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棘まで恋だった  作者: reika1021


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第2章:沈黙だけが降る

窓の外に残る朝の青さが、まだ硬いビルの輪郭を描いていた。株式会社東映社アドバンスの広いフロアには、冷えた空調の音と紙袋の擦れる音だけが先に響いていた。真白依吹は、自分の席に鞄を置くと、昨日より少し軽くなったはずの資料を机の上に置いた。


軽くなったはずなのに、手の中ではまだ重かった。紙の束そのものではなく、そこに残る声のほうが重い。「通すためだろ」と夜の終わりに落とされた瀬名遥平の声が、朝の空気に混じってまだ消えずにいた。


真白は椅子に座る前に窓際のほうを一度だけ見た。東京の朝は、遠くから見るとすべてが清潔に始まっているように見える。けれど、近くで感じると、舗装に残った湿りや早くから動いている車のにおいが、まだ夜の疲れを少し引きずっているように思われた。


画面を開くと、修正した企画書の表紙が表示された。昨日最後に保存したままの状態だ。文字の並びは整っているし、導線も修正した。それなのに、真白の胸の中だけが整っていない。


真白は紙カップを机の端に置いた。朝のコーヒーは昨日より少し熱い。ふたの小さな穴から立ち上る湯気が、乾いた唇の前でほどけた。


「……別に、気にしてない」


声にした瞬間、自分でも嘘だと分かった。誰に聞かせるためでもない言葉は、嘘だと分かると余計にみじめになる。真白は画面へ目を戻し、キーボードの上に指を置いた。


瀬名の席はまだ空いていた。その事実にほっとしたのか、落ち着かなかったのか、どちらなのか分からない。いないならいないで、視界のどこを避ければいいのか決められない。


朝のフロアに人の気配が増していく。靴音が床に響き、椅子が動いて、どこかで水を注ぐ音がする。会社が目を覚ますたびに、真白は仕事の顔を一枚ずつ取り戻していく。


画面の右端に確認済みの通知が出ていた。瀬名からの短い返信で、内容は必要最低限、余白も感情も何もないように見えた。


「資料、通せると思う」


それだけだった。たったそれだけなのに、真白はしばらく画面を閉じることができなかった。褒められたわけでも、励まされたわけでもない。ただ仕事として判断されただけなのに、胸の奥が勝手に少しだけ緩むのが悔しかった。


「通せる、じゃなくて通すんです」


と小さく言って、真白は通知を閉じた。閉じた後も文字の跡が目の裏に残っていた。自分の案が誰かに認められたことではなく、瀬名にそう言われたことを気にしている自分がひどく腹立たしかった。


フロアの入口の方で扉の開く音がした。真白は見ないつもりだったのに、画面の黒い余白に動く影を拾ってしまった。


瀬名遥平だった。濃い色のジャケットを腕にかけ、片手に資料を持っている。朝の光の下でも、どこか夜の疲れを薄く残しているように見えた。


真白はすぐに画面へ視線を戻した。戻したのが早すぎて、かえって見ていたことが自分には分かる。瀬名はまっすぐ自分の席へ向かい、椅子を引く音も立てずに座った。


しばらく会話はなかった。近くないのに遠くもない距離。キーボードの音と空調の低い響きの間に昨夜の言葉だけがまだ残っている。


真白は資料を開き直した。昨夜より冷静に見れば、きっと直すべきところが見つかる、と思って読み返したが、目は文章を追っているのに耳だけが瀬名の動きを拾ってしまう。


紙を置く音、ペンを持ち替える気配、椅子の背に触れる布が擦れる音。嫌いな相手の音のはずなのに、なぜこんなにはっきりと判別できるのか分からない。


「真白」


低い声が落ちた。朝の空気を乱さない程度の音量だった。


真白は少し間を置いてから顔を上げた。すぐに反応するのが悔しかったが、遅らせたことまで瀬名に見抜かれた気がして余計に落ち着かなかった。


「何ですか?」


「昨日の資料、通せると思う」


「見ました。通知」


「そうか」


そこで会話が終わった。終わらせたのは瀬名なのか、自分なのか分からない。真白は画面に戻ったが、胸の奥ではまだ何かが続いていた。


何か言うべきだったのかもしれない。ありがとう、ではない。そんな言葉は出せないが、「確認しました」くらいなら仕事の返事として言えたはずだった。


真白は唇を結んだ。それは言い返す前の癖と同じ形だったが、今は言い返す言葉があるわけではない。


「……昨日の修正、使いました」


自分の声が思ったより静かで、真白は少し驚いた。瀬名は資料を見たままこちらに視線を向けた。


「分かる」


「分かるって何ですか?」


「無理に俺の言葉を避けようとして、少し遠回りしている」


真白は紙カップを持ち上げた。飲むためではなく、手元に何かが必要だったのだ。カップの熱が指に移り、胸の苛立ちとは別の場所が刺激された。


「朝から本当に失礼ですね」


「直した方が良くなる」


「言い方」


「そこまで面倒は見られない」


「最悪」


瀬名は何も言わなかった。少しだけ目を伏せて資料の端に視線を落とした。そのしぐさが昨日の夜と同じで、真白はまた余計なことを覚えてしまったと思った。


朝の白い光が少しずつフロアの奥まで差し込み、ガラスの壁に反射して床の上で薄く揺れている。東京のビルは外から見ると硬いのに、中に入ると人の疲れを光で隠すのがうまい。


真白は自分の資料を閉じ、少しだけ息を整えた。仕事のために必要な緊張と、瀬名に見られているかもしれないという緊張が同じ胸の中で絡まっていた。


「確認、ありがとうございます」


と言ってから、喉の奥が変に熱くなった。丁寧な言葉を選んだだけなのに、負けたような気がした。瀬名は一度だけまばたきをした。


「別に」


「そうやって、すぐ別にって言う」


「ほかになんて言えばいい」


「知りません。自分で考えてください」


「そうする」


素直に返されると、真白は困る。棘を投げた先に同じ棘が返ってくるのならまだ楽だが、瀬名は時々刺したあとで刃の向きを変えるため、傷ついたのか守られたのか分からなくなる。


昼に近づくにつれて、若手企画部の空気は少しずつ荒れていった。資料が積まれ、画面が増え、会議室の白い光が何度も点いたり消えたりしている。真白は新しい案件の資料を読みながら、ペン先で紙の余白をなぞっていた。


新しい案件は、昨日の企画とは違っていた。もっと短い期間で、もっと明確な反応を求められるものだった。商品そのものよりも出すタイミングや見せ方が重要で、速さが求められるため、その分言葉が粗くなりやすい。


真白はそういう案件が嫌いではない。瞬発力で空気を掴む仕事は自分に向いていると思っていたが、今日は少しだけ集中力が欠けている。


瀬名の声が会議室の端から聞こえた。別の資料について話しているのに、真白の耳は勝手に拾う。低く、無駄なく、感情をなるべく表に出さない声。


嫌いだと思うには、もう音の輪郭を覚えすぎている。そこまで考えて、真白はペンを止めた。


何を考えているのだろう。仕事中に。ばかみたいだ。


紙の上に小さな点がいくつか残っていた。ペン先で叩いた跡だ。真白はそれを指でなぞり、見えないふりをするように資料を重ねた。


「次の案、真白が出すんだろ」


瀬名の声が近づいてきた。いつの間にか自分の席の少し横に立っている。近すぎるわけではないが、逃げるほど遠くもない。


「出しますけど」


「軸は昨日と同じ方向で行くのか?」


「同じじゃありません」


「似てる」


その一言に真白は顔を上げた。瀬名は淡々としており、挑発しているつもりはないのだろう。それが余計に真白の神経を逆なでする。


「似てるから何ですか?」


「強みでもあるし、弱みでもある」


「朝から人の企画を分類するの、趣味ですか?」


「仕事だろ」


「便利ですね、その言葉」


瀬名は少しだけ眉を動かした。大きな変化ではないが、真白には分かった。彼が苛立つときほど、声ではなく表情の小さな部分が動くのだ。


「真白は、人の感情を拾うのがうまい」


突然そう言われ、真白は返事に詰まった。褒め言葉に聞こえるが、瀬名の口から出ると何かを見抜かれたようでもある。


「でも、拾ったあとで言葉を少し強くしすぎる」


「それ、結局けなしてますよね」


「両方言ってる」


「器用ですね」


「そっちほどじゃない」


会話の先が一瞬だけ変な方向へ逸れた。真白はそれを感じた。瀬名もたぶん感じている。けれど、どちらもそこには触れない。


昼の光が会議室に差し込むころ、真白の案が机の上に置かれた。資料の最初の一文は強い。強すぎるかもしれない。けれど、弱くしたら誰にも届かない気がした。


瀬名は向かい側で資料を見ており、目の動きだけでどこを読んでいるのか分かりそうだった。真白は、その視線の進み方まで気にしてしまい、腹立たしさから背筋を伸ばした。


「冒頭が強すぎる」


やっぱり、と思った。思ったのに、言われると腹が立つ。


「弱いよりいいです」


「強いだけだと、相手が入る前に閉じる」


「閉じる人を開かせるための言葉です」


「押し開ける言葉になってる」


真白は息を吸った。言い返す言葉はすぐに出てきたが、瀬名の指摘がまた少し正しいことも分かっていた。その分かっている感じが喉の奥をざらつかせる。


「じゃあ、瀬名さんはまた、優しく開ける言葉でも作るんですか?」


「優しくなくていい」


「昨日からそればっかり」


「雑に扱わなければいい」


会議室の空気が少しだけ止まった。真白の中で昨夜の言葉が重なった。見落としたら怒るだろ、と。あの一言を思い出したくないのに思い出してしまう。


「……それ、案件の話ですよね」


言わなくていいことだった。自分でも分かっていた。けれど、確認せずにいられなかった。


瀬名はすぐに答えなかった。資料の端に視線を落とし、言葉を選ぶときの癖を見せる。真白は、ああ、答えを避けるんだ、と思った。


「案件の話だろ」


少し遅れて返ってきた声はいつもより低かった。真白はそれ以上聞けなかった。


「なら、続けてください」


「冒頭は一行削った方がいい」


「そこは削りません」


「削らなくてもいい。順番を変えるだけでいい」


瀬名は資料を指で押さえ、真白は彼の指先を見た。紙の上に置かれた手が、言葉よりも静かに案の弱点を示していた。


腹立たしい。けれど、目が離せない。


「ここを先に置くと、強さが少し遅れてくる」


「遅らせる意味がありますか?」


「ある。最初から刺すと、受け取る前に構える」


「私は刺したいんです」


「刺したあと、残したいんだろ」


真白は黙った。


残したい。確かにそうだった。反応が欲しいわけではない。怒らせたいわけでもない。読んだ人の心に何かを残したい。自分の言葉が、誰かが目を背けていた場所へ届くように。


そんなことを瀬名に言い当てられたくなかった。


「人の案を勝手に読まないでください」


「資料に書いてある」


「書いていないところまで読むから嫌なんです」


瀬名はほんの少しだけ黙った。真白の声に仕事以外のものが混じっていることに気づいたのだと思う。真白もそれに気づいていたので、すぐに資料に目を落とした。


会議室の白い照明が紙の上に均一に落ちており、どこにも逃げ場がないほどの明るさだった。真白は、その中では自分が少しだけ素の声を漏らしてしまったことを指先から冷えていくように感じた。


「悪かった」


瀬名の声が落ちた。


真白は顔を上げた。謝られるとは思っていなかったし、謝られたところで何に対してなのかも分からなかった。


「何がですか?」


「読みすぎた」


そんな言い方をされると怒る場所がなくなる。真白は瀬名を見たまま喉の奥に言葉を探したが、見つからなかった。


「……本当に、そういうところが嫌です」


「どこ?」


「引き際だけ正確なところ」


瀬名は一瞬だけ目を伏せた。何かを受け取ったような、受け取らないふりをしたような顔だった。真白は、そこを見てしまったことをすぐさま後悔した。


昼の会議は結局、真白の案を軸にしながらも冒頭の順番を少し変える方向でまとまった。まとまったというより真白が最後に折れたのだが、折れたと言いたくないから選んだことにした。


資料を持って会議室を出ると、フロアの空気が変わっていた。人の熱と機械の熱が混ざり、朝よりも少し空気が重かった。床を歩くたびに、靴底に薄い疲労感が貼りつくような感覚があった。


真白は自分の席に戻り、椅子に座る前に深く息を吐いた。息を吐いてから瀬名の方を見てしまった。彼はすでに自分の席で別の資料を開いていた。


何もなかった顔をしている、そう見えるけれど、真白は彼の指が一度だけ止まるのを見た。


見なければよかった、と思うのに、視界にはもう記憶が残っている。


午後の時間は細かな修正で削られていった。言葉の順番を変え、見出しを詰め、資料の流れを整える。真白は、自分の案が少しずつ別の形になっていくのを見ながら胸の奥で何かが落ち着かないまま揺れているのを感じた。


瀬名は必要なこと以外声をかけてこず、昨日よりも距離を置いているのが真白には分かった。分かったからこそ余計に気になった。


「読みすぎた」と彼は言ったが、真白は仕事の資料のことだけではないと感じていた。感じたくなかったが、感じてしまうものは消せない。


画面の白を見つめているとまぶたの裏が乾くので、真白は水を飲もうと紙カップを持ったが、ほとんど残っていなかった。立ち上がろうとしたとき、瀬名も席を立った。


一瞬だけ動きが重なり、真白は座り直そうかと思ったが、ばかみたいだと思って立ち上がった。瀬名は真白を見なかった。


給湯スペースまでの短い通路はフロアの中でも音が響きにくい。足音が床にやわらかく響き、遠くの会話がガラス越しのようにぼやけて聞こえる。真白は紙カップを持ったまま、瀬名の少し後ろを歩いた。


追いかけているわけではない、方向が同じなだけだ、という言い訳を胸の中で作るのも、すでに面倒だった。


瀬名は水を注ぎ、横へ一歩ずれた。真白が使えるように空けたのだとわかった。何も言わない気遣いは言葉にされるより厄介だ。


「そういうの、やめてください」


真白は水を注ぎながら言った。紙カップの底に水が当たって、軽い音がする。


「何が」


「何も言わずに避ける感じ」


「邪魔だっただろ」


「普通に言えばいいじゃないですか?」


「水、どうぞって?」


「……それはそれで嫌です」


瀬名は小さく息を吐いた。笑ったのかもしれないが、真白は見ていなかった。紙カップの中で水面が揺れている。透明なものほど、少しの動きがよく見える。


「面倒だな」


「お互いさまです」


「そうだな」


その返事があまりに自然で、真白は少しだけ手を止めた。「お互いさま」昨日の夜にも似たような言葉を聞いた気がする。棘のある会話なのに、その奥に奇妙な温度が混じる。


瀬名は先に戻ろうとして、ふと足を止めた。真白は紙カップを持ったまま、その背中を見た。シャツの襟元にわずかな疲れが見えた。


「朝の資料」


瀬名が振り返らずに言った。


「何ですか」


「無理に俺の言葉を避けなくていい」


真白は紙カップを握った。水の冷たさが指に伝わった。


「避けてません」


「避けてた」


「だから、見ないでくださいって言ってるんです」


瀬名は少しだけ横を向いたが、真白を見る直前で視線を止めたように見えた。


「見ないようにしても、分かる時はある」


その静かな言い方に、真白はすぐに怒れなかった。怒る準備はできていたのに、言葉の置き方がそれを少しずらしてしまう。


「……それ、ずるいです」


「何が?」


「逃げ道を残して言うところ」


瀬名は今度こそ真白を見た。通路の光はフロアよりも少し暗く、彼の目元を柔らかく照らしていた。朝や会議室では分からなかった疲れの影が、そこに薄く残っている。


「残しているのは、そっちだろ」


真白は何も言えなかった。水の冷たさが指先から手首に移っていく。瀬名はそれ以上何も言わず、先にフロアに戻っていった。


午後の終わりに近い時間、窓の外の色がゆっくり変わり始めた。ビルの壁に反射する光は白さを失い、少しずつ薄い橙色を含んでいく。真白はその変化を画面の端で感じながら資料の最終確認をしていた。


今日の案は通った。完全ではないが形にはなったので、真白はその結果に満足していいはずだった。しかし、胸の奥には仕事の達成感とは別の疲労感が沈殿していた。


瀬名と話すと、言葉が多くなる。言い返したくなる。黙っていたくない。けれど、本当に触れられたくない場所に近づかれると急に声が細くなる。


それが嫌だった。瀬名のせいにしたいが、たぶん自分の問題でもある。


真白は髪を耳にかけた。何度目か分からない。指に触れた髪の温度が朝より少しだけぬるく、疲れているときのしぐさだと分かっていても止まらなかった。


画面越しに瀬名の席が見えた。彼は資料を読んでいる。顔色はいつも通りだが、目元の疲れは消えていない。


真白は視線を戻した。人の疲れを見ている場合ではない、と思うのに、昼の給湯スペースで見た襟元の影がやけに印象に残っている。


夕方の空気がフロアに沈み始めると、仕事の音は少しずつ変わった。朝の音は始まりの音、昼の音は急かす音、そして今の音は終わらないものをそれでも畳もうとする音に聞こえる。


真白は資料を保存して画面を閉じようとしたが、まだ閉じることができなかった。明日のための修正メモをひとつだけ残す。自分のためのメモなのに、瀬名に見られても恥ずかしくない言葉を選んでいる自分に気づき、また嫌になった。


そのとき、瀬名からメッセージが届いた。短い文だった。


「今日の冒頭、変えた方が良くなった」


真白は画面を見つめた。胸の奥に腹立たしさとそれとは別の柔らかいものが同時に広がった。褒め方が下手だ。助け方が下手だ。けれど下手な分、嘘が少ない。


真白は返信欄を開き、「ありがとう」と打ちかけて消した。「確認しました」と打って、それも消した。自分の手が止まった。


何を返せばいいのか。仕事なら簡単なはずなのに、瀬名相手だと簡単な言葉ほど重くなる。


結局、真白は短く打った。


知っています。


送信してから子どもみたいだと思ったが、もう送ってしまったので消せなかった。


すぐに既読がついたが、返事は来なかった。返事が来ないことに少し安心すると同時に、少しだけ寂しいような気もした。そんな感情に名前をつける間もなく、真白は画面を閉じた。


夜の気配が窓に濃くなるころ、フロアには空いた椅子が増えていた。机の上に残る紙カップ、閉じかけのノートパソコン、椅子の背に掛けられた上着が、誰かの一日の途中を残しているようだった。


真白は帰る支度をした。資料をそろえ、ペンをしまい、紙カップを捨てる。小さな動作をひとつずつ終えるたびに、今日の自分を少しずつ片づけている気がした。


瀬名も席を立った。タイミングが重なったことに気づき、真白は一瞬だけ動きを止めたが、止めた自分が嫌で、すぐに鞄を肩にかけた。


出口に向かう通路には白い照明が長く伸びており、朝の光とは違い、夜の光はどこか疲れを含んでいるようだった。同じ床を歩いているのに、足音まで少し鈍く感じられた。


瀬名は少し先を歩いていた。真白は追いつかない速さで歩き、近づきすぎず、遠ざかりすぎず、その距離を自分で選んでいるようで、実際には選ばされている気がした。


エレベーターの前は静かだった。広いフロアの奥から、残業の音が薄く届いていた。窓の外の東京は朝とは別の顔で光り、点のような灯りがガラスに映って室内の白い照明と重なっていた。


瀬名が先にボタンを押した。真白はその横に立つ。肩が触れるほどではないが、息の気配を意識せずにいられるほど離れてもいない。


「今日の案」


瀬名が視線をエレベーターの扉に向けたまま言った。


「まだ何かあります?」


「良かった」


真白はすぐに返せなかった。あまりに短くて逃げ道がない言葉だった。瀬名の褒め方は下手だと思っていたが、下手なまま真っすぐ言われるとどう受け止めればいいのか分からなかった。


「……それ、今言います?」


「今思った」


「嘘でしょう。昼から思っていた顔でした」


と言ってから、自分が瀬名の顔を見ていたことを白状したようで、真白は後悔した。瀬名は真白の方を見ないが、少しだけ沈黙が変わった。


「見てたのか」


「資料を見ていました」


「そうか」


「そうです」


エレベーターの扉には真白と瀬名の姿がぼんやりと映っていた。直接見るよりも薄く、少し歪んでいる。その歪みの中では距離が現実よりも近く見える。


真白は視線を落とした。床の光が靴の先で鈍く反射している。逃げたわけではない、と真白は思いたい。


「褒められたい相手に褒められると、腹が立つんですね」


声に出してから、真白は息を止めた。自分が何を言ったのか、すぐには理解したくなかったからだ。瀬名も黙った。


エレベーターの到着音が静かな空気を小さく裂き、扉が開いた。中は無人で、冷えた金属のにおいがした。


真白が先に乗って奥へ入り、壁際に立つと、瀬名が続いて乗った。扉が閉まるまでの短い間に、フロアの光が細くなり、やがて消えた。


狭い箱の中では空調の音が近く、床のわずかな振動が靴底から伝わってくる。真白は正面の扉を見ていたが、その表面に瀬名の横顔が映っていた。


「今の」


瀬名が低く言った。


「忘れてください」


「無理だろ」


「じゃあ、聞かなかったことにしてください」


「それも無理だな」


真白は目を閉じたくなったが、閉じると余計に自分の声がよみがえりそうだった。褒められたい相手、その言葉だけが狭い空気の中でまだ残っている。


「言葉の選び間違いです」


「そうか」


「そうです」


「なら、そういうことにする」


その返事は、優しすぎず踏み込みすぎず、真白をさらに困らせた。否定されても腹が立ち、追及されても逃げたくなる。けれど、逃げ道を残されると、そこに立っている自分が見えてしまう。


エレベーターがゆっくりと降りていく。体が少しだけ沈む感覚があり、真白は鞄の持ち手を握り直した。金属の壁に映る自分の顔は、昼間よりも少し疲れているように見えた。


瀬名は正面を見ていた。隣にいるのに触れてこず、必要以上の言葉も交わさない。その距離の取り方が今夜は妙に苦しかった。


「瀬名さんは」


真白は言いかけてやめた。


瀬名がこちらを見た気配だけがした。真白は扉の反射から目を離せなかった。直接見たら、言葉が変なところへ行ってしまいそうだった。


「何?」


「……何でもないです」


「気になる言い方だな」


「気にしないでください」


「それも無理だろ」


同じような返答なのに、少しだけ声が柔らかい。真白は鞄の紐をさらに強く握った。自分の指に力が入っていることに、瀬名に気づかれたくなかった。


「じゃあ、瀬名さんは誰に褒められたいんですか?」


口にしてから、真白は自分を殴りたくなった。聞きたいことの形をしているが、本当に知りたいわけではない。いや、知りたくないと言い切るにはもう遅かった。


瀬名はすぐには答えなかった。エレベーターの数字が静かに変わっていく。真白は、その表示を見ないようにした。時計のような数字が、今は余計な現実を連れてくる気がした。


「分からない」


瀬名の声が落ちた。


「嘘っぽい」


「考えたことがない」


「そんなこと、ある?」


「ある」


短い返事だったが、そこにはいつもの逃げる感じはなかった。真白は思わず、反射的に瀬名の方を見た。彼の横顔は静かで、少しだけ遠い。


「褒められたいと思う前に、足りないところを探すから」


真白は黙った。意外だった。瀬名はいつも評価されている側に見えた。冷静で、正しくて、言葉を間違えない人間のように思われた。


しかし、その横顔には誰にも見せない疲れがあった。真白は昼間に見た襟元の影と、笑えなかった自分のことを思い出した。


「……面倒ですね」


「そっちに言われたくない」


「今のは悪口じゃないです」


「じゃあ何だよ」


真白は少しだけ息を吸った。エレベーターの中の空気は冷えているのに、喉の奥だけが熱い。


「少し、わかると思っただけです」


瀬名は何も言わなかった。沈黙が落ちる。けれど、その沈黙は昼の会議室のように逃げ場を奪うものではなかった。狭い箱の中で互いの言葉の置き場所を探しているような、そんな静けさだった。


扉が開くと、下の階の空気が流れ込んできた。少し湿った外気とエントランスの床の冷たさが混じっている。真白は先に降りた。


広いエントランスには夜の光が低くたまり、ガラスの向こうでは東京の車の流れが淡く動いていた。朝はあれほど硬かった街が、今はどこか輪郭を濡らしているように見えた。


瀬名は隣に来ず、少し後ろを歩いている。その距離に真白は少しだけ安心すると同時に、少しだけ落ち着かなかった。


外に出ると、昼の熱が舗装から抜けかけていた。ビルの谷間を通る風には排気の匂いと近くの植え込みの湿った土の匂いが薄く混じっていた。真白は一度だけ深く息を吸い、すぐに吐いた。


「真白」


背後から呼ばれた。夜の街の音の中でも、その声だけがまっすぐ届いた。嫌になるほど聞き分けられる。


真白は振り返った。


「何ですか?」


瀬名は出口の光を背にして立っていた。顔の半分は影に隠れており、目元だけが静かにこちらを向いていた。昼間や朝よりもずっと、言葉の少ない表情だった。


「今日、無理してた」


真白はすぐに言い返そうとした。「無理していない」と言うつもりだったけれど、喉の奥で言葉が止まった。言ったところで、また見抜かれる気がした。


「……そういう報告、いりません」


「知ってる」


「なら言わないでください」


「言わないと、明日も同じ顔をするだろう」


真白はにらんだつもりだったが、夜の風が頬に触れた瞬間、その顔が少しだけ崩れそうになった。瀬名は近づいてこなかった。そこがまた苦しかった。


「私の顔まで管理しないでください」


「していない」


「しています」


「気づくだけだ」


気づくだけ、というその言葉は、軽いようだが真白には重かった。誰かに気づかれることが怖い。けれど、誰にも気づかれないまま壊れていくのも、たぶん同じくらい怖い。


そんなことは言えない。言えるはずがない。


「嫌いです、そういうところ」


真白の声は低かった。冗談にするには少しだけ真面目で、本気にするには少しだけ逃げ道があった。


瀬名はその逃げ道を壊さず、ただ短く答えた。


「知ってる」


「本当に腹立つ」


「それも知ってる」


「何でも知ってるみたいに言わないでください」


「何でもは知らない」


瀬名の声がそこでわずかに変わった。真白は言い返す言葉を止めた。


「だから、見てるんだろ」


夜の空気が急に近くなった。街の音はする。車の走る音も、人の足音も、遠くの信号が変わる気配も。けれど、その言葉だけが真白の胸の内側に落ちてしばらく動かなかった。


真白は視線を落とした。 舗装の上に、ビルの明かりが細く伸びている。 自分の靴先がその光を踏んでいた。


「……見ないでって言いました」


「分かってる」


「なのに見るんですか」


「見落としたくないときがある」


真白は唇を結んだ。言い返す前の癖が出たのだ。瀬名はそれを見たのかもしれないし、見なかったふりをしたのかもしれない。


もうどちらでも同じだった。真白はその場で少しだけ息を吸い、胸の奥にある熱を夜の空気で冷まそうとした。


「勝手ですね」


「そうだな」


「否定しないんですね」


「否定したら、嘘になる」


それはずるい、と真白は思った。ずるいのに、もう怒りだけで返すことができなかった。瀬名の言葉はいつも足りない。足りないのに、変なところだけ届く。


「明日はちゃんと自分で直します」


「今日も直してた」


「瀬名さんの言葉を使わずに」


「避けなくていいって言っただろ」


「避けます」


「何で?」


真白は顔を上げた。夜の光の中で、瀬名の目が静かにこちらを見ていた。その目には勝ち負けの色が薄く、真白にはそれが怖かった。


「使ったら、悔しいからです」


言ってしまった。仕事の話にできる言葉だったけれど、それだけではなかった。


瀬名は黙った。少しだけ間を置いてから目を伏せた。


「じゃあ、悔しいままでいい」


「何ですか、それ」


「そのほうが真白らしい」


真白の胸がまた変な熱を持った。「真白らしい」という言葉は、褒め言葉のようでもあり、厄介だと言われたようでもあった。どちらも当てはまるのだろう。


「勝手に決めないでください」


「決めてない。見てるだけだ」


「またそれ」


真白は少しだけ笑いそうになったが、笑うのは悔しいので唇を結んだ。けれど、瀬名にはたぶんそれも見えている。


夜の街に湿った風が流れ、髪が頬に触れた。真白はそれを耳にかけた。疲れているときの癖だ。瀬名の視線が一瞬だけそこへ動いてから、すぐに外れた。


見ているけれど、踏み荒らさない。その正確な距離感が真白の胸に残る。


「帰ります」


真白は言った。


「そうしろ」


「命令ですか?」


「提案」


「下手ですね」


「知ってる」


またその返事だった。真白は今度こそ少しだけ息を漏らした。笑ったとは言えないが、怒りきれない音だった。


瀬名はそれを聞いて目を細めた。何かを言いそうになってやめた。資料の端に視線を落とすときとは違う、言葉を飲み込むための沈黙だった。


真白はその沈黙に触れないことにした。触れたら自分の沈黙までほどけてしまいそうだった。


「明日、確認します」


「朝から刺すんですか?」


「必要なら」


「最低」


「通すためだろ」


同じようなやりとりなのに、昨日とは違って聞こえた。とげはある。けれど、そのとげの先は少しだけ鈍っている。真白はそれに気づかないふりをした。


瀬名は駅のほうへ歩き出した。真白も少し遅れて歩き、並ばないけれど、完全に離れもしない。


夜の歩道には、ビルの明かりと車の反射が細かく散らばっていた。舗装の温度は昼の名残をほとんど失っており、足裏に伝わる感触は少し冷たかった。東京は人を急がせるくせに、帰り道だけが妙に長く感じられることがある。


真白は瀬名の背中を見ないように歩いた。見ないようにするほど、彼の歩幅の気配がわかる。彼が少し先で立ち止まれば、たぶんすぐに気づくだろう。


嫌いだと思っている。そう思うことでまだ自分を守れるが、今日の嫌いは昨日より少しだけ面倒な形をしていた。


瀬名が横断歩道の手前で足を止めると、真白も少し後ろで止まった。信号の色が路面に映り、夜の風がその光を揺らしている。


「真白」


また名前を呼ばれた。胸の奥が少し動いた。腹立たしい。けれど、もう無視はできなかった。


「何ですか」


「今日の返事」


「返事?」


「知ってます、ってやつ」


真白は思い出して顔が熱くなるのを感じた。夜でよかった。明るい会議室ではなくてよかったと思ってしまう自分がまた悔しかった。


「仕事の返事です」


「そうか」


「そうです」


瀬名は少しだけ黙った。信号が変わるのを待つ間、その沈黙は短くても長く感じられた。


「真白らしいと思った」


またそれだった。真白は瀬名をにらんだ。


「何でもそれで片づけないでください」


「片づけてない」


「じゃあ何ですか?」


瀬名は信号の光を見たまま、静かに言った。


「残った」


真白は一瞬、意味が分からなかったが、分かってから胸の奥に言葉が遅れて届いた。


残った。自分の短い返事が、あんな子どもみたいな強がりが、瀬名の中に。


「……変な人ですね」


「そっちほどじゃない」


「本当に失礼」


「知ってる」


信号が変わって、瀬名が歩き出したので、真白も後を追った。横断歩道の白い線が、夜の闇の中で少しだけ浮き上がって見えた。


向こう側へ渡るまで、二人とも何も言わなかった。左右から車の音が流れ、遠くでは誰かが急いで足音を響かせている。都市の喧騒に紛れるには十分な沈黙だったのに、真白には妙にその沈黙が濃く感じられた。


歩道の端で瀬名は少しだけ速度を落とした。真白が追いつくほどではなく、けれど離れすぎない程度に。


その中途半端な優しさが真白にとっては一番困る。


「瀬名さん」


今度は真白から声をかけた。自分でも驚くほど自然に声が出た。瀬名が振り向いた。


「何?」


「明日、朝から刺すなら」


真白はそこで少し言葉を探した。夜の風が髪の隙間を抜け、首元に冷たく触れた。言いたいことをそのまま言うには、まだ自分は素直ではなかった。


「ちゃんと通すために、刺してください」


瀬名は黙った。目元の疲れが街灯の光に薄く照らされている。しばらくして、彼は小さくうなずいた。


「分かった」


「変に優しくしないでください」


「それは難しいな」


真白は眉を寄せた。


「優しいつもりなんですか?」


「分からない」


「本当に下手ですね」


「知ってる」


瀬名は少しだけ視線を外し、真白は彼の横顔を見た。嫌いなはずの輪郭、厄介な声、腹の立つ沈黙。しかし、そのどれもが今日一日を通して真白の中に残っていた。


このままではまずいと思った。仕事の顔が崩れる。瀬名の一言で一日が変わる。それが怖いから、恋愛なんてものは自分のペースを乱す余計なものだと思ってきた。


まだ恋ではない、と決めつけるには胸の奥が少し騒がしかったが、恋だと認めるにはあまりにも棘が多すぎた。


真白は鞄の紐を握り直した。指先に力を入れれば、少しだけ自分を保てる。


「帰ります」


「さっきも聞いた」


「今度こそです」


「そうか」


瀬名はそれ以上引き止めず、近づくこともなく、ただ真白が歩き出すまでそこにいた。


真白は背を向けた。夜の歩道は、駅へ向かう人の気配で少し湿っていた。車の排気とどこかの植え込みから漂う青い匂いが混ざり、都市の夜の体温が頬に触れた。


数歩進んでから真白は振り返らなかった。振り返らないことに全力を使った。背中に瀬名の視線があるかどうかは分からなかった。


分からないのに、見落とされていない気がした。


それが腹立たしくもあり、少しだけ救いでもあるようで、真白は唇を結んだまま夜の光の中へ歩いていった。


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