第十話 白い旅装
朝の光は、まだやわらかかった。
宿の小窓から差し込む薄い光が、部屋の輪郭を静かに浮かび上がらせている。遠くからは荷車の軋み、階下からは食器の触れ合う音が聞こえた。森の朝とは違う。けれど今では、その違いのひとつひとつを、ただ怖いだけではなく受け取れるようになりつつあった。
ロベリアは寝台の上で身を起こし、胸元へ手をやる。
青紫の宝石のブローチは朝の光を受けて静かに冷えている。その奥から、白銀の小さな気配が微かに揺れた。
「……おはよう、アズリス」
囁くと、やわらかな感情が胸へ返る。
宿の部屋の中なら外へ出してもいい。けれどロベリアは、すぐにはそうしなかった。今日は商会へ行く。人目のある往復になる。出して、また戻ってもらうより、このままの方が落ち着く気がした。
珍しいものは隠せ。
守るために隠せ
守りたければなおさらだ。
森の小屋にいた頃、黒衣の死霊術師に告げられた言葉が、いまも時折こうして蘇る。
寝台の脇にはマジックバッグのポーチが置かれている。ラドルへ来てから手に入れたものの中で、一番“街で生きるための道具”らしい品だった。森で火を起こし、水を汲み、何とか暮らしを形にしていた頃とは違う種類の備え。だが、あの頃の生活が無駄になったとは思わない。布を洗い、乾かし、使えるものを長く使う感覚は、いまも自分の中に残っている。
ふと、共同墓地のことが胸をよぎった。
供花の散らばった墓地。
崩れた古い区画。
土の下で落ち着きを失っていた死のあと。
そして、小型魔物の濁った目。
あれは終わっていない。
ギルドもたぶん、もう軽い見回りの話では済ませないだろう。
仮登録の自分がどこまで関われるのかはわからない。だが、まったく無関係でいられる気もまたしなかった。
「……服」
思い出したのは、商会で採寸された日のことだった。
ミレナは数日で仕立てると言っていた。ちょうど今日あたりなら、受け取りに行けるかもしれない。仮登録のままでは受けられる依頼も限られる。だからこそ、見た目まで含めて“雑に扱われすぎない形”を持つことには意味があるのだと、あの日のギルドで少し学んだ。
ロベリアは立ち上がり、身支度を整える。顔を洗い、髪を手早くまとめ、仮の白いローブを羽織る。鏡の中の自分はまだ借り物めいていた。
ブローチへ触れる。
「……行こう」
アズリスの気配が静かに石の奥へ沈む。あの子が初めて青紫の光に溶けるようにブローチへ入り、また何事もなかったように戻ってきた夜のことを、ロベリアは今でも鮮明に覚えている。母の形見が、こうして守るための器になるとは、あの頃は思ってもみなかった。
◇
階下では宿の主人が朝の食事を用意していた。
「今日はまた早いね」
「……少し、用事があって」
「ギルドかい?」
「商会に」
「なるほど。じゃあその前に腹へ入れときな」
差し出された粥から湯気が立つ。温かいものを口に運ぶと、身体の奥にじわりと熱が広がった。寒さには耐えられる。だが、温かさがあると心まで少しほどける。その感覚は森の小屋にいた頃から変わらない。
「昨日、ギルドで少し噂になってたよ」
宿の主人が何気ない調子で言う。
「白いローブの子が墓地で何かやったとか」
ロベリアの手が一瞬だけ止まる。
「……噂」
「街ってのは早いからね。もっとも、大半は半分くらい盛られてる」
困ったように笑う顔に悪意はない。ただ、ここでは何かひとつ行えば、それがすぐ他人の口へ乗るのだと改めて知らされた。
階級が高くなれば、もっとそうなるのだろうか。
人に見られ、噂になり、勝手に意味を与えられる。
まだ仮登録の自分でさえこうなのだから、先のことは少し想像するだけでも息苦しい。
食事を終え、外へ出る。
ラドルの朝はすでに動き出していた。店を開ける者、荷を運ぶ者、通りを急ぐ者。視線がまったくないわけではない。だが以前より、自分がそれに怯えすぎなくなっていることにも気づく。
ギルドで仮登録の子どもとして見られたこと。
共同墓地から戻ったあと、半信半疑の目を向けられたこと。
それらが少しずつ、“街の中で見られる”ことへの耐性になっているのかもしれなかった。
◇
エドガル商会の扉を押すと、乾いた木と革の匂いが迎えた。
「おや」
帳場の向こうで帳簿を見ていたエドガルが顔を上げる。口髭の奥へ笑みが浮かんだ。
「これはこれは、ロベリア殿。ちょうど良い頃合いですな」
「……できてる?」
「ええ、正式な旅装が仕上がっておりますとも。墓地の件で少し気を揉みましたが、ひとまずはご無事で何より」
ロベリアは少し目を瞬いた。
「……知ってるの」
「街の噂は商人にも届きます。特に、仮登録の子どもがギルドの想定より働いたとなればなおさら」
その言い方に責める色はない。だが、“すでに見られ始めている”という現実だけは含まれていた。
「ミレナ、例の品を」
「はい」
ほどなくしてミレナが現れ、丁寧に包まれた衣装一式を抱えてくる。
「こちらへ」
別室に通され、包みが開かれた。
最初に現れたのは、白を基調とした旅用ローブだった。
真っ白ではない。雪に灰をわずかに溶かしたような、落ち着いた白。裾は長すぎず、動きを妨げない。布は軽いが、冬の街風を和らげるだけの厚みがある。
フードは深めに作られていた。
被れば顔立ちを自然に影へ落とせる。あからさまな不審さではなく、街で生きる者としての慎ましい隠し方。仮登録の子どもが必要以上に目立たぬよう、それでいて弱く見えすぎぬよう、境目を狙った形だとわかった。
次に白灰色のブラウス。飾りは少なく、静かな印象。続いて前腕を守るアームカバー、足首を支える旅用ブーツ、マジックバッグを安定させる補助ベルト。
「腕を上げてください」
ミレナの言葉に従う。
「魔術を使うなら、袖口ともたつくのは邪魔です」
「……わかるの」
「見れば」
短い返答だった。だが、共同墓地の件が耳に入っているなら、ある程度察していても不思議ではない。
ロベリアはひとつずつ身につけていく。布はやわらかい。だがただ柔らかいだけではなく、動くための余白がある。腕を上げても突っぱらず、腰をひねっても引っかからない。歩くため、走るため、そしてもしもの時には戦うための服だった。
最後にローブを羽織り、胸元へ青紫のブローチを留める。
白の中に、その色だけが静かに深い。
ミレナは一歩引いて全体を見る。
「……ええ。これならいいでしょう」
鏡の前に立つ。
白いローブ。
白灰の衣。
深いフード。
腰のポーチ。
胸元の青紫。
その奥に眠るアズリスの気配。
前と同じようでいて、もう少しだけ輪郭のある姿だった。
森の小屋で暮らしていた頃の自分とも、街へ入ったばかりの借り物じみた自分とも違う。
まだ子どもに見える。だが、ただ保護されるだけの存在にも見えない。
「隠したいなら、隠し方にも整え方があります」
ミレナが鏡越しに言う。
「仮登録のうちは特に。弱く見えすぎれば押されますし、異様すぎても覚えられる。今くらいがちょうどいいでしょう」
ロベリアは小さく頷いた。
階級は札だけで決まるものではない。
だが人は札と見た目の両方で相手を測る。
ギルドで向けられた視線を思えば、そのことはもう少しだけわかる。
◇
部屋を出ると、帳場で待っていたエドガルが目を細めた。
「おお、これはなかなか。白い印象は残しつつ、ずいぶん見違えましたな」
「……変?」
「いいえ。むしろ今後のためにちょうど良い」
エドガルは指を組む。
「仮登録のうちは、ロベリア殿はまだ“信用の傘の下にいる子ども”です。ですが、墓地の件のように少しずつ仕事をこなせば、そのうち札以上に見られ始める」
「札以上に」
「ええ。そうなると、今度は別の目が増えます。期待、警戒、嫉妬、値踏み。街でも、他の冒険者でも、商人でも」
ロベリアは黙って聞く。
それは少し息苦しい未来にも思えた。
「見た目を整えるのは洒落のためではありません。侮られすぎず、挑発しすぎず、余計な口実を与えないためです」
森の中で出会った黒衣の男は“隠すこと”を教えた。
エドガルとミレナは“見せ方”を教えている。
どちらも外で生きるための知恵なのだろう。
「……ありがとう」
ロベリアが言うと、エドガルは肩をすくめる。
「礼なら、無事に実り続けてくださればそれで結構。私としても、指名する価値のある相手には育っていただきたい」
「……指名」
「今すぐではありませんよ」
口元に商人らしい笑みが浮かぶ。
「ただ、護衛でも何でも、いずれ“誰に任せるか”が重みを持つ場面は来ます。階級が上がればなおさらです」
その言葉は軽く投げられたようでいて、妙に胸に残った。
階級が上がれば、人の見方が変わる。
依頼の幅だけではなく、任されるもの、背負わされるもの、噂の広がり方まで変わる。
まだ遠い話のようで、もう始まりかけている話でもあった。
商会を出る前、ミレナが小さな包みを差し出す。
「予備の紐と、簡単な補修道具です。旅装は使えば傷みます」
「……補修、する」
「その方がいいです。長く使うならなおさら」
包みをポーチへしまう。森の小屋で洗った衣類を火のそばで乾かしていた頃の自分が、少しだけ今へ繋がった気がした。
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