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棘まで恋だった  作者: reika1021


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5/10

第5章:言葉の逃げ場

朝の備品室にはまだ誰の体温も入り込んでおらず、段ボールの乾いた匂いと封筒の糊の甘さが薄い照明の下で静かに混ざり合っていた。真白依吹は棚の前に立ち、クライアント提出用の封筒を探していた。


指先で紙の束をずらすたびに、乾いた音が小さく響いた。フロアの明るさから少し外れたこの場所では、誰かの企画や焦りはただの紙と箱に変わる。朝の会社はまだ整った顔を作る前で、余計なものを隠すのが少し下手だった。


真白は一番上の封筒を抜き取り、角が折れていないか確かめた。昨夜、瀬名遥平に水を置いたことをまだ少しだけ後悔していた。助けたわけではないと何度も思ったが、その言い訳は紙の匂いの中で薄れていった。


廊下に出ると、空調の冷たさが頬に触れた。フロアの奥では端末が立ち上がる音が増え、株式会社東映社アドバンスの朝が、また大きな会社らしい均一な光をまとっている。真白は封筒を抱え直し、自分の席に向かった。


机に戻って提出資料の画面を開くと、今日扱うのは午後に送るはずの修正版で、案件そのものは大きくないが、納期は詰まっており、言葉一つ間違えるだけで全体の印象が損なわれる。


真白は封筒を机の端へ置き、最終コピーの行を目で追った。昨日のうちに直したはずだった。直したはずなのに、三枚目の注釈を見た瞬間、指先の温度が引いていった。


数字が古い。一昨日の比較データを使ったまま、差し替えが反映されていない。よりによって、根拠として一番目立つ位置に残っていた。


真白はまばたきをして、もう一度同じ行を見た。見間違いであってほしかったが、画面の数字は変わらない。胸の奥で、細い糸が音もなく切れるような感覚がした。


焦りは音を立てないが、体の内側でははっきりとした形を持って膨らんでいく。真白はすぐに修正ファイルを探し、昨日の共有フォルダを開いた。


指が滑った。画面を切り替える速度が上がるほど、探しているものだけが遠ざかる。机の紙カップに手が当たり、ふたがずれて、苦いコーヒーの匂いだけが急に立ち上った。


真白は息を吸い直した。平気な顔を作るにはまず呼吸を整えなければならない。ミスをしたことを認めるよりも、そのミスを誰かに見られることの方が痛かった。


特に瀬名には見られたくなかった。昨日、疲れている彼に水を置き、「帰った方がいい」とまで言ったのに、翌朝には自分がこんな凡ミスをしているなんて格好悪くて笑えない。


外の空は白く浅く、窓際の影もまだ柔らかかった。今なら直せる、そう思わなければ椅子から立てなくなりそうだった。


「真白」


背後から声がした。真白は反射的に画面を切り替えようとして、途中で手を止めた。


隠す動きは隠していることを伝えると分かっているのに、体は先に逃げようとする。真白は指をキーボードの上に置いたまま顔だけ少し横に向けた。


「何ですか?」


通路側に瀬名遥平が立っていた。手には薄い資料を持ち、目元には昨日より戻った色とまだ消えきらない疲れが混じっていた。真白はそれに気づきかけ、すぐに自分の画面へ視線を戻した。


今は瀬名の疲れを見ている余裕などない。見てしまえばまた余計なものが胸に残る。真白は封筒の端を指で押さえ、声だけを平らにした。


「今日の提出分、確認する」


「まだです」


「まだ?」


「まだ仕上げていません」


声が少し硬かった。自分でも分かったし、たぶん瀬名にも分かっただろう。彼はすぐに返事をせず、資料の端に視線を落とした。


「何かあったのか?」


「何も」


「何もない時の手じゃない」


真白は自分の指を見た。ペンを持ったまま紙の端を軽く叩いていた。それは、苛立ちを先に見せることで傷ついた場所を隠すための癖だった。


「見ないでください」


「見てない」


「嘘が下手ですね」


「今日は真白のほうが下手だ」


その言葉が刺さったが、刺さったことを認めるわけにはいかなかった。真白はペンを置いて画面に向き直った。


「提出前に直します。瀬名さんが触る必要はありません」


「直す場所があるんだな」


「揚げ足を取らないでください」


「取っていない。聞いただけだ」


瀬名の声は静かだった。責めていないのが余計にきつかった。怒られた方がまだ言い返せる。


責められたほうが棘を出せる、と。瀬名はそうしなかった。真白の逃げ道を塞がない。けれど、逃げていることだけは見落とさない。


「真白」


「だから、何ですか?」


「隠すなら、もう少しうまくやれ」


真白は顔を上げた。瀬名の目は彼女を責めておらず、そこには呆れと少しの心配、そして言葉にできない何かがあった。


「最低ですね」


「そうだな」


「否定しないんですか?」


「今は否定している場合じゃないだろ」


真白は唇を結んだ。怒るための言葉を探したが、先に焦りが喉を塞いだ。瀬名は隣に立たず、画面を覗き込まない位置で止まっている。


その距離は悔しいほど正確で、見られたくないものを見ないふりで守られている気がした。腹立たしいのに、そのおかげで呼吸が少し戻るのがさらに腹立たしかった。


「何を間違えた?」


「間違えていません」


「じゃあ、何を直しているんだ」


「……数字です」


と言った瞬間、胸の奥が沈んだ。認めてしまったのだ。真白は画面を見たまま、瀬名の反応を見ないようにした。


「古いデータか?」


「そうです」


「まだ提出してないな」


「出してません」


「なら、まだミスじゃない」


真白は思わず瀬名を見た。彼の声には慰めの甘さはなく、ただ作業の順番だけが置かれていた。それなのに、今の真白にはそれが妙に効いた。


「何ですか、それ」


「出す前に気づいたなら、事故の手前だ」


「そういう言い換えで楽にしようとしないでください」


「楽にしてない。動ける言葉にしてる」


瀬名の声は低かった。優しくはないのに、逃げ道の入口だけが塞がれていない。真白は返答に困り、画面へ視線を戻した。


「……本当に、腹立つ」


「今は腹立ててる暇があるなら直せ」


「命令ですか?」


「提案」


「便利ですね」


「使えるだろ」


真白は小さく息を吐いた。笑ったわけではなかったが、胸の奥に詰まっていたものが少しだけ動いた。瀬名は自分の資料を机に置き、ようやく端末に戻る姿勢を見せた。


「最新データ、どこにある?」


「共有の昨日更新分です」


「ファイル名」


真白は答えた。瀬名は短くうなずき、自分の席へ戻って何も言わずに最新データを探し始めた。


勝手に触らないで、と言うべきだった。自分のミスだから自分で直す、と突っぱねるべきだった。けれど、喉の奥からその言葉は出てこなかった。


助けを借りている、と認めるのが嫌で、真白は自分の画面にかじりつくように修正をはじめた。フロアには朝の音が増えていた。


椅子の脚が床を擦り、キーボードの細かい音が雨の前の虫の声みたいに重なる。真白の耳にはその全部が遠く、画面の数字と瀬名の端末を叩く音だけが近かった。


瀬名からメッセージが届いた。「最新版、ここ」と書かれており、添付されたファイルを開くと、必要な表がすぐに見つかった。


探していたものだった。真白は返信欄を開き、指を止めた。「ありがとう」と打てなかった。


「助かりました」も違う気がした。結局、真白は短く返した。「確認します」。


瀬名からの返事はなかった。ないことに少し救われた。余計な言葉を付け足されない方が今は動ける。


昼の気配が近づくころ、資料の差し替えはほとんど終わっていた。真白は数字を確認し、根拠文を直し、関連する見出しまで整えた。ひとつ直すと、他の弱点まで見えてくる。


ミスはただの一点ではなく、資料全体の呼吸を少しずつ乱していた。真白は集中しすぎて、首の後ろが硬くなっていることに気づかなかったし、髪を耳にかける動作が増えていることにも途中まで気づかなかった。


気づいたのは瀬名が机の端に水を置いたときだった。冷たい紙カップが朝のコーヒーの苦さとは違う匂いを運んできた。真白は顔を上げた。


「飲め」


「命令しないでください」


「じゃあ、飲んだ方がいい」


「言い直せばいいと思ってます?」


「思ってる」


「最悪」


真白はそう言いながら紙カップを手に取った。水は冷たかった。飲むと喉の奥のざらつきが少し下がった。


自分が思っていたよりも喉が乾いていることに気づき、また腹が立った。瀬名は画面を見ないまま、机の角に軽く指を置いていた。近くにいるのに踏み込まない。


「責めないんですか?」


真白は言った。


「責めてほしいのか」


「そういうわけじゃないです」


「なら責めない」


「普通、こういうときは言うでしょう。確認が甘いとか、詰めが雑とか」


「言わなくても分かってる顔してる」


真白は目を伏せた。分かっている。分かっているから苦しいのだ。


自分で自分を責める言葉なら、すでに頭の中で何度も並べていた。瀬名にまでそれを言われたら、たぶん立っていられなかっただろう。彼はそこを避けている。


避けられているとわかることがまた悔しく、見抜かれたと思うと腹が立った。けれど、見抜かれなかったらもっと苦しかったかもしれない。


「真白」


「何ですか」


「ここで潰れると、資料のほうも潰れる」


「……言い方」


「だから、先に資料を直せ」


「私のことは?」


瀬名の指が止まった。真白も自分の口から出た言葉に驚いた。聞きたいことではなかったはずなのに、言葉が喉を抜け出ていた。


瀬名はすぐには答えなかった。資料の端に視線を落とした。その癖を、真白はもう知っていた。


「真白はあとで怒ればいい」


「何に?」


「俺でも、自分でも」


真白は笑いそうになった。笑うような場面ではないのに、胸の奥が少しだけ緩んだ。ずいぶん雑な逃げ道だった。


「瀬名さんのくせに」


「何だよ」


「優しくない言葉で助けるの、やめてください」


瀬名は黙った。真白は画面に視線を戻し、自分で言ってしまった言葉が机の上にまだ残っているような気がした。助けると言ったのは、真白のほうだった。


昼前、資料は提出できる形に戻った。真白は、最後の確認を何度も繰り返した。最新データ、根拠文、図表、注釈、表紙の版数。


すべて確認しても、心臓のあたりはまだ落ち着かなかった。瀬名は自分の席で別件の資料を見ていたが、時々真白のほうに視線を向けていた。


真白は気づかないふりをした。気づかないふりをするたびに、気づいているという実感が強くなる。送信ボタンが画面上でやけに白く浮いて見えた。


「提出します」


真白は画面に向かって小さく言った。誰に言ったわけでもないが、瀬名が少しだけ顔を上げた。


真白は送信ボタンの上に指を置いた。手が止まる。昨日までなら迷わず押したはずだった。


自分の資料に自信があるときも、ないときも、最後は強い顔で押すしかない。今日は違っていた。ミスを見つけた後の手は、強がり方を少し忘れていた。


「真白」


瀬名の声がした。


「何ですか?」


「押せ」


短い言葉だった。真白は顔を上げずに唇を結んだ。背中を押されたことがこんなに腹立たしく、ありがたいとは思わなかった。


「命令ですか?」


「確認」


「便利ですね」


「使えるだろ」


同じ返答だった。けれど、その同じ形が今だけは支えになった。真白は送信ボタンを押した。


画面が切り替わり、提出完了の表示が出た。たったそれだけなのに、肩から力が抜けそうになった。抜けそうになった力を、真白は慌てて背筋に戻した。


瀬名には見せたくなかった。見せたくないときほど、瀬名はたぶん気づく。だから真白は先に声を出した。


「終わりました」


「見れば分かる」


「その返し、私が言うやつです」


「借りた」


真白は少しだけ瀬名を見た。「借りた」という言葉が、昨日の夜から続いているようで胸の奥が変に揺れた。


「利子つきです」


「高いな」


「当然です」


会話はそこで終わった。短いのに少しだけ呼吸が戻った。昼のフロアには仕事の熱が広がっていた。


窓の外は曇りで、東京の輪郭が低く沈んでいた。真白は椅子にもたれかからず、画面を閉じた。今座り込んだら、さっきまでの焦りが全部体に戻ってきそうだった。


瀬名はそれを見ていたかもしれないが、何も言わなかった。その何も言わないことが、今はありがたかった。


午後の時間は少しずつ別の仕事に流れていったが、提出済みの資料は真白の胸の中でまだ紙の端が引っかかったままだった。ミスは隠せたわけではない。


提出前に修正しただけだ。それでも自分の中では大きな失点だった。真白は次の資料を開いたが、文字の列がうまく頭に入ってこなかった。


「隠すなら、もう少しうまくやれ」という瀬名の声が頭に残っていた。それは、責めるでも慰めるでもなかった。


優しくないのに、なぜか逃げ道になった言葉。真白はペンを持ち、紙の端を叩きかけて止めた。瀬名が拾う気がした。


実際には少し離れているけれど、彼は気づく。そう思ってしまうことがもう面倒だった。


夕方が近づくころ、提出先から確認の返事が来た。「問題なし」というたったそれだけの文字を見て、真白は机に額を付けたい衝動に駆られた。


もちろん、しなかった。代わりに背筋を伸ばした。平気な顔を作るのは得意なはずだった。


しかし、今日は平気な顔を作るたびに瀬名の視線がその裏側を見ている気がして、真白は画面の通知を閉じた。指先にはまだ朝の焦りが薄く残っていた。


「通ったな」


という声がして、真白は画面を閉じた。瀬名が席の横に立っていた。


「見てたんですか?」


「通知が見えた」


「覗かないでください」


「見えたって言っただろ」


いつもより少しだけ距離が近かった。その距離を近いと感じてしまう自分が嫌だった。瀬名は資料を持ったまま、静かに真白を見つめていた。


「よかったな」


その言葉はシンプルだったけれど、瀬名の声で聞くと、なぜか胸に残る。真白は素直に受け取ることができなかった。


「瀬名さんがいなくても通しました」


「そうだな」


「否定しないんですね」


「真白が直した資料だろ」


真白は口を閉じた。それは逃げ道ではなく、認める言葉だった。瀬名は言葉を続けない。


余計なことは言わない。その沈黙が、かえって胸の奥に響いた。真白は机の下で指先を握った。


「……最新バージョンを探してくれたのは瀬名さんでした」


言ってしまった。瀬名は少しだけ目を伏せた。真白は、その反応から逃れるように封筒の角を整えた。


「探しただけだ」


「水も置きました」


「置いただけだ」


「命令もしました」


「確認だろ」


真白は少しだけ笑いそうになったが、笑うのは悔しいので唇を結んだ。瀬名は真白のそのしぐさを見たようだったが、何も言わなかった。


「貸しですか?」


真白が聞いた。


「何が?」


「今日の」


「貸しにしたいなら、すればいい」


「瀬名さんは?」


「別に」


「そういうところ、本当に雑ですね」


瀬名は資料を持つ手を少し下げた。声は低く、少しだけ慎重だった。言葉を選ぶときの癖が出ている。


「貸しにすると、返そうとするだろ」


真白は瀬名を見た。胸の内側に静かな痛みが走った。彼女はすぐに目を逸らした。


「……本当に嫌な人」


「知ってる」


「知ってるなら直してください」


「今日は直さない」


「何で?」


「それで真白が戻ったのなら、今日はそれでいい」


真白は返せなかった。瀬名の言葉はまたしても優しくないものだった。優しくない形をしているからこそ、受け取ってしまう。


そんな自分がどうしようもなく腹立たしかった。真白は資料を閉じ、別の作業に移ろうとしたが、すぐに手が止まった。


夜の気配が窓に近づくころ、フロアの音は少しずつ減っていった。昼の熱が引き、机の上に残った紙の影が長くなる。真白は帰る準備をしないままだった。


提出が終わったのに席を立つタイミングを失い、資料の確認をするふりをして画面を開いたり閉じたりしていた。瀬名もまだ残っていた。


今日は昨日ほど疲れていないが、真白が落ち着かないことには気づいている気がした。気づかれている気がするだけで、また落ち着かなくなる。


しばらくして瀬名が立ち上がったが、真白の席には来ず、代わりにフロアの奥にある小さな打ち合わせブースへ行った。


そこは、ガラスではなく白い壁に囲まれた、会議室ほど重くなく資料室ほど閉じてもいない、半個室のような場所だった。瀬名は入口で振り返った。


「真白」


「何ですか?」


「五分だけ」


真白は眉を寄せた。


「説教ですか?」


「違う」


「なら、何ですか?」


「逃げ道」


その言葉に真白は動けなくなった。瀬名はそれ以上何も言わずブースの中へ入った。命令ではない。


強制でもない。だからこそ、真白には選ぶ余地が残された。しかし、残された余地は時々一番逃げにくいものだった。


真白は数秒だけ画面を見た。何も映っていないに等しい資料が白く光っている。それから立ち上がった。


ブースの中はフロアよりも音が薄く、壁の向こうで鳴っているキーボードの音も少し遠く感じられた。机の上には何もない。


瀬名は向かいの席ではなく斜め前の席に座っていた。真正面に座らないところがまた彼らしい。真白は座らずに立ったまま先に声を出した。


「何ですか、逃げ道って?」


「座れば」


「命令ですか?」


「提案です」


「もう聞き飽きました」


それでも真白は座った。椅子の座面は少し冷たかった。瀬名は机の上に手を置き、しばらく何も言わなかった。


その沈黙は会議のものでも、資料の良し悪しを測るものでもなかった。まるで、真白が息を整えるための余白のようだった。


「今日のこと」


瀬名が言った。


「もう終わりました」


「終わったから、言う」


「何を?」


「真白は自分で直した」


真白は顔を上げた。瀬名の声には慰めの柔らかさがなかった。だからこそ逃げずに聞いてしまった。


「瀬名さんが手伝いました」


「でも、直したのは真白だ」


「そういう慰め、いりません」


「慰めじゃない」


瀬名の声は低く静かで、白い壁に吸い込まれて余計な響きを残さなかった。彼は真白をまっすぐに見ていた。


「事実を、責める言葉で上書きするな」


真白は言葉を失った。机の下で指が鞄の紐を探したが、ここには鞄がない。


逃げるための動作まで置いてきてしまったのだ。真白は自分の手を膝の上に置き、指先の冷たさを感じた。瀬名はそれを見ないようにしていた。


「瀬名さんは何でそういう言い方をするんですか?」


真白はようやく言った。


「どんな」


「優しくないのに、逃げ場だけ残す言い方」


瀬名は少しだけ視線を落とした。言葉を選ぶときの癖だと真白は知っている。知っていることがこんなときにも胸をざわつかせる。


「優しい言葉がうまくない」


「知っています」


「でも、黙って見てるのも違う気がした」


真白の胸がゆっくり熱を持った。気づかれたくない、けれど見落とされるのも嫌だ。


その矛盾を瀬名だけがいつも丁寧に扱ってくれる。真白はそれを認めたくなくて少しだけ顔を伏せた。壁の向こうで誰かの足音が遠く通り過ぎた。


「真白が崩れたら」


瀬名はそこで言葉を止めた。


真白は続きを待ってしまった。待っている自分に気づいて少しだけ怖くなった。瀬名は息を置いて言葉の角を落とすように続けた。


「俺が困る」


それだけだった。甘くもない、きれいでもない。


けれど、真白にはまっすぐすぎた。自分の都合だと言われた方がまだ楽だった。たぶん、それも彼の本音なのだろう。


「自分の都合ですか」


「そうだな」


「最低ですね」


「知ってる」


真白は下を向いた。怒るための言葉は残っているのに、うまく出てこない。「最低」「腹立つ」「嫌い」どれも使い慣れた言葉なのに、今は少し軽く見えた。


「困るって、何ですか?」


聞かなくていいことを聞いてしまった。瀬名はすぐに答えず、白い机の端に視線を落とした。真白の呼吸だけが少し早くなる。


「真白が平気な顔だけになると、案が死ぬ」


真白は瞬きをした。


「仕事の話ですか」


「それもある」


「それも?」


「それ以外を言うと、真白が逃げる」


喉の奥が熱くなった。図星だった。たぶん逃げる。


逃げるし、怒るし、瀬名を傷つける言葉を探す。それを彼は分かっている。分かっているから言わない。


言わないことまで見えてしまう真白にとって、その見え方は嫌だった。それなのに、少しだけ救われている自分がいた。


「……本当に嫌です」


真白は低く言った。


「何が?」


「そこまで分かっているような顔をされること」


「分かってない」


瀬名はすぐに言った。


「分からないから、見てる」


その言葉が静かに落ちた。真白は胸の奥を押さえたい衝動に駆られたが、手を動かすことはなかった。手を動かしたら、負けたような気がした。


「見ないでください」


「無理なときがある」


「勝手ですね」


「そうだな」


「否定しないところも嫌いです」


「嘘をつくよりいいだろ」


真白は少しだけ息を吐いた。怒るための息だったはずなのに、吐き出すころには少し違うものになっていた。ブースの照明は柔らかく、白い壁に影を作らない。


「今日のこと、誰にも言わないでください」


真白は言った。


「言わない」


「笑わないでください」


「笑わない」


「次に同じことがあったら、責めてください」


「それは状況による」


「そこは『責める』って言ってくださいよ」


「嘘は言わない」


真白は顔を上げた。瀬名の表情は静かだったが、距離はきちんと保っていた。


「本当に、助け方が下手ですね」


「知ってる」


「でも」


と言いかけて、止まった。瀬名が待っている。急かさない。


その待ち方が今は苦しかった。真白は、机の上に落ちる照明の白を見つめて言葉を胸の中で一度だけ握った。逃げるにはもう少し遅かった。


「……今日は、それで助かりました」


と言ってしまった。声は小さかったが、ちゃんと聞こえたはずだった。


瀬名はしばらく黙っていた。真白は顔を伏せたくなったが、伏せなかった。自分で言った言葉くらい、自分で持っていたかった。


「なら、よかった」


たったそれだけだった。余計なものを付け足されなかったことに胸の奥が少しほどけ、真白はようやく息を吸えた。


ブースの外では夜のフロアが静かに動いており、遠い窓には東京の灯りが映り始めていた。真白は立ち上がった。


「戻ります」


「分かった」


「瀬名さんも、今日はもう帰ってください」


「確認か」


「命令です」


瀬名は少しだけ目を上げたが、真白は視線を逸らさなかった。自分でも驚くほど、声は揺れなかった。


「昨日から疲れた顔していますよ」


「真白に言われるのは腹立つな」


「お互いさまです」


「そうだな」


瀬名は少しだけ笑った。朝よりも人間らしい笑い方だった。真白はそれを見てしまい、胸の奥がまた面倒な熱を持った。


夜のフロアに戻ると、窓の外の東京は濡れたように光っていた。実際に雨が降ったのか、それとも単に湿度が高くてガラスが曇っているだけなのかは分からなかった。机に戻ると、提出完了の通知がまだ画面の端に残っていた。


真白はそれを閉じた。今日のミスは消えない。焦ったことも、瀬名に見られたことも、助けられたことも。


けれど、資料は通ったし、真白もまだここに立っている。そう思うだけで、朝よりも少し呼吸が楽になった。


真白は鞄を持って、少し遅れて瀬名が席を立った。出口へ向かう通路で、真白は先を歩いた。


背後に瀬名の足音がある。並ばない。振り向かない。


しかし、その足音が途切れないことに少しだけ安心している自分がいた。真白は鞄の紐を握って夜の通路を進んだ。そこには、会社の冷えた匂いと外から入り込む湿った空気が混じっていた。


「真白」


後ろから声がした。


「何ですか」


真白は振り返らずに答えた。


「明日、今日の資料をもう一回見る」


「また刺すんですか?」


「必要なら」


「最低」


「通すためだろ」


その言葉に真白は立ち止まりかけた。最初に聞いたときは腹が立ったが、今日は少し違う場所に届いた。


「……そうですね」


真白は小さくそう言うと、瀬名の足音が一瞬止まった気がしたが、振り向かなかった。


「何ですか?」


「いや」


「変な顔していますか?」


「見えてない」


「ならいいです」


真白はまた歩き出した。逃げ道は優しい形をしていなかった。低い声で、少し腹の立つ言葉で、こちらの意地を残したまま差し出された。


真白はたぶん今日、それを、受け取ってしまった。認めたくない。けれど、受け取ったものは手の中に残る。


鞄の紐を握る指に紙の角ではない熱が残っていたが、真白はそれを振り払うことなく夜の灯りの中へ歩みを進めた。


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