第3章:紙片の共鳴
朝の光は、若手企画部の奥にある資料棚まで届かなかった。窓から遠いその一角には、紙の古びた匂いとコピー機の熱がこもったようなほのかに暖かい空気が残っていた。真白依吹は片手で資料ファイルを押さえながら、背表紙の並びを目で追っていた。
昨日の夜の湿った風がまだ髪の内側に残っている気がした。瀬名遥平の声もそこに紛れて消えなかった。「見落としたくないときがある」という言葉は朝になれば薄まると思っていたのに、むしろ輪郭を持っていた。
真白は棚から一冊抜き出した。重い紙の束が指に沈み、表紙の角が手首に触れる。「こういう物理的な重さは助かる。胸の中にあるものよりずっと扱いやすい」
それは、新しい案件の比較資料だった。今日の作業は、同じ商品を別の視点から見せるための企画軸をそれぞれ持ち寄ることになっている。真白は、自分の案に名前をつける前に過去の事例をもう一度見直したかった。
資料棚の近くではコピー機が低くうなり、紙が吸い込まれ、光が走り、また紙が吐き出される。その機械的な呼吸が朝のフロアのざわめきから少し離れた場所で妙に落ち着いて聞こえた。
真白はファイルを抱えて小さな作業台へ移動した。窓のない場所なので、時間は光ではなく音で変わる。遠くのフロアで椅子が動いて誰かのキーボードが急ぎ始めると、朝が仕事の顔に変わったのだとわかる。
資料を開くと紙のにおいが少し強くなり、乾いたインクと古いクリアファイルの薄いビニール臭が混ざった。真白はそのにおいを吸い込み、胸のざらつきを仕事のほうへ向けようとした。
企画の中心に置くべきものはすでに見えていた。それは、商品の魅力そのものではなく、それを選ぶ人が自分を少しだけ許せる瞬間、そして、自分のためと言い切れない人に遠回りな口実を渡すことだった。
悪くない、むしろかなりいい、と真白は思ったが、すぐにその言葉を胸の奥に押し込めた。
自信は必要だ。しかし、自信を声に出した途端、どこからか瀬名の低い指摘が飛んでくるような気がする。腹立たしいことに、彼の言葉はすでに真白の企画の中に勝手に居場所を作っていた。
「真白」
背後から声がした。
真白は振り向く前にファイルの端を強く押さえた。名前を呼ばれただけで体が反応するのが嫌だった。嫌なのに聞き間違えない。
「何ですか?」
振り返ると、瀬名遥平が別の資料ファイルを持って立っていた。彼も資料棚の方から来たらしく、朝の光が届かない場所では表情の影がいつもより深く見えた。
「そのファイル、使うのか?」
「使います」
「じゃあ、こっちはあとで見る」
瀬名は一歩引いた。邪魔をしない距離だった。真白は、その距離の取り方まで気に入らなくて資料のページを少し乱暴にめくった。
「必要なら使えばいいじゃないですか?」
「先に見てただろ」
「そういう遠慮は、仕事では効率が悪いです」
「遠慮じゃない」
「じゃあ何ですか?」
瀬名は少しだけ黙った。資料棚の奥でコピー機の光がまた薄く走り、真白は青白いその瞬きに妙な間の悪さを感じた。
「同じ資料を見ようとしてるなら、話したほうが早い」
真白は手元の紙を見下ろした。話したほうが早い。その通りだった。通り過ぎて腹が立った。
「瀬名さんと?」
「ほかに誰がいるんだよ」
「言い方」
「そっちもな」
真白は返しそうになってやめた。いつもの応酬に乗ると昨日と同じ場所へ戻ってしまう気がした。今日は戻りたくなかった。
作業台の上に資料を広げると、紙の白が蛍光灯を受けて少し青く見えた。瀬名は隣ではなく角を挟んだ位置に立っていた。近すぎないが同じ紙面は見えた。
その位置がまた面倒だった。仕事としては正しいが、感情としては少しだけ落ち着かない。
「今回、どこから入るつもりですか?」
真白は先に聞いた。仕事の話ならまだ呼吸が整う。
「選ぶ理由じゃなくて、選んだ後に言い訳できる場所」
瀬名が答えた。
真白の指が止まった。
「何ですか、それ?」
「何って、企画軸でしょう?」
「分かってます」
真白は資料の角を押さえた。胸の奥に紙で切ったような小さな刺激が走り、自分が今朝考えていた場所とほとんど同じだということに気づいた。
「真白は?」
瀬名の声に、真白はすぐには答えられなかった。答えれば似ていると認めることになり、黙ればもっと認めているように見える。
「言いたくないです」
「子どもか」
「言ったら瀬名さんの案みたいになるので」
「もう近いんだろ」
真白は瀬名を見た。彼は静かにこちらを見ていたが、勝ち誇った顔ではなく、ただ分かってしまったという顔だった。
その顔が嫌だった。似ていることを喜ばれているわけではないのに、見つけられたような気がした。真白は視線を資料に戻した。
「近くありません」
「じゃあ、見せて」
「嫌です」
「仕事だろ」
「便利ですね、その言葉」
瀬名は少しだけ息を吐いた。それは、笑ったのではなく、言葉を選び直す前の息だった。真白は、その息の吐き方まで覚えている自分に気づき、また腹が立った。
「競合案として出すなら、重なりは先に見た方がいい」
「正論で殴らないでください」
「殴っていない」
「瀬名さんの正論は、だいたい鈍器です」
「そっちの感覚案も、たまに刃物だろ」
真白は少しだけ言葉に詰まった。言い返せるはずの会話なのに妙に的を射ていて、感覚案は刃物のようだ。嫌な言い方なのに少しだけ自分の仕事を理解されている気がした。
「褒めてます?」
「半分」
「残り半分は?」
「扱いづらい」
「最低」
「知ってる」
その返事に、真白は目を逸らした。「知ってる」という言葉を彼が使うたびに、逃げ場を残しながら踏み込まれている気がする。今日こそは同じ反応をしないと決めていたのに、胸の奥がまた小さく乱れた。
真白は観念して自分のメモを一枚取り出した。そこには、選んだあと自分を責めずに済む言い訳、誰かのためと言いながら自分のためを許す導線が走り書きされていた。
瀬名はそれを見て、見た瞬間、眉をほんの少し動かした。
「……ほぼ同じだな」
「言わないでください」
「言わなくても同じだろ」
「言わなければ、まだ違うふりができます」
「ふりをしても、資料でばれますよ」
真白はメモを引き戻そうとしたが、瀬名の指がメモの端に触れた。奪うような強さではなく、ただ紙が滑るのを止める程度の力だった。
その近さに真白の指先が一瞬だけ止まった。紙を挟んでいるだけなのに、触れたわけでもないのに、距離の温度が変わる。
「何ですか?」
声が少し低くなった。
瀬名はすぐに手を離し、視線を資料へ落とした。
「悪い」
その引き方が早すぎて、逆に意識していることがわかる。真白は腹立たしくなり、メモを胸元へ戻した。
「そういうところ、本当に」
「何?」
「いえ」
言えばまた余計なところまで見られてしまう。真白はメモを裏返しにして作業台に置いた。紙の裏には何も書かれていないのに、そこまでも見られているような気がした。
資料棚の奥で紙の束がわずかに傾き、瀬名がそれを片手で押さえた。無意識の動きだったのだろうが、真白はその指の長さや資料を傷めない力加減まで見てしまった。
似ている。企画の核心が似ているだけではないのかもしれない。紙を扱うときの慎重さや言葉の順番に執着するところ、そして強い表現の中に逃げ道を残したがるところまで、どこかで重なっている。
そう思った瞬間、真白は自分に苛立った。瀬名と似ているなんて認めたくない。
「別案を出します」
「今から?」
「今から」
「近いなら、合わせた方が強い」
「合わせません」
「何で?」
「似ているのが嫌だからです」
言ってしまった後、真白は唇を結んだ。これは企画の話だけではない。そう聞こえてしまったかもしれない。
瀬名は少し黙った。資料室の空気に紙のにおいが混じり、遠くのフロアから笑い声のようなものが聞こえたが、すぐに消えた。
「俺も嫌だよ」
低い声だった。
真白は顔を上げた。
「何がですか?」
「似てるの」
瀬名は真白を見ておらず、資料の文字を見ているふりをしていた。その横顔には、朝から残っていた疲れとは別の影が見えた。
「嫌なら、違う案にしてください」
「できるならしてる」
その答えは真白の胸の変なところに落ちた。「できるならしてる」つまり、彼も避けようとして避けられなかったのだ。
真白はメモを見下ろした。自分の字が急に見慣れないものに見えた。そこに瀬名の影が重なるのが嫌だった。でも、完全には消せなかった。
「……最悪ですね」
「同感」
「息が合っているようで気持ち悪い」
「そこまで言うか」
「言います」
瀬名はほんの少しだけ口元を緩めた。朝の資料棚の影の中でその変化は小さかったが、真白には見えた。
見えてしまった。
コピー機が紙詰まりの小さな音を立て、真白は反射的にそちらを見た。瀬名も同じタイミングで視線を動かした。
動きが同じだった。些細な動きまで同じで、真白は思わず眉を寄せた。
「今のも嫌です」
「何が?」
「同じタイミングで見たところ」
「それは知らないだろ」
「知っています。見えたので」
瀬名は少しだけ黙り、それからコピー機のほうへ歩いた。真白も同じように動きかけ、慌てて止まった。彼だけで足りる、と自分に言い聞かせる。
しかし、瀬名は紙詰まりのカバーを開けたところで手を止めた。
「真白、こっちの紙を押さえて」
「結局、呼ぶんですか?」
「手が足りない」
「人を便利に使わないでください」
そう言いながら真白は隣に立った。コピー機の内部からこもった熱気が立ち上り、機械の中で温められた紙の匂いが湿った息のように漂っていた。
瀬名は奥に詰まった紙を慎重に引き出し、真白は手前のトレイを押さえた。狭い場所で肩が近づき、互いの動きが少しでも乱れれば触れそうだった。
真白は息を浅くした。瀬名の袖が視界の端に入った。柔軟剤の匂いではなく、紙とインク、そして少しだけ外気の匂いがした。
「引っ張りすぎると破れます」
「分かってる」
「分かってる人の角度じゃないです」
「じゃあ、やって」
「嫌です」
「何なんだよ」
瀬名の声が少しだけ低くなった。苛立ちというよりも、困っているような声だった。真白は、その声に何故か少しだけ気が緩みそうになった。
「貸してください」
結局、真白は手を出した。瀬名は紙の端を持ったまま少し場所を譲った。近い。コピー機の熱よりも、その距離のほうが気になった。
真白は詰まった紙をゆっくり抜いた。紙は折れていたが、破れてはいなかった。紙を取り出した瞬間、コピー機の内部の光がふっと落ち着いた。
「取れました」
「器用だな」
「褒めるところ、そこですか?」
「事実だろ」
「本当に下手ですね」
瀬名は何も言わず、取り出した紙を受け取った。指先がほんの少し近づくが、触れなかった。触れない距離で止まるのがまた腹立たしかった。
真白はコピー機のカバーを閉じた。小さな音がして、機械が再び低く動き始めた。作業台に戻るまでの数歩が妙に長く感じられた。
資料室の入口からフロアの光が細く差し込んでおり、そこを出ればまたいつもの仕事の顔に戻れるけれど、真白は少しだけその薄暗い資料室に残っていたかった。
瀬名も同じことを思ったのかもしれない、と考えたが、すぐに否定した。何でも同じだとは思いたくなかった。
「合わせる案、出しませんから」
真白は作業台に戻って言った。
「まだ言ってるのか」
「大事なことなので」
「別々に出して、同じだって言われる方が面倒だろ」
「そのときは瀬名さんが真似たことにします」
「無理がある」
「無理でも言います」
瀬名はメモを見ながら少しだけ首を傾げた。考えるときの癖なのかもしれない。真白はそれをまた覚えそうになり、視線を紙に落とした。
昼が近づくにつれて、資料室の外の音は厚みを増していった。人の足音が増え、遠くで電話の声が何度も響く。窓のないこの場所では、時の流れは外から押し寄せる音でしか分からない。
真白と瀬名はそれぞれのメモを作業台に並べ、似ている箇所に線を引いた。すると、思った以上に重なっていた。選んだ後に許される感覚、自分のためを誰かのためと言い換える構造、強い言葉よりも少し遅れて効く言葉。
真白は線を引くたびに胸が重くなった。こんなに似ているなら、もう競う以前の問題だ。相手が嫌いだから否定したいのに、否定したい相手と同じ場所を見ている。
「気持ち悪いくらい重なってますね」
「そこまで嫌そうに言わなくてもいいだろ」
「嫌なので」
「俺も嫌だって言った」
「張り合わないでください」
「張り合ってない」
その会話すらどこか呼吸が合っているようで、真白はペンを置いた。置いた音が小さく響いた。
「同じ案にたどり着いたからって、相性がいいとかそういう話じゃないですからね」
と言ってから、なぜ自分が先に否定したのか分からなくなった。瀬名は少しだけ目を上げた。
「誰も言ってない」
「言われる前に言っただけです」
「何に怯えてるんだよ」
「怯えていません」
「じゃあ何?」
真白は答えなかった。瀬名がまっすぐ聞いてくる時、時々、仕事の会話ではなくなる。その境目を越えそうになると、真白はいつも先にトゲを出したくなる。
「瀬名さんと似てるって思われるのが嫌なんです」
「俺も、真白と似てると思われたら面倒だと思う」
「面倒?」
「放っておけない理由が増える」
真白の指が止まった。
資料室の外で誰かが急いで通り過ぎる足音がし、その音が消えた後、紙の上に沈黙だけが残る。
「……そういう言い方、やめてください」
真白は低く言った。
瀬名は視線を落とした。言い過ぎたと気づいたようだったが、謝らなかった。謝れば、その言葉が特別だったと認めることになるからだろう。
真白は、そのくらい分かってしまう自分が嫌だった。嫌なのに分かってしまう。
「企画の話だ」
瀬名が言った。
「遅いです」
「何が?」
「逃げるのが」
瀬名は黙った。真白も黙った。作業台の上では、重なったメモが静かに白く光っていた。
昼の作業は結局、別々の案を無理に競わせるのではなく、重なった部分を一つの軸にしてそれぞれの強みを分ける方向へ進んだ。真白は言葉の湿度を担当し、瀬名は構造の導線を組んだ。認めたくはないが、その分担は自然だった。
自然すぎることに腹立たしさを感じた。
フロアに戻ると、窓から差し込む光が少しだけ平たくなっていた。人の熱気が増し、床に落ちる影が朝よりも短くなっていた。東京の昼は、ビルの中にいる人間から季節の感覚を奪っていく。
真白は自分の席に戻り、メモを画面に移し始めた。瀬名の考え方が混ざらないように気を付けるが、気を付ければ付けるほど、すでに混ざっていることが分かる。
腹が立つ。けれど、資料は良くなっていく。
それが一番腹立たしい。
瀬名から共有ファイルが届いた。名前も余計な文章もなく、ただ導線案が整理されているだけだった。真白は開く前に一度だけ深く息を吐いた。
ファイルを開いた瞬間、目が止まった。真白が置こうとしていた言葉の位置を、瀬名は別の形で空けていた。まるでここに置くだろうと、先に場所を作られているようだった。
気持ち悪い、そう思ったが、同時に少しだけ呼吸が楽になった。
真白はそこへ自分の言葉を置いた。ぴったりとはまった。はまりすぎて、しばらく画面を見つめてしまった。
「……何なんですか?」
小さく漏れた声は誰にも向けていなかったが、瀬名の席のほうで椅子がわずかに動いた気がした。
真白は慌てて画面に視線を戻した。聞こえていない、そう思いたい。いや、聞こえていたとしてもどうせ何も言わないだろう。
瀬名からメッセージが届いた。
そこに置くと思った。
真白は画面をにらんだ。腹立たしい。腹立たしいのに、少しだけ胸の奥が熱くなる。自分の言葉の置き場所を先に取られていたのだ。
真白は返信欄を開き、何度か打っては消した末に、結局短く返した。
勝手に読まないでください。
すぐに返事が来た。
読んでない。分かっただけ。
真白は画面から目を離した。耳の奥に資料室での声が響く。見ないようにしても分かることはある。似ていることがこんな風に作用するとは思わなかった。
午後の空気は重く乾いており、画面を見続けた目は痛んだ。真白は何度か瞬きをした。紙カップの水はすでにぬるく、飲んでも喉の奥に残る熱は取れなかった。
作業は驚くほど進んだ。言葉と構造が互いに邪魔をせず、むしろ穴を埋め合っていく。真白は、自分の案が瀬名の導線の上で少しずつ呼吸を広げていくのを感じた。
認めたくない。けれど、いい。
そう思った瞬間、真白は椅子の背もたれに体を預けた。天井の白い照明が目に入った。いつもと変わらない会社の光なのに、今日は少しまぶしすぎた。
瀬名が席を立った気配がしたが、真白は画面を見ないよう決めて見なかった。しかし、数秒後には彼は真白の席の横に立っていた。
「ここ」
瀬名が資料の一部を指さした。
「何ですか?」
「この言葉、残した方がいい」
真白は画面を見た。自分でも迷っていた一文だった。少し弱く見えるかもしれないと思って削ろうとしていた。
「弱くないですか?」
「弱いんじゃなくて、入る余白がある」
真白は黙った。まさに自分が言いたかったことの裏側だった。それは弱い言葉ではなく、受け取る側が自分の感情を置きやすい言葉だった。
「……瀬名さんにそう言われると、消したくなります」
「消すなよ」
「命令ですか?」
「お願い」
真白は息を止めた。瀬名の声は普通だった。普通なのに、「お願い」という言葉だけが妙に近く聞こえた。
「似合いません」
「知ってる」
「またそれ」
瀬名は、真白の画面を見たまま少しだけ視線を細めた。彼は疲れているのだと思う。資料室からずっと、目元に薄い影が残っていた。
真白はそれに気づいてしまった。気づく必要などないのに。
「瀬名さんこそ、少し休めばいいじゃないですか」
と言ってから、真白は自分で驚いた。口調はいつも通り棘々しくしたつもりだったが、言葉の中身は明らかに余計だった。
瀬名も少し驚いたように見えた。ほんの一瞬だけ、視線が真白の顔に留まる。
「今、それ言うのか?」
「言っちゃ悪いですか?」
「悪くはない」
「じゃあ何ですか?」
「珍しい」
真白は顔を逸らした。頬が熱くなる前に画面へ逃げる。瀬名はそれ以上からかうことはなかった。
からかわないところがまた、ずるい。
「消しません」
真白は画面を見たまま言った。
「何を?」
「その一文、残します」
瀬名は少しだけ黙った後、低く答えた。
「そう」
たったそれだけだったが、真白にはその声の中に薄い安堵が混じっているように聞こえた。聞き間違いかもしれない、そう思いたかった。
夕方が近づくころ、窓の外の光は灰色に沈み始め、空には雨の気配があった。まだ降ってはいないが、ガラスの向こうのビルの輪郭が少しにじんでいた。
真白は資料を最終版に近づけていた。瀬名の導線の上に自分の言葉を置き、その言葉の後ろに瀬名の構造が支える。嫌になるほど形になっていく。
「共同作業」という言葉は使いたくなかったが、これを別々の案だと言い張るのは難しい。
瀬名からまたメッセージが届いた。
「最後の見出し、真白のほうで決めていい」
真白は画面を見つめた。「決めていい」ではなく「決めろ」と言われた方が楽だった。任されることと信じられることは似ていて、どちらも少し重い。
真白は返信を打った。
「逃げました?」
少しして返事が来た。
そこは俺より真白の言葉のほうが残る。
真白は指を止めた。
画面の文字がゆっくり胸の奥へ降りてくる。褒められたのだと思う、たぶん。相変わらず分かりにくく仕事の形をしているが、逃げようのない位置に置かれた言葉だった。
真白はしばらく返信できなかった。「ありがとう」と打つのは違う。「知ってます」と返すには、今回は少しだけ軽すぎる。
結局、何も返さず見出しを書いた。
誰かのためという顔をした、自分のための選択。
打った後、真白は少しだけ息を吐いた。強すぎず、弱すぎず、まだ息が吐ける。そう思った。
瀬名が遠くから画面を見たのか、共有ファイルの上にカーソルが一度だけ動いたが、修正は入らなかった。そのまま数秒の沈黙があった。
そして、短いコメントが付いた。
「いい」。
真白は画面を閉じたいと思った。閉じればこの熱を見なかったことにできる気がしたからだ。しかし、資料は開いたままで、瀬名の短いコメントもそこに残っていた。
「いい」。たった二文字。それなのに、そのシンプルな言葉が一日分の疲れの奥に静かに落ちた。
「……本当に、褒め方が雑」
と、小さく呟いた。今度は瀬名には聞こえていないはずだった。
ところが、少し離れた席から声が返ってきた。
「聞こえてる」
真白は顔を上げた。瀬名は、画面を見たままこちらを見ていなかった。見ていないのに、声だけが聞こえてくる。
「聞かないでください」
「声に出すからだろ」
「独り言です」
「じゃあ、返事しない方がよかったか」
「そうです」
「分かった」
そこで本当に黙られると、真白はまた困る。瀬名はそういうところがある。言われた通りに引くくせに、その引き方が妙に残る。
空が少し暗くなり、ガラスに室内の灯りが映り始めた。雨はまだ降っていなかったが、街は湿り気を帯びており、遠くのビルの窓明かりはいつもより柔らかくにじんでいた。
夜に向かう前のフロアは、少しだけ落ち着かない雰囲気だった。帰る準備をする音と、まだ終わっていない仕事の音が混ざり合う中、真白は資料を保存して、最後の確認に入った。
瀬名の指摘はほとんど入らなくなり、真白の修正も少なくなった。言葉がそろっていくのがわかる。
似ているから苛立つ。似ているから分かってしまう。朝の資料室で感じたその気持ちが、夜の手前で別の温度を持ち始めていた。
真白はそれに名前をつけなかった。名前をつけるとたぶん崩れてしまうから、今はまだ仕事の形をしていてほしかった。
フロアの明かりが少し強くなった。窓の外の暗さに対抗するように天井の白が机を照らしているが、真白の目には、その輪郭が朝よりも柔らかく映っていた。
「真白」
瀬名の声がした。
「何ですか?」
「最終確認、資料室でやるか?」
「どうして資料室?」
「ここだと画面が見づらいし、紙で見たいから」
真白は少し迷った。資料室。朝、同じ結論に至った場所。コピー機の熱気と紙の匂いが残る場所。
「いいですけど」
「嫌ならここでいい」
「嫌とは言っていません」
「顔が嫌そうだった」
「顔まで読まないでください」
「見えた」
真白は返事をせずに鞄ではなく資料だけを持って席を立ち、瀬名も紙の束を持って歩き出した。
資料室へ向かう通路は昼よりも少し暗く感じられ、窓から遠い場所へ進むにつれてフロアの音が背後に遠ざかっていった。照明の下で紙の端が白く光る。
朝と同じ場所なのに、資料室の中は夜の気配が混じって、まるで違っていた。外の光が届かない分、蛍光灯の白さが紙の匂いを濃くしていた。コピー機は静かで、さっきの熱だけがかすかに残っていた。
真白は作業台に資料を置き、瀬名は向かい側に立った。朝と同じ位置だ。しかし、沈黙の質は少し違っていた。
「同じ場所ですね」
真白が言った。
「嫌なら変える」
「そういう意味じゃないです」
「じゃあ、何ですか?」
真白は資料を整え、紙の端をそろえる音が小さく響いた。答えはあるようだが、うまく言葉にできなかった。
「朝より変な感じがするだけです」
瀬名は資料を見下ろしたまま、少しだけ黙った。
「俺も」
真白は顔を上げた。瀬名はすぐに視線を外した。その行動が答えのようだと思った。
夜の資料室では、紙をめくる音が大きく響く。真白は言葉に、瀬名は構造に目を向ける。時々、同じ箇所で指が止まる。
また同じだ、と思うたびに、真白の胸は少し窮屈になった。しかし、朝のような嫌悪感だけではない。嫌なのに少し心強いという、矛盾した感覚もあった。
「ここ」
瀬名が指を差した。
「私も気になっていました」
「だろうな」
「だろうな、じゃないです」
「同じところで止まった顔してた」
「顔じゃなくて、資料を見てください」
「見てる」
瀬名の指先が紙の上を移動する。真白の指も同じ行に伸びかけ、途中で止まる。瀬名がそれに気づいて少しだけ手を引いた。
触れないための距離。触れていないのにそれがわかる距離。
真白は息を吸った。紙とインクの匂いが胸に広がる。今日一日、この匂いの中で、ずっと瀬名と近づいたり離れたりを繰り返している。
「ここ、真白の言葉で直した方がいい」
瀬名が言った。
「また逃げるんですか?」
「違う。俺が直すと硬くなる」
「自覚あるんですね」
「ある」
素直だった。真白は少しだけ肩透かしを食らった。棘を出す相手が同じところに棘を出してこないと、妙に立っている場所が不安定になる。
「瀬名さんの言葉、硬いです」
「知ってる」
「でも、たまに残ります」
言ってしまってから、真白は指を止めた。資料の上に置いたペンがわずかに転がり、止めようとして逆に音を立ててしまった。
瀬名は黙っていた。真白は顔を上げることができなかった。今のは余計だった。仕事の話にしても、少し近すぎた。
「どれ」
瀬名が低く聞いた。
「何がですか?」
「残った言葉」
聞かないでほしかった。けれど、聞かれて少しだけほっとした自分もいた。真白は資料の余白を見つめたまま声を落とした。
「……見落としたくないときがある、ってやつ」
瀬名は言葉を返さなかった。資料室の空気が一瞬だけ重くなり、コピー機の内部で小さな電子音が響いた。その音がかえって沈黙を際立たせた。
「忘れてください」
真白は早口になった。
「無理だろ」
「またそれ」
「覚えてるって言われたら、忘れられない」
真白はようやく瀬名を見た。彼の表情は静かだったが、目元にはいつもより少しだけ困ったような色があった。
「そういうことを簡単に言わないでください」
「簡単には言ってない」
「じゃあ余計に悪いです」
瀬名は視線を資料に落として言葉を選んでいる。真白はそのしぐさを見て、また胸の奥が落ち着かなくなった。
「真白が嫌がるのは分かってる」
「なら言わないで」
「でも、言わないと伝わらないときがある」
真白は返事をしなかった。伝わらなくていい、そう思うのに、伝わってしまったものが胸の中で熱を持っている。
夜の資料室は狭かった。実際には狭くないのに、同じ作業台を挟んで立つと逃げ道が少ない。資料の白、蛍光灯の白、そして瀬名の声だけが近い。
「瀬名さんは」
真白は言いかけたが、続きが見つからなかった。
「何」
「私と似ているの、本当に嫌ですか?」
と聞いてしまった。仕事の話にできるようでできない、難しい質問だった。
瀬名はすぐには答えなかった。紙の端を指で押さえたまま、少しだけ目を伏せた。その沈黙に真白は後悔しかけた。
「嫌だよ」
瀬名は言った。
真白の胸が少し沈んだ。分かっていた答えなのに、聞くと別の痛みになる。
「でしょうね」
「嫌だけど」
瀬名はそこで言葉を止めた。真白は顔を上げた。彼はまだ紙を見ていたが、声だけがこちらを向いていた。
「似てるから、分かることがある」
真白は黙った。
「それが厄介だと思ってる」
厄介。瀬名らしい言葉だった。甘くない。優しくもない。けれど、雑ではなかった。
真白は少しだけ息を吐いた。資料室の空気が胸の中でゆっくりほどけ、嫌だと言われた痛みと分かると言われた温度が同じ場所に重なった。
「本当に、言い方が下手ですね」
「知ってる」
「でも、今日はそれでいいです」
瀬名が顔を上げたが、真白は視線を逸らさなかった。視線を逸らさない自分に、少しだけ驚いた。
夜の資料室に紙の香りが静かに漂っていた。外のフロアの音は遠く、東京の明かりはここまでは届かない。それなのに、朝からずっと続いていた時間がこの狭い場所に凝縮されているようだった。
真白はペンを持ち直して、資料の一文を書き換えた。強すぎず、逃げすぎず、少しだけ残る言葉にする。瀬名はそれを見て、何も言わなかった。
何も言わないまま、真白は資料の次の行を指して頷いた。言葉はいらなかった。
そこからの作業は不思議なほど速かった。真白が迷う前に瀬名が構造の穴を示し、瀬名が硬くしすぎる前に真白が言葉を柔らかくする。二人は競い合い、そして組み合っていた。
嫌だ、そう思いながらも真白は手を止めなかった。
夜が深まるころ、資料は完成に近づいた。コピー機から出てきた紙はまだ温かく、真白はそれを指先で受け取った。紙の熱が今日一日の終わりをまだ少しだけ拒んでいるようだった。
瀬名は出力された資料を揃えて最後のページを、真白は表紙の文字を確認した。肩は触れ合っていなかったが、二人の視線は同じ紙の上に落ちていた。
「悪くない」
瀬名が言った。
「瀬名さんの『悪くない』はどの程度ですか?」
「かなりいい」
真白は息を止めた。瀬名は資料を見ていてこちらを見ていなかったからこそ、その言葉は余計に真っすぐだった。
「……最初からそう言えばいいのに」
「言っただろ」
「遅いんです」
「そうか」
真白は資料を受け取り、紙の温度が手のひらに残った。瀬名の言葉の温度とは違うはずなのに、なぜか同じ場所へ沈んでいく。
「真白」
瀬名が呼んだ。
「何ですか?」
「今日の案、同じところに来たのはたぶん悪いことじゃない」
真白は資料を見下ろした。言い返す言葉はいくらでもあった。似ているなんて嫌だ、とか、勝手にまとめないで、とか。
けれど、そのどれもが、今は少し違っていた。
「そう思うなら、明日は先に違う案を考えてください」
「無理かもしれない」
「努力してください」
「そっちもな」
真白は少しだけ笑いそうになり、すぐに口元を引き締めた。瀬名は見ていたかもしれないが、何も言わなかった。
資料室を出ると、フロアはすでにかなり静かだった。窓の外には東京の明かりが広がっていたが、今日はそこへ向かわず、社内の奥に残る紙の匂いだけが2人の間にあった。朝とは異なる場所で、同じ一日が終わりを告げようとしていた。
真白は自分の席に戻って資料を鞄にしまい、瀬名は少し離れた場所で帰り支度をしていた。いつもの距離だ。けれど、朝よりも少しだけ測り方が変わっていた。
近づいたわけではない。まだ触れないし、まだ素直でもない。けれど、同じ結論に至ってしまったことで「嫌い」という言葉の輪郭が少しだけ曖昧になった。
真白はその曖昧さを認めたくなくて、鞄の紐を強く握った。指先には、さっきまで持っていた温かい紙の感触がまだ残っていた。
瀬名がこちらを見たような気がしたが、真白は振り返らなかった。振り返らなくても、たぶん分かる。
それが今日一番厄介だった。
「帰るぞ」
瀬名の声が静かなフロアに響いた。
「命令しないでください」
「確認」
「なら、帰ります」
「そうか」
短い会話だったが、朝の棘々しさだけではないものが混じっていることに真白は気づかないふりをした。
灯りの残る通路を歩きながら、真白は鞄の中の資料の重さを感じていた。紙の束は昨日より厚かったが、重さの質が少し違っていた。
同じ場所を見てしまった。違うと言い張れなかった。嫌なのに、少しだけ救われた。
東京の夜はガラスの向こうで湿り、遠くの車の光がにじんでいた。真白は、その光を横目に瀬名の少し後ろを歩いていた。追っているわけではないが、離れすぎるのも、また、難しくなっていた。
胸の奥に残る棘は、まだ抜けていない。
ただ、その先がどちらを向いているのか、真白には少しだけ分からなくなっていた。




