第四十三話 塩田飛鳥の話
自分が父と母の実子ではなく、産まれて間もなく捨てられ拾われた子だと知ったのは、父の力のすべてを受け継ぎ、その記憶を共有した後のことだった。
口減らしのためか、理由は知らない。そういう時代だったのだから捨てられたことについて、悲しみも憎しみも湧かなかった。父と母、姉達に十分過ぎるほど大切に育てられたから、本当のことなんてどうでもよかった。俺は最初から、最高に運が良かったのだ。
父が神だと知ったのも、力を譲り受けた後のことだった。十五で病に倒れ、回復の見込みはなく、ただ死を待つしかない俺の細くなった手を握りながら父は言った。
「大丈夫だ、お前は死なない」
父の太くてごつごつした手を弱々しく握り返して、薄く笑ってみせた。
父はそう言ってくれるけれど、俺はもうすぐ死ぬだろう。けれど、不思議と怖くはない。父がいて母がいて、姉たちもいて、家族に囲まれながら死にゆくのだから、そこらの孤独な長生き爺より幸せ者だ。
それでも父は自信満々に言う。「お前は死なない」と。
「お前は、俺と違って思いやりがあって、勤勉で働き者だ。俺よりずっと、正しい存在になれる。他の誰でもない、お前だから俺のたったひとつの大事なものをやるんだ。大切にしてくれよ。他の奴にはあげちゃだめだ、いいな?」
父が何を言いたいのかよく分からない。熱に浮かされているからだろうか。
父はこうも続ける。
「これから先、辛いことも大変なことも絶対にある。たくさんある。でも、お前なら大丈夫、きっとうまくやれる。俺の代わりに、母さんたちを守ってやってくれ」
やっぱり、父の言いたいことが分からない。それでも、珍しく涙を流しながら訴える父を安心させてあげたくて、小さく何度も頷いた。そして「うん、わかった」「だから泣かないで」と、細い声で返事もした。父は安心したように少し笑い、頭を撫でてくれた。すると瞼が急に重くなって、俺は眠ってしまった。
次の日、頬に差し込む太陽の熱に促されるように目を覚ますと、苦しかった呼吸がしやすくなっていて、新鮮な空気が肺を満たし、やせ細った身体には力が漲り、失われていた食欲が湧いてくる。
だけど、少しも嬉しくはなかった。悲しくて苦しくて、声を上げて泣き喚いた。母と姉たちが心配しているが、気に留めている余裕はない。姉の一人が「あれ、父ちゃんはどこ?」と言う声が聞こえ、いっそう涙が溢れた。
俺は知っている。病気が突然治った訳も、昨日までそばにいたはずの父が消えた理由も。だから泣いたんだ。もう二度と、大好きな父には会えないと知っているから。
父は、神だった。人間の身体に宿った、特に強い力を持つ神で、本当の名を「タケハヤスサノオノミコト」というらしい。(長いし、人間の時の名前の方が父ちゃんに合っている。)
俺は父との約束を守り、母と姉たちを守って暮らした。姉が嫁に行き、子を儲け、老いていく母を最期まで看取り、姉の子供達が成長して生家を出て、姉たちが老いて死ぬのを見届けてから、俺は山に籠ることにした。姉達の子供の行く末は気になったが、未練がましく見守り続ければきっと彼らを贔屓してしまう。それはなんだかいけないことのような気がして、やめた。
普通の人間として生きることはもう出来ないが、神として生きるつもりはなかった。けれど、父から授かった全てを捨てる気にはもっとなれない。神とも人間とも距離を置くため、山の奥にある大岩に宿り、ひっそりと過ごした。何十年も、何百年も。岩にはたくさんの野生動物が集まってきた。熊、猪、鹿、鳥が俺の友人で、家族だった。 大した変化のない日々だったが、空模様や木々の成長、動物たちの一生と生命の連鎖を見つめるのはそれなりに楽しかった。
しかし、そんな日々も少しずつ変わり、終わりへと近づいていく。人間が山へ入ってきたのだ。木を伐採し、開拓し、すぐ近くに民家ができて、あっという間に大岩は割られ、石材へと変わっていった。これも運命なのか、大岩の一欠けらは地蔵として姿を変え、人の往来する道に置かれた。俺はその地蔵に宿り続け、今度は人間の大昔とはずいぶん違う生活を観察した。人々だけでなく、国の在り方すら変わっていて驚いた。
そして、日本敗戦がきっかけで、俺は初めて人間の身体に宿ることにした。
――みんな大変そうだな、俺なら肉体労働も苦じゃないし。
ひたすら働き、周囲に怪しまれないため適度に老いて、真面目な人間生活を送った。友人もいたし、恋人のような存在も出来かけたが、深い人間関係が構築する前に姿を消した。それを2度ほど繰り返し、俺は風香の弟・飛鳥となった。
「飛鳥君?はじめまして、憩です。仲良くしてください」
まだ高校生なのに、ずいぶん落ち着いているな。『悲』『哀』『喜』『苦』『楽』、放たされている気も複雑で不安定だった。けれど彼女から悪意は感じられず、風香も懐いていたから仲良くした。
俺達姉弟の家庭環境が悪かったのも塩田家との結び付きを強くした。母親は育児に積極的ではなく、異性と遊ぶ方が好きな人だった。風香と俺の産みの父も別人だ。さらに新たな恋人を作り、その男が風香に色目を使うようになり、俺は以前から調べていた風香の父方の祖母に連絡を取った。俺達を養育してくれそうな親類は彼女しかいなかったのだ。
優しい彼女は老いた身体を引きずって懸命に俺達姉弟の面倒を見てくれた。しかし、限界は近い。そんな時、憩さんと絹代さんが現れた。あっという間に二人は祖母と風香からの信頼を勝ち取った。
「わたしが死んだら、孫たちのことを、どうかお願いします」
優しい祖母はそう言い残してこの世を去った。
さっそくその日から、俺達は塩田家で暮らし始めた。前から一緒に遊んでいた千叶も喜んで俺達を家族として迎え入れてくれた。
それからの日々は何の不自由も苦労もなく、順調で平穏で、俺は自分が神であることすら忘れそうになっていた。力を使ったのも、居候の光を連れ戻しに来た親を追っ払うため、鬼のまやかしを見せてやった時くらいのもので。だからか、いつしか自分を生まれ変わりを繰り返すだけの人間と錯覚していた。・・・まさか目の前に、本当に生まれ変わりを繰り返す人間がいるなんて、夢にも思わず。
大きな変化が起きたのは、『斎藤未来』という人間が現れてからだ。その人は、嫁の貰い手なら引く手数多な姉が連れてきた初めての恋人だった。
「――あなた、神ですか?」
冴えないが穏やかで優しい姉の恋人は、一緒に行った旅行先で唐突にそんなことを言ってきた。もちろん、室内には俺と斎藤さんだけ。
言葉の意味を理解するまでに数秒かかった。今思えば数十秒だったかもしれない。けれど斎藤さんは催促せずこちらの返事をじっと待っている。
前髪と眼鏡に隠れがちな顔からは表情が上手く読み取れない。それでなくとも、この人は姉が関わらないと喜怒哀楽が極端に薄くなるのに。
神の存在を知るのは神だけ。ならばこの人も神だと言うことか?例外があるのか?この千年余り、神と接触を持ってこなかった俺には神々の知識が乏しすぎる。
言葉に詰まりながら、「はい、そうです。あなたも?」と絞り出すと、あっさり「そうです」と返された。
「僕は普段、佐藤未来と名乗っています。なんの神かは、まあ、そうですね、当ててみてください」
「あ、当てる?すみません、当てられる自信ないです」
「ヒントは、僕が塩田家へ持ってきた物です」
「・・・蛙の置物?」
「正解」
「えっと、蛙・・・タニグク、ですか」
「面識はないですよね」
「ええ、たぶん」
父の記憶の中にタニグクという神は出てこない。ただ、そういう神がいることは知っている。
「職業も会社員ではなく、新宿で喫茶店を営んでいるんです。神が来ることも多々あるので、あなたも良かったら」
「い、いや、俺は、」
神の集まり。そんなところへ行けるわけない。だって俺は神じゃない、本物のスサノオじゃない。
「ところで、あなたは誰ですか?」
ズドン、確信を突かれてしまった。
普段より抑揚がなくて、やや素っ気なさを感じる喋り方だ。オドオドしたりせず、相手を真っすぐ見て、少し威圧感すらある。これが素の彼なのだろう。今度は、俺がオドオドする番だった。
斎藤さん、いや佐藤さんの背後には姿見があった。俺のしょぼくれた顔が映っている。
「俺は、スサノオ、です」
あなたは誰かと問われ、スサノオと返した。鏡に映る自分の口から、皮膚から、『正』が口から滲み出ている。俺は偽りを述べていないらしい。正直ガッカリした。ああ、俺はやっぱり神なんだ。
この『正』は、佐藤さんにも視認できているのだろう。彼は俺の正体を疑うことなく受け入れた。
佐藤さんが神であることは置いておいて、彼が姉を愛しているのは事実。神と人間の恋愛は禁止されているわけではないのだから、付き合い自体に問題はないはずだ。姉を幸せにしてくれるのなら、神だろうが蛙だろうが関係ない。恋人と弟が神というミラクルも無くはない可能性だと、当時の俺は本気で思っていた。(深く考えることを放棄していたのかもしれない。)
けれど、憩さんの正体が明らかになり始めると、事は人間と神の恋愛などという単純な問題ではないとさすがに気づき始める。
目の前にいる憩さんは、神々に生贄にされ、復讐を誓い生きる人間。そのために偶然を装って近づいて、俺を家族へ引き入れた。仲間にして力を利用するためか、理由は定かでないけれど、事実を知った時はショックだった。悲しかった。でもそれ以上に彼女が可哀想だと思った。復讐を誓って当然だと、協力してあげたいとすら思った。
「――で、イコイが君を家族に引き入れた目的は、人間を神にする方法を蛙の神に気付かせるためだと?」
海さんをはじめ、家主の朝市さんをも追い出した『ilios』の室内。俺はひとりで、海外に住まう神々と対峙している。(一応ケトさんもいるが、彼はあっち組だろう。)
コアトルの言葉に、深く頷いてみせる。だって、それ以外考えられないから。
くくっと喉を鳴らしながら、今度はケトさんが口を開く。
「確かにね、聞いているスサノオ像と君にはあまりにも差があった。誰の言うことも聞かない、自分勝手に行動する我儘者だと聞いていたが、君はどう見ても自己主張控えめで空気の読める常識人だもん。千年超の山籠もりに効果があったのだとツクヨミは言っていたけれどそんなのあり得ないよ。そのくらいで神は変わったりしない」
「そうだな、我々はそんな殊勝な存在ではない」
言いながら黒猫を抱き上げ、自身の膝の上に乗せる。ケトさんは黙ってなされるままにされているが、それは決してカオスが強い神だから従おうという訳でなく、彼女が可愛い少女の姿をしているからに過ぎない。
艶やかな毛並みを撫でながら、カオスは言葉足らずな俺の予想を補ってくれた。
「仲間が君の異変に気付き、原因を突き止め、正体が人間であるという真実にたどり着かせ、タニグクがイコイを神にする。そうなるようにイコイが導いていると、君はそう言いたいんだね?」
「はい。それ以外、憩さんが俺を仲間にする理由が見つかりません」
「だとすると、イコイの目的は神になることか?そもそも誰からそんな重大事を聞いたのか。その様子じゃ、君は誰にも話していないだろうし、アマテラスが漏らすとも思えない。彼女の知る力がそこまで強いとなると、それはそれで捨て置けないが。――ただ、君が誰にも口外しなかったのは懸命だ。父上であるスサノオも、君のそういう思慮深いところ見込んで力を譲渡したのだろう」
「いや、そんな、俺は・・・」
褒められてもちっとも嬉しくない。俺はこんな人生を望んでいなかった。
そこで会話は不自然に途切れ、重々しい沈黙が流れる。床から視線を上げると、皆一様に暗い表情をしている。いつも威風堂々としているカオスでさえ。
沈黙を破ったのは、フレイと名乗る金髪の女神だった。
「我々は、それで酷い目に遭った」
彼女の言う『それ』とは、人間への力の譲渡を指すのだろう。
「語弊があるが、昔、それが爆発的に流行ってしまったんだ。家族、恋人、友人を失うことに耐えられず、神は人間に力を譲渡し、元人間の神が次々に誕生した。神に愛されたが故にそうなったのだから、彼らは善人ばかりだったわ。大きな問題も起きなかった。最初の内は、ね」
そこで区切られた台詞に、ぞくりと背筋に悪寒のようなものが駆ける。当事者であるからこそ分かる、彼女の語る先が悲劇であることが。
「彼らは最初、良い神になろうと努力していたわ。そして、与えられた力を良い行いに使おうとした。もっと良い村へ、もっと良い国へ、人間達を正しい方へと導こう、とね。けれど、人間の思う『正しい』も『良い』も立場によってまるで異なる。生まれた性別、家、国、その違いだけで『良い』が一方では『悪い』に様変わりする。互いに良い行いをしているはずなのに、結果的に争い合うになってしまった。しかし彼らはもう神、殺し合っても肉体が滅ぶだけで終わりはなく、何年も何十年も互いの正義を掲げて争い合い、人間をも巻き込む戦争に発展してしまった」
「最悪だったのは、最高神にあたるような高位の神が真っ先に力を譲渡してしまったことだ。そのせいで、冥府へ送るといった事態収拾の術がなくなり、状況は混迷していったよ。あの時代は、本当に最悪だった」
苦々しげにコアトルはそう吐き捨てた。声には嫌悪と侮蔑がたっぷり含まれている。
皆が当時の暗く辛い思い出を呼び起こし感傷に浸る中でも、ケトさんは我関せずと言った風に大あくび。彼は本来の姿も獣で、人間に宿った経験もないと言っていた。自分と人間との線引きが上手く出来ていたからこそ、力を譲渡する神の気持ちが理解できないのかもしれない。
前足をぺろりとひと舐めし、緑の瞳を再びこちらへ向ける。
「ツクヨミたちを見て、もしかしたら力の譲渡について知らないのではないかと思っていたよ。けど、簡単に確認できることでもないし、藪蛇になっても面倒だから様子を見ていたんだ。まあでも、海の女神に譲渡のことを話さなかったのは正解だね。彼女、あの身体の持ち主とは血縁なんだろう?さしずめ、息子かな?」
「はい、そうです。井之原樹さんの母親が、海さんです。彼女は人間を救うために電車に轢かれて死んだ」
「そりゃ不味い。息子に何かあったら譲渡しそうだね。このことを打ち明ける際は相手を相当慎重に選ぶべきだ。彼らの失敗から学んでさ」
失敗と言われ、コアトルは口をへの字に曲げて不満そうにケトさんを睨む。睨まれても涼しい顔をしていたが、カオスに黒い尾をぎゅっと握られ、珍しく「ギャッ」と情けない悲鳴を上げた。すぐさま膝から飛び降り、俺の横を走り抜け、大きな円状のテーブルに飛び乗った。自然と、一同の視線は黒猫へ。
視線が集まったところで、会話の進行役がケトさんに変わる。「ここで、解決しなければならない大きな問題が二つある」と、仰々しく切り出した。
「一つ。この秘密を、憩が日本に住まう神にバラしてしまうことを阻止する。実現してしまったら、誰かはきっと力を譲渡してしまうだろう。彼女の口を封じなければ」
こちらの反応を待たず、2つ目を力説する。
「二つ。佐藤君の譲渡を憩が本気で狙っている場合、きちんと確認しておかなければならないことがある」
「確認?」
「彼が、本当に蛙の神・タニグクかどうかを」
この顔に”なぜ”とでも書いてあるのか、ケトさんは「だって」と、先を続ける。
「だって、彼がタニグクである証明が成されてないだろ」
「え、いや、証明ってなんで、」
「人間の身体に入ってしまえば、どの神か判別は難しい。それが人間に宿る最大のデメリット。もし彼が身分を偽っていて、実は高位の神だったらどうする?」
「どうって・・・」
「神を憎む人間に、その力が渡ることになる」
佐藤さんが、タニグクではなかったとしたら?佐藤さんの力を奪うことが、憩さんの目的だったとしたら?
実は、俺達はずっと薄いガラスの上に立っていて、それに気づかず暢気に踊っていたのかもしれない。ふと下に目線を落とし、ようやく事態の深刻さと猶予の無さを思い知る。一刻も早く、ここから立ち退かなければならない。そうしなければ――。
背後で、フレイが冷気を纏った声でこう呟く。
「最悪の場合、私たちはイコイを殺さなくてはならない。神々を守るために、ね」
何もかも、もう猶予がない。俺も、決断しなくてはならない。神として生きるのか、人間として死ぬのか。憩さんを罰するのか、守るのか。




