第1章:紙面に残る余熱
薄い雲を通した光が会議室のガラスににじみ、株式会社東映社アドバンスの広いフロアは、まだ完全に目覚めていないようだった。冷えた空調だけが、人の前にして働いていた。紙カップのコーヒーはふたの内側でぬるさを失い、苦いにおいだけを真白依吹の指先に残していた。
真白は自分の企画書を握り直した。端がほんの少し湿っている気がして、それが手の熱なのか朝から張り詰めている自分のせいなのか分からなかった。分からないまま背筋だけをまっすぐに保つ。
会議室の机は白く、資料の影まで薄かった。窓際のブラインドは半分だけ下りていて、細い光が紙の上を斜めに切っていた。そこに並ぶ数字も言葉も、まだ誰にも触れられていないのに冷たく見えた。
斜め向かいに座る瀬名遥平は、いつも通り静かで、その静けさが真白には最初から気に入らなかった。椅子に深くもたれず、すぐ立てるような姿勢で資料の端に視線を落としている。
うるさい人間ならまだしも、どこで苛立っているのか、どこで勝ちたがっているのか見れば分かる。瀬名は、何も言っていないときほどこちらの弱い場所を先に測っているように見えた。
真白はペンを持つ指に力を入れた。今日の企画は悪くない、そう思うだけでは足りず、悪くないはずだと胸の中で何度も言い聞かせる必要があった。
「今回の訴求は、商品の便利さを前面に出すよりも、使い始める前のためらいを拾うほうが良いと思います」
声は落ち着いて聞こえた。少なくとも、そう聞こえるように真白は息を整えた。喉の奥に残る寝不足のざらつきを言葉の輪郭で隠していく。
「便利だから使う、ではもう弱いです。使わない理由を先に言葉にして、それを解く見せ方にします」
言い終えると、会議室の空気がわずかに動いた。資料の紙が一枚めくられ、その音が白い壁に吸い込まれた。真白は目線を下げず、自分の案が机の上で小さくされていく前に、そこに体温を置くような気持ちで立っていた。
この企画は商品の説明から始めるものではない。生活の中で手が止まる一瞬から始めるものだ。買うか買わないかの手前にある名前のつかないためらいを誰かの胸の奥からそっと引き出す、
そういう案だった。そういう案のはずだった。
瀬名はすぐには口を開かなかった。資料の角を指で押さえ、印刷された小さな数字をじっと見ている。その沈黙は長くはないはずなのに、真白の胸の内側だけが余計に速く脈打っていた。
「入口は悪くない」
低い声だった。褒めた形をしているのに少しも褒めていない。真白は唇を結びかけ、結び切る前に視線を返した。
「でも、根拠が薄い。ためらいを拾うなら、どの層のどんな抵抗なのかが見えていない」
会議室の白さが一瞬だけ近づいた。真白は企画書を見下ろしそうになり、寸前で瀬名の目を見た。ここで視線を落としたら傷ついたことまで認めるようで嫌だった。
「見えてないんじゃなくて、決めつけすぎないようにしているだけ」
「それは言い方だろ」
瀬名の声には熱がなかったが、その分余計に刺さる。真白の中で何かが小さく鳴り、紙の端を押さえた指先に力がこもった。
「決めつけないことと、絞れていないことは違う」
「朝からよくそんなに、人の案を切れますね」
と言った瞬間、自分でも鋭すぎたと思ったが、引っ込める場所を探すより先に意地が口の中で硬くなった。真白は表情を変えずにまっすぐ座り直した。
瀬名は真白を見た。怒った顔ではなかったが、何かを言いかけてやめたような間があった。その言い残しの方が反論よりもずっと腹立たしかった。
「切っているんじゃない。通すために言っている」
「ずいぶん優しい言い方ですね」
「優しく聞こえる必要はないだろ」
その返しに真白はすぐには言葉が出なかった。紙カップのコーヒーの匂いが急に苦くなった。ガラスの向こうでは、フロアの明かりが少しずつ増していた。
真白はペン先で企画書の端を小さく叩いた。「こつ」という音は、自分の耳にだけ大きく響いた気がした。瀬名の視線がほんの一瞬だけ、その指先に落ちた。
気づかれないでほしかった。苛立っていることも、正しい指摘に傷ついたことも、平気な顔をするのに少し手間取っていることも。特に瀬名には、そんなところを正確に察知されたくなかった。
「じゃあ、瀬名さんならどうするんですか?」
声は思ったより冷たく出た。「さん」とつけたのは丁寧さではない。近づけたくない相手ほど、礼儀の形を借りて距離を置きたくなるものだ。
瀬名は資料を一枚めくった。指先の動きに無駄がなく、そのことまで真白の神経を逆なでする。しかし、次に聞こえてきた声は、先ほどの声よりも少しだけ低かった。
「使わない理由を拾うなら、最初に不安を言語化しすぎないこと」
真白は返事をしなかった。
「まだ名前のついていない抵抗を、生活の場面で見せる。そのあとで商品を出すほうが良い」
言われたことの輪郭が腹立たしいほど自分の案に近かった。違う角度から同じ場所を指されたようで胸の内側が薄く擦れる。真白はその感覚を悔しさという言葉だけで片付けたかった。
「分かってます」
「分かっているなら、資料に出した方がいい」
静かだった。責めるでもなく、勝ち誇るでもなく、ただ足りない場所に指を置くような声だった。だから余計に逃げ場がなかった。
朝の光は少しずつ強くなり、資料の白が目に痛いほど浮き上がっていた。真白は、自分の企画が潰されたとは思いたくなかったが、通されたとも思えなかった。
会議が終わるころには紙カップの中身はほとんど冷めていた。真白は資料を積み重ね、ペンを挟み、何事もなかったかのように立ち上がった。背中に力を入れすぎていることには自分でも気づいていた。
会議室を出ると、フロアの音が少しだけ増えていた。 キーボードの乾いた打音、コピー機の低い振動、椅子が床をこする短い響き。 朝の会社は静かに見えて、近くで聞くと、いくつもの焦りでできている。
真白は自分の席に戻り、資料を机に置いた。置いたというより、沈めた。紙の束がわずかにずれて最初のページに印刷された企画名が斜めに傾いた。
その歪みが嫌で、すぐに整えたが、指先にはまだ落ち着かない熱が残っていた。真白は髪を耳にかけ、何も考えていない顔でパソコンの画面を開いた。
瀬名の席は少し離れているが、遠いほどではない。声を張れば届くし、黙っていても気配が邪魔になるくらいの距離だ。
真白はモニターに映る自分の顔を見ないようにした。朝の会議室で言葉を失った自分の顔が、まだ画面の黒い余白に残っている気がした。そんなものを見たら、また腹が立つ。
資料を開き直すと、瀬名に指摘された箇所がすぐに目に入った。「根拠が薄い」「どの層のどんな抵抗なのかが見えていない」という瀬名の言葉が、文字になっていないのに資料の余白に浮かんで見えた。
真白はキーボードに指を置いた。修正する気がないわけではない。むしろ、修正すべきだと分かっている。それゆえ、素直に直すことができなかった。
自分の案をよくするために直すのか、それとも瀬名の指摘が正しかったと認めるために直すのか。その境目はひどくくだらないものだった。しかし、真白にとっては、簡単に踏み越えられない線だった。
「……面倒くさい」
小さく吐いた声は自分に向けたもので、誰にも聞こえない程度の音だった。しかし、胸の奥ではやけに大きく響いた。真白は一度だけ目を閉じ、すぐに資料に戻った。
昼に近い光がフロアの床を浅く照らし始めたころ、真白は修正案の一行目を消した。消してから別の言葉を打ち、打ってからまた消した。
言葉を扱う仕事をしているのに、自分の胸に刺さった言葉だけがどうにも扱いづらかった。商品に向けた言葉なら整えられるし、クライアントに見せる言葉なら磨くことができる。しかし、自分の悔しさというのは磨くほどにみじめな光り方をするのだった。
瀬名の声が遠くで聞こえた気がしたが、実際には何も聞こえていなかった。真白の中に残っている低い声が、勝手に資料の上を歩いているだけだった。
根拠が薄い。資料に出した方がいい。通すために言っている。
そのどれもが腹立たしくて、どれもが間違っていなかった。
真白はペンを持ち、企画書の余白に小さく線を引いた。使わない理由、生活の場面、手が止まる瞬間。瀬名の言葉をそのまま写したくなくて別の語彙に置き換えているが、結局は同じ場所に向かっている。
それが悔しかった。似ているわけではないと思いたいのに、考え方の奥が時々ぶつかる。嫌いな相手の視界に自分が先に見たかった景色があるのは思っているより息苦しい。
昼の会議室は朝より白かった。照明の光が机の表面に均一に落ち、紙の影が薄くなっていた。真白は修正した資料を開き、先ほどの資料よりも言葉を少しだけ削った。
削ったことで企画の輪郭ははっきりとし、認めたくないがそうなっていた。使わない理由を大げさに説明するのではなく、生活の中で手が止まる小さな場面を起点にした方が案は呼吸しやすくなった。
同じ会議室の端で真白の資料を見ていた瀬名は、目だけを静かに動かし、余計な表情は浮かべていなかった。真白は、その横顔を見ないようにした。
「修正、早いな」
瀬名の声が落ちた。
「早いだけなら評価されませんけど」
「中身の話をしてる」
真白は返す言葉を探した。嫌味で返すのは簡単だった。けれど、今それをすると自分が余計にみじめになる気がして、喉の手前で言葉を止めた。
「……朝の指摘をそのまま入れたわけじゃないです」
「分かってる」
瀬名は資料から目を上げなかった。その「分かってる」がまた嫌だった。見抜かれたくない場所に靴音も立てずにやってくるような言い方だった。
真白は息を吸った。会議室の空気は少し乾いていて、舌の先に紙の匂いが残る。朝から何度も同じ匂いを嗅いでいるのに、そのたびに違う苦さが混じる。
「なら、何も言わないでください」
「言わない方がいいなら、そうする」
その素直さは優しさに見せかけた距離の取り方だ、と真白は解釈した。そう解釈しなければ少し困った。
瀬名は資料を閉じた。紙の音が短く鳴る。真白は、その音に合わせて自分の中の揺れを閉じ込めようとした。
「でも、悪くなってない」
一瞬何を言われたのか分からなかった真白は、瀬名を見た。彼はもうこちらを見ておらず、会議室の外へ出る支度をするようにペンを持ち替えていた。
「褒めてます?」
「事実を言ってる」
「それ、褒めるのが下手な人の言い訳ですよ」
「褒められたいのか」
真白の喉が止まった。問い方があまりに静かで余計に腹が立った。冗談にして逃げるには瀬名の声に余白がありすぎた。
「瀬名さんに褒められても、別に」
「そうか」
「そうです」
会話はそこで終わったはずなのに、真白の胸の奥にはまだ音が残っていた。褒められたいわけではない、と思うほどに、否定の形が不自然に硬くなる。
昼のフロアには人いきれに似た湿り気が少しずつ混じっていた。外の光はガラス越しに白く、ビルの輪郭を平たくしていた。東京の昼は、近くで見るほど忙しなく、遠くで眺めるほど薄情に見えた。
真白は席に戻り、弁当を開ける気にもなれず、紙カップの水だけを飲んだ。冷たい水が喉を落ちていき、胃のあたりまで届いたころ、朝の悔しさがまだ形を変えずに残っていることに気づいた。
仕事をしているときの自分はもっと強いはずだった。言い返せるし、直せるし、誰よりも早く立て直せる。そういう顔をしてきたし、そういう顔でいなければ、若手の多い企画部ではすぐに埋もれてしまう。
けれど瀬名の前では、その顔の端が少しだけめくれる。めくられるのではなく、自分で押さえきれなくなるのだ。そこが最も許せなかった。
午後の光は資料の上で少しずつ鈍くなり、真白は何度も言葉を削って順番を入れ替え、最初に置く一文を作り直した。言葉を選ぶたびに瀬名の指摘を思い出さないようにした。しかし、思い出さないようにすればするほど、瀬名は近くに座っているかのように感じられた。
瀬名は必要なとき以外は声をかけてこなかったが、席を立つときの気配や資料を置く音が妙に耳に残る。嫌いな相手の動きほどどうしてこんなに分かってしまうのだろう。
真白は髪を耳にかけた。疲れているときほど増えるしぐさだと自分でもわかっているのに、止められない。
モニターの端に映った横顔は朝より少しだけ険しく、真白はそれを無視して資料のページを進めた。画面の白に目が乾き、瞬きのたびにまぶたの裏が薄く痛んだ。
「真白」
突然、背後から声がした。低く、近すぎない位置だった。真白は、振り向く前に誰の声か分かってしまった自分に苛立った。
「何ですか?」
振り返ると、瀬名が一枚の資料を持って立っていた。表情はいつもと変わらないが、視線がほんの少しだけ真白の顔の下あたりで止まった。
「ここの導線、後ろの資料とぶつかってる」
「今直します」
「急がなくていい。先に水でも飲めば」
その言葉は想定していた指摘と違いすぎて、真白は一瞬返答に詰まった。瀬名は資料の該当箇所を指で示したままこちらを見ていないが、見ていないふりがかえって見ていることを示していた。
「……そういう気遣い、似合いませんよ」
「気遣いじゃない。手が止まってた」
真白は自分の手元を見た。確かに、キーボードの上で指が浮いたままだった。押すべきキーも消すべき言葉も分かっているのに、体だけが先に止まっていた。
「見ないでください」
と言ってしまった後、しまったと思った。強い口調にしたつもりだったが、声の奥が少し掠れていた。瀬名の視線が真白に一度だけ戻る。
「見てない」
「嘘が下手ですね」
「なら、見ないようにする」
その言い方が妙に丁寧で、踏み込まないための言葉だと分かった。分かってしまうことがまた腹立たしい。
瀬名は資料を机に置いた。近づきすぎない位置に音を立てずに置く。真白は、その距離の取り方によって自分の呼吸が少しだけ乱れるのを感じた。
もっと雑に扱ってくれたらいいのに。そうすれば嫌いだと思うだけで済むのに。正しいことを言って痛い場所に触れて、それでも最後の一線だけ避けるようなことをされると感情の置き場所がなくなる。
「直したら確認します」
「分かった」
「でも、朝の件を認めたわけじゃないです」
「認めなくていい」
「腹立つ言い方ですね」
「そっちもな」
瀬名の口元がほんの少しだけ動いた。笑ったというには足りないが、真白の胸にはそのわずかな変化が残った。
午後の時間は、乾いた紙の匂いとキーボードの打鍵音の中で過ぎていった。窓の外の光は少しずつ傾き、ビルの壁に映る色が淡く沈んでいく。真白は資料を整理しながら、何度か瀬名の席に視線を向けそうになり、そのたびに画面に戻した。
見たら負ける、という子どもじみた考えが案外しつこく胸にある。けれど、見ないでいることも結局は意識しているのと同じだった。
夕方の手前、フロアの空気が少し重くなった。空調の冷たさに人の疲れが混じり始め、紙カップの底に残った薄いコーヒーの香りが朝とは異なる苦味を放ち、机の周りに漂っていた。
真白は修正した資料を瀬名に送った。送信の後、指が少しだけ止まった。何か一言を添えるべきか迷い、その迷い自体が嫌で、結局は何も送らなかった。
すぐに返事は来なかった。その数分が、必要以上に長く感じられた。真白は別の画面を開き、関係のない文字列を見つめた。
やがて瀬名から短い返事が届いた。「確認する」たったそれだけだった。
真白はその画面をすぐ閉じた。期待していたわけではない。そんなことはない。けれど、たった四文字の距離が妙に瀬名らしくて、苛立ちと一緒に小さな安堵が混じった。
夜の色が窓に近づくころ、フロアの灯りは外の暗さを押し返すように明るくなった。ガラスには社内の光が映り、東京の灯りはその向こうで少しずつ増えていく。外にあるはずの街が内側の疲れと重なって見えた。
真白は席に残っていた。資料はほとんど形になっているが、最後の数行だけが決まらなかった。商品に触れる一瞬のためらいをどの言葉で拾うのか。そこを間違えると朝の瀬名の指摘がまた正しくなってしまう気がした。
正しいかどうかではなく、瀬名に正しいと思われるかどうかを気にしている自分がいた。それに気づいた瞬間、真白は背筋を伸ばした。そんなものは仕事に必要ない。
必要ないのに、消えない。
瀬名もまだ席にいて、モニターの光が横顔に淡く当たり、頬の線を少しだけ青く見せていた。朝には鋭く見えたその輪郭が、夜には疲れを隠しきれていないように見えた。
真白はそれを笑えなかった。いつもなら、余裕のない顔をしていると思えば少しは気が晴れるはずだった。けれどその夜、彼の沈黙は勝ち負けの外側にあった。
椅子を引く音をなるべく小さくして真白は立ち上がり、資料を持って瀬名の席へ歩み寄った。床に落ちた蛍光灯の光が靴の先で薄く割れた。
瀬名は真白が近づいてもすぐには顔を上げず、キーボードに置いた指が止まったまま、画面の中の数字だけが青白く並んでいた。真白は彼の背後で足を止めた。
「……その修正、私の案にも使える」
自分の声が思ったよりもささくれていて、真白は少しだけ息を飲んだ。頼んでいるのか、奪いに来たのか、自分でも分からない言い方だった。
瀬名は振り返らず、画面を見たまま短く答えた。
「分かっている」
その静かな言い方に、真白は次の言葉を失った。分かっているなら、なぜ先に言わないのか。分かっているなら、なぜこんな風に待つのか。
「分かっているなら、言えばいいじゃないですか?」
「言ったら、使わないだろ」
真白は返せなかった。使わない。たぶん使わない。瀬名の言葉だと思っただけで意地になり、別の案を探し始めた。
夜のフロアには空調の音が低く響き、窓の外では遠い車の光が筋になって動いていた。ここだけが街から切り離されたように、白い机と青い画面の光だけで浮かんでいた。
「私、そんなに扱いにくいですか?」
と言ってから少し後悔した。聞きたかったことではなかった気がするが、口から出た言葉は取り消せない。
瀬名はようやく振り向いた。目元に疲れがあった。朝と同じ顔のはずなのに、夜の光の中では少し違って見える。
「扱いやすいと思ったことはない」
「正直ですね」
「嘘をついてほしかったのか」
「別に」
真白は資料を胸の前で抱え直した。紙の角が手首に当たって少し痛かったが、その痛みのおかげで表情を保てた。
瀬名は真白を見ていた。長くはないが、逃げるには十分すぎる時間だった。真白は視線を外したくなったが、外したら負けると思って結局まばたきをしただけだった。
「でも、潰したいとは思っていない」
その声は朝の会議室で聞いたときよりも少しだけ柔らかかったが、柔らかいというよりも刃を下げたような声だった。真白はその違いに気づいてしまい、胸の奥が嫌な形で熱くなった。
「朝、私の案を潰したのに?」
「潰れそうな場所を言っただけだ」
「同じです」
「違う」
瀬名はそこで一度言葉を止め、資料の端に視線を落とした。言いたいことを選んでいるときのしぐさだと、真白はすでに知っていた。
知っていることが嫌だった。嫌なのに、目がそこを追ってしまう。
「本当に潰すなら、直し方までは言わない」
真白の喉が詰まった。朝から会議室で胸に刺さっていたものが、その言葉で少しだけ角度を変えた。抜けたわけではない。むしろ、深くなったようにも思えた。
「そういう言い方、ずるいです」
「何が」
「怒りにくい」
瀬名は少しだけ黙った。真白はその沈黙の中で、自分が余計なことを言ってしまったと気づいた。怒りにくい、つまりは、怒りたいのに怒れない、と。
「怒ればいいだろ」
「怒ってます」
「それは知ってる」
「なら、聞かないでください」
夜の窓に真白の横顔がぼんやりと映っていた。背筋を伸ばして資料を抱え、平気なふりをしている顔。自分で見ても少し無理をしているのが分かる顔だった。
瀬名の視線は、その窓に映った真白の輪郭に一瞬だけ動いた。直接見られるよりも、そのほうがずっと落ち着かなかった。逃げ場所まで見られているような気がした。
「疲れているなら、今日は帰れば」
「それ、瀬名さんに言われたくないです」
「俺は平気だ」
「そういう顔には見えませんけど」
言ってしまってから、真白は少しだけ息を止めた。瀬名の疲れに触れるつもりはなかったし、勝ちたい相手の弱さに気づくような面倒なことはしたくなかった。
瀬名は目を細めた。怒っているわけではなく、驚いているようにも見えなかったが、自分を見る真白の視線を少しだけ受け止め損ねたような顔をした。
「人のこと見てるんだな」
真白の胸が跳ねた。
「資料を見に来ただけです」
「そうか」
「そうです」
夜の空気が少しだけ深くなり、少ない言葉にもかかわらず、言及されていないものだけが机の上に増えていった。真白はそれらをすべて片づけたいと思いつつ、どこから手をつければよいのか分からなかった。
瀬名は画面に向き直って修正した数字を表示した。真白の企画にも使える導線が静かに並んでいた。無駄のない構成で、悔しいほど見やすかった。
「ここ、持っていけばいい」
「借りは作りません」
「じゃあ、盗めばいい」
真白は思わず瀬名を見た。彼は真顔で、冗談なのかどうか分かりにくかったが、ほんの少しだけ声の端が緩んでいた。
「最低ですね」
「使えるなら使えばいい」
「本当に、褒め方も助け方も下手ですね」
「助けたつもりはない」
「じゃあ、何ですか?」
瀬名はすぐには答えなかった。モニターの光が頬を淡く照らしており、夜の疲れを隠せていない様子だった。真白は、その沈黙から目をそらすことができなかった。
「壊れそうな案をそのまま見ているのが嫌だっただけだ」
それは企画の話なのか、真白の話なのか。聞き返すことはできたが、聞き返したら何かが決定的に変わってしまう気がした。
真白は資料を抱える指に力を入れた。紙の角がまた手首に当たり、その小さな痛みをかろうじて支えにしていた。
「……本当に嫌な人ですね」
「知ってる」
「知ってるなら、少しは直してください」
「そっちもな」
瀬名の返事は静かだった。いつもの棘があるのに、夜のフロアではそれが少し違う手触りを持っていた。刺されているのに、雑には扱われていない。
真白はそれが怖かった。嫌われる方が楽だった。勝ち負けで割り切れる関係の方がずっと呼吸しやすい。
窓の外では東京の灯りが増え、ビルの輪郭は暗さの中に沈んで点々とした光だけが浮かんでいた。道路の音が厚いガラスで薄まり、フロアには空調とキーボードの残響だけが響いていた。
真白は資料を瀬名の机に置いた。借りるのではない。盗むのでもない。自分の案として立て直すために必要な部分だけを持っていくのだ。
「確認、明日の朝までに返します」
「無理するなよ」
真白はすぐに返事をしなかった。その言葉が嫌だった。優しさのように聞こえることも、命令のように聞こえることも、そのどちらでもない場所に置かれていることも。
「無理してないです」
「今の返事が、もう無理してる」
真白は瀬名をにらんだ。怒っている顔なら作れる。傷ついた顔よりずっと簡単だった。
「本当に、見ないでください」
今度の声は少しだけ低かった。朝よりも昼よりも隠せないものが混じっている。瀬名はその声を聞いてほんのわずかに目を伏せた。
「見落としたら、怒るだろ」
真白の呼吸が止まった。
一瞬、フロアの音が遠のいた。空調の音も、遠くで走る車の音も、画面の光も、すべてが薄くなったように感じた。瀬名は特別なことを言った様子はなく、ただ言葉を放った後、少しだけ後悔したように口を閉じた。
私のこと、見ないで。けれど、見落とさないで。
胸の奥にしまっていた言葉に誰かが触れた気がした。直接ではない。名前も呼ばれていない。それなのに真白の中のいちばん厄介な場所だけが夜の光に照らされた。
「……勝手ですね」
真白はそれだけ言った。声が細くならなかったことに少しだけ救われた。瀬名は短く息を吐いて視線を画面に戻した。
「お互いに」
その返事はずるいくらい穏やかだった。
真白はそれ以上何も言わず自分の席に戻った。歩く途中、床の光が靴の下で静かに揺れ、背中に瀬名の視線を感じた気がしたが振り向かなかった。
席についてから、真白は修正ファイルを開いた。夜の中で、画面の白が浮かんでいる。指を置くと、さっきまで止まっていた言葉が少しずつ動き出した。
使い始める前のためらい、名前のない抵抗、手が止まる瞬間。そこへ商品を置くのではなく、まずその人の沈黙を置く。
真白は一行を打ち、消さなかった。そして、もう一行を打ち、少しだけ修正した。しかし、悔しさはまだ消えていない。瀬名への苛立ちも、朝の痛みも、胸にしっかりと残っている。
けれど、その全部が資料の邪魔をするだけではなかった。刺された場所からしか出てこない言葉がある。そんなことを認めるのは悔しいが、真白は今、その言葉を拾っていた。
夜が深くなるにつれて、フロアの椅子はさらに空いていった。広い会社の中で、若手企画部の一角だけがまだ小さく明るい。冷えた空調は朝と同じように動いているのに、紙カップの匂いも資料の白も少し違っていた。
瀬名はまだ席にいた。真白は見ないふりをした。けれど、彼が立ち上がる音や資料を閉じる音が耳に届くたびに、体のどこかが勝手に反応した。
嫌いだと思っている。そう思わなければ、今日一日の自分を支えられない。けれど嫌いなだけなら、どうしてあの声の低さをこんなに覚えているのだろう。
真白は最後の一文を打ち終えた。指を離すと、手のひらにまだ紙の角の痛みが残っていた。朝からずっと持っていた棘は抜けていない。
抜けていないのに、なぜか少しだけ温かかった。
画面を保存し、真白はゆっくり息を吐いた。窓の外では東京の灯りがにじみ、ガラスに映った自分の横顔は朝より少しだけ疲れて見えたが、壊れそうには見えなかった。
背後で瀬名が席を立つ気配がした。真白は振り向かなかった。振り向かずに、画面の暗い余白に映るかすかな影だけを見ていた。
「帰らないのか?」
低い声が夜のフロアに落ちた。
「帰ります。瀬名さんに言われなくても」
「なら、いい」
「よくないです。言い方が腹立つので」
瀬名は少し黙った。たぶん笑ったわけではないが、空気の端がほんの少しだけ緩んだ気がして真白はまた腹が立った。
「明日、確認する」
「朝からまた刺すつもりですか?」
「必要なら」
「最低」
「通すためだろ」
真白は返事をしなかった。代わりに、画面を閉じて机の上の資料を揃えた。紙の端は、今度こそまっすぐだった。
夜の帰り支度は朝の会議よりも静かだった。ペンをしまう音、椅子を戻す音、紙カップを捨てる時の軽い音。どれも小さい音だが、今日一日を少しずつ折り畳んでいくようだった。
瀬名は出口の方へ歩いていった。真白は少し遅れて立ち上がった。距離は近くないが、同じ夜の灯りの中にいることは分かった。
フロアの明かりが背中に残り、ガラスの向こうの東京は冷たい光で満ちていた。真白は資料を鞄に入れ、肩にかかる重さを確かめた。朝より少し重いはずなのに、不思議と足は止まらなかった。
嫌いならこんなに残らない、と真白は思いかけたが、すぐに打ち消した。まだそんな言葉にしてはいけない。言葉にした瞬間、仕事の顔まで崩れてしまいそうだった。
だから真白はただ歩いた。瀬名の少し後ろを、追いかけているわけではない速度で。夜のオフィスに残った冷気が指先の熱をゆっくり奪っていく。
それでも胸の奥だけが、朝に刺さった言葉の形をしたまま静かに熱を帯びていた。




