第四十一話 旅の始まり
その日、飛鳥君と俺・倉田朝市という珍しい取り合わせで、目黒区の路上を歩いていた。
椿さんに会って話を聞きたいと飛鳥君が言うので、アポを取り、本日は小郡病院ではなく自宅へ向かっている。道中、飛鳥君は言葉数も少なく、暗い顔。
予定の5分前に小郡家に着いた。事前にマップ確認していたけれど、やはり立派な豪邸だ。白を基調としたモダン洋館といった風で、あれこれこだわって建てたんだろうなと想像する。
手のひらの汗を服で拭って深呼吸をし、インターホンを鳴らそうと人差し指を立てる。しかし、横からぬっと出てきた指が先に押してしまった。
「なにモタモタしてるんですか」と、飛鳥君が呆れ顔で言う。
「ご、ごめん。なんか緊張して」
「まあ、分かりますけど。俺もこういう家とは縁無しでしたから」
飛鳥君は長く山に籠り、人間はもちろん神とも距離を置いて暮らしていたらしいから、裕福な家の子になった経験がないのだろう。(俺からしてみれば塩田家だって裕福な方だと思うが。)
神様は基本、この世に生れ落ちることのない子供の身体に入って生活する。しかし必ずしもそうではなく、気に入った家や人間がいれば、無事産まれる命であってもその人間に成り代わる神もいると言う。「これは神のモラルやマナーの問題だな」と、百合さんが以前言っていた。
インターホンから「はーい」と愛想のいい女性の声が返る。椿さんだ。「倉田です。お休みのところすみません」「今行くね、ちょっと待ってて」のやり取りののち、ブチッと応答は途絶える。
木製の厚い扉が開くのを今か今かと待ちながら、ふとこんな台詞が口からこぼれ出た。飛鳥君は素直に答えてくれた。
「飛鳥君はさ、なんで山に籠っていたの?」
「・・・人間とも、神とも、関わるのが嫌だったから」
シンプルで分かり易い回答だった。なるほどな、と思った。神様だって誰とも関わらず暮らしたい時だってあるはずだ。
ひとり勝手にそう納得したところで、扉が開いた。現れたのは椿さんではなく、私服姿の循さんだった。
手土産の焼き菓子を渡し、ふかふかのスリッパを履いて、綺麗な廊下を抜け、広い客間に通され、大きく柔らかい革のソファに腰かける。俺の向かいに椿さんが座った。給仕は循さんがしてくれるようで、キッチンがあるらしい奥へ消えていった。
先陣切って話し出したのは飛鳥君、初登場の人物の突然の自宅来訪を詫びる内容だった。
「俺まで突然すみません。改めて、塩田飛鳥と申します。高校2年生です。朝市さんから聞いていらっしゃるかもしれませんが、佐藤未来さんについて少し調べたくて、こちらに伺いました。その、姉のことが心配で」
「ええ、聞いているわ。有名なお姉さまだし、心配よね」
飛鳥君は『敢えて佐藤さんを怪しい人扱いし、環さんについて聞き出そう作戦』に打って出たようだ。
塩田憩の一つ前の人生である小郡環はかなり重要な役割を担っている。14歳という年齢で失踪したのも、何か深い意味があるはずだ。例えば、この時代に28歳になるよう調節するため、その歳を選んで死んだ、とか。恐ろしい可能性ではあるが、何度も繰り返し生き死にを経験してきた塩田にとって、自ら命を絶つというハードルは著しく低く、選択肢の中に常にあったと考えられる。橋本優子がその例だ。目的のため、自らの命も使う。そうでもしなければ、神々に一矢報いることなど出来やしない。
飛鳥君の姉を想う気持ちに同意したのは椿さんだけでなく、循さんも同じらしい。カップが4つ乗ったトレイを持って再登場した彼は、相変わらず胡散臭くも穏やかな笑みを張り付けたまま。
「だけど、倉田さんから佐藤さんは良い人だと聞いています。君の目から見て、彼はどうですか?」
循さんからそう問われ、飛鳥君は考える素振りを見せた後、答えた。
「いい人だと思います。怪しいと感じているわけではないです。ただ、何かを隠している、嘘を吐いていると感じてしまって」
「なるほど」
にっこりと循さんは笑っている。循さんの過去を少し知ったからか、彼への警戒心は以前ほどではないが、やはり得体の知れない雰囲気を感じる。
「確かに、彼は嘘を吐いている。まず、職業。該当の会社で経理担当していると言うのは嘘で、本業は喫茶店経営者。それに、彼が子供の頃に環と遊んでもらっていた、という話も、嘘だと思います」
「なぜそう思うんですか?」
今度は飛鳥君が訊ねた。循さんは迷いなく言い切った。
「聞いたことがないからです。環から、佐藤未来という人の名前も、話も」
胡散臭い笑みから真剣な顔つきに変わり、思わず息を飲んだ。その答えから環さんと循さんの絆の強さのようなものを強く感じたからだ。きっと、辛い経験を共有し、乗り越えた2人の間には連帯感のようなものがあって、何でも分かり合える、打ち明けられる関係性だったのだろうと想像できた。
環さんが知らないことは循さんも知らないし、環さんが見ているものを循さんも見るし、環さんの行く道に循さんも行く。
「じゃあ、佐藤さんは何のためにこちらに伺ったんでしょうか」
飛鳥君は質問を重ねる。今度は椿さんが返す。
「さあ、分からない。でも彼は本当に環を知っている様子だったのよ。甘いものが好きなこと、野菜が嫌いなこと」
「子供はだいたいそうだと思うよ」
「好きなお菓子や歌、テレビ番組も具体的に言い当てたのよ」
息子の循さんからの冷静な指摘に、椿さんはムキになって言い返している。
佐藤さんが言い当てられたのも当然だと思う。だって、佐藤さんと環さん(塩田)は500年近くの付き合いで、椿さん達に気付かれぬよう陰で連絡を取っていたはずだからだ。
「あ、あの、環さんが誰かと手紙のやり取りをしていたとか、電話していたとか、ありませんでしたか?」
「ないと思います。あったら気付きますから」
俺の質問には循さんが即座にご尤もな意見を返してくるが、あの塩田のことだから、この2人に隠れて連絡を取るなんて造作もないことだろう。
こちらの考えと反対に、椿さんは「環は嘘や隠し事が下手な子だったから、私達が知らない友好関係はなかったと思うわ」と、環さんの素直な人柄を教えてくれる。
『嘘や隠し事が苦手な子』
今の塩田とは釣り合わない人物評価だ。きっと、上手く演じていたのだろう。
環さんの正体を知っている飛鳥君も「環さんは嘘や隠し事が苦手でしたか、素直な人だったんですね」と、皮肉めいたことを口にする。
飛鳥君のしみじみとした口調と、一見寄り添うような発言が呼び水になったのか、椿さんは環さんの人柄について語り出した。
「環は、姉の家事の手伝いを率先してする子だった。弟にも優しく接して、面倒もよくみていた。聞き訳が良くて、癇癪を起こしたり、我儘を言うことはあまりなかったわ。それに勉強のできる子でね、学校ではいつも100点を取っていた。記憶力も凄くて、一度見れば何でもすぐ覚えたの」
なるほど、なるほど。椿さんの語る声を聞きながら浅く頷いた。
「でも控えめな子でね、優秀さをひけらかしたりしない。いつも周囲の顔色を窺って、空気を読んで立ち回ろうと努力しているように見えた。 それに臆病なところがあって、新しいことにチャレンジしようしなかった。うちで本を読んだりテレビを見たりするのが好きで、外で遊びたがらない。病気になってからはますます内向的になって、弱気になって、人と関わりたくないと部屋に籠るようになった」
頭の中で小郡環という人物像を作り上げていくと、どうしてか違和感が湧き上がってくる。椿さんは姪っ子の性格を説明しているだけのつもりだろうが、こちらからしてみればそれは塩田の性格を解説しているのと同義。たとえ両者の性格に多少の違いがあっても、あの塩田のことだから置かれた環境によって立ち居振る舞いを変えて暮らしていただけで、塩田(環さん)の演技力が優れているだけのこと。違和感を感じる俺の方が可笑しいんだ。気にし過ぎなだけだ。なのに、どうして――。
唐突に椿さんが視線を横へ向けたので、つられ、飛鳥君と揃ってそちらに視線を送る。そこには、木枠に収められた家族写真が3つ置かれてあった。
中央の写真は、2人の大人と2人の子供が被写体で、どこか写真館で撮られたらしい立派な写真だ。構図は、椅子に座る貴婦人(おそらく薫さん)を囲み、左から椿さん、循さん、それから環さん。
左右の写真には、キャンプ場や旅行の際に撮ったと思しき写真が並び、環さんは串に刺さった肉、ソフトクリームを左手に持ち、右手でピースサインを作っている。循さんも写真の中では年相応に笑っていた。微笑ましい幼少期の一幕が、数十年間もあの場所で片付けられることも新たな写真に代わることもなく飾られ続けているのだ。
写真の中で控えめに微笑むボブカットの女の子は、椿さんが先ほど語った人柄がぴたりと合いそうな素朴で素直そうな女の子だった。
その写真を見た瞬間、正しくは環さんの顔を見た瞬間、違和感はさらに増殖した。自分では抑えきれないほどに。
――塩田じゃない。あの女の子は、塩田じゃない。
俺は神ではないし、特殊な力も第六感だってない、ごくごく平均的な人間だ。だからこれは単なる直感でしかない。けど、あの子は、塩田じゃない。そう確信してしてしまった。




