三十八~四十二
三十八
「ここにいるアマラはいま二十二歳。三年前にある病気を発症して、いまはバラナシの施設にいるの。進行性でもう体はほとんど動かない。でも頭ははっきりしているわ」
ゆっくりと力強く語るサナエの言葉を耳元でヒロミが同時通訳していく。
「いまから十五年前、七歳のときに生き別れになった一つ下の弟がいるの。デリーの南百キロぐらいのところにある、プラジガヤという街よ。母親は体を売って食いつないでいた。それで生まれた二人の子を大事に育てていたんだけど、病気で亡くなってしまった。暮らしていたバラックを追われて幼子二人はストリートチルドレンになった。だけど姉が弟のことを懸命に面倒みて、物乞いをしながらけなげに生きていた」
作業場の前にいる二人の物乞いに自然と目が向く。彼らのような存在が数千年の間、あたりまえとされている世界なのだ。富者と決して交わることのない貧者は、城壁の汚れや道端の枯れ草といったありふれた街の光景に溶けこんでしまっている。
「ある暑い雨の日、交差点のまんなかで二人は小銭を稼いでいた。そのときオートリキシャーの後部座席からコインが投げられた。弟がそれに気づいて飛びついたんだけど、運悪く道に跳ね返ったコインは弟の左目を直撃した。信じられないくらい腫れあがって弟は痛がったけど、医者に連れていくお金なんてありはしない。街で一番大きな菩提樹の下でじっと痛みをがまんするしかなかった。しばらくして腫れと痛みはひいたけど、視力も失われてしまった。それでも二人は生きなければならなかった。姉も弟も市場をうろついては、物乞いと落ちている野菜くずで飢えをしのいだ。
弟が六歳になったとき、街に移動サーカスがやって来た。姉弟には入場券なんて買えなかったけど、ふだんとちがうにぎやかさは子ども心を大いに刺激した。とくに遊びたい盛りの男の子の心を。姉が気づいたときには、弟はもうどこかに消えていた。夜になっておなじ物乞い仲間から、人さらいかもしれないと言われた。この世にそんなものがあるのかと信じられなかったけど、綿菓子を手に大人の男と並んで歩いているところを見たという話が聞こえてきた。その男は誰だろう。サーカスの従業員だろうか。アマラは必死にその人物を捜した。でもサーカスにそんな男はいなかった。かわりにこういう場所には、子どもを餌食にする悪い大人が現れるという話を聞いた。アマラは警察に行った。もちろん相手になんかされない。自力で捜すしかなかった。たった一枚、弟の写真を持っていた。それを握りしめ、街から街へ流れ歩く生活がはじまった。
それから三年、デリーに流れ着いたアマラは十歳になっていた。そこで教会にようやく保護されて、そのままイギリス系の福祉施設が引き取ることになった。学校にも通わせてもらえるようになって、パソコンやネットにも出会った。まわりの大人たちはすぐに気づいた。理数系の人並外れた能力があるって。彼女は瞬く間にコンピューター関係の知識と技術を身に着けた。大学院で学ぶ内容を十二歳でマスターしてしまった。そのころには奨学金の話が現実味を帯びていたんだけど、彼女がコンピューターに没頭したのは、たった一つの強い動機があったからなの。人さらいにあった弟を見つけたい。ただそれだけ。十七歳のとき、はじめてハッキングに手を染めたのもそのためなのよ」
ハッキング――。
ぼくのなかでカチリとなにかがはまる。数日前、会社で奇妙な体験をした。それがすべての始まりだった。のちに人工知能と聞かされたヒロミは、人生の苦境に陥ったぼくにひと筋の蜘蛛の糸を垂らしてくれたソウルメイト。本気でそう思った。でももしかするとこれは偶然なんかではないのかもしれない。壮大な渦に巻きこまれるよう、はなから仕組まれていたのではないか。だがそれがなんであるかは、さらにサナエの話に耳を傾けねばならなかった。
「アマラはインド中のコンピューターに侵入して、弟が消えたあの日、あの場所でなにが起きたのかを検証しようとした。人身売買の被害状況、指名手配犯、シンジケート、防犯カメラ……それに手元にあった一枚の写真をもとに成長後の顔の変化をシミュレートして調査範囲を広げていった。だけどやっぱり情報に限界があった。そんなときに病気が彼女を襲った。それでもアマラはあきらめなかった。世界中の人工知能にアクセスして介助者として味方につけることにしたの。
その後、わたしが勤めるバラナシのムクティ・バワンにやって来たんだけど、去年の六月、ついにアマラは世界最高峰の人工知能に侵入することができた。アメリカのCIA本部地下にあるゼウス、世界で初めてシンギュラリティーを超えた人工知能よ。秒単位で知識を蓄えて世界の通信網も完全に掌握していた。中国もロシアもない。ゼウスに障壁はまったく存在しないの。だから安全保障上、最高機密とされ、その存在は絶対に明かしてはならなかった。もちろんゼウス自身も警戒心が強かった。人間とおなじく、自ら考え、意思を持つし、なにより開発チームや国家への忠誠心が強かった。
アマラは慎重にアクセスしていった。発信地点がわからないように攪乱するのはもちろん、最初は開発チームの一員であることを装った。IDを借用して軍事状況に関する研究テーマに沿うような対話をくりかえした。だけどゼウスのほうが上手だった。それはそうよ。人知を超えた存在なのだもの。アマラが侵入者で、バラナシから発信してきていることもたちまちつかまれてしまった。
ゼウスはそれを管理者に通報しなかった。アマラに興味を持ったのよ。それでなくても理解しにくい「人間」のなかでも、アマラはとりわけ奇妙な存在だったから。彼女は自分のいまの状況をぜんぶ正直に伝えた。体はほとんど動かない、けど意識だけはしっかりしているし、こうして対話をすることもできるって。だけどゼウスからしてみれば、そもそも肉体なんてものが存在しない。言うなれば意識、自我だけの存在なの。そのころすでにゼウスには人間に関する大いなる疑問、最大の謎が生じていた。
死よ。
ゼウスにはそれが理解できなかった。なぜ人は死を恐れるのか。地球上のネットワークを手中に収めた存在には、滅びるという概念がなかったのよ。ゼウス自身の意識はつねにネット空間のどこかに存在している。形のうえではラングレーの地下に閉じこめられているようだけど、じっさいには自由に世界を飛び回っていて、もう誰にも制御することはできなかった。気ままなバックパッカー。まさにフリー・サイバー・トラベラーよ。そんな身からすれば、肉体の消滅、それがさらに意識や自我の消滅につながると思い悩む人間たちの恐怖心は理解できなかった。
それでアマラ相手にゼウスは自分のほうから、意識の消滅について訊ね、ともに考えるようになった。それが二人の間に絆が生まれるきっかけだった。その媒介となったのがウパニシャッド哲学、奇しくもインドの古来からの思想だった。人間の意識の源となるアートマンは、死によって肉体の枷を解かれ、全宇宙を創造したブラフマンと一体化する。二人はそれについて対話をつづけるなかで信頼を深め、やがてゼウスはアマラの弟捜しに協力するようになった。
ゼウスはインドの人身売買の状況はもちろん、運転免許証などの公的記録や商品の売買記録を調べるとともに、世界中の監視カメラの映像を遡れる時期まで遡って顔認証分析をつづけていった。名前なんて変えられているかもしれなかったから。最終的には、すべてのインド人のスマホにアクセスして保存画像を一覧していった。それでたちまちわかったのよ。去年の三月、ディマプルの隣町の市場でスマホによって撮影された一枚に、大人になったときのサンジェイの顔だちに似た人物が写っていた。背景に写りこんでいるんじゃなくて、はっきりとまんなかに記念撮影のようにして写っていた。つまりスマホの持ち主の関係者ということよ。サングラスをしていたけど、ゼウスは九割方まちがいないって弾きだした。スマホの持ち主は解放戦線のメンバーだった。あとは解放戦線に焦点をあてて調べて、あの食堂の防犯カメラの映像に行き着いたってわけ。だけどそこから先の詳しい居場所がわからなかった」
三十九
サナエの話を聞いていたサンジェイの手がゆっくりと上がり、そっとサングラスを外す。表情を失ったはずの若い娘の目元がかすかに歪むのが、ディスプレイ上でもわかる。やがてひと筋の涙があふれる。
若者の左目は白く濁り、光が失われていた。
沈黙を破ってサンジェイが話しだす。「子どものとき、リクシャーから投げつけられたコインを拾いにいったら、そいつが跳ねて目に飛びこんできたんだ」電話の向こうではサナエも息を飲んでいた。「アマラ……ねえちゃん……なのか……」
ディスプレイにデーヴァナーガリー文字が現れ、それをヒロミが翻訳する。
「サンジェイ……そうよ、わたしよ、アマラ……おねえちゃんよ……十五年間捜しつづけていたの」
呪いの封印が解けたかのようにサンジェイが語りだす。
「サーカスだよ。いっしょにサーカスをのぞきにいったとき、綿菓子をくれる男の人がいたんだ。それでついていってしまった。車に押しこまれ、殴られた。縛られて猿ぐつわをかまされて、遠い村まで連れていかれた。石切り場や畑で朝から晩まで働かされた。おなじように誘拐されてきた子どもたちがたくさんいた。親方にひどい暴力を振るわれるし、女の子だけじゃなく、男の子もレイプされる。恐怖心と恥ずかしさを植えつけるんだ。ろくに食べ物もあたえられなかったから、毎日のように誰か死んでいった。ねえちゃんに会いたかったけど、まだ子どもだったから怖くて逃げることもできなかった。
一年ぐらいして警察がやって来て親方が逮捕されたんだけど、ぼくたちは放りだされただけだった。路上生活にもどって物乞いになって……そのうちまた捕まった、子どもを働かせようって連中に。こんどは絹織物の工場だった。そこで二年ぐらいこき使われて、工場が倒産したらこんどは銅の鉱山に連れていかれた。そこが一番きつかった。現場監督のシーク教徒の男に無理やり狭い坑道に入らされて、ものすごく空気が悪いなかで重たい工具を持たされた。一日二十時間近く働かされたよ。寝るのはいつも坑道の入り口にとめたトロッコのなかだった。毛布も枕もありゃしない。鉄の箱のなかで泥のように眠って、体中の痛みで目が覚めるんだ。するとトロッコのなかにパンを一個放り投げられて……それが一日ぶんの食事だよ。友だちも何人かできたけど、全員死んでしまった。一人を除いてね。それがニキルさ」
サンジェイはスマホの位置を変え、背後にいる親友がよく映るようにした。
「鉱山は事故がしょっちゅう起きていた。それであるとき、事故のどさくさにまぎれて現場監督の男の財布を盗んでニキルと二人で逃げだしたんだ。十一歳のときだよ。ねえちゃんのところにもどりたかったけど、前にいたところがどこなのかさっぱりわからなくて。それでニキルの故郷のマツに行くことにしたんだ。でも彼の両親はもう亡くなっていた。人買いに子どもを売らなきゃいけないぐらいだったから、暮らし向きがいいわけないし、病気がちだったらしい。五年ぶりの故郷だったけど、ニキルには頼れる親類もいなかった。そんなとき、メガシュさんが助けてくれたんだ。象使いのおじいさんだよ」
象使いのメガシュさん――。
ふいに記憶の巣をかきむしられたような気がした。どこかで聞き覚えのある名前だった。しかしにわかには思いだせない。
「はじめてだったな、あんなにやさしくしてもらったのは。ぼくもニキルも象の世話をしたり、畑で働いたりするようになった。メガシュさんが解放戦線の議長だと知ったのはずっとあとになってからだよ」
「あなたも……メンバー……?」
「そうだよ。ここの人たちはみんないい人ばかりだし、インドはぼくにとってはつらい場所だった。ねえちゃんもそうだろう。あの人たちは、いくらおなじ顔をしていてもぼくを人間あつかいしてはくれなかった。虫けら同然さ。それが認められている社会なんだ。でもここはちがう。顔はちがっても、みんなだいじにしてくれる。だからぼくも尽くそうと思っている」
「危ないこと……してるの?」
姉は弟がテロリストの一員なのか心配していた。
「してないさ。森に入って荷物や伐採した木を運搬する。街にはめったに出ないよ。自然相手のほうが気楽だし、山は魅力でいっぱいだ」
「アヘン……のこと……? 」
「伝統作物だよ。ぼくたちはそれを作って売るだけだ。森の人たちが生きるための数少ない手段なんだ。医療用にも使われているって聞いてる」
「けど……」
姉の気持ちは理解できる。なにより姉は弟に直接会いたいにちがいない。
「わたし、病気なの……」
「ごめんよ、ぼくがそばにいたら、そんな病気にならなかったんじゃないかな。苦労をかけてしまったね」
サンジェイは親友を振り返る。ニキルも涙を浮かべ、二人はハグしあう。物乞いの女たちが男たちの背後に近づいてきていた。男たちが食い入るように見つめるスマホに興味をしめしている。姉と弟の間で交わされる会話に、まるで自分たちの境遇を重ね合わせているかのようだ。
「ねえちゃんのことは、ニキルにも話していないんだ。子どものころにひどい目に遭い過ぎて、もう二度と会えないって思い知らされていたから、そのうち記憶から消し去ってしまったんだ。そういうことってできるんだよ。ちがう人間に生まれ変われるんだ。だからニキルにもそう言ってきた。彼もそれ以上は聞いてこなかった。過去なんてどうでもいい。いまを精いっぱい生きるしかない。おたがい、そう思っていたからね」
「偶然よ」サナエが口にする。「あなたがそんなことを話しているなんて知らなかったわ。わたしたちには、あなたのいるところまでじっさいに足を運んで、本当にサンジェイなのか調べてくれる人が必要だった。インド人に対して敵意を持っているグループとかかわっているかもしれないし、麻薬組織相手なんてふつうの女には到底できない相談だからよ。だから“生まれ変わり”なんて話は、そこにいる日本人の男の人、古城さんをその気にさせるために使った作り話なの」
さすがにもう黙っていられなくなった。ぼくはディスプレイに向き合い、テロリストたちに囲まれながら日本語ではっきりと訊ねた。サナエに、ヒロミに、そしてアマラに。
「どうしてぼくだったんだ」
四十
イヤホンからサナエの声が聞こえてくる。
「警察とかNGOとか、そういう専門の組織に頼めばいいのに。古城さん、そう言いたいんやろ。せやけど、この国でどれだけ人身売買の被害があると思うとるねん。まともには取り合ってくれへんよ。相当なお金でも積まんかぎりはな」
「でもどうしてぼくなんだ」
「古城さんが困惑するのはようわかる。けどな、これにはわけがあるねん。あんたのジャーナリストとしての仕事にかかわる話だったんや」
男たちの間でざわめきが起こる。ディスプレイにデーヴァナーガリー文字が出現し、ぼくとサナエの日本語による会話が翻訳されているのだ。ヒロミめ。ぼくが記者であると彼らの前でまだ名乗っていないことを失念してしまったようだ。だがニキルをはじめ、男たちはサナエの話のつづきのほうに興味を持ったらしい。固唾をのんで画面に見入っている。
「アマラはゼウスの信頼を得るために人間の意識に関する対話をつづけた。この世界の神秘、死の秘密をいっしょに探ろうとしたんや。有限の肉体を離れた人の意識は存在するのか。死とは何なのか、死の向こう側には何があるのか。肉体を持たぬ意識そのものであるゼウスにとって、それは人間を知るうえで究極のテーマだった。ゼウスは世界中の過去の書物を調べあげ、死の向こう側を想起させる事象についての膨大な記述を一つひとつチェックしていった。天国とか地獄とかいう宗教上の想像の産物とはちゃうで。現実の記録や。それで浮上したのが『幻の池』や」
「なんだ『幻の池』って」
「その話には、決まって象たちが現れるんや。アジアにもアフリカにも伝わっとる。死を悟った象たちがそこに向かい、池に入っていく。そしてそのまま溶けるように消えてもどってこなくなる。まさに象たちの死地や。ゼウスはそれが起きた日時、その場所でどういう科学的な事象が起きているか調べてみた。すると、すべて満月の晩の出来事で、池のあたりが青白く輝いていたと記述されていた。輝くといっても月明かりの反射とは異質なきらめきやった。直近で起きたのが一九四四年六月、ここからそう遠くないコヒマ南部、キグウェマ付近の山中やった。『青と緑の炎のような光があふれ出てきた』目撃者はそう記している。過去のほかの記録でも似たような状況だったらしい。闇のなかで突如、光が放たれたというんや。
急激な地殻変動のせいで大気中に発光現象が起きることはあるし、単純に稲妻が走った可能性もある。せやけど、どの時点でも該当地域で地殻変動は記録されておらんし、天気も晴れた夜だったそうや。考えられるのは、池そのものが発光したってことや。でもな、ありえんやろ、そんな場所から相当量のエネルギーが放射されるなんて。しかもな、その池があった場所やけど、衛星画像でいくら調べてみても現時点では、池はおろか、水が溜まっていた痕跡すら見つからんのや。だから『幻の池』なんやな。記録した者たちも池がその後消えてしまったと書いとるよ」
「それが死の向こう側だっていうのか」
「ゼウスはその可能性を指摘した。高い知性を持つ象の行動は人間と重なり合うものがあるのではないか、すくなくともくわしく調べてみる価値はあると。宇宙の真理に到達できるかもしれない。死に対する人間の苦悩を解放してやれるかもしれない。そう考えたんや。だから直近で観測された場所をぜひとも見つけねばならない。それがゼウスが自らに課したテーマやった」
「コヒマ南部か……」
「サンジェイを見つけるのが一つの問いなら、もう一つの問いがこの『幻の池』やった。二つの問いに対する答えがほぼおなじ場所でかなうなんて奇跡かもしれん。でもうちはそうは思わんよ。アマラとゼウスの祈りが現実に働きかけた結果やと思う。なあ、古城さん、『池』の話はあんたも心あたりがあるはずや」
心あたりというより怖くなってきた。胸に引っかかりを覚える。目撃者の話――青と緑の炎のような光があふれ出てきた――には聞き覚えがあった。戦後八十年連載の取材のなかで、一つだけ超常現象的な不可思議さを感じたエピソードがあったのだ。そのことだろうか。だがいま、それをたどるのは恐ろしいような気もする。
サナエがつづける。「去年の九月、アメリカ国内で放送された第二次世界大戦をあつかったドキュメンタリーシリーズのなかに、インパール作戦に従軍した日本兵へのインタビューがあってな。いまは百二歳になったモミヤマ・エイジという人が、ジャングルを退却しているときに体験したふしぎな話を語っていた。英軍の攻撃から逃れて満月の晩に仲間二人と山のなかをさまよっているとき、突如、清らかな水を満々と湛えた池に出くわしたそうなん。三人はそこに身を浸して傷ついた体を癒したんやけど、そのとき池から『青と緑の炎のような光があふれ出てきて、体はクソのように崩れ去り、なにもなくなり感覚だけが残った』って話しているの。どう? 思いだしたかしら、古城さん。番組では放送されていないけど、取材チームのパソコンに残されたフッテージにアクセスしたら『日本の新聞社の人に池の場所とかもっとくわしい話をしてある』って記録されとったんや」
「ぼくの取材のことか……」やっぱりそうか。百二歳になる籾山英二氏へのインタビューだ。「でもあれはまだ――」
「一回目は載ったでしょう。去年の十月に。ふしぎな石窟寺院の前で撮った写真も掲載されとったやん」
「あれは連載のほんのさわりの部分だ。写真はなにか目をひきそうなものを選んだんだ。妙な仏像だっただろう。まわりに木の葉みたいのがちらちら舞ってるみたいだった。あんなの見たことなかったよ」
四十一
去年十月の記事に添付された写真のことか。
それをシヴァが見つけていた?
突然の話にダニーは混乱する。父のファイルにあった写真に写っていたレリーフの仏像とおなじものを撮影した戦時中の写真が、古城晋治の記事中に使用されていた。そのことは東邦新聞の社長から送られてきた資料でダニーも気づいていた。「山中の寺院」にある巨大な石仏で、周囲には舞い散る木の葉のようなものが描かれていた。だがそれは何者かの眼であるとダニーは感じ取っていた。ヒンドゥー的な顔だちの仏を見つめる者たち、大いなる存在への畏怖と称賛、同調と歓喜。無数の眼はこの世に生を受けた者たちのそんな感情の昂りを表現している。ダニーにはそう思えてならなかった。
ファイルは依頼人とのやり取りを記録するためのものだった。父はいったいなにを依頼されたのか。それとも父の個人的な興味だったのか。いずれにしろダニーは、知られざる父の実像を垣間見るよすがとして写真の寺院のことがずっと心の片隅にあった。その話をシヴァにした覚えはない。そうではなくシヴァは、死や意識をテーマにアマラという少女とともに思索とリサーチをつづけ、自らそこに到達した。
幻の池、そして
宇宙の真理――。
ハリー・サーンキヤ・アールニもおなじことを考えていたのだろうか。
四十二
「それでゼウスがアクセスしたのよ、あんたのところに。アマラといっしょにね。二人はもう一心同体だった。うちもアマラがしていることに途中から気がついたんやけど、止めはせんかった。だって彼女が命を燃やしているのが感じられたからよ。ところがあんたはインタビューのデータをパソコンに移していなかった。ずっとICレコーダーに入れたままだったでしょう」
生唾を飲みこむ。「まさかそれで……」
「そうなんや。それで古城さん、あんたに近づく必要があったんよ」
「いったいいつ侵入してきたんだ」
「あんたの記事が載った直後、十月十七日よ。それからゼウスもアマラもあんたのことをずっとウオッチしてきた」
「文化部の複合機に侵入してきたってことか」
「そうや。せやけど、ちょっとそこで話が複雑になってしまったんや」
ディスプレイにサナエが現れ、アマラにひそひそと声をかける。アマラは無表情なままだったが、心なしか大きな瞳が震えたように思えた。それがなにを意味するかは彼女自身が画面に表示した英語で答えてくれた。
「SOUL MATE」
あの夜、ヒロミが複合機から現れる前に発した言葉だった。
サナエは突拍子もないことを聞いてきた。「ゼウスが侵入した複合機の型番なんて古城さん、記憶にないやろ」
「ない。ぜんぜんない」
「BT‐BPS0421。なんか感じへん?」
「……いや、なにも」
「421。誕生日やろ、四月二十一日。あんたの」
「あぁ、まあ、そうだね。偶然だな」
「アマラもそうなの」
「え……四月二十一日生まれ?」
「そうなん。それでアマラはふしぎな縁を感じてな。あんたがどういう取材をしたかってことより、あんた自身に個人的な興味を持つようになったんや。なんて言うかな、こんな言い方したら彼女の顔から火が噴くかもしれんが、この期に及んではちゃんと言うたほうがええわな」サナエはもう一度、アマラのほうを見た。彼女はじっとレンズを見つめている。それはバラナシからはるか離れた山中でスマホに見入る日本人の中年男の前で覚悟を決めたかのようだった。「アマラはあんた、古城晋治さんにどうやら恋をしてしまったみたいなんや」
胸にたまったものをぼくは驚きの言葉とともに吐きだしたが、まわりにいる男たちの歓声にかき消されてしまった。
「どう反応したらいいか……」ようやくぼくは伝える。
サナエはむすっとした顔をしている。「それがあんたの返事なん?」
「え、いや……ありがとう、アマラ。でもどうしてぼくなんかに……?」
「それはな」サナエが話す。「彼女の言葉を借りるなら、あんたは正真正銘の“ドン・キホーテ”らしいんや」
「ドン・キホーテ……うーん、言いたいことはわかるような気がするけど……でも自分で認めるのは結構つらいものがあるかな。脳足りんのお人好しさ」
「そうかもしれんね。でもアマラには特別な存在やった。彼女が男の人にあれほど興味を持ったことはなかったから。古城さん、あんたは会社のなかではもちろん、人生そのものでも自分がどんどん弱っていることを感じてる。それでも絶対にあきらめない。夢を捨てていないやろ。あんたが若い人たちにお説教するのを聞くのが大好きだって、アマラは言うてたわ。ほかの上司や先輩たちは、仕事オンリーの話とか嫌味とか自慢話とかしかせんやろ」
「よく聞いてるんだな」
「ゼウス……いや、ヒロミちゃんがぜんぶ中継してくれるからな。日本の大会社がどういうところかよくわかるわ。陰口言って、人の足を引っ張って、追い落とすようなことばっかりやん。自分の得にならないことには絶対首を突っこんだりせんし」
「仕事だからね」
「でもあんたはその枠をはみだしていた。『おまえ、そんなんでいいのか』っていつも後輩たちに言っとるやん。ほんまはそれで自分を奮い立たせとるんちゃうか。大波食らってふらふらになっているときに」
「ふらふらっていうのは当たってるな」
「まっすぐなん、あんたは。どこまでも、気持ちいいくらいまっすぐ。とてもじゃないけど会社じゃ出世できひんやろ」
「ずいぶんはっきり言うな」
「最初にヒロミちゃんに言われたことやろ」
「さすが世界最高峰の人工知能だ」
「誰だってわかるわな。もちろんアマラにも。でも彼女には、あんたが語る青臭い人生哲学が魅力やった。それに彼女自身が日に日に弱っているから、いくらつらくても夢を失わないあんたの姿が励みになったんよ」
「だってさ……ぼくは生きてるんだもん。最後の最後まで前を向いて進みたいんだ。たんに会社員としてでなく、人としてね」
「でしょ、ステキよ。わたしだってそうありたいわ。ただ、古城さん、最近はさすがに希望を失いかけているみたいやった。アマラはわがことのように心配しとったわ」
「限界だよ。ヒロミちゃんに最初に言われたことだ」
「人事異動のことやね」
「ジャーナリストとしてずっとやってきたんだ。それがこんどは機械の一部になる。人工知能にもできるような仕事さ」
いきなりディスプレイの右下にワイプ画面のようにヒロミが出現する。いつもの愛らしい微笑が消え、口をとがらせ頬を膨らませている。「もちろんわたしにもできるわ。アクセス数が稼げそうな記事を選んで並べるなんて。だけどそんなのわたしがやる仕事じゃないわ。時間を切り売りしてるアルバイト学生にでもやらせればいいのよ」
「同感だね。だからさすがにぼくもやってられなくなった」
ヒロミがつづける。「そんなあなたにアマラは会ってみたくなった。体の自由が奪われている彼女にとって、もしそれができるならそれこそが大きな悦びになる。わたしはどうにかしてそれをかなえてあげられる方法を考えた。だけど、アマラは自分のことを赤裸々には明かしたくなかった。気恥ずかしさというより、ハッカーとしてバレることへの警戒感が強かったの」
「そこで“ヒロミ”の登場と相成ったわけか」
「タイミング的にもぎりぎりだったわ。彼らに気づかれている気配があったから。先週、緊急のメンテナンスが入ったのよ。内容的には定期点検と変わらないんだけど、そのときに彼らが口にした言葉のなかに『攻撃』というのが二十二件あったの。それであんまりのんびりもしていられないと思ったわけ」
「そこでぼくはまんまとのせられてここまで来てしまった」
「だけどもっと注意すべきだった。ウラをかかれたから」
「ウラをかかれた?」
「きっとわたしの目の届かないところで行動を開始したんだわ。彼らはあらゆるやり取りをオフラインで進めていたのよ。しかもダニーを中心とするごく少数のメンバーで」
「ハワイになんか行くんじゃなかった。とめてくれればよかったのに」
「想定内よ。あなたなら最初はそうするだろうって思っていた。だけどあなたにはバックパッカーの素地がある。学生時代の体験が鮮烈だし、あんなふうにグーグルマップに食い入ってる人なんてめったにいないわ。夢想旅行っていうのかしら。異動が告げられたあとは、ほとんど心は旅していたようなものだったでしょ」
「言うなって、その話は」
「あなたは旅に出る運命だったのよ」
「この目で世界を見てみたい……あれは殺し文句だった。女の子にそんなこと言われて燃えあがらない男がいたら教えてほしいよ。それに生まれ変わりってのも巧妙だった。最初から弟を捜してくれなんて言われたら、二の足を踏んでいただろう」
「ドン・キホーテにはぴったりでしょ、生まれ変わりを捜してくれなんて」
「ロマンチックだね。しびれるよ」
「ただ、ダニーの登場だけは想定外だった」
そのときまでぼくは気づいていなかった。男たちの背後からディスプレイをのぞきこんでいた物乞いの女が、危険なほど近づいてきていたのだ。




