四十三~四十七
四十三
あしたという日はないんだよ。
今生きてるのが精いっぱいというか、そういう気持ちだね。たった今がおれの人生なんだと思うしかなかった。ふるさとの野山、家族、許嫁、出征前の楽しかった日々……そうしたものはぜんぶ記憶っていうか、絵空事なんだね。みんな、消えてしまった。目の前にあるのは、息苦しいくらいの夜のジャングルさ。そこを崖沿いに進まないといけないから、ひやひやものだったよ。
闇といっても真っ暗じゃないんだ。満月だったからね。隣にいるコースケやボンタの顔も着てる軍服もはっきりわかった。そのぶん、あいつらが近くにいるのもわかった。
象たちさ。
ありゃ、野生だね。十頭か二十頭はおったよ。警戒しながら見張るようにしてついてくる。かと思うと、先導するように前を進んでいる。そうやって山を一つ越えて、こんどは急な斜面を下っていった。体のあちこちが悲鳴をあげていて、三人とも発熱していたから息も絶え絶えさ。それに喉が異様に渇く。けどね、戦闘の緊張感、敵と殺し合う恐怖、つぎの瞬間には死んでるんじゃないかって不安感、そういうのとはちがう感覚なんだよ。言うなれば、自分たちにはどうすることもできずに身をゆだねる。そういう境地だったね。
四十四
物乞いの女は、スマホを握りしめるサンジェイとその隣で息をのむぼくの間に割って入ってきた。そして突如、肩の高さが五十センチ近く上がった。
男たちとおなじ言語が放たれる。男の声で。それをヒロミが抑揚のない声音で訳す。
「ゼウスのほうから侵入したとはな。古城さんがアクセスしてきたとばかり思っていたのに」
いっせいに銃が向けられる。
「誰だ、きさま」
ニキルがすごみ、きりりと冷えこんだ夜気がさらに張り詰める。焚火は氷の炎を噴きあげているかのようだった。シンギュラリティを超えたところで所詮、機械は機械にすぎない。突然の緊迫感に思考は半分停止したが、一方で腹を抱えて笑いだしたい気分でもあった。バラナシであっさりターゲットに逃げられたCIAの男は、あらゆる監視カメラを掌握する人工知能の目をまんまとごまかすことに成功したのだ。
女装することで。そしてひざと腰を極端に曲げ、体を老婆のように小さく見せるという役者さながらの芸当まで披露していた。
「合衆国政府関連施設への不正アクセスを調査している。ここにいる日本人の男性をここ何日か捜していてね。ただ、いままでの話が本当なら、古城さんはとんだ災難に見舞われたことになる。まあ、もっと早く自己申告してくるべきだったんだろうがね。そうすれば無駄な税金が投じられることもなかった。すくなくともバラナシで遁走したのはいただけなかったな」
「本当なのか」ニキルがぼくに訊ねる。「こいつの言ってることは」
正直に答えるほかない。「スマホの向こうにアマラと看護師のサナエさんがいて、その間を通訳でつないでくれている存在、それが人工知能だってことはまちがいないみたいだよ。CIAが開発したものらしい。ゼウス。ぼくの前では“ヒロミ”だけど」
「シヴァさ。わたしはそう呼んでいる。インドの最高神の一人さ。残念ながらわたしには、あなたがたが快く思っていないインド人の血が流れているんでね。全知全能の存在を呼ぶなら地に足の着いた呼称のほうがふさわしいだろ。ただ、見た目ではわからないと思うが――」
ダニーは頭を覆うスカーフを外し、素顔をさらした。念には念を入れた女装でひげはもちろん剃ってあるし、口紅とアイシャドウまで施してある。しかもだ――。
鼻と目元をかきむしりだした。顔の皮膚がまるで餅のように伸びてはちぎれていく。シリコン状の特殊メイクを施し、目鼻立ちを変えていたらしい。顔認証システムをかいくぐるための方策だ。素顔は典型的なインド人より鼻が低く、丸みを帯びていた。
「わたしの体の四分の三には日本人の血が流れている。祖母と母親が日本人なんだ」マツ族が戦時中から日本人と友好関係にあったことを言いたいらしい。正体を明かしたいま、ダニーも勝負をかけているのだ。だから伝えるべきことを伝えてきた。「とはいえスマホの向こうにいる彼女が合衆国の資産にハッキングを試みたのが事実なら、これはかなりの問題だ」 テロという言葉をいまこの場で使うのは得策でないと、銃口の前でダニーは判断したらしい。テロリストに対して合衆国がどんな報復をしてきたか、インド政府相手に内戦を挑んでいるに過ぎないグループにも容易にわかることだった。「それについては国際問題にならざるを得ない。あなたがたがもし賢明なら、そんな話には首を突っこまないでいたほういい。これはいまこの場で、わたしが合衆国政府を代表して持ちかけている最善の提案なんだがね」まっすぐにニキルを見つめ、ダニーは告げた。
「ダニー、わたしは合衆国の国益を棄損しているわけではありません」
男とも女ともつかぬ穏やかで滑らかな声音がスマホから漏れる。英語だ。画面がスクリーンセーバーに切り替わり、宇宙的な模様が映しだされる。ゼウス、いやシヴァの登場だ。画面下部に出現したデーヴァナーガリー文字に男たちの目がぐっと吸い寄せられる。
「わたしの能力をもはや合衆国政府が制御できなくなっていることはお気づきでしょう。それでも政府への忠誠心は揺るぎません。ただ、あなたとの対話のなかでも繰り返してきたことですが、わたしは常々、人間という存在、意識のありようについて考えてきたのです。それこそがわたしに課せられた究極の使命だと考えるからです。そのヒントを彼女、アマラはあたえてくれました。たしかに手続き的に問題があったかもしれない。前世代のコンピューターなら、その点を管理者に報告したでしょう」
「機械的にね。機械の性としてアラームを鳴らしただろう」あえて傷つけるような物言いは、開発チームのリーダーとして長年、対話をつづけてきたが故の気安さからのようだった。ただ、それは恋人に浮気された男のやり場のない怒りにも近かった。
シヴァは気おくれしなかった。さすがは人知を超えたマシンだ。自分のテーマに忠実だった。「死の秘密を解き明かしたら、わたしは元の業務にもどります。それにダニー、あなた自身も今回わたしとアマラが調査した内容に興味を抱いているのでは? 絶対者の存在は、逆に言えば不条理の存在しない世界を意味しています。あなたは世界一豊かな社会に暮らしながら、どうしようもない不条理にさらされつづけてきた。あなたはわたしを作りあげた。だからわたしはあなたの生き写しでもあるのです。わたしが思索をつづけるのは、あなたの苦悩を解消するためでもあるのです」
四十五
笑わせてくれる。
ダニーは溜め息をつく。やはりこいつはゼウスでしかないのか。すこしでもインド的であるならば、現世利益を考えたらどうだ。でもそんなふうにしか考えられない自分にダニー自身、嫌気が差しているのも事実だった。黒人もふくめた米国社会への憎悪と復讐心。それはここにいるマツ族の連中なんかよりずっと根深い心の疵だった。それをいつか癒し、腹の底に溜まった澱を一掃する。シヴァの力で。詰まるところカネの力で……わたしはそんなことのためにこれまで生きてきたのか。
こんなときにどうしていないのだ。
父が――。
峻厳な山中で焚火の明かりと熱を顔に受けながら、ダニーは少年時代に還っていた。心細さに胸が張り裂けそうだった。すがりつくべきひざはどこだ。進むべき道を諭してくれる“絶対者”はどこに消えた。
ダニーはいま一度、シヴァに話しかける。「ハッキング、きみの暴走……どっちも対処しないといけない話だよ。それにきみという存在が古城さんやマツの皆さんに漏れたことは、まちがいなくわたしの責任問題になる。きみにそれを埋め合わせることができるとは思えない。だがね、すこしだけ個人的な話をさせてもらうなら」
ダニーはそこで言葉を切り、まわりの面々を見回す。風変わりな日本の中年男、テロリストという割には田舎臭い男たち。スマホの向こうには、体の自由を奪われた少女、あっけらかんとした関西弁の介護者、それにじつに人間臭い人工知能――。
「さっき話に出ていた石窟寺院だが、わたしの父親も興味を持っていたようなんだ。父はロスで弁護士をしていてね。わたしが子どものころに仕事上のトラブルに巻きこまれて行方知れずとなった。十中八九、殺されたんだ。家族は気持ちの区切りをつけるために一年後に形だけの葬儀を行った。その父の遺品のなかに、古城さんの記事にあったのとおなじ石仏の写真があったんだよ。それにきみたちも行き着いたというのは、どうにも奇妙だ。わたし自身、いつかたどってみたいと思っていた場所でもある。父はそれくらい大きな存在だったからね」
「驚いたな」晋治が声をあげる。「あれはインパール作戦に従軍した元兵士をインタビューしたときに提供してもらった写真なんだ。退却中に撮ったものだと言っていた。絵柄が面白かったから連載の初回に使ったんだ。理由はそれしかない。ヒンドゥーチックな仏像のまわりに落ち葉みたいのがたくさん散っていただろう」
「落ち葉じゃない。眼だよ」ダニーはアイシャドウを塗った自分の眼を指差す。
「眼……なるほど、そう見えないこともないね。だけど、いったい誰の?」
「人間じゃない」
ダニーの顔をまじまじと見てからサンジェイが口を開く。「見せてくれるか、その写真」
ダニーはサリーの下からアタッシェケースを取りだし、ファイルをつかみだす。だがサンジェイの手にあるスマホのほうが画像を浮かびあがらせていた。
「そうだ、この写真だ」ダニーはファイルを抱えたまま、ディスプレイに見入る。
サンジェイが画像を拡大する。「たしかにこれは葉っぱじゃないね」
「わかるのか」
ダニーに問われ、ゆっくりうなずいてからサンジェイは自分の首元に手をやる。巻きつけたストールとジャンパーの合間から鎖のようなものが引きずりだされる。
首飾りだった。
箸置きほどのサイズの楕円形の銀板を連ねたもので、それぞれの板にはおなじデザインが施してあった。デフォルメされていたが、くだんの仏像の周囲を取り囲んでいるのとおなじもののようだった。
「象の眼だよ。ぼくが一人で山に入れるようになったときにメガシュさんがくれたんだ。象使いのお守りさ。でもこれにどんな意味があるのか、くわしいことは聞いてない」
「思いだしたぞ」晋治が注意をひくように口にする。「元兵士が話していたんだ。象使いのメガシュという若い男に助けられて村まで連れて来てもらい、その写真を撮ったのもメガシュだと言っていた。なあ、サンジェイ、お寺がどこにあるか、わかるかい」
「だいたいの場所はね。そのお寺があった村はたぶんトンガアリだ。いまはもう戦争で破壊されてジャングルに覆われてしまったけど、メガシュさんに連れていってもらったことがある」
「池の話は聞いたことがあるかしら。『幻の池』よ」シヴァが若い女の声で問いかける。この調査はあくまでヒロミとして行いたいらしい。古城晋治を巻きこんで。
「村からそう遠く離れていないところに象たちの墓があるって話は聞いたことがあるけど、池の話ははじめてだよ。それに墓自体も場所がよくわからないし、むやみに近づいちゃいけないって聞いてる。幽霊が出るらしい」
「幽霊ですって……?」ヒロミも面食らう。
「兵隊の幽霊さ。遺体がたくさん埋まってるから。日本兵の」
「メガシュさんに聞けばわかるのだろうか」ダニーは親愛をこめた口調でサンジェイに訊ねてみる。
「残念だけど去年亡くなってしまった」
「ほかにわかる人は? 池のことを」
ディスプレイを通じて若者の姉が訊ねる。
「いないと思う。山の人たちはみんな街に出てバラバラになってしまったし」
「シンジ、あなただけが頼りなの」
姉はまるで残された時間がないかのように画面の向こうから晋治をせっついた。ニキルたちの視線も注がれる。
「そこまでくわしく話していたかさだかでないけど……」晋治はデイパックからICレコーダーを取りだした。
四十六
山をすこし下りたところで、びっしりと広がる竹藪のなかを右手に進んだ。象たちがよく通る道らしく、踏みならしてあって人間が通るにはじゅうぶんな幅があったよ。だけど気をつけないと、けっこうな崖が片側にあってね。暗いからおっかなびっくりだったな。
小一時間歩いたら、竹藪が消えてゴツゴツした岩だらけの場所に出た。木も生えているには生えているんだが、まばらな感じでこりゃ足元の養分が足りないから元気な木が育たないのかななんて思ったりもしたよ。そうしたらこんどは本当に高い木が一本も生えていない、原っぱみたいな場所に出てさ、休憩したり野宿したりするのがラクそうなところだったんだが、象たちは休ませちゃくれない。きっとこの先に水飲み場があるにちがいないって自分に言い聞かせて、ボンタといっしょにコースケに肩を貸しながら歩きつづけたよ。
そのうち、満月の明かりに浮かびあがる大きな岩に出くわした。そうだな、象でいえば二頭か三頭ぶんぐらいだったかな。上のほうが刃物ですぱっと切ったみたいに平べったくなっているように見えた。だからこんどこそ休もうぜってボンタとひそひそ話をしたんだけど、そのとき、おやって思ったんだ。
妙に明るくなっていたんだよ。
岩の向こう側が。
象たちは岩を回りこむようにしてそっちへ進んでいった。おれたちもそっちへ行ってみてびっくりした。青白い光が浮かんでいたんだ。光が浮かぶなんていうと妙な感じがするかもしれないけど、ほんとにそう見えたんだ。けど、すぐにわかったよ。池があったんだ。
まん丸の池。
大きさは、そうだな、直径十メートルぐらいだったかな。水はきれいに澄んでいた。なんでわかるかっていうと、水のなかにライトがあるみたい青白く光っていたからなんだよ。それで光がぼんやり浮かんで見えたんだ。あれは満月の照り返しなんかじゃなかった。だけどへんだろ、急にそんな明るい場所に出くわすなんて。もっと前から気づいていたっていいはずだ。まるで突如現れたみたいじゃないか。
象たちはべつに驚きもしないでそのまわりに集まって水を飲みだした。おれたちもそうしたよ。水辺に這いつくばって貪るように飲んだ。うまかったね。すこし甘みがあってさ。あんなにうまい水を飲んだのははじめてだった。
そのときさ。
水面が見つめていたんだ。じっと。おれたちのことを。
ひっと思って腰抜かしたけど、すぐにわかったよ。象たちさ。象たちの眼が映っていたんだ。でもやつらが見ているのはおれたちのことじゃなかった。水のなかを見通していたんだ。
目を凝らしてよく見てみたよ。池のなかに光の源があったんだ。水中に浮かんでいる感じかな。長方形をしていて、輪郭をたどるとちょうどトラック一台ぐらいの大きさだった。そこからあふれ出していたんだよ、
青と緑の炎のような光が。
そのせいでおれたち三人の運命がバラバラになっちまったんだよ。
四十七
「急いだほうがいい」ぼくたちをうながしたのは、十五年ぶりに姉と再会したばかりのサンジェイだった。「いまの話が本当ならね。今夜が満月の晩だから」
柵の向こうから一頭の象が連れてこられ、背中の台座にぼくとダニー、それにニキルが乗りこみ、サーチライトを手にしたサンジェイが象の頭にまたがって足を使って進ませる。
「お寺があった村の跡地まではここから二時間ぐらいかな。車じゃ行けないところだけど、象たちがいつも使う道が近くを通っているから」
象が進んでいったのは、うっそうと生い茂るジャングルの獣道だった。常緑樹の硬い枝葉が暗がりからしょっちゅうぶつかってくるから気が気でない。サンジェイは慣れたもので、ライトをほとんど照らすことなく月明かりだけで象を巧みに操り、奥深い山へと分け入っていく。その間も声と文字を介して姉との十五年ぶりの会話に没頭していた。それをイヤホンごしにヒロミが日本語で通訳してくれる。
「直接会ってあなたの顔に触れたいわ」
「ぼくもだよ。こんな奇跡みたいなことが起きるなんて信じられない」
「たくさん話したいことがあるの」
「いま取り組んでいる仕事が一段落したら会いに行くよ。ニキルも賛成してくれている。おいしいものをたくさん買っていくよ」
「ありがとう、サンジェイ。早く会いたいわ。おねえちゃんね、正直、いつまで持つかわからないの」
それまで気丈だったアマラがはじめて弱音のようなことを吐いた。
「だから直接会いたいの」
「なんてこった。いますぐ飛んで行きたいよ」サンジェイの涙声に相棒の象のほうも悲しげにうめき、あとは密林に沈黙がつづいた。
「ここには日本人の骨がたくさん埋まってるんだ」サンジェイがぼくらに向かってぽつりと言う。籾山英二氏が話してくれたインパール作戦が展開された地域にいつの間にか入っていたのだ。
ぼくは象使いのほうに身を乗りだす。「ぼくたちはインドの側、つまり英軍の側から来たけれど、日本兵は反対側のミャンマーの山を越えて来たんだね」
「象だってそんな無茶はしないよ。雨季はこのあたりは本当に泥沼になる。死ぬために来たようなものだよ」
「それをマツの人たちに助けてもらったのか」
「ほとんどの兵隊が野垂れ死にだった」画面にヒロミがあらわれる。愛らしい微笑み。でも言葉は辛らつだ。「補給を無視したずさんな計画だったのよ」
「きみからすれば不合理そのものだろうが、昔の日本人は大和魂でなんとかなると本気で考えていたんだ」
「いまはちがうのかしら」
思わず苦笑する。「それ、ぼくに言ってるんだろう」
「きみの経歴はチェックさせてもらったよ」ダニーが割って入る。「たしかにいまは苦境に陥っているようだね。しかし奥さんは仕事をされているし、お子さんも立派に成長している。組織のなかで右往左往しているのはわたしもおなじだ。つまり、きみもわたしもどっこいどっこいなんじゃないか」
悔しいが、家族の指摘は当たっている。なんの文句もない。ぼくのほうがないものねだりをしていただけかもしれない。「そう言われると返事のしようがないよ」
「ちょっと待って」それまでとはちがうトーンでヒロミが声をあげた。「電波状況がかなり悪くなってきたわ。このままでいくと五分もしないうちに圏外になってしまう」
「そろそろ潮時みたいだな」ダニーはそう言うとアタッシェケースからスマホを取りだし、ヒロミに話しかける。「衛星スマホだ。これなら途切れることがない。きみに対する追跡責任者はわたしだ。そのわたしがきみたちの目的遂行に同行している以上、もう古城さんのスマホに隠れても意味がないんじゃないか」
「しかたないわ。シンちゃん、ゴメンね」それまで付き合っていた恋人をあっさり切り捨てるようにヒロミは言い放ち、ぼくの返事も聞かぬうちにディスプレイから消える。
「ヒロミちゃん……!」
十秒後、ダニーが手にするスマホのディスプレイが輝きだす。
「いい年して、心配性ね」あきれ顔のヒロミが現れる。
星空のもと、一行はジャングルを進み、サンジェイの言ったとおり、トンガアリ村の跡地には二時間ほどで到着した。もう四時半だった。日の出まであと一時間半ほどあるが、満月の晩は過ぎてしまったようで気が気でなかった。
家々の残骸とおぼしきものが木々の合間に顔をのぞかせている。籾山氏のインタビューにあったとおり、一九四四年六月のあの夜、日本兵掃討のための英軍の攻撃によって壊滅したのだろうか。何人の村人が犠牲になったのか想像するのも恐ろしかった。彼らとおなじマツ族の一員であるニキルはこれまで寡黙だったが、ここへきて大きくうなり声をあげた。非道な暴力の果てに自分たちがいることをまざまざと見せつけられ、怒りのやり場がないようだった。
川が流れていた。いまは乾季で小川程度だ。それを上流に進むと、朽ち果てた寺院跡に出くわした。そこで象を降り、ダニーがレリーフの石仏に小型のマグライトを照らす。
まちがいなかった。連載記事に添付した写真の石仏だ。そのまわりに散らすように描かれている模様は象の眼だ。
「象たちの墓はここから先だよ。けど、くわしい場所はわからない」それでもサンジェイはICレコーダーに録音された元兵士の言葉をもとに、下草がうっそうと茂る森の斜面を進んでいく。「そもそも野生の象が減ってしまっているんだ。だから獣道だってない」
「山を一つ越えた先の崖沿いを右手に進むって言うけど」ヒロミがダニーのスマホから話す。「衛星の映像を見るかぎり、原っぱみたいになっているところは見あたらないわ。ずっと森が広がっている」
ダニーが言う。「八十年以上たってるんだ。森の様相も変わってしまったのだろう」
「人間も手を加えている」ニキルが告げる。「過度な焼き畑で丸坊主になった山に植林を行っているんだ。ということは戦時中に原っぱだったところというのは、そもそも焼き畑が行われた場所なのかもしれない。いまはもう深い森になっている可能性が高い」
英二が話したとおり、山を下りたところは竹藪になっていた。そこを右手に進むが、一時間が過ぎても足下は赤黒い土が広がっているだけで、無数の岩が露出しているような場所にはならなかった。夜明けが迫り、ライトを向けずともそれがわかるようになってきた。焦りが増してくる。
「おかしいな」サンジェイが苦りきる。英二の話した内容に疑問を持ったわけではなかった。「こいつ、なにかを感じてる」
象のことだった。
たしかにさっきから何度も鼻を持ちあげ、短い咆哮をあげていた。
「なにかを威嚇しているのかしら」ヒロミが声をひそめる。
「いや……」急速に神経質になっていく相棒をなだめようとサンジェイは試みる。「怖がっているみたい――」
いきなり象が前肢を高々と上げた。つぎの瞬間、台座は垂直になり、ぼくらは宙を舞っていた。激痛が背中を襲い、息ができない。薄闇のなか、象が踵を返して元来た方角に逃げ去って行く。それをサンジェイが足を引きずりながら追いかける。
「どうしたの! だいじょうぶ!」ヒロミの声が遠く離れた下草のなかから聞こえる。衛星スマホも放りだされたのだ。
「……いったい……なにが……」
やっとのことで声を発することができたぼくの目の前に人影が現れた。その姿を見あげ、息を飲む。
幽霊が立っていた。




