境界の向こうで、眠らないもの
朝だった。
迷宮の圧も、戦場の緊張もない。
窓の外には、いつもの通りの空が広がっている。
ノーリトリートの事務所は、
久しぶりに平和すぎる静けさに包まれていた。
「……静かすぎて逆に怖ぇな」
ミリアが、椅子を前後に揺らしながら呟く。
「戦闘がないと落ち着かないの、
それ完全に職業病だよ」
カイラが、書類をまとめながら言う。
「いや、違う」
エルドが、窓の外を見たまま口を開く。
「“静か”なんじゃない」
「“終わった”だけだ」
その言葉に、
誰も反論しなかった。
深層迷宮。
境界維持者。
第一位相。
確かに、終わった。
「……で」
ミリアが、ふと思い出したように振り返る。
「そうこうの連中、
ほんとに隣に事務所建てやがったな」
「正確には“拠点”」
ノウンが、淡々と訂正する。
「構造・防御・権限。
王国正式認可付き」
「嫌味かよ」
ミリアが鼻を鳴らす。
「嫌味だ」
ノウンは即答した。
エルフィナは、
キッチンからお茶を運びながら、
少しだけ視線を落とす。
「……でも……」
「戦い方は……」
「嫌いじゃ、なかった……」
その言葉に、
リュカが小さく頷く。
「判断が、速い」
「切るべきものを、迷わず切る」
「……レインとは、真逆だ」
その名前が出て。
自然と、
全員の視線が、奥の部屋へ向く。
扉の向こう。
静かな呼吸。
まだ完全回復ではないが、
確かに――生きている。
「……起きてからが本番だな」
エルドが、低く言う。
「迷宮は終わったが、
話は終わってない」
「むしろ」
カイラが続ける。
「ここからが、
“能力の本当の検証”」
そのとき。
誰もいないはずの玄関先で、
小さな気配が動いた。
ノウンが、即座に反応する。
「……来客」
「え?」
ミリアが立ち上がりかけた瞬間――
「やれやれ」
老人の声。
「相変わらず、
騒がしい事務所じゃのぉ」
次の瞬間。
そこに立っていたのは、
いつものように、
杖をついた老人だった。
ジル爺。
「……あ」
ミリアが、間の抜けた声を出す。
「また勝手に入ってきやがった」
「鍵?
そんなもん、飾りじゃろ」
ジル爺は、呵呵と笑う。
そして、
奥の部屋――
レインのいる方向を、じっと見た。
「……ふむ」
「まだ眠っとるか」
「だが――」
一歩、前に出る。
「完全に“戻った”わけではない」
その言葉に、
空気が、わずかに引き締まる。
「心配するな」
ジル爺は、すぐに続けた。
「死にゃあせん」
「じゃが――」
杖で、床を軽く叩く。
「お前さんの能力はな」
「“終点”が、
まだ見えとらん」
誰に向けた言葉かは、
分からない。
だが、確かに――
レインに向けられていた。
「境界を越え、
裁定を拒み、
なお理解し続ける力」
「そんなもん、
世界が放っとくわけがない」
ジル爺は、
ゆっくりと踵を返す。
「準備せい」
「次は――
迷宮の外が、動く」
そう言い残し。
老人は、
来た時と同じように、
音もなく消えた。
沈黙。
「……なぁ」
ミリアが、ぽつりと言う。
「俺たち、
また巻き込まれるよな?」
ノウンが、淡々と答えた。
「既に、巻き込まれている」
そのとき。
奥の部屋から、
小さな物音。
――ごそ。
誰かが、寝返りを打った音。
「……あ」
エルフィナが、はっと顔を上げる。
「……動いた……」
戦いは、終わった。
だが。
物語は、
確実に――次の段階へ進んでいた。
――静かだった。
落ちている感覚も、
浮いている感覚もない。
ただ、
在る。
レインは、
自分が「眠っている」ことを理解していた。
だが同時に、
それが普通の眠りではないことも、
はっきり分かっていた。
(……ここは……)
答えは、ない。
景色はない。
音もない。
時間の流れさえ、曖昧だ。
けれど――
意味だけが、漂っている。
選ばれなかった未来。
切られた判断。
拒否された可能性。
それらはもう、
痛みとしては存在しない。
代わりに、
「知ってしまった事実」として、
静かに沈殿している。
(……まだ……)
(……全部、引き受けようとしてる……)
自嘲に近い感覚。
それでも、
もう以前ほどの圧はなかった。
中心が、
一人分ではなくなったからだ。
(……一人で、立たない……)
その言葉が、
ここでも反響する。
誰かの声ではない。
自分自身が、
ようやく自分に許した選択だった。
そのとき。
遠くで、
波紋が広がる。
言葉ではない。
音でもない。
だが、
はっきりと「外側」からの干渉だと分かる。
(……来てる……)
まず、
硬い感情。
守るという決意。
前に立つ覚悟。
(……エルド……)
次に、
鋭い焦燥。
苛立ちと、不器用な優しさ。
(……ミリア……)
柔らかく、
でも必死な想い。
壊れないように、
包み込もうとする意志。
(……エルフィナ……)
淡々とした観測。
だが、
一度も目を逸らさない視線。
(……ノウン……)
最適解を捨てた違和感。
計算を遅らせる痛み。
(……カイラ……リュカ……)
そして――
剣を構える気配。
静かで、
だが迷いのない「切る」という意志。
(……蒼衡……)
そこに、
さらに一つ。
異質で、
場違いで、
なのに圧倒的な存在感。
(……あぁ……)
(……あの爺さんか……)
声は、直接は届かない。
だが、
確信だけが流れ込む。
――まだ先がある
――だが今は、戻れ
――次は、もっと面倒じゃぞ
(……勝手だな……)
苦笑する。
それでも――
不思議と、安心していた。
「守られている」からではない。
「戻る場所がある」と、
分かったからだ。
境界の向こうで、
誰かが名を呼ぶ。
一人ではない。
重なっている。
うるさくて、
不器用で、
どうしようもなく現実的な声たち。
(……仕方ない……)
(……行くか……)
意識が、
ゆっくりと浮上する。
重さが戻る。
呼吸が、深くなる。
最後に、
一つだけ、はっきりと思う。
(……次は……)
(……ちゃんと、頼る……)
世界が、
光を取り戻す直前。
その瞬間――
レインは、確かに笑った。
「――っ、くしゅん!」
唐突に、くしゃみ。
それが合図だった。
「……あ?」
レインは、間の抜けた声を出した。
天井が見える。
見慣れた木目。
見慣れすぎているほどの、事務所の天井。
「……寒……」
次の瞬間。
「起きた!!」
「完全に起きた!!」
ミリアの声が、ほぼ悲鳴に近い勢いで飛んだ。
「レイン!!」
「生きてるか!?」
「分かるか!? 三本指見えるか!?」
「ちょ、近……!」
視界が、一気に塞がれる。
「……ミリア……」
「近い……」
「離れろ……」
「はぁ!?
起きて第一声がそれか!?」
ミリアが、額に青筋を立てる。
「どんだけ心配させたと思ってんだよ!!」
その横から、
そっと、でも確実に割り込んでくる影。
「……レイン……」
エルフィナだった。
涙で赤くなった目で、
けれど、ちゃんと笑おうとしている。
「……ほんとに……」
「……戻ってきた……」
次の瞬間。
ぎゅっ。
「……おい」
ミリアが即反応する。
「抱きつくな!」
「……私の方が……
先に来てた……」
「それ今言うことか!?」
「今だからです……!」
二人に挟まれて、
レインは完全に身動きが取れなくなる。
「……ちょ……」
「……呼吸……」
ノウンが、ドアの横から淡々と告げた。
「酸素量、危険域」
「このままでは、
蘇生直後に再昏睡の可能性」
「やめろ縁起でもねぇ!」
カイラが、額を押さえながら言う。
「……まったく……」
「目覚めて五分で修羅場とか、
想定外すぎる……」
エルドは、腕を組んで一言。
「……元気そうで何よりだ」
その言葉に、
レインはようやく、状況を理解し始めた。
「……ああ……」
「……戻ったんだな……」
ミリアとエルフィナが、
一瞬だけ、動きを止める。
そして――
ほぼ同時に、顔を逸らした。
「……当たり前だ」
「……戻らなきゃ……
許さない……」
レインは、少し困ったように笑った。
「……悪かった……」
「……でも……」
一拍。
「……次は……」
「一人じゃやらない」
その言葉に、
二人が同時に顔を向ける。
「……ほんとだな?」
「……約束……」
「破ったら?」
「……殴る」
「……泣きます」
「両方かよ……」
部屋に、笑いが戻る。
重たかった空気が、
少しずつ、ほどけていく。
そのとき。
窓の外から、
見慣れない影がちらりと見えた。
立派すぎる建物。
隣に建った、もう一つの事務所。
「……なぁ」
レインが、外を見て言う。
「……あれ……」
「何だ……?」
全員が、一斉に視線を向ける。
「……隣……
増えてないか……?」
ミリアが、にやりと笑った。
「気づいたか」
「お前が寝てる間に、
厄介な隣人が越してきた」
エルフィナが、小さく頷く。
「……うるさいです……」
ノウンが、淡々と締める。
「境界は、
まだ消えていない」
「ただ――」
「越えるか、斬るかの違いが、
隣に来ただけだ」
レインは、
窓の外を見つめながら、息を吐いた。
「……面倒そうだな……」
だが。
その顔に、
恐れはなかった。
「……でも……」
「戻る場所があるなら……」
「……何とかなるか……」
事務所には、
今日も騒がしさが満ちている。
境界の向こうでは、
次の物語が、確実に動き始めていた。
――非裁定は、
今日も、前線に立つ。
裁かず、
選ばず、
それでも。
立ち続けるために。
続きが気になったら良ければブックマークでも…!評価ポイントもお忘れなく!




