甘い魔力と、帝国の綻び
帝都・中枢区画。
白い石畳と整然と並ぶ行政塔の合間に、夕暮れの影が落ちていた。
騒がしさはない。
だが――どこか、緩んでいる。
規制緩和後の帝国は、表向きは「自由」を得た。
だがその自由が、どこへ流れ込んでいるのかを、正確に把握している者は少ない。
「……最近の帝国は」
静かな執務室で、低く切り出したのは
帝国英雄 グラディウス=フェルツ だった。
重厚な机の向こう側。
《非裁定》の面々は、壁に背を預けたり、椅子に腰掛けたりと、いつも通りの距離感で話を聞いている。
「良くも悪くも、規制が緩んだ」
グラディウスは資料を一枚、机の上に置いた。
封印印のない、簡素な報告書。
「その隙を突いて流行り始めたものがある」
ミリアが、眉を上げる。
「……嫌な予感しかしないんだけど」
「魔道麻薬だ」
即答だった。
室内の空気が、わずかに締まる。
「摂取すると、一時的に魔力が増幅する」
「訓練なしでも、魔法が“使えた気になる”」
「代償は、後から来る」
グラディウスの声には、感情がない。
だがそれが、事態の深刻さを逆に強調していた。
「流通経路は不明」
「末端は掴めるが、元が見えない」
「強引に締めれば、地下に潜る」
レインが、静かに口を開く。
「……だから、囮か」
「そうだ」
グラディウスは頷いた。
「帝国英雄が動けば、相手は引く」
「だが、引かれたら掴めない」
視線が、まっすぐレインを射抜く。
「君たちが適任だ」
「非公式で」
「規制の外側で」
「“選択肢を壊す”やり方で」
ミリアが、鼻で笑った。
「また面倒なの持ってきたね」
「承知の上だ」
グラディウスは一切動じない。
「詳しい進捗は、情報屋が握っている」
「名前はまだ伏せる」
「まずは接触しろ」
「……信用していいの?」
ミリアの問いに、グラディウスは一瞬だけ間を置いた。
「信用はしていない」
「だろうね」
ミリアは肩をすくめた。
レインは立ち上がる。
断る理由は、最初からなかった。
「魔道麻薬の流通」
「元の不明な供給源」
「規制緩和の影」
そして――
帝国英雄が、あえて外部に投げてきた案件。
(……きな臭い)
だが、だからこそ。
「分かった」
レインは短く答える。
「情報屋に会おう」
その瞬間、グラディウスは僅かに目を細めた。
「一つだけ忠告しておく」
「この件――」
「帝国英雄が、
“関係していない”とは限らない」
ミリアが、ぴたりと動きを止める。
「……は?」
だがグラディウスは、それ以上何も言わなかった。
沈黙。
帝都の外では、夜が静かに降り始めていた。
甘い魔力は、すでに街のどこかで息をしている。
それが――
誰の手で、誰のために流されているのか。
《非裁定》は、まだ知らない。
だがこの時点で、
帝国という国そのものが、試され始めていた。
帝都・下層区画。
灯りの色が、明らかに違う。
中枢区画の白光とは違い、ここにあるのは黄ばんだ魔導灯。
人通りはあるが、視線が合わない。
歩いているのに、誰も“そこにいない”ような感覚。
「……ほんとに流行ってるの?」
ミリアが、低く呟いた。
「静かすぎない?」
「流行ってるからだろ」
エルドが答える。
「騒ぐ必要がないほど、
“日常に溶けてる”ってことだ」
レインは何も言わず、周囲を見ていた。
魔力の流れ。
空気に混じる、微かな甘さ。
(……あるな)
香りと呼ぶには薄すぎる。
だが、魔力感知に引っかかる。
「ここ三ヶ月で、
魔力暴走の事故が増えてる」
リュカが、記録を思い出すように言った。
「全部“偶発”扱いだけど……」
「偶発が続くと、
それはもう事故じゃないわね」
ミリアが、乾いた笑いを浮かべる。
目的の場所は、酒場だった。
だが看板は出ていない。
ただ、扉の前に立つと――
中から、わずかに魔力が漏れている。
「ここ?」
「ここだ」
リュカが頷く。
扉を開けると、
中は驚くほど普通だった。
笑い声。
酒の匂い。
疲れた労働者と、場慣れした店主。
だが、奥の席だけが違う。
声がない。
視線が動かない。
そこに座っていたのが、情報屋だった。
年齢不詳。
性別も曖昧。
ただ――目だけが、異様に冴えている。
「……非裁定」
名前を呼ばれ、ミリアが眉を上げる。
「名乗ってないけど?」
「名乗る必要がない相手だ」
情報屋は、淡々と続けた。
「帝国英雄から話は来ている」
「魔道麻薬の件だろう」
レインが、正面に立つ。
「流通元を知ってる?」
「“元”は知らない」
即答。
「だが、
“流す役”なら何人か知っている」
ミリアが椅子を引いて座る。
「取引条件は?」
「情報は売る」
「対価は?」
情報屋は、少しだけ間を置いた。
「……安全だ」
「誰の?」
「俺の」
空気が、一段冷えた。
「守ってほしい?」
ミリアが首を傾げる。
「それとも、
もう狙われてる?」
情報屋は、答えなかった。
代わりに、低い声で言う。
「売人は、今夜動く」
「場所も、時間も分かっている」
「随分親切ね」
「親切じゃない」
情報屋は、レインを見る。
「“捕まるべきもの”が、
捕まるかどうかの問題だ」
その言葉に、リュカが小さく息を吸った。
(……変だ)
情報は的確すぎる。
だが、感情がなさすぎる。
まるで――
結末が決まっている物語を、
読み上げているみたいだ。
「分かった」
レインは短く言った。
「動こう」
情報屋は、初めて視線を伏せた。
「……忠告しておく」
「魔道麻薬は、
使った時点で“選択肢を失う”」
「強くなった気になるほど、
戻れなくなる」
ミリアが、立ち上がる。
「じゃあ、
使ってるやつは全員被害者?」
「……さあな」
情報屋の声が、僅かに揺れた。
「被害者か、
加害者か」
「それを決めるのは――」
視線が、一瞬だけ《非裁定》をかすめる。
「お前たちだ」
酒場を出ると、夜風が冷たい。
「……なんかさ」
ミリアが、歩きながら言った。
「あの情報屋、
信用できないっていうより――」
「覚悟してる感じがした」
エルドが、言葉を継いだ。
レインは、足を止めずに答える。
「覚悟してる奴ほど、
嘘は少ない」
「でも――」
ミリアが、拳を握る。
「真ん中を、
隠す」
誰も否定しなかった。
今夜、売人を捕まえる。
だが、それはまだ入口だ。
魔道麻薬。
規制緩和。
情報屋。
そして――
帝国英雄の、含みのある忠告。
夜は、まだ始まったばかりだった。
張り込み場所は、帝都下層区画のさらに外れ。
倉庫街と呼ぶには寂れすぎていて、
住宅地と呼ぶには無秩序すぎる。
魔導灯は、二つに一つが壊れている。
影の方が多い場所だった。
「……来ないわね」
ミリアが、壁にもたれたまま言う。
「時間は合ってる」
リュカが、懐中時計を閉じる。
「情報屋の言った通りなら、
あと十分以内に動きがある」
「“言った通りなら”ね」
エルドが低く返す。
「そこが一番信用ならねぇ」
リュカは、少し離れた屋根の上にいた。
視界を広げ、街全体を見下ろしている。
(……静かすぎる)
人はいる。
だが、流れがない。
魔力の脈動が、一定すぎる。
まるで、
街そのものが息を潜めている。
(偶然じゃない)
足音。
一人の男が、路地を抜けてくる。
外套を深く被り、歩き方は落ち着いている。
「……来た」
ミリアが小声で言った。
「一人?」
「いや」
リュカが、別方向を見る。
「周囲に、三。
見張りだ」
動きは洗練されていない。
だが、素人でもない。
(売人にしては、
統率が取れすぎてる)
レインは、屋根から降りずに観察を続けた。
男が、倉庫の裏口に近づく。
鍵を使う様子はない。
指先で、軽く壁を叩いた。
――二回、間を置いて一回。
内側から、同じリズムで返事。
「……合図?」
ミリアが、嫌そうな顔をする。
「テンプレすぎない?」
「テンプレは、
使われ続けるからテンプレになる」
エルドが答える。
倉庫の中に、男が入る。
外で見張る三人が、周囲を警戒する。
レインは、少しだけ魔力を動かした。
探る。
流れる。
――そして、引っかかる。
(……甘い)
魔道麻薬の魔力反応。
だが、濃度が低い。
(保管用じゃない)
(……“見せる用”だ)
「レイン?」
ミリアが、気配で察した。
「中、変?」
「罠じゃない」
レインは、静かに言う。
「……舞台だ」
「舞台?」
「誰かに“捕まえさせる”ための」
沈黙。
リュカが、ゆっくり息を吐く。
「……それでも、
行くしかないね」
「うん」
ミリアが、杖を軽く握る。
「見過ごしたら、
それこそ“共犯”だし」
合図は、視線だけ。
同時に動く。
見張りの一人が、何かに気づく前に倒れた。
意識を刈り取るだけの、最小限。
残り二人も、抵抗する暇はない。
倉庫の中――
男が、振り返った。
「……来たか」
驚きは、ない。
「逃げないの?」
ミリアが問いかける。
男は、笑った。
「逃げ道は、
最初から用意されてない」
床に落ちている小瓶。
割れた箱。
魔道麻薬だ。
「誰から仕入れた?」
レインが聞く。
男は、肩をすくめた。
「……言えると思うか?」
「言えなきゃ、
ここで終わる」
「それも、
最初から決まってた」
その言葉に、ミリアが一歩踏み出す。
「ねえ」
声が、怒りを含む。
「あなた、
誰かの“駒”でしょ」
男は、初めて目を伏せた。
「……家族がいる」
短い言葉。
「だから?」
ミリアが、歯を食いしばる。
「だから、
誰かを壊していい?」
「……」
答えは、なかった。
その瞬間――
男の体から、魔力が膨れ上がる。
「――っ!」
リュカが叫ぶ。
「自分で、打った!」
魔道麻薬。
即効型。
男の身体が、歪む。
骨が鳴る。
魔力が暴走する。
「……クソ!」
ミリアが、前に出ようとした瞬間。
「待て」
レインの声が、低く止めた。
「まだだ」
「でも――!」
「見ろ」
男の顔は、もう人間じゃない。
だが、
完全な魔物化には至っていない。
中途半端。
無理をした証拠。
「……使い捨てだ」
エルドが、吐き捨てる。
「完全に」
男は、震える声で笑った。
「……ほらな」
「結局、
こうなる」
「……情報屋は?」
レインが、最後に聞いた。
男は、歪んだ口で答えた。
「……あいつも、
同じだ」
「逃げられねぇ」
次の瞬間、
男の身体が限界を迎えた。
崩れる。
萎む。
急激な老化。
数秒で、
“生き物”ではなくなった。
倉庫に残ったのは、
壊れた小瓶と、重たい沈黙。
ミリアが、拳を握りしめる。
「……許せない」
リュカは、静かに言った。
「始まったな」
魔道麻薬。
情報屋。
舞台を組んだ“誰か”。
この夜は、
まだ一段目に過ぎない。




