに気づいて半歩だけ退いた。譲ったのか、避けたのか、一瞬ではわからない。だが、前のように「子どもは後ろだ」と言わなかっただけでも、昨日とは違っていた。
受付の女性職員が、ロベリアに気づいて顔を上げる。その視線もまた、今日は少し違う。顔を見て、それからローブ、ポーチ、ブーツへと一度だけ目を走らせた。
「新しい装備、受け取られたのですね」
事務的な口調だったが、まったく無関心ではない響きだった。
「……うん」
「動きやすそうです」
「前よりは」
「それはよかったです」
ほんの短いやり取りだった。だが、それだけで周囲の何人かがこちらを見たのがわかった。受付にそういうふうに言われるだけで、“単なる迷子”よりは一歩先へ進んだように見えるのかもしれない。
「依頼をお探しですか」
「……うん」
「仮登録の方に受けていただける依頼はこちらです」
差し出された依頼票を受け取る。昨日までと同じような紙切れなのに、その向こうにある線引きが今日はずっと重く感じられた。
「地下墓地の件は……」
気づけば、そう聞いていた。
職員は周囲を一度だけ見てから、少し声を落とす。
「詳細はまだ公示前です。ただ、支部内では緊急対応の準備が進んでいます」
「……受けられない?」
「現時点では難しいです」
はっきりした返答だった。慰めるような曖昧さはない。
「危険度が読めません。地下一層の報告だけでも、仮登録の方を入れる話にはなっていません」
ロベリアは黙って頷く。
わかっていた。
それでも、聞かずにはいられなかった。
もし少しでも届く隙間があるならと思ったが、その線はまだ遠いらしい。
職員は依頼票を整えながら、少しだけ言葉を添えた。
「ですが、依頼実績は見ています」
「……見てるの」
「見ています。共同墓地での報告も含めて」
その一言に、胸の奥が静かに揺れた。
見られている。
疑われてもいる。
けれど、何もない者として無視されているわけでもない。
それは居心地の悪いことだった。だが同時に、完全な外側ではなくなりつつある証でもあった。
「いくつか受ける」
「わかりました。内容確認をします」
ロベリアは、街外れの薬草採取、倉庫の荷運び補助、夕方前までの水路確認を選んだ。どれも地味な依頼だ。だが今は、それでいい。こういうものを積み上げることが、仮登録の札の向こうへ手を伸ばす一番確かな道だとわかり始めていた。
依頼票を受け取って背を向けた時、近くの若い冒険者二人組の声が耳へ入った。
「本当に受けるんだな」 「怖いもん知らずってやつか」 「……いや、違うか」 「何が」 「装備だけ整えてもらった子どもって感じじゃねえんだよな」 「じゃあ何だよ」 「なんつうか、黙ってるのに引かねえ感じがする」 「……ああ」 「あと、白いのに妙に冷たく見える」
もうひとりは、それ以上言わなかった。
好意でもない。
敵意でもない。
けれど昨日までの軽い笑いとは違う目だった。
◇
依頼を終えてギルドへ戻る頃には、日が少し傾きはじめていた。
薬草は規定量を揃え、倉庫では黙々と荷を運び、水路では詰まりかけた箇所を報告した。派手さはない。誰かが驚くような成果でもない。だが、こういうものを確実に終えることが、この街では“働ける者”として見られることに繋がるのだと、ロベリアは少しずつ理解しはじめていた。
再びギルドへ入ると、昼の熱は少し落ちていた。けれど地下墓地の噂はまだ消えていない。話題の輪は縮んでも、逆に内容は具体的になっているようだった。
そして今度は、入ってきたロベリアを見る目に、昼とは少し違う色が混ざっていた。
新しい装備を着た仮登録。
墓地の件で名前の出た子ども。
そのうえで、地味な依頼をちゃんと終えて戻ってきた者。
たった半日でも、人の見方は少し変わる。
「戻ってきたな」 「薬草か、水路か」 「派手なことはしてねえみたいだが」 「そういうのをちゃんとやる方が、仮登録には珍しいかもな」
そんな声が、遠くで混ざる。
受付へ向かう途中、昼にこちらを見ていた頬傷の男がまた視線を寄越した。今度は露骨な嘲りはなかった。ただ測るような目で、ロベリアの装備と足取りと、報告へ向かう姿を見ている。
受付の女性職員は提出物を確認し、小さく頷いた。
「問題ありません。達成扱いにします」
「……ありがとう」
「こちらこそ。丁寧な報告は助かります」
短い言葉だった。けれど、以前よりほんの少しだけ対等に近い響きがあった。
報酬を受け取り、札をしまう。大金ではない。だが、自分の手で稼ぎ、自分の足場へ変えていく感覚は、森で生きるのとはまた違う重みがあった。
掲示板の方を見る。
いずれあそこに、地下探索の依頼が張り出される。
その時、自分はまだ外側にいるのか。
それとも、少しは届く位置に立てているのか。
胸元の奥で、アズリスの気配が静かに揺れる。
不安と、それでも進めと言うような、やわらかなぬくもり。
ロベリアはそっとブローチを押さえた。
「……行こう」
それは誰に向けた言葉だったのか、自分でもよくわからなかった。
宿へ戻るために歩き出しながら、その胸の奥には、共同地下墓地の暗がりへ続く見えない階段が、もう静かに伸び始めていた。
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