第三部 二十八~三十二
第三部「おまえがそれである」
二十八
「マジかよ!」
認めたくない気持ちが強過ぎて、けんかを売るように大声を出してしまった。おばちゃんは火がついたように現地語でまくしたててくるが、そんなものどうでもいい。靴を履いたまま眠りこけていたぼくは、痛む頭を抱えてベッドから転がりでて、どこかの隅にデイパックが押しこまれていないかあちこちに目をやる。
グワハティ駅だった。ホームの時計は午後二時四十分を指している。鉄道員を見つけ、いったい何時に着いたのか訊ねてみる。でも英語がまったく通じない。ぼくは駅の事務室に向かう。背の高い金髪、ひげもじゃの白人男、大きなバックパックとデイパックをさげた男、そういうやつを見かけなかったか。
そう訊ねようと必死に頭を働かせつつも、自分にダメ出しをする。やつはたしかにグワハティまで乗ると言っていたが、お宝を手に入れたあと、眠りこけたカモの横に腰かけたままどうして終着駅まで同行する必要がある? でもそんなこと考えちゃダメだ。ヒロミと対話するためのスマホはもちろん、財布もパソコンも、それになによりパスポートも。なにもかもぜんぶ突っこんだデイパックを奪われてしまったのが事実だとしたら、国境なき医師団のドクターだなんてウソをついてぼくを信用させ、睡眠薬入りのアールグレイで眠らせたあの金髪ひげもじゃの詐欺師は、この駅になんらかの痕跡を残している――。
そう信じるべきなんだ。
血相を欠いたまま駅の事務所に転がりこみ、そこにいた制服姿の男に必死に訊ねる。幸い男は英語を理解したが、首を振るばかりだ。当然だ。もっと手前の駅でトンズラしたんだ。底知れぬ絶望感に襲われ、駅舎を出て街をさまよいだす。祖国からはるか遠く離れた異国の地、それも最果ての小さな街で、正真正銘の一文無しとなってしまった。身分を証明するものもない。デリーで買ったパンツのポケットに汚れたハンカチが一枚突っこんであるだけだ。
いったいここでなにをしている?
ズキリとくる痛みは頭でなく、胸の奥深くに襲ってくる。いい年こいて、調子に乗って自由奔放なバックパッカーぶるからこうなるのだ。
警察だ。
こういうときの常道だ。それで大使館に連絡を取ってもらい、電話をつないでもらって妻にこう告げるのだ。ちょっとマズいことになっちまって……。
クラクションが鳴り響く。車でごった返す大通りの真ん中にたたずんでいた。怒鳴り声も聞こえる。みんながぼくを非難していた。だけどバラナシのマニカルニカーガートで起きたような奇跡は起きない。サナエのような救世主は現れなかった。倒れんばかりの足取りで道の端までたどり着き、空をあおぐ。真っ青に晴れわたっている。寒い。
異様に寒い。
列車内で調べたグーグルマップ情報を思いだす。ここは山岳地帯の入り口にあるのだ。鼻息が湯気のように空に立ちのぼっていった。警察に行けばダニーの知るところとなる。旅はそこで終わりだ。ぼくにあたえられる宿舎は、ハワイ島とおなじ留置場だ。そのときぐいと腕をつかまれる。
「サー!」
いきなり耳元で叫ばれた。インド人というよりアジア系、それもチベットやモンゴルといった北方系の顔だちをした少年がぼくのことを引っ張っていた。
「サー! ポリース! ポリース!」
子どもの手を振り払う。少年はむっとしたような悲しいような目で見あげる。汚れたシャツに擦り切れたズボン。穴の開いた靴。まだ十歳ぐらいか。この年で詐欺師まがいのガイドではないだろうし、ましやケニーのような正真正銘の悪党であるわけがない。恨めしそうな目つきが胸をかきむしる。でも待ってくれ。警察にもう捕まるなんて。
「カム、カム」
思い直したように少年は怖々と手招きしながら道を進む。気持ちとは裏腹にそれについていってしまう。警察に捕まるのは不本意だが、心の半分ではそれをねがっている。
駅前にあるような雑誌スタンドのカウンターで丸眼鏡の老人が電話をしている。レトロな有線電話だった。老人は電話をしながら鷹のような目でにらみつけてくる。
「カム、カム、ポリース」
少年の言葉にあらためて不安をおぼえたとき、老人がぶっきらぼうに受話器を突きだしてくる。何事か言い放つがまったくわからない。受話器をつかむよう迫っている。恐るおそるぼくはそれをつかむ。
「ハロー……」
「時間がないの。いいこと、よく聞いて」
警察だと偽って電話してきたのだ。安堵が胸に広がる。「ヒロミちゃん! スマホもパスポートも財布もぜんぶ盗られてしまった!」
「わかってる。ほんとにマヌケなんだから。けど、起きてしまったことはしょうがないわ。それにそんなところをふらついていたって、あの男は見つからない」
「きみはいま、どこにいるんだ」
「どこにいるかと言えば、それは正確に言うなら本部の地下よ。ラングレーの。そこのサーバーのなか。でも知ってのとおり、わたしはどこにでもいる存在なの。わかるでしょう、それは」
「カメラか」ぼくは老人が営む雑誌スタンドを見回す。天井の端に監視カメラが据えつけてあった。こんな田舎町でもIT化だけは進んでいた。「ずっと見ていたのか」
「ずっとじゃないわ。カメラのあるところであなたを探しつづけていた」
「それで電話を」
「そうよ。でもあんまり長電話はダメ。危険なのよ。探知されちゃう。一分ぐらいがせいぜいよ」
ハワイ島のホテルで部屋の電話にヒロミがかけてきたことがあった。あのときも「こんな電話させないで」と切迫した感じがあった。逆に言えば、ぼくのスマホに彼女が長居していることのほうが奇跡なのだ。探知回避措置、ジャミングを施してあるにちがいない。
「さいわいにもケニーは終点のグワハティまで乗ってきたわ。それで最後にデイパックを盗んだの。それからタクシーに乗っていま移動中よ。スマホの電池がそろそろなくなりそうだけど、なんとか捕捉できてる。いまなら間に合うわ。あなたのいるところから五キロぐらい先を進んでいる」
「どこに向かってるんだ。」
「ロイヤル・キャッスルってところ。調べてもよくわからないんだけど、運転手はちゃんと場所を知っていたわ。だからあなたもタクシーつかまえて急いで追いかけて」
「パスポートはだいじょうぶなのか」
「スマホはデイパックのサイドポケットに突っこまれたまま。そこからだとよく見えないのよ。ほかの監視カメラの映像を見るかぎり、パスポートを取りだしているところは映っていないけど、はっきり言ってよくわからない。とにかく急いで」そう言うと電話は向こうから切れた。
タクシーをつかまえろだって……?
目の前に手を突きだし、チップをねだる少年をぼくは見つめる。その手に小銭を握らせることはできない。無一文なのだ。でも残された道は一つしかない。ためしにロイヤル・キャッスルについて老人に訊ねてみるが、そもそも英語が通じない。だが少年が答えてくれる。「ロイヤル・キャッスル? OK、カモン。タクシー、タクシー」逆もどりして駅のほうへとすたすたと歩きだす。わらをもつかむ思いでついていく。街のあちこちにある監視カメラをのぞきこみながら。ヒロミがずっと見守ってくれていることを祈る。
少年は駅前のタクシー溜まりに向かったわけではなかった。駅を通過し、線路を越えてバラックのような家が建ち並ぶ地区にぼくを連れていく。迷路のような路地をまたしても徘徊させられるのかと暗たんたる思いに駆られたとき、少年は自動車整備工場のガレージの前で足をとめる。
真っ赤なセーターに油染みのついた作業ズボンの若者が、開いたボンネットの前でたばこを吹かしていた。すらりとした青年のまわりにきつい臭いが漂っている。少年とおなじアジア系の顔だちだ。そういえば、このあたりはインド系というより、アジア系のほうが多い。ミャンマーやチベットに近いからだろう。少年はぼくのほうを指さし、彼に話しだす。若者ははじめはけげんそうな顔をしていたが、ある言葉を聞いてにやりとする。
ロイヤル・キャッスル――。
若者はぼくに近づいてくる。「行きたいのか、あそこに」聞き取りやすい英語だった。それに「ニホンノカタデスカ」という判で押したような片言の日本語。バラナシのジャンキー野郎が頭に浮かぶ。でももう後がなかった。
「遠いのかな」
「車で三十分ぐらい」
「ホテルとかレストランなのか」
若者は思いきりたばこを吸いこみ、胸にためてから一気に吐きだした。「なかに入ったことはないけど、いいところらしいよ」
「どんなところ?」
「あんた、ギャンブルは?」そのあと若者は“ガールズ”と口走った。案内してくれた少年がニヤニヤしている。察しはついた。
「カジノなの?」
若者はうなずき、もう一度“ガールズ”と繰り返してから言う。「何人か観光客を連れていったことがある。日本人もね」
「きみはタクシー運転手?」
「そうだよ」どう考えても白タクだろうが、若者は背後でボンネットを開いた車に親指を向ける。「往復サービスさ。あんたが女の子たちと遊んでる間、外で待っているから。だけど警察が巡回してるから、あんまり長居はできない」
「オフィシャルなの?」
「ノー、ノー」
闇カジノ、それに娼館か。ケニーはぼくのパスポートや財布やスマホをカタにして遊びに興ずるというわけか。とんでもない野郎だ。
「いくらで行ける?」思いきって訊ねる。所持金があると思わせないと。
「片道五千ルピーだけど、往復だから八千ルピーでいいよ」一万三千円。冗談じゃない。吹っかけられている。でも応じないわけにいかない。
しばらく考えたふりをしてから返事をする。「OK、それでいい。この車で行くのかい」
「ああ、じゃあ、いまから準備するから。先払いでいいか?」
血の気がひく。
落ち着け。
「カネは帰ってきたときに支払う。それができないのなら、ほかをあたるよ」平然とした顔を装い、ぼくは歩きだす。
若造は慌ててついてくる。「待ってくれ、じゃあ、七千ルピー、もどって来たときの支払いでいいから」
ぼくは足をとめる。「ほんとだな。七千、もどって来たときの支払い。いいんだな?」
「いいよ、それで。さあ、乗ってくれ」青年は急いで車にもどり、ボンネットを閉じた。
二十九
どこまで進んでも補給地点の村は見つからなかった。
急な崖をおれとボンタで担架を運ぶのはきつかった。神保の野郎を谷底に放りだしてやろうと何度思ったことか。そのたびに中隊長がびくついた目でこっちを見るんだ。だったら交代してくれりゃいいものを、絶対にそんなことはしない。自分じゃ命令一つまともに下せないくせしやがって、そういうところだけはいっちょ前なんだぜ。
日中は四十度近いし、湿度は最悪だ。アブとかやぶ蚊とか毒虫がぶんぶん飛んでて、たかってきやがる。それにヒルだよ。あいつらが木の枝からぴたぁっ、ぴたぁっと首筋や腕に落ちてきやがる。沼のなかからも靴を這い上ってくるんだよ。ウジが白い悪魔なら、ヒルは赤い魔物だね。そのころには中隊長も伍長もおれもボンタも、みんなマラリアがひどくなっていたから、十メートル進むのも苦しかった。だからいなくなったコースケのこともあんまり気にならなかった。自分のことで精いっぱいだったんだよ。
せめて食いものが見つかればよかったんだけど、食ったら腹が痛くなるような草しか見あたらなかったな。水は泥水を沸かして、泥を濾しながら飲むんだけど、まずいったらなかった。ほかに下がってる兵隊たちの姿はないし、死んでる連中もいなくなっていた。だからみんな、口にはしなかったけど、ルートを外れてるのはまちがいなかった。もう帰れないんじゃないか。朦朧とする頭にそのことばっかり浮かぶんだ。
陽が落ちたらもう動けない。懐中電灯なんてないからその場で朝まで野宿だよ。とりあえず天幕広げて雨をしのげるようにしたら、そこでじっとしてるしかないんだ。
ある晩のことだよ。雨がやんでいたから、おれはボンタと二人でほかの連中から五十メートルぐらい離れたところにある大岩の上に寝そべっていた。
「もし敵さんに出くわしたなら、白旗あげて助けてもらおうや」
おれがそう言うとボンタも「それしかもう方法がないな」って同意してくれた。「だったらコヒマにもどるべきだろうか」
「ムリだよ。いまどこをさまよっているのかわからないんだから。補給地点の村だってまやかしだよ」
「ほんとだな。まやかしだよ。軍なんてみんなまやかしだ」
「うそばっかりさ。上の連中は」
「人のことをばかにするのもいいかげんにしろってんだ」人のいいボンタにしては口汚く罵った。「おれたちだっておなじ人間なんだぞ。犬畜生じゃねえんだ」
「自力でなんとかするしかないな」おれは言った。「あきらめちゃいけない気がする」
「だったら動かないほうがいいんだろうか」
「おれはそう思う。動けば体力を消耗するだけだ」
そんなような話をしながら二人して夜空を見上げていたんだ。満天の星空さ。それまでずっと行軍していたんだけど、あんなにきれいな星空ははじめてだった。そしたらボロボロ涙があふれてきてさ。暗かったからわからなかったけど、ボンタもそうだったんだろう。ふるさとを思いだしちまったんだよ。
新潟の、村上の星空。
もうわかっていたんだよ、二人とも。
きっとここがおれたちの死に場所なんだって。
ビルマだかインドだかわからない山んなかの、平べったい大きな岩の上が。
親も兄弟も許嫁も、誰にも会えずにおれたち死んでいく。敵さんの弾に撃たれたわけじゃないから戦闘死じゃない。退却中に病気になって力尽きてウジにたかられて……。天皇陛下万歳……? これのどこが御国のためになるんだよ。ものすごい矛盾が胸のなかにわきあがってきたんだけど、怒りに打ち震えて眠れないなんてことはなかった。あんまりにも疲れていて、とにかくすこし休ませてくれ。そう思っただけさ。
おれもボンタも。
それに姿が見えなくなったコースケも。
そのときだよ、あの恐ろしい声が聞こえたのは。天幕のほうからだった。
ビルマに入って以来、はじめてだった。うわさには聞いていたけど、ほんとに出るとは思わなんだ。地の底から化け物が這いあがってきたのかと思ったよ。それくらい獰猛な咆え声だったんだ。
悲鳴は聞こえなかった。ただ、くぐもったうめきがしばらくつづいたかな。おれもボンタも息を殺してじっとしているしかなかった。だけど血の匂い、いや、弱った動物が放つ死の匂いにそいつは敏感だった。闇のなかをぴちゃぴちゃと泥を踏みしめながら、こっちに近づいてきたんだ。星明りのなか、大きな影も見えた。背中を丸めたばかでかい野良猫みたいな感じだったかな。ほんの五、六メートル先さ。もうそいつには、こっちが岩の上に潜んでいることがバレてる。けど、おれたちにはどうしようもない。銃も手りゅう弾も天幕のところに置いてきちまったんだから。
だけど神さま、インドの神さまは慈悲をあたえてくれた。おれたちがいる岩を挟んで、その化け物がいるのと反対側にもっと大きな影がぬっと音もなく現れたんだ。じっと佇んでいるだけで、咆えたり、騒ぎたてたりなんかしない。でもその存在感というか、威圧感みたいなものが、おれたちだけじゃなく、化け物にも伝わったんだな。それまでの恐ろしいうなり声がぴたりとやんで、それっきり。森の奥に消えていなくなっちまった。そのとき、まぶしい光が目の前に現れた。
松明に炎が灯ったんだ。
岩の上でそれを掲げていたのは、ビルマやマレーの人たちに近い顔だちの若い男だった。きらきら輝く銀のネックレスをしていたよ。ほかに三人いた。みんな象の背に乗っていた。民族衣装っていうのかな、独特の派手な服をまとっていて、下は半ズボンで腰には短剣を差していた。
「日本兵なのか」
松明の男から聞き取りやすいきれいな英語で訊ねられたよ。アホな話だけど、じつはおれたち、補給地点の村の近くまで来ていたんだ。
「食べるものと寝るところがある」
あのときほどインドの神さまに感謝したことはなかったね。おれもボンタもあわてて天幕のところにもどって荷物をまとめたよ。中隊長も伍長も。けど、神保はムリだった。食い殺されちまったから。
暗がりから飛びかかってきたヒョウに。
三十
トヨタのワゴン車で山道を揺られること三十分、ケニーを見つけられるか不安が募ったが、そんなのは顔に出さないようぼくはハンドルを握る若者にロイヤル・キャッスルについてあれこれと訊ねた。
観光客も地元の人間もよく遊びに行く場所らしく、彼は何度も送迎しているという。女の子たちはミャンマーからの出稼ぎが多く、全員十代だから心配するなと言われた。そんなのどうでもいい。ケニーを見つけてデイパックの中身を取り返すことしか考えていなかった。
森のなかにコロニアル様式の洋館が出現したときは、なるほどと思った。たしかに西洋の城のようであり、王室と言わないまでもこの地を統治した貴族出身の英軍司令官あたりがかつて暮らしていたのではと容易に想像させた。
車は高い塀のわきを通り、錬鉄製の門の前でとまった。黒服にネクタイ姿の男が近づいてきて運転手に何事か訊ね、ちらりとぼくのほうに目をやってから、手にしたリモコンを操作して門を開ける。広い駐車場には十数台の車がとめてある。その向こうに館の正面玄関があった。「先に四千ルピーだ」ぶっきらぼうに運転手が告げる。「おれはここで待ってるけど、半額先に払ってくれよ。四千ルピー」
「四千? 七千の半分は三千五百だろう」ぼくは平然と言ってのける。「それに帰ったときに全部支払うって約束だろ。だいいち、ここでカネを払ったら、きみは帰ってしまうかもしれないじゃないか」
「そんなことしないよ」若者は真顔で言った。「そんなウソつきじゃないさ」
「だったら帰ったときまでがまんしてくれ」自分でもふしぎなくらい強気に出られた。一銭も持っていないっていうのに。「それにもし儲けたらチップも弾むぜ」
若者はシートに小便を漏らしたような顔になったが、それを無視して外に出た。まずは駐車場をぐるりと回る。何台かの車の運転席では、ドライバーがシートを倒して居眠りしている。ぼくの車同様、客を乗せてきたタクシーのようだった。そのなかの一台の後部座席が目に入ったとき、息を飲んだ。見覚えのあるバックパックが転がっていたのだ。
ケニーのだ。
車内をのぞいたがデイパックは見あたらない。なかに持ちこまれ、パスポートやら財布の現金やらクレジットカードやらが遊ぶカネのカタにされたにちがいない。
「グッド・アフタヌーン!」五、六人の女の子たちが取り囲んできた。「ウェルカム・トゥ・エンジェル・クラブ」
エンジェル・クラブ? ロイヤル・キャッスルじゃないのか。それとも別会計の組織なのか。たしかめる余裕はなかった。両腕をつかまれ、エントランスへといざなわれる。分厚いドアの向こうは大理石張りのまさにお城だった。だが耳を弄さんばかりのクラブ・ミュージックがせっかくの興を見事にそいでいた。正面のカウンターのなかから年かさの女の子が二人、微笑みかけてきて、カジノの遊び方を説明してくれる。背後の扉の向こうにカジノがあるらしい。カジノには飲み物を運ぶ女の子がたくさんいるから、いつでも好きなものを注文できる。そして女の子と個別にトークを楽しみたいときは、気に入った子と直接交渉して二階のVIPルームに上がればいいという。そこから先はその子がアドバイスしてくれる――。
いずれにしろその場で求められたのは、入場料三千ルピーの支払いだった。この場でカジノに飛びこんでケニーを捜す手もあるが、おそらく屈強な男たちが飛びかかってくるだろうから、きっと十秒も持つまい。
「現金だけなのか?」ぼくは訊ねる。
「クレジットカードでもだいじょうぶです」
「なるほど」やっぱり外で待っていればよかった。いまになって気がつくが、もう遅い。「最後にまとめて支払いたいんだが」
受付係の片割れが眉をひそめる。それがアラームとなったのか、どこからともなく黒服の男が三人現れ、それまで後ろにいた少女たちと入れ替わってぼくの背後に立つ。
「パスポートをお持ちならディポジットで置いていってくださっても結構ですよ」受付係はぎりぎりの微笑みを浮かべ、最後の提案をしてきた。
一分後、男たちに両腕をつかまれ、カジノやVIPルームを映したモニター画面が並ぶ警備室のようなところに連れていかれた。おなじ黒服たちが十人ほどいて、ボスとおぼしき筋骨隆々としたスキンヘッドの男が、ぼくには到底理解不能な現地語で何事か訊ねてきた。それから身振りで服を脱ぐよう促され、とうとう全裸にされてしまった。彼はぼくが警察のスパイかなにかだと疑っているようすで、脱いだ服のポケットやシャツの裏地を入念にチェックし、盗聴器のたぐいがないかどうか調べている。
ふとモニター画面の一つが目にとまる。高画質のカラー映像でベッドで絡み合う男と女を完璧にとらえていた。女はまだ小学生と言っても通るような少女で体も小さい。顔だちはインド系だが、ことによるとロヒンギャ難民の子かもしれない。快楽に浸っているとは到底思えぬ苦悶に満ちた表情が痛々しかった。彼女よりその相手のほうに息をのんだ。女の子の体に押し入り、骨ばった生っ白い尻を猿のように前後させている金髪野郎は、国境なき医師団の名誉を汚してその名を騙った男――“ケニー”は偽名だろう――にほかならなかったからだ。映像を見るかぎり、ベッドの近くにデイパックは見あたらない。廃棄されてしまったのだろうか。急がないと。
スキンヘッドのボス相手にモニター画面を指さして必死になって事実を伝えた。彼は英語も理解できるらしく、何度もモニターをたしかめてはあれこれと聞き返してきた。話せばなんとかなる。ぼくはさらにまくしたて、相手の目を見て事情を繰り返し話してみた。だが最終的にすべて無視され、額に銃を突きつけられた。そのときになってようやく目が覚めた。いや、本当のところ、ちょっとだけ小便を漏らしてしまった。
殺される。
後ろ手に手錠をかけられ、冷たい大理石の床に座らされた。手錠にはべつの鎖を通され、スチーム暖房用の金属パイプにつながれた。殴る蹴るの暴力はない。でもそれも時間の問題だろう。そう思ったら、世界最高峰を称する人工知能にのせられて浮かれ気分でいたこの四日間の自分の行動が、どれほど愚かしいものであったか痛感させられた。人生ってこうやって終わるんだ。突如、涙がぼろぼろと流れだす。
そのとき強い視線を感じた。
部屋の奥からだった。一人掛けのソファに腰かけた若い男が大きなバッグを抱えながら、じっと見つめていたのだ。さっきの運転手とおなじ東アジア系の顔だちだったが、無精ひげを生やしている。それが冷ややかな視線と相まって年かさに見えた。だが黒服をまとっているわけではない。ベージュを基調とした迷彩服の上下に身を包んでいる。ほかの連中とは異質な存在で、ことによるとぼく同様、歓迎されざる人物なのかもしれない。ただ、拉致されているようすはない。
「……!!」
ふいに男たちの誰かが大声をあげる。モニター画面の一つを指さしている。建物の裏手を監視しているカメラの映像だったが、そこにはヘルメット姿のSWATチームのような小銃を持った連中が十人ほど映っていた。
スキンヘッドが何事か命じた。途端に部屋は蜂の巣をつついたようになった。スキンヘッドはぼくの胸ぐらをつかみあげ、憎々しげににらみつけ、ふたたび銃口を向けてきた。また失禁。いや、こんどはうんこが漏れそうになった。だけど彼はぼくのことより大事なことがあるらしく、ほかの男たちを急き立てて部屋を出ていった。
冷静さを取りもどした。もうお漏らしをする危険もない。天井をさっと見あげる。この部屋もまた監視下にあり、小型カメラがじっと見下ろしていた。外にSWATチームなんて集結していないのはわかっている。
ヒロミのしわざにちがいない。
三十一
サナエという看護師が、古城晋治とシヴァの逃避行に無関係だとは思えない。しかし略歴を調べるかぎり、シヴァの開発研究に関してはもちろん、晋治との接点さえ見あたらなかった。バラナシは古くからバックパッカーたちの聖地だ。見知らぬ者どうしがすぐに打ち解け、いっしょに旅したりする。だからマニカルニカーガートで悪徳ガイドたちを追っ払った縁で食事をしていたという彼女の話も、あながちうそではないだろう。
とはいえ、火と水とクソに関する三行詩はこの街を象徴する葬送儀式とぴたりと符合する。ムクティ・バワンはその儀式へと至るいわばウェイティング・サークルだ。晋治を介してシヴァとサナエが接近したことがまったくの偶然だとは思えない。
彼女の口から有益な情報は得られなかった。ほかの手を見つけて晋治の行方を追うしかなかった。ダニーは靴底をすり減らして旧市街を歩きまわり、ほかのムクティ・バワンも調べてみた。そして翌日の昼過ぎになって情報が得られた。晋治とサナエが食事をした食堂の店主が、ダニーたちのいるホテル・パルカにひょっこり現れたのだ。
ダニーは店主を監視カメラの目の届かぬエリアに連れていった。店主は、晋治が消えた先について自分は情報を持っているかもしれないと伝え、カネを要求してきた。ダニーはこれまで情報屋を何人も雇っているから扱いは慣れていた。いくら必要かこっちから訊ねると、五千ルピーだと言ってきた。
「情報の信憑性が確認できない場合、あなたは捜査妨害容疑で訴追されるが、それでもいいか」
店主は小便を我慢するようにもじもじしたが、それでも「三千ルピーの価値はあると思うが」と言って話しだした。「ディマプルの集会場にいたある男を捜しているようだった」
「ディマプル……ナガランドか」
「ええ、州都です」
「集会場にいた男というのは?」
「写真を見ていましたね」
「あんたは見たのか」
「ほんの一瞬だけでしたが」なんと目ざとい店主だろう。そうやって客の情報を集めているのか。「顔つきは横顔だったからよくわかりませんや」
店主に四千ルピーを握らせて帰らせてから、ボリスがダニーに言った。「ナガランドの一部は紛争地区です。ムスリムたちとはちがった意味で厄介な場所です。古城晋治が自らの意思でそこに向かったのでしょうか」
「考えにくいな。シヴァはいったいなにを考えているんだ」
「あの時間なら、ここから車で一時間ほど離れた駅からグワハティ行きの列車に乗れたはずです」ボリスはすばやく鉄道の時刻表を調べていた。「もう到着している頃かな。そこからバスで移動するのでしょうか」
「わたしの名前は伏せたうえで、ディマプルまでフライトをチャーターできるか。それとグワハティの警察に連絡して鉄道やバスターミナルをチェックさせてくれ」
ボリスはすぐに手配に取りかかった。ダニーは気を引き締めた。どんな僻地であろうと、シヴァの目は行き届いている。こっちの行動は読まれているはずだ。フロントにもどり、チャイをもらうふりをしながらダニーは策を練った。
三十二
全裸で手錠をかけられたまま、モニター画面に食い入った。
不意をつく警察の急襲に黒服ばかりか客たちも右往左往し、賭場から外へ逃げだしている。だが、ケニーはまだ少女を犯しつづけている。気づかないのだ。
べつのモニターに人の背丈ほどもある金庫を開ける男の姿が映っていた。酒瓶がずらりと並ぶ貯蔵庫の一角のようだった。例のスキンヘッドだ。売上金だけは持ちだそうという魂胆だ。と、そのとき、金庫のなかに濃紺の塊が見えた。デイパックだ。やっぱりだ。ケニーを称する男は、あれを供出してギャンブルと淫行を楽しんだのだ。
「ちくしょうめ!」
思わずうなると後ろから声をかけられた。英語だった。
「どうした?」大きなバッグを抱えた無精ひげの若者だった。
「あれはぼくのなんだ。ケニーって白人に奪われて、それで取り返しに来たんだ」
「さっき言ってた話か」
どうやら若い男は、ぼくがスキンヘッドにまくしたてていた話を聞いていたようだ。「カネだけじゃない。日本のパスポートもだ」
「日本人なのか」
「そうだ」
男は肩をすくめて言う。「こんな街になにしに? 観光地でもないし、治安もよくない」
治安良好でないのは、いままさに身をもって体験させられている。それに目の前のこの男が身に着けている迷彩服も物騒だ。「ここはまだ旅の途中なんだ。それなのに泥棒に遭ってしまって」
男はぼくに一歩近づき、しゃがみこんだ。そしてどこからともなく拳銃を取りだし、有無を言わせず発砲した。たてつづけに二発。反射的にぼくはぎゅっと目を閉じる。三度目の失禁。こんどは大も小もいっぺんに出た。
最悪の人生だ。
だが激痛が走ったわけではない。むしろ解放されている。男が撃ったのは手錠だった。「まずは服を着たほうがいい。しっかり尻を拭いてからな」素っ裸のまま床に丸まる日本の中年男に向かって、若い男は鼻を手でおさえながら言った。「あそこは地下倉庫だ。案内する。おれもあそこに用があるんだ。そのほうが手っ取り早い。まだ商売が終わっちゃいないんだ」
部屋のソファにあったクッションを使って尻を念入りに拭い、服を着てから男のあとについていった。階段を下りきり、地下の廊下を急いで進む。すると二メートル先のドアが開き、スキンヘッドが現れた。モニターに映った倉庫らしい。膨らみきったボストンバッグ、それにぼくのデイパックをつかんでいる。
もう勝手に体が動いていた。冷静に考えたら、スキンヘッドのほうが体格がいいし、なにより武装している。それでもとにかく持ち物を取り返したかった。いきなり体当たりを食らい、スキンヘッドはもんどりうって倒れた。ほんとなら相手の息の根をとめなきゃいけないのだが、ぼくにはデイパックにしがみつくことしかできない。スキンヘッドはさっと立ちあがり、わき腹に強烈なキックを見舞った。
息ができない。
助けをもとめて迷彩服の若者に目を向けるが、若者は二言三言、スキンヘッドになにか告げただけで助けてくれない。
そのときスキンヘッドのジャケットの胸元から炎が噴きだした。男は一瞬あっけにとられるが、すぐに両手で炎を消そうと試みる。考えているひまはなかった。倉庫に飛びこみ、ウイスキーの酒瓶をつかむなり、それで男の頭をぶん殴った。瓶が割れ、あふれたアルコールに引火し、たちまち男は炎に包まれた。そのすきにデイパックを取り返し、なかをたしかめる。パスポート、財布、それにスマホ!
「こっちだ」迷彩服がぼくを促す。スキンヘッドは炎のなかで悶えている。
一階にあがり、あたふたとする黒服たちの合間を縫って駐車場に出る。だが自分のタクシーが見つからない。パニックに陥りかけたとき、スマホが鳴る。
ヒロミだった。
「あなたのドライバー、どっかに行っちゃったわ。いいから、その人の車に――」そこまで聞こえたところで電話が切れる。
電池切れだった。
だがヒロミの言うとおりだった。もたもたしていられない。大やけどを負ったスキンヘッドが機関銃でも乱射してきそうだった。そのまま迷彩服のあとについていき、駐車場の外れにとめたランドクルーザーの助手席に便乗する。
エンジンをかけたとき、もう一人、便乗希望者が現れた。後部座席の窓をガンガンと叩いてくる。
ケニーだ。
「あの男だ! あいつがぼくのデイパックを盗んだんだ」
「なるほど」そう言うと迷彩服の若者は、こともあろうにロックを外し、やつを乗せてしまう。なんてこった。
ケニーはかろうじて服は着ている。異変に気づいて逃げてきたらしい。バックパックもない。やつもドライバーに逃げられたらしい。車は猛然と走りだし、森のなかをどこまでも分け入っていく。その間、ぼくはずっとデイパックを胸にぎゅっと抱え、跳ね回る心臓を鎮めようと深呼吸を繰り返す。
ケニー。
憎たらしい詐欺師め。
「シンジ、無事だったんだ。おれの運転手は先に帰ってしまった。バックパックを持ったままね。でも貴重品は身に着けてるから心配ない」
貴重品をすべて入れたぼくのデイパックを奪っておきながら平然と声をかけてくる。もちろんぼくは無視する。どこかそれなりの街まで乗せていってもらったら、さっさとこんなクソ野郎から離れないと。
つづら折りを抜け、車は未舗装の林道のような道に入っていく。頭上を覆う緑のトンネルをさらに五分ほど走ったところで車がとまる。沼地のような場所だった。
「どうしたんだい」ケニーが穏やな口調で若者に訊ねる。
「降りるんだ」若者はぼくの手錠を破壊した銃をふたたび取りだし、ケニーの額に向けた。
「おいおい、どういうことだよ」戸惑いながらもケニーはあわてて車外に転がり出る。
ハンドルを握る若者はめんどくさそうに窓を開け、言い放った。「靴を脱いでこっちによこせ」
「なんだって?」ケニーは困惑している。
森に銃声が二発響いた。ケニーが撃たれたわけじゃない。でもやつに靴を脱がせるには十分だった。脱いだ靴を運転手に渡すなり、ケニーは射程距離から逃れようと後ずさった。その足元にさらに二発が撃ちこまれ、やつは四つん這いになって泥のなかを逃げ惑った。
車は猛スピードでバックを開始し、開けた場所で方向転換した。「あそこは毒蛇の沼なんだ。運がよければ帰ってこられるけど、靴がないとケガをするだろうな。サメとおなじでやつら、血の臭いを嗅ぎ分けられる」
若者はぼくのかわりにお仕置きしてくれたというわけだ。助けてもらったし、感謝するほかない。「ほんとにありがとう。これで日本に帰れるよ。ぼくはシンジだ」
「おれはリポ。シンジ、すぐに帰るのかい?」
訊ねられて自問する。「いやぁ……行きたいところはあるんだけど」
「どこだい?」
「ディマプルさ」
「偶然だな。おれはディマプルに帰るところなんだ」
「さっきの場所で商売をしてきたのかい」
「ああ、そうだ。あいつら、代金の支払いを渋りやがった。それで文句を言ってたところにあんたが連れてこられたんだよ」
「代金は回収できたの?」
リポは迷彩服の胸元のジッパーを開け、そこに詰まった札束を見せた。ぼくがスキンヘッドと格闘している間にくすねてきたのだろう。
ぼくが眉をひそめたのに気づいたらしい。視線を前方にもどし、言い訳するようにぼそりとつぶやく。「へんに思うなよ。まっとうな商売さ」
「商売か……なんの商売なんだい」よせばいいのについ訊ねる。迷彩服に拳銃。どう考えてもまともな商売には思えないのに。
「マツの作物さ。おれたちはただの農家だ」
「マツって」
「ナガランド州の山あい、マツ族が暮らすエリアさ。カジノのやつらとは長い付き合いなんだが、時々渋るんだよ。でも今回はうまいこと回収できた。正当な代金さ。だけどふしぎだな。警察なんてどこにもいなかったじゃないか。それにどうしてやつの体から火が噴いたのだろう」
そう言われ、ヒロミのことを思いだす。デイパックに手を突っこみ、スマホをつかみだす。電池切れだった。リポに充電できないか訊ねたが、かぶりを振る。「ディマプルにもどるまでムリだね」
溜め息をつく。だがスマホもパスポートも財布も取りもどしたのだ。いまは彼を信じるほかなかった。「さっきはほんとにふしぎだったね。スマホが過熱して発火でもしたのかな」きっとそのとおりなのだろう。ハワイ島の警察署でスマート家電のレンジが発火したのとおなじだ。スマホのアプリを一斉にフル稼働させ、発火に至る高温状態を作りだしたのだろう。ヒロミが。
「もしあんたさえよければ、ディマプルまで乗せていってやろうか。向こうに行けば、おれがどんな商売をしているかわかるだろうし」
「ありがたい。料金は支払うよ」
「いいって。ここから六時間ぐらいかかるから、話し相手がいたほうがいい。眠くならずにすむからね。それに日本人は大好きなんだ。約束をきちんと守るし、白人みたいにおれたちのことをバカにしていない」
「おなじアジア人だからね」
「アジア人といってもインドの連中は、おれたちとおなじじゃない。やつら、むしろ白人とおなじだよ。おれたちのことを虫けらとしか思ってなくて搾取することしか考えていない」山道を走り抜けながら、リポは民族対立のようなことをさらりと口にする。「あいつらとおなじ国には暮らせないよ。でも商売の相手にはなる。ところであんた、日本ではどんな仕事を?」
「しがない会社員、サラリーマンさ。今年で五十六になっちまった。リポはいくつだい」
「十八になったばかりさ」
あらためてまじまじと彼の顔を見る。二十歳は過ぎていると思っていた。「驚いたな。ずいぶんと大人っぽいな」
「子どものころから商売してるからね。生きるためにいろんなことを身に着けてきた。人を殺したことだってある」ケニーに銃を向けたのは冗談ではなかったらしい。急に居心地が悪くなってきた。それを察してリポがつづける。「観光客を襲ったりはしない。それはインドの連中のやることだ。正義に反する。とくに日本人とは仲良くしたいんだ。いっしょに戦った仲だっていう話じゃないか」
いったいいつの話をしているのか見当もつかなかったが、話を合わせるしかない。「マツってどんなところなんだろうね」
「暮らしやすい場所だよ。日本での仕事がつらくなったのなら、あんたも移ってくるといい。仕事は世話する。そうだ、すこしアルバイトしてみないか。たいしたカネにはならないけど、おれたちのこと、よくわかるんじゃないか。何日か泊まって、いっしょに仕事してみたら」
「どんな仕事なの?」
「農業さ。着いたら説明するよ。けど、あんた、どうしてディマプルなんかに?」
晋治は話してみることにした。「生まれ変わりってわかるかい」
「生まれ変わり……なんの話だい?」
時間はいくらでもある。ヒッチハイカーならではの気の利いた話になればと思いつつ、サナエから聞いた話をリポにしてみた。自分でも頭のなかを整理する必要もあった。そもそも輪廻転生なんてじっくり考えてみたことはなかった。
「つまりシンジ、きみはその男に前世の記憶があるかどうかたしかめることで、輪廻転生が事実であることを証明したい。そういうことかい?」
「平たく言うとそうかな」
「まやかしだよ」ばっさりとリポは切り捨てた。「インドはそういう話であふれ返っている。どの街にもその手の話はあるんだ」
そう言われると気持ちが萎えてくる。たしかに冷静に考えたら眉唾レベルの話だ。「自分でも怪しいとは思っているんだけどね」
「一人旅の目的としてはおもしろいよ」頭を冷やせと言わんばかりにリポは運転席と助手席の窓を開ける。冷たい風を額に浴びてぼくは後悔の坂を下りはじめる。ヒロミの言ったとおり、バラナシでアートマンやブラフマンといった哲学的命題に思いを馳せていたほうが良かったかもしれない。リポは慰めるように言う。「だけどそういうのが存在しないと証明されたわけでもないよね。信じるぶんには悪くない。おれも輪廻転生ってのがあるなら、ぜひとも転生してみたいね。こんなクソみたいない暮らしから」




