第6章:街にほどける棘
雨上がりの駅前は朝の光をまだうまく受け止めきれておらず、舗装のくぼみに残った水はビルの窓を小さく映し、通り過ぎる靴底がその光を細かく砕いていた。真白依吹は信号の手前で足を止め、傘の先に残ったしずくを見下ろした。
東京の朝は、濡れると少しだけ正直になる。排気の匂いも、コンビニの袋のこすれる音も、地下から上がってくる風の湿り気も、いつもより近くにある。真白は鞄の紐を握り直し、会社へ向かう流れから少しだけ外れた位置に立った。
今日は株式会社東映社アドバンスに直接向かう日ではなかった。午前の外部確認のため、企画部の若手が別々に現地に向かうことになっている。鞄の中には資料があり、昨日のような数字の間違いはないと真白は3度確認した。
それでも胸の奥にはまだ小さな硬さが残っていた。ミスの記憶ではない。瀬名遥平が差し出した優しくない逃げ道の手触りだった。
信号の向こうに見慣れた立ち姿が光の中に混じった。瀬名は傘を持たず、片手に畳んだ薄い上着をかけていた。会社のフロアではない場所で見る彼は、同じ顔をしているのに少しだけ輪郭が違って見えた。
真白は一瞬、別の方向を向こうとした。気づいていないふりはできたはずだった。しかし、信号が変わる直前に瀬名の視線がこちらを捉えた。
逃げるには、少し遅かった。
「偶然ですね」
真白が先に言った。声を整えたつもりだったが、濡れた朝の空気のせいで少しだけ軽く聞こえた。
「同じ場所に行くんだから、偶然じゃないだろ」
「そういう正確さ、外でも持ち歩くんですか?」
「真白こそ、朝から刺すな」
瀬名の声は低く、駅前のざわめきの中でもはっきりと聞こえた。その声の届き方に、真白は少しだけ嫌な気分になった。聞き慣れた声は、思っているよりも早く体の中で場所を見つける。
信号が青に変わると、人の流れが横断歩道へ広がり、真白は瀬名と並ばない程度の距離を保って歩き出した。足元から湿った風が抜け、傘の先が舗装を小さく鳴らした。
「一緒に行く流れにしないでください」
「していない。方向が同じなだけだ」
「そういう言い方をすると、余計に同じに聞こえます」
「じゃあ、別の道から行くか?」
真白は返事をしなかった。別の道から行けばよかったのだと思う。そう思うのに、そうしてくださいとは言えなかった。
横断歩道を渡りきると、ビルの谷間から風が細く入ってきた。雨を吸った植え込みの匂いが排気の奥で少しだけ青く感じられた。真白はその匂いを吸い込み、心を仕事のほうへ戻そうとした。
瀬名は少し先で歩幅を緩めた。追いつかせようとしているのか、単に足元の水を避けただけなのか分からない。その分からないことが真白には妙に腹立たしかった。
「今日は、会社の顔じゃないですね」
と言ってから、真白は少し後悔した。仕事の話に戻すつもりだったのに、別の話題に触れてしまった気がした。
瀬名は横を見た。
「どういう意味だよ」
「フロアにいるときより、少し眠そうです」
「それは褒めてないな」
「褒めてません」
「だろうな」
彼は怒らなかった。湿った朝に低く響く声は、会社の白い照明の下で聞くよりも少し柔らかく感じられた。その柔らかさに気づく自分が、真白にはわずらわしく思えた。
駅から少し離れると、歩道の人の流れは薄くなった。ガラス張りのビルの下を通るたびに、真白と瀬名の姿がゆがんで映っては、またすぐに消えた。現実の距離よりも、反射の中の距離のほうがあいまいに感じられた。
「真白は」
瀬名が言いかけて、少し止めた。
真白は傘の柄を握る指に力を入れた。
「何ですか?」
「会社の外でも、ずっと戦っている顔をしている」
「そんな顔してません」
「してる」
「決めつけないでください」
「じゃあ、そう見える」
言い直されたのに腹立たしさは変わらなかったが、責められている感じはしなかった。真白は横目で瀬名を見たが、彼は前を向いていた。
「瀬名さんは、会社の外だと少し雑ですね」
「どこが?」
「歩く速度とか、髪とか」
「見てるな」
「見えてるだけです」
言い返した瞬間、自分で言葉の近さに気づいた。見ているのではなく、見えている。その言い訳は、瀬名のものによく似ていた。
瀬名も気づいたのか、少しだけ口元を緩めた。真白はそれを見なかったことにして、歩道の先に目を向けた。
外部確認先の建物は会社ほど大きくはなく、入口の前には濡れた石の匂いが残っていた。ガラス扉の足元には、雨水の跡が薄く伸びていた。真白はそこでようやく、朝から余計に近かった瀬名の気配から少し離れた気がした。
仕事に入ればいつもの自分に戻れる、そう思った。
しかし、現地確認は思ったよりも静かだった。派手な説明はなく、資料の裏付けとなる動線や掲示位置を淡々と確認する作業で、声を張る必要がない。そんな静けさの中では、互いの呼吸が逆に近く聞こえた。
真白はメモを取った。床材の反射、通路の幅、外から入る光の入り方。商品を見せるなら、目線がどこで止まるかを考える必要があった。
瀬名は少し離れた場所で壁面を見ていた。声をかけるでもなく、同じ空間の別の点を測っている。会社の中では競っている相手が、外ではなぜか同じ地図を別の角から埋めているように見えた。
「ここ、最初に置くと強すぎますね」
真白は思わず言った。瀬名はすぐにこちらを見た。
「同じこと考えてた」
「言わないでください」
「言わなくても顔に出てる」
「外に出ても、それですか?」
「外のほうがわかりやすいときもある」
真白はメモ帳を閉じかけ、やめた。言い返したいのに、現地の空気の中ではいつもの鋭さが少しだけ鈍る。壁に反射する雨上がりの光が声の角を和らげてしまうのかもしれない。
瀬名は通路の奥へ歩き、真白も少し遅れて進んだ。靴音が床に薄く響き、外の車の音はガラス越しに丸く聞こえた。
「真白の案なら、入口より奥に置くだろ」
瀬名が言った。
「勝手に私の案を決めないでください」
「決めてない。たぶんそうするだろうと思っただけ」
「当たっているのが腹立たしいです」
「じゃあ、外せばいいのか?」
「それも嫌です」
「難しいな」
その言葉に真白は少しだけ息を漏らした。笑ったわけではないが、怒りとして出すには薄い音だった。
瀬名はそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。何も言わないことに真白は少しだけ救われたが、同じくらい腹も立った。
昼の空気は外に出ると湿度を増していた。雨雲はほどけたのか、ビルの上の空に薄い明るさが戻り始めていた。まだ舗装は濡れていて、車が通るたびに低い水音が響いた。
現地確認の後、真白は駅に戻るつもりだった。瀬名も同じ方向へ歩いている。もう偶然ではないと分かっているのに、どちらもそのことを口にしなかった。
途中、小さな高架下の通路に入った。上を走る車両の振動がコンクリートの壁を通って足裏に伝わり、湿った鉄の匂いと近くの店から漂う温かい出汁の匂いが混ざっていた。
真白の胃が鳴りそうになった。朝からほとんど何も食べていなかったことを思い出し、彼女は知らないふりをして歩幅を保った。
「何か食べたか?」
瀬名が言った。
「また顔ですか?」
「今回は音」
「聞かないでください」
「聞こえたわけじゃない。歩き方が少し変わった」
「それ、ほとんど変態ですよ」
「ひどいな」
瀬名は少しだけ眉を寄せた。怒っているわけではなく、困った顔をしていた。会社の外で見るその表情は思ったよりも年相応で、真白は一瞬言葉を失った。
「食べてません」
結局、そう答えた。嘘をつくには、湿った高架下の空気が近すぎた。
「だろうな」
「偉そうにしないでください」
「近くで買うか?」
「なぜ瀬名さんと?」
「同じ方向だろ」
「便利な理屈ですね」
「使えるからな」
いつものやり取りに似ているのに、会社の机や資料がないだけで意味が少し変わる。真白はその変化を認めたくなくて先に歩いた。
高架下の小さな店で真白は温かい飲み物だけを買った。瀬名は買わないかと思ったが、少し迷った末に同じものを選んだ。真白はそれを横目に見て、思わず笑みをこぼした。
「真似ですか?」
「寒かっただけだ」
「今日はそこまで寒くないですよ」
「手が冷えてる」
「私の手じゃないでしょう」
「俺の話だ」
真白は黙った。瀬名が自分のことをあまり話さない人間だということは、もうわかっていた。だからこそ、その一言が少し意外だった。
店先の小さな屋根の下で、真白は紙カップを両手で包んだ。カップの温度が指に移り、朝から続いていた指の硬さが少しだけほぐれた。瀬名は、真白の隣ではなく斜め前の柱にもたれない程度の場所に立った。
「休日だったら、絶対一緒にいないですね」
真白はそう言ってから、なぜ休日の話をしたのか自分でも分からなかった。
瀬名は紙カップのふちを見た。
「そうか」
「そうです」
「休日の真白はどんな感じなんだ?」
「聞くんですか?」
「聞いたら悪いのか?」
「仕事に関係ありません」
「今日は半分、会社の外だろ」
その言い方が少しずるかった。仕事とは完全に言えないけれど、完全に私的でもない。曖昧な場所だから、瀬名の声がいつもより近く聞こえる。
「普通です」
「普通って何だよ」
「洗濯して、買い物して、寝ます」
「雑だな」
「瀬名さんに言われたくないです」
「俺も似たようなものだ」
また似ている、と真白は思った。紙カップを少し強く握ると、温かさが指に染み渡る。
「似てるって言わないでください」
「まだ言ってない」
「言いそうな顔でした」
「顔を読むな」
「瀬名さんの真似です」
瀬名は少しだけ笑った。今度はわかるくらいだった。真白は見てしまい、すぐに飲み物に視線を落とした。
紙カップの湯気が雨上がりの空気に薄く溶けていく。ほんの少し甘い匂いがして、会社のコーヒーとは違う味がした。仕事中では味わえない味だった。
「瀬名さんの休日は」
と、聞くつもりはなかったが、声はもう出ていた。
瀬名は少しだけ目を上げた。
「普通だよ」
「それ、私の返事です」
「借りた」
「利子付きです」
「高いな」
やり取りが自然に戻ってくる。そのことが真白には少し怖かった。会社の外でも会話が成立してしまうことをまだ受け止めたくなかったのだ。
「映画とか、見ないんですか?」
瀬名は少し黙った。
「見る」
「意外です」
「何だと思ってるんだよ」
「休日も資料を読んでいる人」
「そこまでじゃない」
「少しは当たってるんですね」
「少しな」
瀬名の声は低いが、フロアで聞くよりも硬くない。真白は、その違いを聞き分けてしまう。嫌いだというには、もう声の種類を覚えすぎている。
その事実が紙カップの温度よりもずっと胸に残った。
「真白は」
瀬名が言った。
「何ですか?」
「休日に仕事の顔が消えなさそうだな」
「失礼ですね」
「でも、たまに消えるだろ」
真白は紙カップから顔を上げた。瀬名はからかっている様子はなく、むしろ自分で言った言葉の着地点を慎重に見極めているようだった。
「何でそう思うんですか?」
「さっき、飲み物を持った時」
「そんなところまで見ないでください」
「見えた」
「便利ですね、その言葉」
「便利じゃない。困る」
その返事に真白は少しだけ息を止めた。困る、と瀬名が言うと、いつもの言い逃れではないものに聞こえた。
「何が困るんですか?」
「仕事の顔じゃないときに気づくと、戻し方がわからなくなる」
真白は返事を探したが、見つからなかった。高架下を抜ける風が紙カップの湯気を横へ流した。
胸の奥で何かが静かに動いた。名前をつける前に、真白はそれを押し込めた。
「……仕事に戻りましょう」
「そうだな」
瀬名はそれ以上言わなかった。真白はその引き際にまた救われた気がして、また腹が立った。
午後の外出先から会社に戻る途中、空はようやく明るさを取り戻し、ビルの窓には雲の切れ間が映り、雨で洗われた街路樹の葉が小さく光っていた。東京は雨に濡れた後、少しだけ別の都市のように見える。
真白と瀬名は駅に向かった。近すぎず離れすぎない距離を保ちながら、足音はばらばらなのに信号で止まるたびに同じ場所に集まる。
「今日は会社に戻らなくてもいいんでしたっけ?」
真白は資料を見ながら言った。
「オンラインでまとめれば足りる」
「瀬名さんがそう言うなら、たぶん足りるんでしょうね」
「信頼か?」
「確認です」
「真似するな」
「瀬名さんの言い方、便利なので」
瀬名は少しだけ目を細めた。真白は見ないふりをしたが、もう遅かった。横目で見た表情はしばらく残った。
駅の改札前には人の流れが戻り始めており、雨上がりの傘が折りたたまれて濡れた靴の匂いと改札機の電子音が混ざり合っていた。真白は鞄からカードを取り出し、瀬名と少し距離を置いて改札を通った。
ホームに向かう階段では、下から風が吹き上げてきた。鉄の匂いと湿ったコンクリートの冷たさが混じる。真白は手すりに触れずに階段の端を上がった。
瀬名は少し前を歩いていたが、振り返ることも声をかけることもなかった。しかし、歩幅だけが真白を置いていかない程度に抑えられている気がした。
その気づきに真白は眉を寄せた。優しくされているわけではない。たぶんそうではない。けれど、完全に無関心でもない。
その曖昧さが今日ずっと続いている。
ホームに上がると、風が濡れた髪を少し揺らした。線路の向こうに見えるビルの窓は午後の光を受けて淡く明るく輝き、電車の近づく音が遠くから響いて足元の床に微かな振動が伝わってきた。
「同じ方向でしたっけ?」
真白が言った。
「途中まで」
「本当に途中まで?」
「疑いすぎだろ」
「瀬名さんはたまに先回りするので」
「今日はしない」
「今日は?」
瀬名は答えなかった。真白は、その沈黙を追及することはなかった。追及すれば、また何かを見つけてしまいそうだったからだ。
電車が入ってきた。車体の濡れた金属が光り、扉が開くと冷えた空気と人いきれが一度に流れてきた。真白は端の席の近くに立ち、瀬名は少し離れた吊革の下に立った。
会社ではない場所で同じ車両にいることが思っていたより落ち着かなかった。目を合わせる必要はないし、会話も必要ない。それなのに、そこにいることだけがやけにわかる。
電車が動き出すと、床の振動が靴底に伝わった。窓の外では、濡れたビルが流れていき、地下へ入る手前の光が車内の顔を一瞬だけ白く照らした。真白は、窓に映る自分を見ないようにした。
反射の中に瀬名の横顔が少しだけ映り、見ないようにしていたのに見えてしまった。彼は窓ではなく車内の広告のない白い壁を見ていた。
真白は視線を落とした。今日一日で、瀬名の声や歩き方、紙カップの持ち方まで妙に具体的に記憶に残っている。会社の外で見たからだと、思いたかった。
電車が揺れ、真白の体が少し傾いた。つり革に手を伸ばそうとした瞬間、瀬名の手が近くのポールに触れた。支えられたわけではないが、真白の前に少しだけ空間ができた。
触れていない。助けたとも言わない。けれど、倒れない場所がそこにできていた。
真白は何も言わなかった。言えば認めることになる。瀬名も何も言わなかった。
沈黙だけが、電車の振動に紛れて揺れていた。
少し先の駅に着き、車内の人が減って空気が軽くなった。窓の外には地下の暗さが広がっていた。真白は紙カップを持つ手を思い出し、指を軽く握った。
「真白」
瀬名の声は少し斜め前の窓の反射の中から届いた。
真白は顔を上げた。
「何ですか?」
「次で降りる」
「報告ですか?」
「確認」
「私に確認して、どうするんですか?」
「別に」
「出た」
瀬名は少しだけ目を伏せた。真白は、そのしぐさまでわかってしまう自分を、もはや否定できなくなっていた。
「今日のまとめ、送る」
「お願いします」
素直に言ってしまった。自分でも少し驚いた。
瀬名も一瞬だけこちらを見た。
「素直だな」
「外なので」
「外だとそうなるのか」
「会社に戻ったら戻ります」
「戻るのか?」
「戻ります」
真白は強く言った。戻らなければ困る。瀬名の一言で呼吸が変わるような状態のままでは、仕事などできない。
けれど、戻ると言った自分の声は少しだけ頼りなかった。
電車が減速して瀬名の降りる駅に近づくと、車内の空気が少し前に流れ、つり革が小さく揺れた。真白は、その揺れを見ていた。
扉が開き、瀬名は降りる前に真白のほうを見た。
「休日の真白、少し分かった」
「分からなくていいです」
「仕事の顔より、少しだけ分かりにくい」
「それ、褒めてます?」
「たぶん」
「たぶんで褒めないでください」
瀬名はほんの少しだけ笑った。車内の音に紛れるくらいの小さな変化だった。
「また会社で」
その言葉は普通だった。普通すぎて胸に残った。
真白は返事を少し遅らせた。
「また会社で」
瀬名がホームへ降り、扉が閉まった。ガラス越しに彼の姿が少し歪んで見えたが、電車が動き出すと、その輪郭はすぐに後ろへ流れていった。
真白は窓に映った自分の顔を見た。仕事の顔ではなかったし、かといって休日の顔でもなかった。
その中途半端な表情が今日のすべてを物語っている気がした。
夜の色が街に近づくころ、真白は別の駅から降りた。ホームにはまだ昼の湿気が残り、階段の隅には小さな水滴の跡が光っていた。売店の明かりが細く漏れ、閉まりかけのシャッターが低い音を立てていた。
会社に戻る必要はなかったが、頭の中では今日のまとめ資料のことがまだ整理されていない。真白はホームの端でスマートフォンを開いた。
瀬名から届いたファイルは、簡潔で無駄がなく、現地で真白が言った言葉もきちんと拾われていた。
最後に一行だけ、コメントが添えられていた。
「入口は奥でいい。真白の言葉なら、そこまで人を連れていける」
真白はその一文をしばらく見つめた。褒めているのか、資料の判断なのか、どちらにも読める。
しかし、今日の瀬名の声で読むと、どちらともとれない気がした。
返信欄を開いたが、何を返せばいいのか分からなかった。
「ありがとうございます」では遠いし、「知ってます」ではいつもの鎧に戻りすぎる。
真白は指を止めた。ホームの風が髪を揺らし、雨上がりの鉄の匂いが胸に染み渡る。
やがて、短く打った。
「外だと、瀬名さんの声は少し違いますね」
送信する前に真白は画面を見つめた。これは仕事の返事ではない、と分かっていた。
消そうとしたが、消さなかった。
送信した後、胸が少しだけ早くなった。電車の到着音が遠くで鳴り、ホームの人々の気配が動いた。
返事はすぐには来なかった。真白は画面を閉じ、鞄にしまおうとした。
その直前、通知が光った。
真白も、会社の外だと少し違う。
真白は息を止めた。
短い。いつも通り短い。けれど、そこに逃げ道がないわけではない。
真白はホームの柱にもたれず、まっすぐ立っていた。胸の奥に、朝から続いていた湿った空気とは違う熱が広がっていく。
嫌いと言うには、もう声を覚えすぎている。
その言葉が浮かんだ瞬間、真白はすぐに打ち消した。まだそんな風に決めてはいけない。そうすれば、明日の自分が会社で立ちにくくなる。
しかし、打ち消した後にも声は残った。低く、少しだけ外の空気を含んだ今日の瀬名の声。
夜のホームに電車が入ってきた。車体の光が濡れた床をなめ、真白の靴先まで白く照らした。風が一度強く吹いて、髪が頬に触れた。
真白はスマートフォンを鞄にしまった。返信はしなかった。
返信はしなかったのに、胸の奥ではもう何かが返事をしている気がした。
扉が開き、人の流れが生まれる。真白はその中へ歩き出した。
東京の夜は雨上がりの匂いをまだ残している。湿った鉄と遠い灯りと誰かの足音が重なり、今日という一日を静かに閉じていく。
真白は座席には向かわず、扉の近くに立った。窓に映る自分の顔は朝より少しだけ柔らかかったが、まだ素直ではなかった。
それでいいと思った。今はまだ、言葉にするには早すぎる。
嫌いという鎧は完全には脱げていないが、その内側に別の温度が入り込んだことだけは分かっていた。
電車が動き出す。暗い線路の向こうへ東京の灯りが細く流れていく。
真白は目を閉じなかった。閉じなくても瀬名の声は十分すぎるほどに、もう耳の奥に残っていた。




