旅の始まり(二)
飛鳥君はどう感じただろう。気になって覗き見るが、髪で顔が隠れ、何を考えているのか分からない。椿さんも循さんも、家族写真をただしんみり眺めていて、この空間で俺ひとり焦っている。
「――椿さん、”環さんが家出をしたかもしれない理由”って、なんですか?」
写真に目をやったままの飛鳥君が、落ち着き払った声で静寂を破る。
「”環さんが家出をする理由は学校生活や体調不良以外にもあった”と、佐藤さんに話したんですよね?その理由とは、なんですか」
「そ、それは――」
一気に青ざめる顔色、一瞬にして荒くなった呼吸、泳ぐ瞳、胸元を抑えたり手を合わせたりと忙しない挙動。椿さんの狼狽え方は尋常じゃなかった。
俺達は今、彼女の最も触れられたくない部分に触れようとしている。慌てて止めに入る。
「あ、飛鳥君、それはちょっと、立ち入り過ぎだよ」
神に頼まれたから。塩田を守るためだから。塩田の目的を探るためだから。そうやってよその家庭事情に踏み込んでいい大義名分を並べ、図々しくも家に上がってしまった。
本当は俺だって知りたい。椿さんはあの日、佐藤さんになにを打ち明けたのか。それから、小郡さん家にわざわざ訪れ、「環さんについて知りたい」と言った佐藤さんの目的も。本人に直接聞けばいいのに、なぜ。
それでも、椿さんを苦しませてまで問い質す気にはなれない。誰にだって触れられたくない過去がある。そして触れる権利は俺達にはない。
俺の制止を受け、飛鳥君はあっさり追及をやめてくれた。そこまで興味がなかったのか、後で佐藤さんに聞けばいいとでも思ってくれたのか。
場を治めたのは、循さんだった。
「今日はもうお開きにしましょう。続きはまた今度」
リビングに椿さんを残し、共に玄関を出て、道路先まで俺達を見送りにきてくれた循さんの顔には、この時いつもの胡散臭い笑みが戻っていた。改めて、突然の来訪と不躾な質問をしてしまったことを詫び、頭を下げる。飛鳥君も倣ってくれた。
すると、頭上から言葉が降ってきた。「環は、あまり甘いものを好まない子供だったそうです」と。
何を言われたか一瞬分からず、戸惑いと共に頭を上げる。さっき、椿さんは甘いものが好きな子だったと言っていたのに。
「でも、さっき椿さんは、」
「それは、誘拐された後の話です。誘拐犯にタバコの汁を飲まされてから、環は苦みのあるものを一切受け付けなくなった。だから、環と佐藤さんに関わりが本当にあったのだとしたなら、それは誘拐事件の後だと思います」
この人はいつも冷たい目をしている。そしていつも、瞳の奥が悲しみと寂しさで満たされている。
なんと言えば彼の絶望や孤独を癒せるのか分からずに沈黙する頼りない大人に代わって、神である飛鳥君が口を開いた。
「今でも、環さんに会いたいですか?どんな形でも?」
残酷とも思えるその問いに、循さんは間髪入れず返事をした。「はい」と。潔く、明快で、迷いのない声音だった。
「分かりました。俺が必ず、会わせてみせます」
こちらも迷いなく言い切るので、循さんは珍しく目を見張った。
28年間ずっと探し続け、それでも探し出せず、情報一つ得られなかったのに、ただの男子高校生に一体なにができるのか。そう怒りをぶつけられても可笑しくない。だが、同じ人間を姉として持つ両名は、真剣な表情のまま視線を交わし合い、互いの腹を探り合う。俺そっちのけで。
そしてこの探り合い、どうやら勝者は飛鳥君のようだ。眉尻を下げて困ったように微笑む循さんは、恭しく拝礼しながら言った。「お願いします」と。
「飛鳥君ってそういう能力があるの?」
「え?」
「相手を素直にさせるっていうか、従わせる?みたいな」
「そんなの無いですよ」
「そっか」
「ただ、人間不信に見える循さんでも、誰かと気持ちを共有したり、苦しみを理解してほしいという一般的な欲求はあるということです」
「さ、さすが神様。言うことが違うね」
純粋に褒めたつもりだったが、口を結び、その横顔は再び暗いものへ。互いに元より多くない口数がさらに減り、気まずさが漂い始める。(俺が勝手に気まずく思っただけ。)
帰りの道中、無理に会話をする必要もないのに、頭の中は必死に次の台詞を探している。いつもお喋りな親友に甘やかされ、話題を提供する能力が乏しいまま大人になってしまった。
出来れば場を明るくする話題が良かったけれど、結局は共通のあの人物の話に行き着いてしまう。
「あのさ、飛鳥君」
「はい」
「環さんの写真を見て、どう思った?」
「どうって?」
「あー、その、俺は、あの写真を見て思った。この子は塩田じゃないって。・・・まあ、直感でしかないんだけど」
「割と鋭いですね、朝市さん。直感は大切にした方がいいです」
「えっ」
肯定したとも取れる返しをされ、困惑した。じゃあ本当に環さんと憩さんは他人で、失踪事件に神様は関係なくて、ただの家出や事件あるいは事故だと言うのか。
発言の意図を確かめようと口を開くが、先に飛鳥君の方が言葉を発する。
「そう言えば、憩さんの目的が分かったかもしれないって、神々の間で話題になっているんですよ」
「えっ、マジで?」
「地球滅亡、かもしれないそうです」
「はあ?」
「神も憎いが人間も憎い。だから、地球を滅亡させる。人類滅亡より、地球滅亡の方が手っ取り早いから」
なんてこともない風に言い切るが、それはあまりにも大事だ。もしそれが本当なら、塩田の復讐に関係しない人間はいないわけで、俺ももちろん死ぬわけで、地球の裏側にいる無関係の第三者も、星野さんや椿さん達だって巻き込む事態になる。
どういう経緯で神々が塩田による地球滅亡説にたどり着いたか不明だが、俺の口からこぼれた感想は「それは無い」だった。
「いくらなんでも、それは無いんじゃないかな」
「なぜ?」
「いやだって、あまりにも短絡的で大雑把すぎる復讐方法だし、塩田らしくないと言うか。それに地球や人間を滅亡させたところで神様は死なない。宿る肉体が無くなったら、本来の姿?になればいいだけ。神様にとって痛くも痒くもない。だからやる意味がない」
「完全同意です」
「でしょ。それにどうやって?地球滅亡なんて、人間ひとりがやれることじゃない」
「百合さんたちは他に協力者がいるんじゃないかと考えているようです」
「佐藤さん以外に?」
「はい。たとえば、オモイカネ。しかし彼女にそんな能力はない。まあ、知を司る神なので、アイデアを提供している可能性はある。他には、・・・俺とか?」
「で、出来るの?」
「やろうと思えば。スサノオはとにかくパワーです。地球を割る、とかね」
これまたサラリと言ってのけるが、とんでもない事である。服の上から見た彼の身体つきは平均的な男子高校生のそれとあまり変わらないように見えるのに、人間には計り知れないパワーを秘めているらしい。恐ろしい話ではあるが、彼の口ぶりからして実行する気はないのだろうし、塩田の協力者でもないのだろう。
「でもそれ以外でスサノオを家族に引き入れた理由が見当たらない、百合さんたちもそう言ってましたね」
「うーん、単に一番仲間にし易かったからじゃ?神との関わりが薄くてずっと山に籠っていたのなら、自分の情報も持っていないし、怪しまれないと思ったとか?俺でも、とにかく力の強い神様を仲間にしようと考えるよ」
「そういうもんですかね」
「うん」
もうすぐ最寄り駅に着くというところで、飛鳥君がふいに足を止めた。
「どうしたの?」
そう声を掛けると、思案顔の彼は言った。喧騒にかき消されそうなくらい小さな呟きだった。
「今日この後、時間ありますか」
「あ、うん。今日は休みだから」
「なら、今から大阪に行きませんか」
「いいよ、じゃあ大阪に――えっ、大阪!?」
「はい」
素っ頓狂な声に、周囲の視線が集まる。慌てて口を噤み、駅構内へ歩みを進める飛鳥君を追った。
こうして、俺と神様の、謎の小旅行が始まったのである。




