四十八~エピローグ
四十八
青と緑の炎のようだったよ。
池から煌々と光があふれ出してきてな、気がついたらおれたち三人とも、水のなかに入っとった。それがふしぎなんだ。ひんやりとしてものすごく気持ちがいいんだが、体が濡れてる感じがしないし、息もできるんだ。水とはちがうんだよ。
光る空気。
そんな感じかな。
象たちが隣をすうっと沈んでいったよ。
光の源になっている墓石みたいな黒っぽくて四角い塊のほう、池の底のほうに向かってな。けど、ほんとは底なんてなかった。それがわかったのは自分たちがいるのが池じゃないって気付いたからだよ。
奇妙な丸っこいもの、ゴム風船のなかに入りこんじまったみたいだった。その中心にあるのが四角い塊だった。石の寝床みたいに浮かんでいて、象たちはそれに向かって引き寄せられているようだった。自力でもがいたり、泳いだりするんじゃなくてさ、向こうから引っ張られている感じだったんだ。
びっくりしたのはそれからさ。おれたちの体まで引き寄せられていたんだ。怖いような気もしたんだが、それは戦闘とか白い悪魔に体を食われることの恐怖とは、まるでちがうもんだった。怖いっていうより、畏れ多いっていう感覚かな。しいて言うなら。
そのうち象たちの姿が見えなくなった。そのあとにおれたちがつづいていた。こりゃ、いったいどうなるんだって思っていたら、耳元でコースケの声がした。それまで瀕死で口をほとんど聞いていなかったっていうのによ。
「ここに来ることがおれの運命、逆らえないんだ。でもこれでいい。これがすべてなんだ。おまえたちのことは忘れない。ありがとう……」
なにをしみったれたこと言ってやがるんだい。おれはやつの目を覚ましてやろうと振り返ったんだが、もうどこにもやつはいなかった。やつだけじゃない。ボンタもさ。こりゃ、たいへんなことになったぞ。そう思ってあいつらの名前を必死に呼んだよ。
でもそのとき気づいたんだ。
おれも消えていたんだ。
体がね。
クソみたいに崩れ去っていた。
あとは感覚っていうか、自分の心だけが残った。それでも見えている。青と緑の光を放つ墓石みたいなものが。おれはそこに吸い寄せられていった。そうか、これが族長の言っていた「始まりも終わりもない、時の流れもない、ただ静かで穏やかな場所」なのかなって、やっと気づいたんだ。
時がないなら、体もいらないのか。はじめからなんにもない状態にもどったのか。存在なんてもう、考える必要がなくなったのか――。
だけど、それでいいのかな、おれの人生……。
気がついたら原っぱで大の字になって寝そべっていたよ。
朝だった。
何時間眠ったんだろう。出征して以来、あんなに深く眠れたことはなかったかな。
起こしてくれたのはボンタだった。
「おい、エイジ、おまえもおなじ体験をしたのか」って聞いてきたから、やつもおなじものを見て、感じたんだなってわかった。
コースケはどこにもいなかった。二人で懸命に捜したけど見つからなかった。けど、おれにもボンタにもわかっていたさ。
あれを見ちまったんだからな。
コースケがどうなったか、考えるまでもなかったよ。すくなくともおれのほうはね。でもボンタはちがった。池や象、それにコースケ。からくりを解こうとするかのようにずっと悩んどった。つぎの日、偵察に来た英軍に捕まって、二人して収容所に送られたあとも、そうだったよ。
終戦を迎え、捕虜たちは順番に解放されて引き揚げ船に乗せられたんだけど、そのなかにボンタの姿はなかった。どこへ行っちまったんだか、とんとわからなかったよ。けど、ほら、時の流れってやつでさ、あんたにもわかるだろう。いくら地獄をともにした親友でもそんなふうになっちまうんだからさあ。戦争が終わって平和な暮らしにもどるとね、執着ってものがさ、薄れていくんだよ。
それは罪なのかな。
おれにはもうわからねえんだよ。
四十九
それは兵隊の幽霊ではなかった。
ボロボロの軍服をまとっているわけでも、脛にゲートルを巻きつけているわけでもない。肩から足下まで色の濃い布をまとっているが、顔や体に灰を塗りたくっているわけでもないから、バラナシあたりのサドゥもどきとはちがう雰囲気だった。しかし見た目は森の隠者そのものだ。
ぼくたちは早暁の薄闇と冷気、そして竹藪のざわめきのなか、どこからともなく現れた相手と息を詰めながら、身動き一つできずに対峙した。そこへサーチライトをさげてサンジェイがもどってくる。逃げた象はあきらめたらしい。明かりが投げかけられ、そこに立ちつくすのが幽霊でなく、実体のある人間だとわかる。木の枝で作ったような杖をついていた。
身に着けていたのは濃緑色の布きれだった。禿頭に長く真っ白い山羊ひげを生やし、ぎょろりとした目がライトを手にするサンジェイをにらみつける。かなりの老人だ。団子鼻はまるでアブに刺されて腫れあがっているかのようだった。それでいてホームレスのような汚らしさは微塵もない。石鹸の香りこそしないが、まるでたったいま風呂からあがったかのような清潔な印象があり、むしろぼくのほうがよっぽど臭った。
サンジェイは一歩前に出て怖々と声をかける。ぼくは草むらに落ちた衛星スマホを拾いあげ、カメラのレンズを謎めいた老人に向ける。ニキルやぼくとさして変わらぬアジア系の顔だちだ。マツ族だろうか。気色ばんだ声音でサンジェイと対話がはじまり、ヒロミが声を潜めて訳してくれる。
「ここへなにしにきた」
「象たちの墓を探しにきたんです」
老人は目をすがめる。「なぜそれを知っている」
「そういう場所があるって聞いたんです。でも本当はそのお墓でなく、ふしぎな池のことを調べているんです。ここにいる人たちが」
老人はぼくたちのことをぐるりと見回す。「ここは神聖な場所だ。近づいてはならん。さっき若い象が踵を返しただろう。自分が来るべきときでないと感じ取ったのだ」
「あなたはサドゥ……?」
「呼び方はどうでもいい。自分のためにここにいるのではない。この世に生きる者たちすべてのために祈りをつづけている」
ダニーが一歩前に出て訊ねる。「ここに人を立ち入らせないよう見張っているということですか」
老人はしばしダニーの顔をしげしげと見つめ、首をかしげる。「おまえは……いや、なんでもない……すべての者には時期があるのだ。時期を迎えた者のみがここに入ることを許される。それまでは懸命に生きるしかないのだ。それぞれの世界で」
ヒロミが耳元でささやく。「あの首飾りだけど……」
ライトに老人の首筋が輝いていた。ネックレスのようなものをしている。ぼくはサンジェイを振り返る。象から振り落とされ、逃げた相棒を追いかけたときに飛びだしたらしく、銀の首飾りが首筋からだらりとのぞいていた。ぼくはそれを指さす。老人は見逃さなかった。「おまえ、その首飾りはどうした」
サンジェイも驚いている。老人の首に巻きついていたのは、サンジェイの首飾りとおなじ楕円形の銀板を連ねたものだった。そこには一つひとつになにかが彫りこまれている。それは――。
「ぼくの師匠にもらったんだ。象使いのお守りだよ」
「象使いの師匠……」
「メガシュさんっていう人だ。去年亡くなってしまったけど」
「なんてこった」
ぼくは耳を疑う。ヒロミが訳したものでなく、直接老人の口から日本語が飛びだしたのだ。老人は葉擦れの音にまぎれて独り言のようにつぶやく。
「死んだのか……おれよりも先に……」
「もしかして……」ぼくは日本語で訊ねる。「日本の方ですか……?」
老人はまじまじとぼくの顔をのぞきこむ。「あんた、日本人か」
自己紹介し、ふしぎな池のことを取材していると告げる。そしてサンジェイの象使いの師匠であるメガシュという男は、数か月前に取材したインパール作戦の従軍兵士たちを救い、この先の村に連れてきた人物であることも。
老人は自分一人の世界に埋没したかのように日本語でつぶやく。「メガシュが……死んだのか……ここで待っていたのに」
ぼくは訊ねる。「その首飾りはどうされたんですか」
老人はわれに返る。「メガシュがくれたんだ。ここにもどって来たときに」
「もどって来た……?」
「戦争が終わったあとさ。なあ、あんた」老人はすがるような目でぼくのことを見つめてくる。「作戦の話を聞いたって、いったい誰に聞いたんだ」
ぼくはごくりと唾を飲む。「……籾山……英二……さんです」
ライトの明かりのなか、老人は硬い地面に崩れる。すすり泣きが聞こえる。悲しいわけではなさそうだった。「あれから……何年が過ぎた……いや、わからないわけじゃない。ちゃんと覚えとる」その言葉はスマホのディスプレイにいまやデーヴァナーガリー文字で訳され、サンジェイやニキルにも伝わっていた。もちろんバラナシにいる少女にも。「エイジは……エイジは元気なのか」
「取材したのは去年の秋です。そのとき百二歳でしたが、お元気でしたよ。言葉もしっかりしていたし、なにより記憶が鮮明でした。お住まいは新潟の上越市でした」
「ジョウエツ市……?」
「合併したんです。元の直江津だと言ってました」
「そうか、故郷に帰れたんだ」老人は堰を切ったように訊ねてくる。「許嫁と結ばれたのか」
「そうだと言ってました」ぼくはもう確信していた。「あなたもいっしょだったんですか、あの作戦のときに」
「ああ、そうさ。おれたち三人、巻きこまれちまったんだ。そうか……エイジは元気なのか……それは良かった、本当に」だがそれはまるで懺悔するような口ぶりだった。「おれは勝手なことをしちまった。エイジには悪いことをした」
「戦争が終わったあともどって来たというのは――」
「おれもエイジも英軍の捕虜になっていたんだ。戦争が終わってようやく故郷に帰れるようになって、エイジは喜んでおった。だがおれはそうはしなかった」
「本多宗男さんですね」
杖にもたれながら立ちあがり、老人はぼくに近づく。竹藪をわたる風がひときわ強まり、せせらぎのようなホワイトノイズが真相を覆い隠そうと耳になだれこむ。でもそうはならない。「ありがとう、ここまで教えてに来てくれて」そしていったんぼくのひじをぎゅっとつかんでから、老人は背筋をすっとのばし、敬礼をしながらはっきりとした声音で告げる。「大日本帝国陸軍第三十一師団、歩兵第五十八連隊所属、本多宗男二等兵であります」
消えゆく闇が断末魔の叫びのように騒ぎたてる竹林で、時がぴたりととまる。
「ボンタさん。籾山さんはそう呼んでいましたけど」
「そうだ。そう呼ばれていた。おれたち三人で高田の連隊に入って、ここまで連れて来られたんだ。それで人生をめちゃくちゃにされた。おれたちだけじゃない。従軍した兵隊全員がだ。でもここは地獄でもあるが、一縷の望みもある場所だった」
ボンタさんはふたたび地面に腰を下ろす。それに合わせてぼくたちもおなじようにする。土の臭いが増す。夜明けの薄明のなか、寒さが一層身に染みてくるはずなのにさほどでもない。ふと土に手を触れてみると、ほのかな温みがある。まるで寝起きの布団のようだった。地熱があるのだろうか。あらためてぼくはあたりに目を凝らす。竹藪が広がっている。ボンタさんの背後、藪の奥になにか大きな黒々としたものが横たわっていた。
「一縷の望みとは?」ダニーが訊ねる。
「おれがここに残った理由だよ。収容所を出たあと、どうしてもあの村のことが心配になってもどって来たんだ。英軍の攻撃で村は完全に破壊され、半数以上の人が亡くなっていた。そこでメガシュと再会したんだ。山でさまようおれたちを助けて村に連れて来てくれた象使いさ。戦争が終わったのなら、日本人の罪滅ぼしとしてこの村を再建せねば。おれはそう決心して残ることにした。はじめは村でメガシュたちと暮らして、解放戦線の仕事もした。だけど、やっぱりこの森のことが気がかりでな。というか、村にもどって来たのはそのためだったんだよ。あれを見ちまったんだから。ずっとずっとおれの心をつかんで放さなかった」
「象たちの墓……『幻の池』のことですよね」
ボンタさんははるか昔の記憶をたどるようにゆっくりとうなずいた。「もしここに、おれら人間たち、象もふくめた知性ある生きものたちの真実を教えてくれるよすががあるのなら、ここでそのことを考えてみたかった。村に来て一年ぐらいして、おれはもっぱら森に暮らすようになった」
ぽつりとサンジェイがつぶやく。「それで幽霊になった」
「幽霊か……まあそんなようなものだな。もうこんな年になっちまったから。この世とあの世の間をゆらりゆらりとさまよっているだけさ」歯の抜けた口元にボンタさんは微笑みを浮かべた。
「日本に帰ろうとは思わなかったんですか」当然のことをぼくは訊ねる。
「思わなかったといえばうそになる。でも長居すればするほど、ここが特別な場所であるとわかってきた。作戦のときにさまよったまわりのジャングルともちがう。静けさのなかのざわめき、きらめく陽射しのなかの闇、心地よさの狭間でひりつく肌。そう、空気だ。空気がちがうんだ。しいて言うなら、おれが生まれたころの高田の、あのころの故郷の空気に似ている感じがした。でもおれがそう感じるだけなんだと思う。おれ自身の五感が子どもの時分にもどったというか……。そうこうするうちに歳月が過ぎてしまった。なに、ここで一人で暮らすぶんにはさして苦労はないんだ。服は村でもらって来た布を使いまわしている。それにあの作戦を乗り越えた身からすれば、食い物なんてなんとでもなる。田んぼも畑も自分で作ったよ。どこで聞きつけたのか、森に入ってきて弟子入りを申し出る者も何人かおった。師匠になんかなるつもりはなかったが、断る筋合いでもない。いまは三十年ぐらい前にやって来た男と暮らしとる。元船乗りでな。インドの人間だが、日本語が話せるんだよ。それで戦争がどうなったかとか、戦後の話とかを聞かせてもらった」
「籾山さんの話では、象はもちろん、ボンタさんたちも『幻の池』に引きこまれたということでしたが」
質問を頭のなかで転がすようにボンタさんは目を閉じる。そしておもむろに口を開く。「引きこまれ、消えた。象たちとコースケが。青と緑の輝く光のなかでな。おれもエイジも、そこでこの世界の真実を垣間見たんだ。この世に生を受けて生きるというのがどういうことか、それを見せてもらったんだ。おれたちがやって来た場所、これから行く場所。それがたしかにあることを目撃したんだ。あれを目にしちまえば、争いごとなんてたわけたことはせんようになる。知性を持つ者、人間、それに象たちは、ほかの獣たちとはちがうんだよ。獣たちは生存競争の果てに自分の血筋だけを残そうとする。それはそれは厳しい争いがある。だけど、人間はちがう。象もそうだ。共存することができるんだ。たとえ憎しみを持っても、いつかは心を改めることができる。あらゆるものを受け入れて、もっと大きな存在に身をゆだねられるんだよ。この森にいると、それこそが答えであるとわかるんだ」
がまんしきれずにぼくの手元で衛星スマホが輝き、ヒロミがスピーカーから声をあげる。「一九四四年六月以降も『幻の池』は出現したんですか」
はじめて目にするらしく、ボンタさんはディスプレイに顔を寄せた。ぼくはこれが電話の一種であることを告げる。
「何年かに一度、死期を悟った象たちがやって来る。満月の晩だ。そのたびに『池』は現れとる」
「人間は……?」
ヒロミの問いに森の幽霊はかぶりを振る。「あのときが最後だった。心の準備が必要だし“向こう側”に選ばれなきゃならんのだ。誰もが受け入れられるわけじゃない」
「それはアートマンがブラフマンに昇華するという意味ですか」熱のこもった声でヒロミが訊ねる。
「ヒンドゥーではそうなのだろう。でも宗教は関係ない。一つの真実。ただそれだけだ」
「それがこの場所で起きるんですか」
老人はゆっくりと立ちあがり、背後のざわめく竹藪を指さす。ぼくらも腰をあげる。明るさが増し、ようやくそこにあるのが黒光りする巨岩であるとわかった。
「もう夜が明ける。満月の晩は終わりだ。もうなにも起きまい。時が満ちていなかったのだ」
ひんやりと冷たいものが足に触れたのはそのときだった。
誰もがそれに気づく。くるぶしのあたりまで水に浸かっていた。雨上がりの水たまりのようだったが、それよりもずっと清らかだった。
それがみるみる広がり、水面がひざまで上がってくる。呆気に取られ、身動きが取れない。ボンタさんでさえ、ただ杖を握りしめるだけだった。
池。
突然の静寂。
やがてそれは――。
五十
青と緑の炎。
籾山氏が話したとおりだった。
それがぼくたちの足下から噴きあがってきた。
「呼んだんだ……あんたたちが呼んだんだ……」ボンタさんのうなり声が生々しく耳元で響く。時空が変化している。そんな感覚に包まれる。竹藪は静まり返り、完璧な無音状態と化していた。「何年ぶりだろう……」
それは水ではない。
光の池だった。
ぼくたちはそのなかにいた。
頭の先まで。
スマホをたしかめる。ディスプレイはしっかりと輝いている。衛星からの電波は通じているようだ。サンジェイもニキルもダニーも言葉を失ったまま、ボンタさんを囲みながら立ちつくしている。いや、その場に浮かんでいた。
「シンちゃん、これって……」ヒロミが驚嘆の声をあげる。「象たちの墓……幻の池なの……?」
強烈なエネルギーを伴った光が池の底のほうから放たれる。激しいほどの照射はまさに炎のようで、青緑色にきらめき時折、赤や黄色にあちこちでスパークする。
「ほかになんだって言うんだい。心にずんずん響いてくる。なんなんだ、この感覚は」
スマホにはアマラが現れていた。
それまでにないほど瞳を輝かせ、このふしぎな現象を見守り“体験”していた。車いすに据え付けたモニター画面が放つ輝きが彼女の顔を煌々と照らしているのがわかる。
目の前に広がる激しい光景とは裏腹の、恐ろしいほどの静寂のなか、ぼくたちは沈んでいた。重力とは思えぬ何某かの力によって引っ張られていたのだ。そのとき籾山氏の言った「ゴム風船」の感覚を理解した。物質化した光が生みだした雲のような世界に捕らえられている。どれほどの大きさ、深さがあるのだろう。見当もつかないが、その中心に向かって引き寄せられている。
そこに恐怖はない。
体と心を押さえつけるあらゆる枷、疲れや不安が霧消し、生まれたばかりの状態にもどったような感覚に包まれる。呼吸はらくになり、五感は研ぎ澄まされ、先人の知恵をつづった本のページを一心不乱にめくるように集中力が増していく。
たがいに傷ついた表情の二人の子どもがいた。死に瀕した若い兵士がいた。インド系の顔だちの少年は目に涙を浮かべている。時は存在しない。たがいの過去が皮膜を破って出現してきているのだ。
ぼくはどこにいる。
本当のぼくは、誰なのだ。
「なんということだ……」ダニーが沈黙を破る。「満月……ガネーシャの呪いによってその月は池に沈む。これがその池なのか……闇夜を照らしつづける月をも飲みこんでしまう大いなる存在。これがそれなのか。わたしたちはそれに近づいているのか」
「でもいったいなにに……」ヒロミが耳元でつぶやく。
「たしかなもの」感じるままにぼくは告げる。「そうとしか言いようがない」
そのときだった。
目の前に巨大な棺のようなものが現れた。黒曜石のように黒光りするそれは、棺といっても巨人のそれのようで、長さは七、八メートルはあり、厚みも一メートル近かった。この世界を満たす青と緑の光はそこから放たれ、その光に吸い寄せられるようにぼくたちはすこしずつその四角い塊に引き寄せられる。近づけば近づくほど、色合いは濃く、深くなり、地中海の水面のように青黒く、アジアの熱帯雨林さながらに緑も濃さを増し、最後は黒一色と化していく。
黒い光――。
棺はいまや爆発寸前にまで膨張しきっている。これからなにかが起きる。なにかとてつもないことが。それがひりひりと肌で感じ取れるが、恐怖はない。籾山氏の証言とおなじだ。身をゆだねるほかない。そして一瞬ののち、ぼくたちは包まれた。黒い光に。
漆黒の闇に。
暗黒に満ちる光に。
サンジェイやダニーのことはわからない。でもぼくははっきりと感じ取っていた。原始のエネルギーそのものと呼ぶべき光を持たぬ光は向こう側から放たれ、意識はそれと一体化している。頭の真ん中から異世界がめくれあがってくるのを、ぼくという主体はじっと観察していた。
手元のティスプレイが輝く。
アマラが見つめている。
大きな瞳が濡れている。
声がした。かぼそい女の子の声だった。聞き逃したかとぼくはスマホに目をやる。まちがいなくアマラが発した言葉をヒロミがしっかりと文字に起こしていた。
「I FEEL THE SPACE」
ぼくが薄々感じていたことをアマラも感じていたようだ。ぼくたちを包みこむ輝ける暗黒は宇宙そのものというほかない。でも一方でぼくはそれに懐疑的でもあった。ぼくたちの暮らす世界。それを包含する宇宙。そこになにか決定的なちがいはあるのだろうか。距離や環境のちがいはあるものの、どちらも物理的にはつながり、結ばれている。
そのときまるで水かきでもあるかのようにスマホがぼくの手をするりと放れ、重力の法則を完全に無視して目の前の闇のなかへとすうぅっと引きこまれそうになった。あわててぼくは両手でそれを捕まえ、握りしめる。
薄闇に立ちつくす若い女がいた。
黒髪を腰まで垂らし、ぼくに背を向けて前に進みだす。ディスプレイに目をやると主を失った電動車いすが映っていた。
「アマラ……!」
ぼくは叫ぶ。
彼女は足をとめ、振り返る。
愛らしく、それでいて神々しいほどに輝く微笑みを投げ返す。
「ア・リ・ガ・ト・ウ」
はっきりと聞こえた。耳の奥、頭の真ん中に。とろけるような甘い声音が。
「行かないで!!」
あらんかぎりの声で叫ぶ。だがもうどうにもならない。ふたたび彼女は歩きだし、まるで自らの意思で飛びこんでいくように見えざる入り口の奥に飲みこまれていく。
衝撃はそれだけはなかった。
ディスプレイ自体がやがて光を失い、フェードアウトしていく。画面にヒロミが現れ、それまでただの一度も見せたことのない悲しげな顔をしてなにかつぶやいた。いっさいの雑音のない、完全な静寂のなかなのに、ちくしょう、ぼくには聞き取れない。かけがえのないソウルメイトのメッセージが。
そのとき暗黒の中心――ぼくの意識の中心――がわずかに揺らぎ、なにかが吸いこまれるような波動を感じる。怖々とディスプレイに目をやる。
ブラックアウトしている。
声にならぬ悲鳴をあげ、前に飛びだす。だがいくら進めど、ぼくはぼくの真ん中に到達することができない。
背後に大勢の人の気配を感じた。サンジェイやダニーたちではない。もっとずっとたくさんいる。数えきれないほどの人。無数の意識。バラバラの自我――。
それらがアメーバの増殖のようにくっつき、融合しあい、広がっていく。ぼくはそのときはっきりと感じていた。恐ろしいほどの
快感だった――。
SPACE
そのときになってはじめて理解する。アマラが口走った言葉を。あれは宇宙という意味ではない。
空間。
自分の居場所のことを言っていたのだ。それを感じる、と。
それを知覚していたのは、果たしてアマラの意識だろうか。天啓が下るようにぼくは悟る。そうじゃない。一人ひとりの自我は飲みこまれ、消滅するのだ。居場所を体感している主体は、個を超越した全体意識、唯一絶対の意識なのだ。籾山氏が村の族長から聞いた言葉をぼくは思いだす。
大きな存在があって、最後はその「眼」の内側に入って一つのものを見る――。
ついにそこに到達したのだろうか。足をとめ、上とも下ともつかず、前後左右の見当識を失った不可思議な空間で、ソウルメイトに思いを馳せる。意識を集中すると、まるでそばにいるようにも感じられる。それがぼく自身の目を見開かせる。ここはサイバー空間にも通じている。死の存在しない、無限に広がる光の暗黒――。
サナエの言葉を思いだす。人間の内側には意識の原動力みたいなもの、アートマンというのがあって、それが世界の創造者であるブラフマンへと昇華し、真の解放につながる。そんなような話だった。そしてヒロミはその神秘を探ろうとしていた。
彼女はいま、探究の旅に出たのだろうか。
アマラとともに。
真の解放、解脱に向かって。
五十一
「どうだ、目を覚ましたか」
ボンタさんに声をかけられ、ぼくは正気づく。
下草のうえに倒れていた。
朝霧に包まれた竹林の向こうがオレンジ色に燃えだしている。凍てつく寒さに変わりないが、太陽の存在はありがたい。
ダニーもサンジェイもニキルもおなじように地面に倒れこんでいた。池は消えている。幻だったのだ。時計をたしかめる。六時十二分。たった三十分ほどの出来事だったのか。
「見たのか、あんたも」興奮した口調でボンタさんが顔をのぞきこんでくる。「あれを」
返事をしたかったが、余韻に圧倒されて言葉が出ない。深くうなずき、老人の目を見つめ返すことで衝撃の大きさを伝えた。
「信じられない」ダニーが這うようにして近づいてきた。「ブラフマンに触れることができたなんて」
「呼び方はさまざまだ。おれはただ『真実』と呼んでいる。何年かに一度、象たちがそれを見せてくれていた。でも今回は象たちは現れなかった。それなのに――」池があった地面に目を落とし、ボンタさんは言葉を飲みこんだ。
はっとしてぼくは衛星スマホを探す。
「これか」ダニーが握りしめていた。
スリープを解除してもヒロミは現れなかった。声をかけても反応しない。サンジェイが不安そうに見つめてきた。ぼくが体験したのとおなじ光景を彼も見たようだ。ぼくはサナエに電話を入れる。
ワンコールで看護師が出る。ぼくが訊ねるより先に告げる。
「アマラが亡くなったわ」
ダニーがそれを翻訳して伝えると、サンジェイは泣き崩れ、地面にひざをつく。早朝のジャングルを揺さぶる嗚咽に、猿たちが同情するようにあちこちの樹上からうめき声をあげる。十五年ぶりに奇跡の再会を果たしたばかりだというのにあまりに不条理だった。しかし命が燃え尽きる寸前でアマラは悲願をかなえ、心残りなくこの世を去ることができた。そう考えるしかない。
サンジェイは涙ながらにサナエに何事か伝えた。それをサナエが訳して聞かせてくれる。「幻の池にアマラが現れたとき『ずっとあなたのそばにいるからだいじょうぶ』って告げられたそうや。『わたしはいなくなるのではない。わたしが帰依するブラフマンは、あなたのなかのアートマンに等しい。あなたが見るとき、わたしも見る』とね」
「だったらだいじょうぶかな、サンジェイは」ぼくは若者の肩を抱き、励ましてやる。
「人間が旅立つのを見たのは、コースケのとき以来だ」ボンタさんは感慨にふけっている。「しかもこの場にいないはずの人間が……」
「アマラはバラナシのムクティ・バワンにいたんです。二年ほど入所しているという話でした。象たちの墓、幻の池を知りたがっていたのは彼女なんです。彼女は自分が死に近づいているのを悟り、死の向こう側について考えつづけていた」
「なるほど」ボンタさんは唇をかみしめた。「コースケは旅立つ前、自分の運命に納得し、受け入れていた。生への執着を捨て去ることができたんだ。彼女もそうなんだろう。象たちとおなじだよ。我欲を捨て、心の底から大いなるものに身をゆだねる覚悟ができたんだ」
竹林の巨岩の前に人影が見えたのはそのときだった。
ボンタさんとおなじ緑の布をまとった男だった。すらりと背の高いインド系の顔だちだったが、灰色の髪が顔のわきに長く垂れ下がっていた。両手いっぱいに果物を抱えている。
「おまえもあれを見たのか」ボンタさんが日本語で訊ねる。
男はゆっくりとうなずいた。だが彼が見つめていたのは森の師ではなかった。
ダニーだ。
ボンタさんもそれに気づき、離れたところに立つ男とダニーの顔を交互に見やる。「やっぱりそうだったか」
ダニーも金縛りに遭ったようにその場に立ちつくし、息さえつけないようだった。
「もう三十年以上昔のことだ」ボンタさんが話しだす。「象たちの墓を訪ねてやって来たんだ。それまで五年ほど、コルカタで船乗りをしていたという話だったが、それ以前の記憶を失っていた。アメリカの西海岸の沖合で溺れているところを船に助けられ、そのままインドまでやって来たということぐらいしか話せなかった。日本語もどこで学んだのだかわからなかった。しかしトンガアリ村や象たちの墓のことを記した手紙を手にしていた。船に救助されたとき、上着のポケットに入っていたビニールポーチから見つかったそうだ。よほど大切なものなんだろう。記憶をたどるためにこの森へやって来たというわけだ」
ボンタさんが感じていることにぼくも気づき、訊ねてみる。「記憶は取りもどせたのかな」
「ここに来て一年もしないうちに明瞭によみがえったよ」
「だったら――」ぼくの問いかけが森じゅうにこだまする。
「もちろんそうだ」
しっかりとした日本語。高い知性を感じさせる低く力強い声音だった。果物を抱えた男はゆったりとした足取りで近づいてきた。
「わたしは家族のもとに急いで帰らねばならなかった。ふつうなら是が非でもそうするだろう」ダニーと手が取り合えるほど近づくと、二人の顔だちが似ていることに圧倒される。「記憶がもどる前、わたしはすでに象たちの墓で起きることを目にしていた。あんな世界があるなんて信じられなかった。それがきっかけとなって記憶を取りもどせたんだ。あの手紙は、ロスでクライアントだったマツ族出身の男が不思議な場所として書き残してくれたものだった。それを肌身離さず持ち歩いていた。まずはそれを思いだしたんだ。それでその男が象にまつわるあの不可思議な現象をわたしに体験させ、なにかとても大事なことを学ばせようと試みたのだと悟った。世のなかには法律で解決できないこと、どうしようもない不条理が存在するが、それらはすべて大いなる存在によって浄化される……そこに思い至ったとき、わたしはこの地に帰依すべきだと気づいたのだ。妻や子どもたちの記憶は日を追ってよみがえってきたが、大いなる存在、創造者ブラフマンに近づきたいという強い衝動を打ち砕くことはできなかった。それでわたしは現世を捨てる決意をしたのだ」
「おれのせいでもあるんだ」師が肩をすくめる。「後を継ぐ者がいたほうがいいと考えてしまった」
「いや、わたしの意志だ」
「ダニー」ぼくは訊ねる。「この人は……」
「ハリー・サーンキヤ・アールニ。父だ」
父子は静かに抱き合う。
樹上の猿たちも沈黙する。
「母さんは……」
「元気にしてるよ」
濃密な竹林をすがすがしい朝の風がわたる。
エピローグ
ダニーとサンジェイとともにバラナシに向かった。
ムクティ・バワンではサナエが待っていた。アマラの亡骸は、彼女が最期を迎えるまで過ごした眺めのいい四〇一号室のベッドにそっと安置されていた。火葬の準備は整い、オレンジ色の布にくるまれている。弟だけを残し、ぼくとダニーは部屋を離れる。
翌朝、男たちがやって来て遺体を木組みの担架にのせて運びだす。マニカルニカーガートの砂の上に横たえられたアマラは、少女といってもいいほど小さく、弱々しかった。薪からあがる炎は、川面を渡る風に揺られながらその体を確実に焼きつくしていく。しかしぼくらは知っている。すでに彼女が大いなるものと合一し、解脱に至ったことを。輪廻の苦悩からついに解放されたことを。
ゼウスは機能を停止。原因は不明。
遺灰をガンガーに流し終えたとき、ラングレーからダニーに連絡が入った。彼とはおない年だったが、苦渋の表情が浮かぶと、年相応に老けて見える。いまのぼくもきっとそうなのだろう。もう彼女に会えないのだから。
「今回の一件はすべてわたしが処理する。シンジ、心配はいらない」そう言ってダニーは別れを告げる。
サナエとサンジェイをムクティ・バワンに残し、迎えの車が待つ交差点までダニーを見送りがてら訊ねてみる。「シヴァ……いや、ゼウスは死んでしまったのかな」
それにはCIA調査官らしい答えが返ってくる。「機密事項なのだよ」
「まあ、そうだね。でもなんだか、夢のようだ。ヒロミと出会ってからまだ一週間もたっていないなんて」
「わたしもそうさ。父に会えるなんて思ってもみなかった」
「気持ちの整理がたいへんだね」
「いや、もう決めたよ。わたしはこの世界を牛耳る者たちに反逆してやろうと考えていた。でもそれがどれほどくだらないことなのかよくわかった。母や妹たちとも相談するけど、もうそろそろ仕事に区切りをつけようと思っているんだ」
「区切りか」薄々わかっていたが訊ねてみた。「じゃあ、どうするんだい、これから」
「父のところにもどるつもりだ」狭い路地を埋め尽くす人々に翻弄されながら、きっぱりと口にした。「それこそが我欲を捨てること、これまでのさまざまな澱を吐きだすことにつながるのではないかな。勝手な考えなんだろうけど」
「その前に一つだけ調べて教えてくれるかな。ぼくがクレジットカードを拝借した人たちだ。使ったぶんは返さないと」
「ゼウスが回復したらすぐに調べてみる。金額を聞いて驚くなよ」ダニーは約束してくれた。「ところでシンジ、きみのほうこそ、これからどうするんだい」
「それをこれから考えるつもりだ」
ほんとにそうだった。
同僚の運転する車が走り去ったのち、ぼくはガンガーのほとりへと踵を返す。一人になりたかった。考えないと。本気で。これからどうするか。もうすぐ正午だっていうのに相変わらず寒い。川面を渡る風が骨身にこたえる。たまらず暖をとれる場所を探す。あちこちで焚火も燃えていたが、せっかくなら腰を落ち着けたい。
ガートを上がった先に「ケララ・ギャング」なんていう、いかにも観光客受けしそうな名前のカフェがあった。ちらほら入っている客もみな白人ばかりだ。窓際のテーブルにつき、首に巻いたストールをほどく。カジノで身ぐるみ剥がされたあと、後生大事にずっと巻きつけたままだった。首回りがらくになると、なんとなく気持ちも落ち着いてくる。
祥江は激怒するだろうな。
一番の心配がそれだった。スマホの電波は完璧に通じているが、まだ電話する気にはなれない。たとえ疑いが晴れたにしろ、シンガポールに行くなんてうそをついたことはちゃんと説明せねばなるまい。かなり気が重い。でも仕事のほうは問題ない。まだ一週間もたっていない。申告した有給休暇の期限内だ。
ホット・レモン・ジンジャーを注文し、好みで入れる小皿の蜂蜜をぜんぶ垂らし、よくかき混ぜてからゆっくりとすする。正直、この旅に出てから口にしたもののなかで、一番体に染みた。
「仕事か……」
ほっとひと息ついた途端、自然と口から漏れていた。そのことに自分で驚きながら、雲の低く垂れこめる大河をぼんやりと見つめる。
ほんの数日間だったが、激流に翻弄された。それがなんだか懐かしくもある。身に危険の迫るぎりぎりの状況だったが、それでも心のどこかで浮き立っていた。大手町のオフィスビルに缶詰めにされていたら、決して味わえない興奮だった。念願のバックパッカーにもどり、すてきな相棒にいざなわれてぜいたくな夢を見させてもらった。その夢ももうおしまいか。
それは自分次第だ。
かぎりある命をこの先、なにに燃やしていくべきか。ブラフマンの存在をこの目でたしかめた身からすれば、真剣に考えないと。人生の真の悦びはまだまだこれからだ。祈りはきっと扉を開いてくれる。
そのとき呼び出し音が鳴る。
輝くディスプレイに釘づけになる。
「なにそんなジジ臭いもの飲んでたそがれてるの? 似合わないわ。ドラフトビールが一番よ、あなたには」
「ヒロミちゃん!」いたずらっぽい笑みにたまらず頬が緩む。「無事だったんだ。いなくなったとばかり思っていたよ」
「冗談じゃない、わたしを誰だと思ってるの? それにいまわたしが消えたら、シンちゃん、またダメになっちゃうでしょ。バックパッカーの旅は始まったばかりなんだから!」
(了)




