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棘まで恋だった  作者: reika1021


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第4章:沈む言葉の跡

朝の社内カフェスペースにはまだ人の声よりも機械の音が多く、小さな冷蔵ケースの低い唸りや洗いたてのカップに残る水の匂いが、明るすぎない照明の下に薄く漂っていた。


真白依吹は窓際の細いカウンター席に資料を広げ、紙の端が反らないように片手で押さえた。ガラスの向こうでは東京のビルが淡い灰色をまとっていた。


雨が降るほどではないのに空気には水分が含まれており、窓に映る真白の顔はいつもより少しぼやけて見えた。


鞄の中には昨日仕上げた資料が入っていた。ただの紙の束なのに、まだ指先に熱が残っている気がする。


似ているから、分かることがある。


瀬名遥平の声が冷めきらないコーヒーの湯気に混じって聞こえてきた。あの言葉を思い出すたびに、真白は胸の奥を少しだけ押さえつけたくなる。


厄介だ、と彼は言った。真白もそう思った。


カフェスペースの端に置かれた紙ナプキンが空調の風で小さく揺れ、真白はそれを見ながら今日の案件資料を一枚めくった。


今朝見るべきなのは瀬名の担当案で、本来ならただ読んで気づいたことを返せばよかった。


それだけの仕事のはずだった。


しかし、表紙に瀬名の名前があるだけで紙の白さが少し違って見えた。余計なことを考えている、と真白は自分に言い聞かせる。


資料の構成はきれいだった。市場の流れ、購入までの心理導線、見せる順番。無駄がなく、声を荒げずに場を動かす瀬名らしい構成だった。


しかし、冒頭の一文だけが妙に息が浅い。正しいのに、読んだ人が入る前に扉を閉めてしまうような硬さがあった。


真白はペンを持った。反射的に余白に線を引いた。


ここではない。


指摘するのは簡単だった。むしろ、真白の得意とするところだった。


彼の案の弱い箇所を正確に突けばいい。今まで瀬名にやられてきたことを今日は真白がやればいい。


それなのに、ペン先が紙の上で止まった。


勝てる場所を見つけたはずなのに、胸が軽くならない。瀬名の企画の弱点を見つけた瞬間浮かんだのは、「ざまあみろ」ではなかった。


疲れているのかもしれない。


そんな余計な想像だった。


カフェスペースの入口で足音が止まったが、真白は顔を上げなかった。


上げなくても、誰か分かってしまう。


「朝からそこにいるのか?」


瀬名の声がした。


「見れば分かることを聞かないでください」


「資料、読んでるのか?」


「読んでます」


真白はようやく顔を上げた。


瀬名はカップを片手に立っていた。シャツの襟元はいつも通り整っており、髪も乱れていなかった。


けれど、目元だけがいつもより少し沈んでいた。


真白は、その疲れを見た瞬間、用意していた棘の先を見失った。嫌味ならいくらでも言えるはずだったのに、言葉が喉の奥で形を変えてしまった。


「何か」


瀬名が聞いた。


「別に」


「顔が別にじゃない」


「人の顔を読むなって、何回言えば分かるんですか?」


「読まなくても見えるときはある」


その返答に、真白は資料に目を落とした。「見える」「分かる」。そういう言葉が彼の口から出るたびに、真白は逃げる場所を探したくなる。


「瀬名さんの資料、読みにくいです」


仕事の話に戻すために、少し強く言った。


「どこが?」


「冒頭」


「またそこか」


「またそこです」


瀬名は、真白の隣ではなく斜め向かいの席にカップを置いた。資料は見えるが、手元の熱までは伝わらない距離だった。


「構造は悪くないです。でも、一文目が硬い。読ませる前に、もう判断させている感じがしますね」


「具体的には?」


「最初から結論を持たせすぎです。相手が入る余白がない」


と言いながら、真白は自分の言葉が瀬名に似ていることに気づいた。弱いのではなく、入る余白がある。


昨日、彼が残した感覚を今度は自分が別の形で返しているのだ。


瀬名も気づいたのかもしれない。カップを持つ指がほんの少しだけ止まった。


「昨日の仕返しか」


「違います。仕事です」


「便利な言葉だな」


「瀬名さんがよく使うので」


瀬名は何も言わなかった。疲れた目で資料を見ていた。


その横顔にはいつもの鋭さが少し欠けており、真白はそこを見てすぐに後悔した。


弱いところを見たかったわけではない。勝ちたい相手が疲れていることに気づくことほど面倒なことはない。


「ここ、直した方がいいです」


真白は資料の冒頭を指さした。


「どう直す?」


「自分で考えてください」


「意見を出すんじゃないのか?」


「出しますけど、全部は渡しません」


「競ってるな」


「競っています」


そう言えばいつもの形に戻れる気がして、真白は背筋を伸ばして資料の上にペンを置いた。


瀬名はペン先を見てから、真白の目を見た。


「なら、潰しに来ればいい」


その言い方はいつもの瀬名だったが、声の底にほんの少しだけ掠れがあった。


真白は、それに気づいた自分に嫌気がさした。


「そうします」


「楽しみにしてる」


「期待しないでください」


「してない」


嘘だと思った。けれど、そう言われると、少しだけ安心する自分もいた。


期待されることは重い。特に、瀬名に期待されることは。


朝のカフェスペースには機械の音が低く響いていた。カップの中のコーヒーはまだ熱いはずなのに、瀬名はほとんど口をつけていなかった。


真白はそのことに気づき、資料に視線を落とした。


「寝不足ですか?」


と言ってから、しまったと思った。


瀬名の目がこちらを向いた。真白はすぐに続けた。


「資料がそういう顔をしてるので」


「資料に顔はない」


「あります。作った人の状態くらい出ます」


「真白の資料にも出るのか?」


「私の話にしないでください」


瀬名は少しだけ息を吐いた。笑ったわけではない。


しかし、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。


「寝不足ではない」


「嘘ですね」


「何で分かる?」


「分かる時はあります」


瀬名が黙った。


真白は、言い返してしまった自分に気づき、紙の端を指で押さえた。言葉が返っていく。彼が置いたものが、今朝、自分の口から出ている。


「……真白に言われると腹立つな」


「お互いさまです」


「そうだな」


会話はそこで途切れたが、その途切れ方が以前とは少し違っていた。


けんかが終わった後の沈黙ではなく、言いかけた言葉をそれぞれが手元に戻すような静けさだった。


真白は資料の冒頭に小さく印をつけ、瀬名はそれを見ていた。


「その印、何?」


「傷口です」


「言い方」


「瀬名さんの案の傷口です」


「楽しそうだな」


「楽しくはないです」


真白は少しだけ間を置いた。


「でも、見つけました」


瀬名の横顔がほんのわずかに動いた。いつもならそこですぐに言い返してくるはずだった。


しかし、彼は黙ったままだった。カップのふちに指を添えたまま、資料の白い余白を見つめていた。


真白は、その沈黙に引っかかった。刺せば返ってくると思っていた場所から、何も返ってこなかった。


勝ったはずなのに、胸の奥に嫌な重さが残った。


カフェスペースの外では、フロアの音が少しずつ増え始めていた。遠くで椅子が引かれ、キーボードの音が重なり、会社の一日が本格的に動き出していく。


真白は資料を閉じた。


「会議前に、もう少し読みます」


「好きにしていい」


「言われなくても」


瀬名はカップを持って立ち上がり、歩き出した。そのとき、ほんの少しだけ肩の線が重く見えた。


真白はその背中を見ないようにした。見ないようにしたのに、視界の端に残った。


昼に向かうフロアは白い光の粒で満ちており、窓の近くでは東京のビルが湿った影を落とし、内側では画面の明るさが人の顔を均一に照らしていた。


真白は自分の席で瀬名の資料に向き合っていたが、指摘する箇所は増えていった。


冒頭の硬さ、中盤の説明過多、最後の着地の冷たさ。


どれも間違いではない。むしろ、瀬名の強みが裏返った部分だった。


構造が正確すぎるせいで読み手の感情が少し遅れてしまうことを、真白は言葉で押さえようとしていた。


しかし、書けば書くほど彼の疲れた横顔が紙の向こうに浮かび、会議でそのまま指摘すればかなりきつく聞こえるだろう。


いつもの真白なら言うだろう。言うべきだと思った。


競っているのだから遠慮はいらないし、優しくする必要もない。


しかし、瀬名が本当に少し疲れているように見えた朝の顔が、真白のペン先を鈍らせた。


「何で私が気にしてるんだろ」


と、小さく呟いた声は画面の下に落ちた。


答えは出なかったし、出したくもなかった。


昼の会議は窓から少し離れた小さな検討スペースで行われた。広い会議室ではなく、白いボードと簡素な机だけがある場所だった。


外の光は直接届かず、天井の照明が紙の影を短くしていた。真白は瀬名の向かいに座り、資料を開いた。


瀬名はいつも通り静かだったが、資料の端に落ちる視線が少しだけ遅かった。


その遅さに気づく自分が嫌だった。


「じゃあ、真白から」


瀬名が言った。


「いいんですか? かなり言いますよ」


「言えばいい」


「後悔しません?」


「しない」


真白はペンを持ち直した。ここで迷う方が失礼だと思った。


そう思わなければ言えなかった。


「冒頭が硬いです。結論を先に置きすぎて、読む側の気持ちが入る前に閉じてしまっています」


瀬名は黙って聞いていた。


「中盤も説明の順番は正しいです。でも、正しいだけで記憶に残る引っかかりが少ないです」


「続けて」


「最後のコピーも、きれいに落ちすぎています。瀬名さんらしいけど、今回はそれが弱いです」


言い切った後、静かな時間が流れた。


真白は瀬名を見た。彼は怒っていない。けれど、いつものようにすぐに返答することもなかった。


資料の端に視線を落とし、言葉を一つひとつ体の中に沈めているように見えた。


「そこまでか」


瀬名の声は低かった。


「そこまでです」


「かなり刺したな」


「潰しに来ればいいと言ったのは瀬名さんだ」


「言ったな」


瀬名は少し笑うように息を吐いたが、目元は笑っていなかった。


真白の胸の奥が薄く痛んだ。


「反論しないんですか?」


「する場所が少ない」


その返事は、真白が思っていたよりも疲れていた。


勝った、そう思ってもいいはずだった。


瀬名の案に弱点を示し、彼自身もそれを否定できなかったのだ。つまり、企画職としては真白の指摘が通ったということだ。


けれど、少しも気持ちよくなかった。


瀬名は資料を閉じずに、冒頭の一文を見つめていた。


真白は、その指先を見た。紙の端を押さえる力がいつもより少し強い。


「瀬名さん」


と呼びかけてから、何を言うつもりだったのか分からなくなった。


瀬名が顔を上げた。


「何?」


「……いえ」


「気になるだろ」


「別に」


「顔が別にじゃない」


いつもの返答だったのに、真白は笑えなかった。


「反論してくださいよ」


「何で?」


「そのほうがやりやすいので」


瀬名は少しだけ目を細めた。照明の下で、疲れの影が濃く見える。


「やりやすいように噛み付ければいいのか?」


「そうです」


「面倒だな」


「瀬名さんが静かだと余計に面倒なんです」


言ってしまった後、真白は視線を落とした。余計なことを言ってしまった。


瀬名の沈黙が自分に関係しているように思えてしまう。それは、そんなことを認めたようなものだった。


「今日は少し考えたい」


瀬名が静かに言った。


その言葉に真白は返せなかった。いつもなら、「考える時間なんて、資料を出す前に取ってください」と言えたはずだった。


でも、言えなかった。


「分かりました」


自分でも驚くほど素直な返事だった。


瀬名も少しだけ驚いたように見えた。


「何ですか?」


「いや」


「言いたいことがあるなら、言ってください」


「今日は優しいなと思った」


真白の喉が詰まった。


「違います。仕事の進行上、必要なだけです」


「そうか」


「そうです」


瀬名はそれ以上何も言わなかった。真白は資料に目を戻した。


会議はそのあとにも続いたが、いつものような鋭さは戻らなかった。


真白が指摘し、瀬名が受け止める。時々短い反論が返ってくるが、その反論には熱が足りなかった。


熱のない言葉は朝のように刺さらず、ただ、瀬名がどこかを庇っていることだけが伝わってきた。


昼の終わりに検討スペースを出たとき、フロアの空気は少し重くなっていた。人の体温と機械の熱が混ざり、床に落ちる光までくたびれて見えた。


真白は自分の席に戻りかけ、途中で足を止めた。


瀬名は資料を持ったまま窓際の通路に立っていたが、外を見ているわけではなく、ガラスに映る自分の資料をぼんやりと見ていた。


真白は声をかけなかった。


声をかければ何かが変わる気がしたし、かけなければ見なかったことにできるはずだった。


けれど、見てしまったものは消えない。


瀬名の横顔は、朝よりも昼よりも疲れていた。


勝った気分になれない。


その感覚が真白の胸の中に沈んだ。


午後の作業は、どこか手触りが悪かった。自分の案件は進んでいるし、資料も整っている。


しかし、瀬名の案の冒頭が頭の片隅に残っていた。硬すぎる一文、入る余白のない導線、彼らしくて彼らしくない場所。


真白は何度か自分の画面を閉じかけ、そして瀬名の資料を開き直した。


余計なことだ。担当ではないし、指摘はすでにしている。


それなのに気づいたまま放っておくのは気持ちが悪かった。


「本当に、何やってんだろ」


真白は小さく言った。


画面には瀬名の資料が開かれており、真白は冒頭の一文を別の場所に移し、最初に短い生活の場面を置いてみた。


商品の説明ではなく、帰宅後の静かな動作。誰かのために選んだふりをしながら、ほんの少し自分を許す瞬間。


それは瀬名の構造ではなく、真白の言葉だった。


けれど、それは瀬名の資料に必要なものでもあった。


真白は修正案を保存しなかったし、共有ファイルに直接入れるつもりもなかった。


ただ、メモとして自分の手元に残した。


夕方の気配が窓に寄り始めたころ、瀬名の席は空いていた。資料もカップもそのまま残っていた。


真白は少しだけ視線を泳がせた。探しているわけではない、と自分に言い訳した。


瀬名はフロアの端にある窓際の小さな作業席にいた。そこは、会社の中でも少しだけ音が遠くなる場所だった。


真白は立ち上がらなかった。立ち上がれば心配しているみたいになる。


心配ではない。少なくとも、そういう名前にはしたくない。


それでも数分後、真白は印刷した一枚の紙を持って席を立った。


窓際の作業席に向かう通路には夕方前の光が斜めに差し込み、東京のビルの隙間から反射した光が床に薄い帯を作っていた。


その帯を踏むたびに、紙の端が指に当たった。


瀬名は小さな作業席で資料を見ており、真白が近づいてもすぐには顔を上げなかった。


その集中の仕方がいつもより少し、無理をしているように見えた。


「瀬名さん」


真白は声をかけた。


瀬名が顔を上げた。


「何?」


「これ」


真白は一枚の紙を差し出した。


「何だよ」


「修正案です」


瀬名は紙を受け取らず、真白の手元を見てから真白の顔を見た。


「俺の?」


「そうです」


「頼んでない」


「知っています」


「じゃあ、何で?」


「気持ち悪かったので」


瀬名の眉が少し動いた。


「俺の資料が?」


「直せる場所があるのに、そのまま残っているのが」


真白は紙を机に置いた。音を立てないようにしたつもりだったが、紙は薄く鳴った。


「採用しなくていいです。見なくてもいいです」


「なら渡すなよ」


「渡したら、私の中では終わるので」


瀬名は紙を見下ろした。すぐに触れることはできなかった。


その沈黙が長く感じられ、真白は居心地の悪さを感じた。


「見ないなら、持って帰ります」


「見る」


瀬名は短く言い、紙を手に取った。


真白は横に立ったままだった。座る場所はあるが、座ると手伝いに来たみたいになる。


もう十分そうに見えているかもしれないが、それを認めるのは嫌だった。


瀬名は紙に目を通したが、表情は変わらなかった。


ただ、一行目で視線が止まり、次に二行目で少しだけ呼吸が変わった。


真白はその変化を見逃さなかった、見逃せなかった。


「悪くない」


瀬名が言った。


「その言い方、腹立ちますね」


「かなりいい」


真白は一瞬言葉を失った。


瀬名は紙を見たまま続けた。


「俺の資料より入れる」


「そういうの、簡単に認めるんですね」


「認めない方が良いのか」


「瀬名さんなら、もっと噛みつくと思っていました」


「噛みつけるところが少ない」


その声は静かだった。


真白は勝ったはずだった。瀬名の案の弱点を突いて、代案まで出した。彼もそれを認めた。


それなのに、胸の中はちっとも晴れない。


「何でそんな顔をするんですか?」


瀬名が言った。


真白は目を細めた。


「どんな顔ですか?」


「勝ったのに嬉しくなさそうな顔」


「勝ったなんて思っていません」


「嘘だな」


「瀬名さんに言われたくないです」


いつものように返したつもりだったが、声の終わりが少しだけ弱かった。


瀬名はそれに気づいたのだろう、紙から目を上げた。


「真白」


「何ですか?」


「気にするな」


その言葉は真白の胸にまっすぐ落ちた。


「気にするな」そんな風に言われると、自分が気にしていることまで見えてしまう。


「気にしてません」


「してる」


「してません」


「じゃあ、何でそんなに怒ってるの?」


真白は返せなかった。


怒っている。確かにそうだった。瀬名に対してではなく、自分に対してだ。


彼の疲れた横顔に気づいてしまったこと、弱い資料を見つけても勝った気分になれなかったこと、代案を渡してしまったこと。


その全部に腹が立っていた。


「瀬名さんがいつもみたいに言い返さないからです」


真白は言った。


瀬名は黙った。


「こっちは刺す準備をしていたのに」


言っているうちに、自分でも少しずつ分かってきた。これは責めているのではない。


たぶん、困っているのだ。


「静かに受け止められると、こっちが悪いみたいになる」


瀬名は紙を机に置いた。窓の外の光が彼の横顔の輪郭を薄く照らしていた。


「悪くないだろ」


「じゃあ、何ですか?」


「気づいただけだろ」


真白は唇を結んだ。言い返す前の癖が出る。


「俺の案が弱いところに」


「そういう話じゃないです」


「じゃあ、何?」


瀬名の声は低かったが、責めている声ではなかった。


だから余計に、真白は逃げにくかった。


「瀬名さんが疲れているのに気づいたことが嫌なんです」


と言ってしまった。


窓際の空気が一瞬だけ動かなくなり、遠くのフロアの音が厚いガラス越しのように鈍くなった。


瀬名は真白を見た。真白も視線を逸らせなかった。


「何で嫌なんだよ」


「知らないです」


「知らないでそこまで怒るのか?」


「怒っていないと、変な感じになるからです」


瀬名は何も言わなかった。


真白は、自分の声が少し震えていないか気になったが、たぶん震えてはいない。


けれど、強い声ではなかった。


「勝ちたい相手が疲れていたら、笑えばいいじゃないですか」


真白は続けた。


「隙があるって思えばいい。いつもみたいに、そこを突けばいい」


「真白はそうしなかった」


「だから嫌なんです」


瀬名は目を伏せた。


その横顔を見て、真白はまた胸の奥が痛くなった。やめてほしいと思った。


そんな顔をしないでほしい。こちらが悪いみたいになるから。


いや、違う。悪いかどうかではない。


ただ、見ていられないのだ。


「疲れてない」


瀬名が言った。


「嘘です」


「少しだけだ」


「少しだけの顔じゃないです」


「顔に出てたか」


「出てました」


「最悪だな」


「はい、最悪です」


瀬名は小さく息を吐いた。今度は笑ったのかもしれない。


しかし、その笑いはいつもより弱かった。


真白は紙を指さした。


「それ、使ってください」


「いいのか」


「いいです。私が気持ち悪いので」


「その理由、ずっとひどいな」


「優しい理由にしたら、もっと気持ち悪いでしょう」


瀬名は紙を見下ろしたまま、少しだけ黙った。


「助かる」


たった一言だった。


その言葉が真白の胸を静かに締め付けた。ありがとうという言葉よりも彼らしい言葉だった。


真白はすぐに返せなかった。返したら何かを認めることになる気がした。


「貸しです」


ようやくそう言った。


「分かった」


「大きい貸しです」


「分かった」


「簡単に『分かった』って言わないでください」


「じゃあ、どう言えばいい?」


「知りません。自分で考えてください」


瀬名は少しだけ口元を緩めた。それは、ほんの短い変化だった。


真白はそれを見てしまい、またすぐに視線を外した。


窓の外は夕方の色に染まり、ビルの向こうの空は水を含んだ布のように重く、社内の白い照明が映り込んでいた。


真白は窓に映った自分を見た。怒っている顔のはずなのに、目元だけが少し違っていた。


弱く見える、と真白は思った。そしてすぐに顔を背けた。


「真白」


瀬名が呼んだ。


「まだ何か」


「さっきの、助かった」


「もう聞きました」


「ちゃんと言い直した」


「『ちゃんと』の基準が低すぎます」


「真白が言い直せって顔してた」


「してません」


「してた」


「本当に、顔を読むなって言ってるのに」


「読むなと言われるほど分かる」


真白は言葉を失った。


そんな風に言わないでほしかった。腹が立つのに、胸の奥が少しだけ熱くなる。


瀬名はそれ以上踏み込むことなく、紙を自分の資料の上に重ねてペンを取った。


仕事に戻る素振りだった。


真白は少しだけ救われた。これ以上続けたら、何かが仕事の形を失う気がした。


「戻ります」


「分かった」


「無理しないでくださいとは言いません」


「言ってるのと同じだろ」


「違います。言わないと決めたので」


「じゃあ、言われてないことにする」


真白は背を向けた。歩き出す前に、瀬名の横顔が視界の端に入った。


疲れているけれど、さっきより少しだけ呼吸が戻っているように見えた。


それだけで胸が軽くなる自分が、真白にはやっぱり嫌だった。


夜の気配がフロアの窓に入り込むころ、瀬名の資料が修正されて共有フォルダに戻ってきた。真白は通知を見て、すぐに開かないふりをした。


数分間、意味のない抵抗を続けた。


開けてみると、真白が渡した冒頭案がほぼそのまま使われており、少しだけ瀬名らしく整えられていた。


硬すぎた部分が抜け、読み手が入る余白ができていた。


真白は画面を見つめた。自分の言葉が瀬名の文章の中に入っている。昨日とは逆の展開だ。


そのことが、不思議なほど落ち着かなかった。


コメント欄に短い文があった。


借りた。


真白はしばらくその文字を見た。


「借りた。ありがとう」でも、「使った」でもない。貸しを認める言葉。


真白は返信欄を開いた。


「利子つきです」


送ってから少しだけ後悔したが、すぐに返事が来た。


高そうだな。


真白は口元が動きそうになり、慌てて画面に視線を固定した。


笑ってはいない、そう思いたかった。


夜のフロアは昼よりも音が少なく、残った仕事の音だけが机の間に細く流れている。


真白は帰る支度をしながら、瀬名の席を見ないようにした。見ないようにしていたが、彼がまだ作業を続けていることが分かった。


キーボードの音が少し遅い。


真白は鞄に資料を入れ、立ち上がり、帰ろうとした。


けれど、数歩進んだところで足が止まった。


瀬名の机には朝のカップがまだ残っていた。中身はもうないのかもしれないが、ふたの小さな穴は乾いたままこちらを向いていた。


真白は自分に呆れた。


そんなものまで見る必要はない。


それでも足は給湯スペースの方へ進み、紙カップに水を入れた。冷たい水が底に当たって、小さな音を立てた。


戻る途中、真白は何度も自分に言い訳をした。「ついでのことだ」「近くを通るからだ」「水が余っただけだ」


瀬名の席の横に立つと、彼が顔を上げた。


「帰ったんじゃないのか?」


「帰ります」


真白は紙カップを机の端に置いた。


「これ、邪魔なら捨ててください」


瀬名は紙カップを見てから、真白を見た。


「水?」


「見れば分かることを聞かないでください」


「真似か?」


「違います」


瀬名はカップを手に取り、飲む前に少しだけ黙った。


「助かる」


「それも二回目です」


「何回言えばいい?」


「言わなくていいです」


「じゃあ、黙って飲む」


「そうしてください」


瀬名は本当に黙って水を飲んだ。


真白は、その喉の動きを見ないようにした。見ると、また余計なことに気づいてしまう。


フロアの窓には東京の灯りが重なっており、ガラスに映る瀬名の横顔はさっきより少しだけやわらいでいた。


真白はそれを笑えなかった。


「瀬名さん」


「何」


「今日はもう帰った方がいいです」


と言ってから、真白は息を止めた。


ついに言ってしまった。言わないと決めていたことを、ほとんどそのまま。


瀬名は驚いた顔をしなかったが、少しだけ目を伏せた。


「命令か」


「確認です」


「ずるいな」


「瀬名さんほどじゃないです」


「そうか」


「そうです」


短い会話だったのに、胸の奥に長く残った。


瀬名は画面を保存して資料を閉じ、真白はその動きを見て少しだけ安心した。


安心した自分に気づいて、また腹が立った。


「真白」


「何ですか?」


「今日は負けた気がする」


真白は瀬名を見た。


「資料の話ですか?」


「たぶん」


「たぶんって、何ですか?」


「分からない」


瀬名は低く言った。


「でも、悪くない」


真白は返事を探したが、すぐには見つからなかった。


負けた気がする。悪くない。その言葉は、仕事の勝ち負けとはもっと別の何かの境目に置かれている気がした。


「私も勝った気がしませんでした」


真白は小さく言った。


瀬名がこちらを見た。


「何で?」


「瀬名さんの横顔が疲れてたからです」


また言ってしまったが、真白はもう取り消さなかった。


瀬名の視線が少しだけ揺れた。ほんのわずかな揺れだったが、真白には見えた。


「笑えばよかったのに」


瀬名の声は低かった。


「笑えませんでした」


真白は言った。


「そういうの、嫌です」


「何が?」


「嫌いでいさせてくれないところ」


その言葉の後、フロアの音が遠くなった。空調の低い響きだけが机の間をゆっくり流れている。


瀬名はしばらく黙っていた。真白も動けなかった。


言い過ぎた、そう思った。


けれど、不思議と後悔だけではなかった。


瀬名は、水の入った紙コップを机に置いた。


「俺も」


それだけだった。


真白は聞き返せなかった。何に対する「俺も」なのか。


嫌いでいさせてくれないことか、笑えなかったことか、あるいはもっと別の何かか。


分からないまま、胸の奥にしまった。


「帰ります」


真白は言った。


「そうしろ」


「命令しないでください」


「確認」


「便利ですね」


「使えるだろ」


「腹立つくらいに」


瀬名は少しだけ笑った。今度はわかった。


それは大きな笑いではなかったが、朝から彼の顔に張りついていた疲れの膜がほんの少しだけ薄くなる程度の変化だった。


真白はその変化を見てしまった。


見てしまったことを、もうなかったことにはできない。


夜の通路を歩きながら、真白は鞄の紐を握り直した。窓の外には湿った東京の灯りが広がっていた。


雨はまだ降っていなかったが、ガラスの向こうの街は、どこか濡れたように光っていた。


背後で瀬名が席を立つ音がした。


真白は振り向かなかったが、彼も帰るのだと分かった。


そのことに胸の奥が少しだけ軽くなった。


嫌いだと思っていた。今もたぶんそう思っている。


けれど、今日その言葉の奥に別の温度が混じっていることに気づいた。真白はそれを確かめないまま夜の明かりの方へ歩いた。


勝ったはずなのに、笑えなかった。


そして、笑えなかったことをたぶん少しだけ忘れたくなかった。


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