三十三~三十七
三十三
陽が落ちてからは今夜の宿のことが心配になった。
それに空腹だ。リポに訊ねると、街のホテルはやめたほうがいいという。それより自分の会社でいっしょに食べるのはどうかと提案された。ベッドもシャワーもあるから泊まれるという。それからリポは誰かに長電話をはじめ、その後はラジオをいじり、派手な音楽をかけている局を選んでボリュームをあげた。これですこしも不安をおぼえないほうがおかしい。
土埃を舞いあげて車は山道を進み、ディマプルには夜中に到着した。暗闇のなかに忽然と出現した街に安堵をおぼえたが、街といってもバラナシやグワハティなんかよりずっと小さく、さびれている。閉店時間が早いらしく、シャッターの閉まった店が多いからそう感じられるのかもしれない。
リポの言ったことは正しかった。ホテルを三軒のぞかせてもらったが、部屋のドアを開けるなり、巨大なゴキブリが床と壁に十匹ほどいたり、ネズミが走り回っていたり。もうそれだけで勘弁だ。
「宿泊代は払うよ」
「いいって、そんなこと。友だちだ」
古い街並みの路地をいくつも曲がってレンガ造りの家の前でとまった。玄関から数人の男が現れ、ぼくを迎え入れてくれる。みなおなじアジア系だ。
なかは驚くほど明るく、こぎれいだった。それに肉や野菜を炒める匂いがする。「これからみんなで食事なんだよ」リポがうれしそうに言う。「ごちそうする」
急激に空腹感が増し、それまでの不安も吹き飛んだような気がする。しかしなにより先にやらねばならないのは充電だ。魔法の絨毯のようなカーペットを敷いたリビングの端にコンセントを見つけ、リポに断って充電させてもらう。
スマホが機能するようになるまでは、いまの状況について自分で判断しないといけない。リポはケニーに向かって銃を発砲したし、絨毯に車座になって座ったほかの男たちの腰にも銃があった。警察ではない。自警団かなにかだろうか。それともこの地の農家はみな、護身用に銃を携帯しているのか。まさかマフィアなんてことはあるまい。いずれにしろ適法な所持とは思えなかった。インドだって銃規制は厳格なはずだ。バラナシのガイドたちより粗暴なのはまちがいない。だがリポの話では日本人に対してシンパシーのようなものを感じているらしい。そこを信頼して一夜の宿を借りるだけだ。こりゃ、マジにバックパッカーだぞ。数日前までのサラリーマン生活から急速に離れていく。自分がここまでやれるとは思わなかった。それにCIAに追われてるっていうのに。
写真の若者がいた集会場について、彼らは知っているかもしれない。タイミングを見て聞いてみよう。なにも知らないのであれば、あす、自力でこの街を巡るしかない。小さな街のようだから、集会場ぐらいは見つかるだろう。
「腹が空いただろう」
「ぺこぺこだよ」
「まかせろ」そう言ってリポは台所に向かって声をかける。
大皿に盛った料理を持ってきたのは女たちだった。日本人にそっくりの若い子もいる。みんなマツ族というわけか。肉料理が供され、生唾を飲んだ。カレーのようなものもあれば、煮込みもあるし、焼いたものもある。豚もチキンもそれに牛肉も。見知らぬ男たちの間で緊張もあったが、それよりも本能に押されてぼくは猛然とかきこみだした。いろいろなスパイスとギーはもちろん、ナンプラーやたまり醤油のたぐいも使っていて、大きな肉の塊のなかまでじんわりと味が染みて柔らかくなっていた。ベジタリアンなんてクソ食らえだ。神さまだって肉は好きだろうに。それに米がうまい。ビリヤニに使うようなパラパラの長粒米でなく、日本の米に近い粘り気のある種類で、それでいて水加減が絶妙で硬めに炊けている。
狂ったように食べるぼくの姿を見て、リポもほかのみんなも大笑いした。まるで飢えた子どもが残飯を貪っているように見えたのだろう。それから酒が振る舞われた。米から作った蒸留酒らしく、かなり度数が高い。お茶で割りながら飲んだ。
いい気分だった。
みんなで歌を歌いだし、ぼくもなんとなくそれを歌った。まるでマツ族の一員になったかのような連帯感に包まれた。子どものころに見たテレビの海外紀行番組でこんなようなシーンがあった。そういうのを見てぼくは海外、とりわけ僻地にあこがれたのだ。それがいま実現した。強い感慨に包まれ、体の奥に喜びが広がるのを感じる。
一人の男がいつの間にかぼくの隣に来ていた。リポとおなじ迷彩服を着て軍用キャップを浅くかぶっていたが、銃は携帯していない。きちんとひげをそり、鼻筋が通っていてリポなんかよりずっとハンサムだった。おなじアジア系で、がっしりとした体格は柔道選手かプロレスラーのようだった。ふいに歌がやみ、隣の男がぼくに微笑みかけてきた。
「彼はニキル」ぼくを挟んで反対側にいるリポが男を紹介した。「うちらのリーダーだ」
「リーダー……?」
リポが説明する。「おれたちは農家だ。でもそれだけじゃない。独立を目指しているんだ、インドからの。マツ族解放戦線だ」なるほどそれで男たちは銃を持っているのか。「それを率いているのがニキルだ」
隣の男は照れ臭そうに頬を手でこする。「みんなといっしょだよ。解放戦線の青年部にすぎない。若い連中が集まってるだけさ」聞き取りやすい英語で穏やかに口にする。
記者魂がよみがえる。「何人ぐらいで活動しているの?」
「解放戦線自体は二百人ぐらいいるけど、青年部は六十人ぐらいかな」あぐらをかくニキルのひざの下に寄せ木細工の小箱がある。タバコ入れだろうか。その蓋を指で軽やかにたたきながらニキルが話してくれる。「元々、このあたりはマツ族の土地なんだ。インド政府は大きくなりすぎた。汚職や不正が蔓延している。だったら自分たちの土地や家族、友だち、仲間は自分たちで守らないと。政府はわれわれのことをテロリスト扱いするが、彼らのほうがわれわれを蹂躙している」
「独立運動って具体的にはどんなことを?」
「基本的にはマツ族の権利拡大のための話し合いだよ。平和的に行っている」ニキルの微笑みは高僧をほうふつとさせる。徳や人望がある雰囲気だ。「銃は自分たちを守るためのものだ。われわれだって無益な闘争は行わない」小箱の蓋を指先がリズミカルにたたく。
「基本は農家なのかな」
ニキルは肩の凝りをほぐすように首を左右にのばし、くつろいだ感じで話した。「アッサムの紅茶は有名だろ。ここもそうだ。茶畑が広がっている。それに石油や天然ガスなどの資源にも恵まれている。それらをすこしずつ使って食べ物を作って、みんなで小さく暮らす。それだけさ」
「小さく暮らすか……いいね、そういうの」
「そうさ。誰かがすべてを奪うというのが一番いけない。朝霧のなかで目覚めて、家族といっしょに淹れたての甘い紅茶をすすれる幸せは何物にも代えられない」
「たしかにそうだね」ぼくはひざを打つ。ニキルの語る幸福感は、長らく忘れていた感覚かもしれない。
「シンジ、家族はどんな感じなんだい」ニキルは興味深そうに訊ねる。
正直に話す。「妻と息子が一人。息子はもう大学生だ。けど、どうだろう。ニキル、きみには理解できないかもしれないけど、ぼくが一人旅をしているのにはわけがある」
小箱をたたく指がとまる。「家族から逃げたかったとか言うんじゃないだろうな」
「仕事だよ。仕事から逃げだしたかったんだ。毎日、時間を切り売りしているような感じがしてね。そうじゃなく、自分が本当になにをしたいか考えなおしたかったんだ。でもね、家族から離れてみたいって気持ちもあったよ、たしかにね」
「奥さんや子どもといっしょにいるのがイヤなのか?」
「たぶん、年齢のせいだと思う。ニキル、きみは何歳?」
「二十一になる」
「若いな。うらやましいよ。ぼくはきみの倍以上生きてしまった。この年になると、ふといろんなものから解放されたいと思う瞬間があるんだよ」
「苦悩してるのかい」
「個人的な問題さ。年なんてとるものじゃない」
小箱の蓋に置かれたニキルの指がまた軽やかに音を立てはじめる。「会社や家でつらいのならここで暮らせばいい。自然が豊かで人もやさしい。移り住んだ日本人も何人かいる。仕事にも困らない。われわれの仕事を手伝ってくれればいい」
「手伝うって……解放戦線の仕事かい?」
ニキルは仲間たちの顔をぐるりと見回してから、みんなでいっせいに大笑いする。「民族運動のまねごとをしてくれと言ってるわけじゃない。われわれは基本的に農家だ。そこで作った作物を売って生計を立てている。最近では輸出も行っている。だから貿易商でもある。日本にも出していてね、そっちの手伝いをしてくれればいい」
「輸出か……なんだか難しそうだな」
「そんなことはないさ。スーツケースを持ってコルカタに行き、そこから東京に飛んでくれればいいだけだ。東京に着いたら迎えの人間が来ているから」
「スーツケース……輸出品を自分の手で持ちこむってことかい? 貨物便とかじゃなくて」
「そうさ。それがいちばん確実で安全な方法なんだ」
カジノ相手のリポの商売から薄々わかっていたが、どうやら解放戦線の資金源はこの商売の売り上げのようだ。もはや訊ねないわけにいかなかった。「きみたちが栽培して輸出している作物って何なのかな」
その問いかけに、リポをはじめ車座になっていた男たちにさざ波が起きる。
「あした、畑に連れていく。伝統的な作物だよ」穏やかにニキルが答える。
ぼくは言葉を慎重に選んだ。「それって世間的に違法とされるような植物のことかな」
ニキルは依然としてにこにこしている。「心配しないでいい。日本の友人たちはもう何人もここに来て、熱心に仕事に励んでくれている。借金を抱えた挙げ句、詐欺師集団の末端でこき使われていた若い人もいまではのびのびと働いてくれている。自分の人生を取りもどしたようだよ。だからシンジもすぐに優秀な貿易商になれるさ」
運び屋だろ。
頭は高速回転を開始し、一刻も早くこの場を辞去できる方法を考えだしている。
ぼくの顔色が変わったのにニキルが気づいた。
「シンジ、きみはこの仕事を気に入ってくれるはずだ。もっとリラックスしよう。慣れてしまえば、きみのほうからもとめてくるようになる。すこしためしてみようか。理解してくれると思うよ、われわれのことを」
ニキルは小箱のうえで舞っていた指をとめ、蓋に手をかける。その刹那、男たちが無言のまますっと近づき、ぼくの体を静かに押さえつける。小箱のなかにあったのは注射器と小さなガラス瓶だった。
「やめろ!」
男たちの手に力が入る。ニキルの言うことは本当なのだろう。何人もの日本の旅行者がこの館にやって来ては饗応を受け、最後に注射を打たれてクスリ中毒にされ、運び屋稼業に手を染めていく。
「待ってくれ」身動きが取れずパニックに陥りながら懇願する。「ぼくは人捜しに来たんだ。この街の集会場にいた若い男なんだ。彼にどうしても会いたい。ムンバイのビジネスマンの生まれ変わりなんだよ。輪廻転生が存在することの証拠なんだ。そういうことには興味はないのかい。ほんとの話なんだよ!」
「だからそんな話、インドにはいくらもあるんだってば」ぼくを羽交い絞めにしながらリポが口にする。「シンジ、きみはインド人に吹きこまれただけなんだよ。さあ、もっとリラックスしようぜ。天国が待ってる」
「写真がある! その若者の写真があるんだ!」
「いいから、おとなしくしろ!」リポが声を荒げた。
「待て」小箱から注射器と小瓶を取りだしながらもニキルは気色ばむ。「写真があるっていうのか」
突如、スマホの呼び出し音が鳴る。ぼくのだ。ヒロミが息を吹き返し、いまの状況をじっと分析していたのだ。
「スマホだ。そのスマホを取ってくれ!」身をよじらせて充電がつづくコンセントのほうを見やる。
「取ってこい」苛立たしげにニキルがリポに命じた。
三十四
グワハティーの山中には、当局からのお目こぼしを受けて営業するカジノがあった。売春宿も併設されており、金持ちたちがお忍びで利用するようだった。日本人の中年男が運転手を見つけてそこに向かったとの情報が寄せられたのは、ダニーが夜十時過ぎにディマプルの空港に単身到着し、駐車場の外れで地元警察の担当者と落ち合ったときのことだった。
アムリタという女性警官は小さな車にダニーを乗せ、状況を説明した。運転手によると、客の中年男はカジノで遊んでグワハティーにもどってきたあとで料金を支払うと約束したものの、カジノで起きたひと騒動のなかでほかの車に乗って逃げてしまったという。警察がすぐにカジノに向かい、そこの支配人に話を聞こうとしたが、ぼやがあったらしく支配人は大やけどを負っていた。そこで残っていた従業員たちに古城晋治の写真を見せて回ったところ、晋治が乗りこんだのは、マツ族解放戦線のメンバーの車であることが判明した。
ディマプルの中心街に向かう車内で、ダニーは沈鬱な気持ちになった。自分がここに来たことをシヴァは察知しているだろうか。テロリストグループと接触を試みようとしていることがわかったのは、ダニーにとって大きな収穫だったが、この先どうすべきか。組織についてはアムリタたちが熟知しているようだったが、シヴァの真意は判然としない。合衆国に反旗を翻したいのなら、もっとほかの国際的な組織に接近すればいいものを。いったいやつはなにを考えている。だがとにかくいまは、晋治をこの街に足止めして身柄を確保するのが先決だ。
「解放戦線はどのくらい危険なグループなのだろう」ダニーは物静かにハンドルを握るアムリタに訊ねた。
「誘拐や脅迫、リンチ、それに殺人。この州で起きる公安事件のほとんどにかかわっています」
「資金源は?」
「ケシです。ジャングルにいくつも畑を持っています。それを栽培してアヘンを抽出し、ヘロインに変えています」
「それを密輸しているというわけか」
そんな古典的なテロ組織にシヴァはいったいどんな用があるというのだ。
三十五
中隊長と伍長、ボンタとおれ、二組に分かれて二頭の象の背に揺られながら夜の山を進んだ。補給地点の村がこんなに近くにあったなんて、驚くっていうより拍子抜けだったよ。谷間の川沿いにバナナの葉っぱで葺いた小さな家が並んでいたんだ。トンガアリという村で、英語を話す象使いの男に族長の屋敷に連れていかれた。そこで食べものと水をもらって、あとはぐっすり眠ったよ。昏々と、死んだようにね。
朝起きてまた驚いた。
谷間っていうのは、高さ百メートル近い急峻な二つの崖の間のことだったんだ。渓流をふくめ谷幅は五十メートルもなかった。これじゃ一日のうちで日光が差す時間がきわめて限られるはずだが、村の上流域にはウナギの寝床のような田んぼがいくつものびていた。人間ってのはすごいもんだよ。どこでだって暮らしていこうと知恵を絞るんだな。思っていた以上に大きな村だった。ぜんぶで二百人ぐらい住んでいるという話だった。
首飾りをしていた象使いの男はメガシュという、族長の息子だった。イギリス統治のコヒマの街で寮生活をしながら学校に通わされたそうで、英語はそこで身に着けたらしい。キリスト教教育も受けたって話していた。けど、自分たちはマツ族という部族で、鉄砲で脅しつけて侵入してきたイギリスとは敵対している。その意味では日本軍には期待しているってなことを言う。でもな、村の連中だって客観情勢はわかっていたし、おれたちの姿を見りゃ、誰だってこりゃダメだってわかるわな。
それからメガシュに村はずれの家に連れていかれた。そこに一人、伏せっていた。コースケだよ。助けてもらっていたんだ。ボンタと抱き合って喜んだよ。でも容態は良くなかった。完全にマラリアにやられて意識は朦朧としていた。うわ言のようにこうつぶやいてたよ。
「こうなること、ここに来ることが運命だったんだ。逆らうことはできない。だから悔やんだりはしないぞ。これでいいんだ。これがすべてなんだ。なにもかも受け入れるよ。ただな、エイジ、ボンタ、おまえたちのことは忘れない。心の底から感謝してる……」
だからおれもボンタもあれこれ思案してさ。やつのためにもしばらく村に置いてもらって、ぞんぶんに体力を回復してからまた下がろうってことになったんだ。
族長のじいさんは、おれたちを大歓迎してくれて、戦争なんてやめてここで暮らしたらどうだって持ちかけてきた。ボンタもおれも「娘たちの婿にならんか」って真顔で懇願されたよ。年寄りの娘だから、いったい何歳かと思ったら、まだ十四歳と十二歳だって言うじゃないか。妻が五人、子どもは三十九歳の長男を筆頭に十八人。メガシュはその一人だ。ようするに一番精力絶倫の男が族長になったってことなんだろう。精力イコール腕力だとしたら、なるほどと思っちまうよな。
族長はおれたち四人を田んぼのさらに上流に案内した。いいものを見せてやるってね。お寺があるっていうんだ。ヒンドゥー教でも仏教でもない、自分たちの信仰の象徴だって。「象の還る寺」そう呼んでたな。川面を覆うように広がるジャングルを抜けた先に忽然とそれが現れたときは、息を飲んだよ。崖を削って作ってあったんだ。高さ三メートルぐらいだったかな。大仏さんみたいな仏像さ。顔つきはインドっぽかった。妙な感じがしたんだよ。仏像のまわりに落ち葉みたいなものがたくさん彫りつけてあってね。でも葉っぱじゃないんだ。それで伍長が「こりゃめずらしいや」って、死んだ兵隊と交換してきたカメラで記念撮影しようって言いだしてさ。中隊長と伍長とボンタとおれで仏像の前に並んで、メガシュにシャッター押してもらった。
夜は族長の屋敷でいろんな話を聞かされた。人間も象も、みんな一つなんだって話もね。神さまって言えばそれまでだけど、大きな存在があって、最後はその「眼」の内側に入って一つのものを見るんだみたいなことを言ってたかな。そうそう、池のことを聞いたのもそのときだよ。象たちしか知らない秘密の池が森の奥にあるって言うんだ。そこは始まりも終わりもない、時の流れもない、ただ静かで穏やかな場所だっていう話だった。
でもね、話はそこまでだった。
その晩、二時か三時ごろ、ドッカーンってものすごい音が響きわたってさ。なんだなんだって外に出たら、もう昼間みたいに明るくなっていた。英軍の戦車が下流から迫ってきていたんだ。日本兵狩りだよ。ひどいもんだった。大砲一発で何軒も家は吹っ飛んじまった。取るものも取りあえずに飛びだした中隊長と伍長は、川向こうのジャングルに逃げようとしたんだが、あっさりやられたよ。戦車の機銃掃射をもろに食らったんだ。
あとは上流に逃げるほかなかった。おれとボンタでコースケに肩を貸してそっちに向かって一目散さ。食糧を持ちだせばよかったんだが、手にしたのはやっぱり小銃、それと伍長のカメラだった。あれこれ考えてる余裕なんてなかったからね。村はあっという間にめちゃくちゃにされてしまったんだ。本当に悪いことをしたよ。おれたちが行かなきゃ、あんなことにはならなかったのに。ボンタは泣いてた。あいつ、そういうところがあるんですよ。やさしいんだな。村を守らなきゃ、村を守らなきゃってずっと言ってたんだ。真っ暗闇のなか、必死に逃げるしかできなかったんだけどね。
どんどん、どんどん上流にね。
昔の三人組でね。
やがて寺も越えて砲撃の音も聞こえなくなったんだけど、それでもおれたち、逃げつづけた。一時間くらいかな。川沿いを進んできたのに、いつの間にか水の流れが途切れていた。そのとき、ふっと感じたんだ。もしかするとここは、来てはならない場所なんじゃないかって。そんな場所に足を踏み入れてしまったんじゃないかって。
だって、なにかいたんだよ。
そこに。
じっとこっちをうかがってたんだ。
みんなしてね。
三十六
するりと腕がらくになり、ぼくは絨毯のうえに放りだされた。
ニキルはぼくに目もくれずに煌々と輝くスマホのディスプレイに見入っている。ヒロミが例の写真を表示しているのだ。
「シンジ、これは音声入力できるタイプのスマホなんだろう」ニキルが訊ねてくる。
面倒な話はここではできない。「そうだよ。そういう設定なんだ。ぼくはその青年を捜しにバラナシからやって来た。二十年ぐらい前に亡くなったムンバイのビジネスマンの生まれ変わりだという話を聞いてね。生前の体験を細かく話すことができるらしいんだ。その話を教えてくれた女性がバラナシにいる。彼の居所を突き止めたら、彼女に電話をかけて話してもらうつもりだ。それで輪廻転生が本当かどうか見極められるんじゃないかと思って――」
「生まれ変わりだと……」ニキルは画像を見つめながらつぶやく。「この男がそうなのか」
「そうだ。究極の神秘だと思わないか。死を乗り越えた先にまた生がやって来るんだ」
「シンジ、よく聞いてくれ」ニキルはかぶりを振りながら元の穏やかな声音で告げる。「この男が生まれ変わりかどうかということより、きみがどうしてこの写真を持っているのか。そのほうが気になるな。なあ、そうだろ、リポ」ニキルはそう言いながら仲間たちにも見えるようスマホを引っ繰り返し、画像を高々と掲げる。
「シャルマだね」画像をじっと見つめてからリポが口にする。「まちがいない。あそこだ」
「シャルマ……集会場かなにかなんだろう」
「集会場?」ニキルはめずらしい生きものでも見つけたかのように無邪気に驚いてみせる。「たしかにわれわれの集まりによく使うが、決起集会のようなもので使ったことはない」
「メシを食って、酒飲んで、あとは騒ぐだけだと思うけど」リポはくすくすと笑いだす。
「この写真は防犯カメラの位置からの撮影だね、シンジ。店の主人は食い逃げ犯を捕まえるために防犯カメラを取り付けたんだ。決してSNSにさらすつもりはないはずだ。もしそうならわれわれが黙っていないだろうからね」
「この写真はさっき話した女性から転送してもらったんだ」正直に告げる。「彼女がどこから入手したかはわからない」
「シンジ、きみは何者なんだ。旅行者にしては荷物がすくなすぎるし、言ってることもよくわからない。もしかしてわざとわれわれに接近してきたんじゃないだろうね。日本人でしかもそれなりの年齢の男性だ。われわれが一番疑わない部類の相手だよ」
この場で自分が新聞社の人間であることを伝えるのは、まったくもって得策でない。運び屋に仕立て上げられるどころか、ケニー同様、毒蛇の森に置き去りにされるにちがいない。靴を脱がされて。
「信じてくれ。他意はないんだ。ただのサラリーマンだ。休暇をつけてインドにやって来た。そうしたらおもしろそうな話を聞いたんで調べてみようと思っただけだ」
「おそらくこの写真は一か月ほど前、十二月の初旬に撮ったものだろう」
「わかるのかい。最近撮られたものだって話だったけど」
ニキルはぼくの問いかけを無視してリポたちに告げた。「出かけるぞ」
男たちはいっせいに立ちあがり、ぼくも腕をつかまれる。あやうくデイパックを忘れるところだったが、さっとそれをつかむなり、引きずられるようにして外に出る。錬鉄製の門のわきに倒れこむようにしてうずくまる二人の物乞いの女たちを無視して、男たちは路駐した幌つきの大型トラックに乗りこむ。運転席に座ったリポの隣に座らされ、ぼくを挟んで助手席にニキルが陣取る。彼はぼくのスマホを握りしめたままだ。
使い古したエンジンが咳きこむようにうなりをあげ、高い位置にある運転台がぶるっと震える。重たいクラッチを踏みこんでリポがドラムギアをローに入れ、地滑りでも起きたかのようにガムテープであちこち修繕されたシートに体が吸いつけられる。
物乞いたちが運転席にすがりつく。骨ばった腕をのばし、施しを乞う。こんな凍てつく真夜中に。夜明けなどもうこの先出会うはずがないと絶望し、いまがすべてと命を燃やしているかのようだった。そんな彼女たちに向かって、リポは窓を開け、小銭を投げつける。女たちは暗闇のなかでサリーをはだけながら、一ルピーでも見逃すまいと埃っぽい地面に這いつくばる。金持ちたちに搾取され、虐げられる辺境の者たちにさえ踏みつけられる者たち。空腹を満たすことで精いっぱいの、なにも持たざる者たち。物好きが高じて危機に陥った呑気な日本人のことなんて気に留めるゆとりすらない者たち。
幌つきトラックは土煙のなかに彼女たちを置き去りにして、出口のない闇の奥へと走り去る。
三十七
冷気を切り刻むヘッドライトだけを頼りに真っ暗な山道をどこまでも分け入った。足腰にガタのきた日本の中年男を始末するのに、こんなに大勢でしかもこんな山奥にまで出かける必要があるのか。もしかしたら射殺以外のなにかべつの選択肢を用意してくれていて、それを実行する場所にまでみんなでいざなってくれているのかもしれない。そんなほのかな期待が浮かんでは、むなしく消えていく。彼らが携帯する銃は人を撃ち殺すためのものだ。脅しつけるだけの道具ではない。
気が狂いそうだった。吹きだし口からあふれてくる強烈な暖房と砂利道のひどい揺れで気分が悪くなり、さっきまであんなに興奮してかきこんでいた夕食をひざのうえにぶちまけそうになる。じっさい、ニキルに向かって「ストップ、プリーズ」と何度か告げたのだが、まったく聞く耳を持たれなかった。
深夜一時半、雲間から満月が顔を出していた。
トラックは突如開けた場所に出た。月明かりに目を凝らすかぎり、谷あいの平地のようだ。ようやく運転台から下ろされ、ひざに手を置く。凍える寒さがいまは心地いい。懐中電灯を持った男たちにせかされ、石ころだらけの道を歩かされる。緑と土のにおいが濃い。かなり奥深くまで入ったらしい。
建物があった。牛舎のように細長く、こんな時間なのに明かりが煌々と漏れている。機械の音がする。なにか作業をしているようだ。その外れで焚火が燃えていた。ドラム缶からいきおいよく炎があがっている。それがマニカルニカーガートの火葬場を思いださせた。つまりぼくはあそこで焼かれるのか。
生きたまま?
ぞっとして足がとまる。
「さあ、行くんだ、シンジ」リポがうながす。「すなおにおれたちの仲間になればよかったのに」
焚火の明かりが建物の奥にのびる丸太の柵のようなものをぼんやりと照らしだす。その向こうで巨大な影がいくつかうごめいている。異様な光景に足がふたたびとまる。
「象がそんなにめずらしいか」リポが言うと仲間たちが大声で笑いだす。
「森に入るには彼らの力と知恵を借りるんだよ」ニキルだけがぼくの疑問に率直にこたえてくれた。
建物はドアが開放され、白々とした蛍光灯の明かりのなか、男や女たちがせっせと働いていた。農作物の加工場のような雰囲気だった。
「こんな時間でも働いているんだ」
「昼間は山仕事があってね。ここでの作業はどうしても夜中になってしまう。もちろん仕事はシフト制さ。彼らは夜勤班でね、完成品は朝方出荷することになっている」
頭に青いストールを巻きつけたジャンパー姿の男が焚火を守っている。小柄で少年のようだったが、こちらに背を向けて炎のほうを向いているから顔はわからない。暖気に吸い寄せられるようにぼくは自分の足で近づいていく。
ニキルが教えてくれる。「彼は工場勤務じゃないんだ。森での作業を担当している。サンジェイ、おれの親友さ」
ニキルの声に男が振り返る。薄い色のサングラスの奥で暗い眼が友人の隣にたたずむ中年男を見据え、ぼそりとつぶやく。年はニキルとおなじぐらいだろうか。これが写真の男なのか。暗くて判然としない。ニキルが話しだす。ぼくが彼の写真を持っていること、それはシャルマという食堂で撮影されたものであること、そして彼がムンバイのビジネスマンの生まれ変わりであることをたしかめにぼくがやって来たこと、そんなような話をしているのだろう。でもスマホが手元にないからヒロミに通訳してもらうこともできない。
ニキルの手元が輝きだす。
ヒロミだ。
画像を表示しているのだ。ニキルはいぶかしげな目をぼくに向けてから、画像をサンジェイという男に見せる。男の顔に光が差す。たしかに顔だちは写真とそっくりだ。ニキルたちとはあきらかにちがう、純然たるインド系の顔をしている。
ぼくはデイパックに手を突っこみ、片方のイヤホンを耳に突っこむ。ヒロミが通訳を開始している。
「……おまえが本当に誰かの生まれ変わりかどうか、そんなことはおれは気にしていない。それよりもこの世界のどこかに、おまえのことに興味を持っている人間がいる可能性があるってことなんじゃないのか」
「いったい誰なんだろう」
「ここにいる日本人に聞いてみるんだな。通訳してやるから」
ニキルはスマホをぼくに返し、事情を友人に説明するよう圧をかけてくる。「あいつとは十歳のころから友だちなんだ。二人してひどい目に遭ってきた。けど、あいつは『ぼくは生まれ変わったんだ』っていつも言っていた。それは輪廻転生なんて意味じゃないとおれは思うけどな。つらく厳しい時代を封印したい。その気持ちが強いんだろう」
「それでぼくをここに連れてきたのか」
「あんたは運び屋になる運命だった。もう家族のところへはもどれない。おれたちの奴隷になるはずだったんだ。けどその写真のおかげで命拾いしているんだよ。いまのところはな」
「いまのところ……」
「そうさ。さあ、話してもらおうか。サンジェイには封印しきれない過去、忘れようにも忘れられない記憶があるみたいなんだ。『生まれ変わった』なんて言いながら、ずっと引きずっているものがあるんだ。おれもサンジェイも、誰からも顧みられない少年時代を送ってきた。人身売買さ。十歳のころまで、それぞれべつべつの主人のもとを転々としてきたんだ。奴隷だよ。本物の奴隷さ。そのサンジェイにいまになって会いたがるなんて、いったいどんなやつなんだ。なあ――」
「わかった。彼のことを生まれ変わりだと言った知り合いに電話をかけてみるよ。それで話してみればいい。だけど、まさかこんな夜中に電話することになるとは――」
いきなり電話が鳴った。
ぼくのスマホだ。
「答えが一つ出たわ」ディスプレイではヒロミがこの場にもっともふさわしくない微笑を浮かべている。口に出しては言えないが、こういうところが機械だ。ぼくが生命上の危機に陥っているっていうのに、ピント外れなことを平気で言う。まあ、人間でもそういうタイプはいるけど。たとえばうちの女房なんて――。
待て。
答えが一つ出た……ってなんだ? まだ輪廻転生のことはサンジェイに訊ねていないぞ。「サナエさんに電話をかけないと。生まれ変わりの話を――」
話している途中から画面が切り替わり、サナエが現れる。「たいへんだったみたいやね、古城さん」
「サナエさん、写真の彼を見つけたみたいなんだ。話を聞いてくれるかな」
「まずはその子に画面を見せてやってや。あとはわたしが彼に説明するわ。ヒンドゥー語で話すけど、ヒロミちゃんが日本語に訳してくれるから聞いといてや」
大いなる疑問がわき起こる。
どうしてサナエさんがヒロミを知ってるんだ。ぼくはサナエさんと話をした。けど、ヒロミのことはいっさい口にしていない。焚火の前で男たちに囲まれながら混乱する。画面にさらに別人が映っていた。二秒か三秒、思考が停止し、そこに現れたインド人らしき若い女に逆に見入られたかのように、息ができなくなる。
うつろな瞳。
失われた表情。
あの子だ。
記憶がよみがえる。ムクティ・バワンで死を待っていた難病の彼女――。
「AMALA」
画面の下にテロップのように表示される。彼女が自らタブレットを操作しているのだろうか。
「シンちゃん、彼にスマホを見せて」イヤホンにヒロミがささやく。「アマラを会わせてあげて」
「……どういうこと……?」
「いいから、早く」
言われるがままにぼくはサンジェイの隣に近づき、ディスプレイを見せる。
「SANJAY」
サンジェイの手がすっとあがり、スマホを奪い取る。
震えている。恐怖にも似た激しい感情の波に襲われて。画面には、ぼくが読めないインドの文字がゆっくりと出現する。アマラが自ら打っているのだ。
押し殺した嗚咽が漏れる。サンジェイだ。ニキルをはじめ男たちが彼の背後に集まってくる。焚き木がパチパチと爆ぜ、そのたびに火の粉が真冬の星空に舞いあがっていく。十中八九、彼らの資金源となる植物を加工している深夜稼働の工場では、こちらのことなど気にもとめずに男や女たちが日銭のためにせっせと作業をつづけている。いつの間にか入り口のところには、全身をサリーで包んだ物乞いの女が二人へたりこんでいる。ひと粒の米のために工場のまわりをうろついているにちがいない。だがこのまま凍死しても顧みられることはないだろう。
アマラの車いすの背後にそっとサナエが現れ、スピーカーを通してヒンドゥー語で語りかける。かつて奴隷だったという少年に向かって。凍てついた時の闇に光を当てようとして。




