第22.1章:手に負えない事態
【暴走する盤面】
「五条!」
リリアは息を切らし、顔を蝋のように青ざめさせたまま、宿の居間に激しく駆け込んできた。
「ローズよ! 窓から逃げちゃったの!」
五条はいつものようにゆったりとした動作で振り返り、優雅に手袋の皺を伸ばした。
「リリア……今度はどうしたんだい、愛しい人? 僕が夕食に誘わなかったからって、彼がへそを曲げて逃げ出したなんて言わないでくれよ」
「冗談じゃないわ!」リリアは泣きそうな声で怒号を上げた。
「ローズは……何かに憑依されていたのよ! 彼本来の力ではない、悍ましい圧力を放っていたわ。『ナイト(騎士)の鎧』を使って窓から飛び出したの。首飾り(カラー)に向かって叫びながら……マルセリンのところへ向かったわ!」
ゴジョの表情が一瞬で変わった。その美しい瞳から陽気さは完全に消え失せ, 代わりに観察者のような鋭く冷徹な光が浮かび上がる。
その頃、神の都の夜空の下では、一条の人影が黒い鷲のごとき敏捷さで屋根を駆け抜けていた。ローズは寒さも疲労も一切感じていたかった。彼の耳の奥には、血の羅針盤のように自らを導く、幽霊のようないななきだけが鳴り響いていた。
その禍々しい呼び声は、路地裏からではない。
――都の郊外。油断した者を容赦なく飲み込む、深い闇の奥底からだった。
*
【闇の洞窟にて】
「私を殺す? ただ、お前の『パパ』の裏切りがバレないようにするためだけに?」
マルセリンは口から血の塊を吐き出しながら、不敵に挑発した。彼女を拘束する魔法の鎖が不気味に振動し、吸血鬼としてのエネルギーを絶え間なく吸収していく。
「情けないわね、レモン。十二人の一員ともあろう者が、過去の亡霊の飼い犬にまで成り下がるとは」
レモンは乾いた笑い声を上げた。その声には、人間らしい温かみが微塵も感じられなかった。
「フン……まだ自分を何か特別な存在だと思っているようだな、マルセリン。お前はただ、自らの悲劇的な過去に囚われ、とっくに腐り果てたプライドにしがみついているだけの子供に過ぎない。大した存在じゃないんだよ」
男は用済みとばかりに相棒の方へ振り返り、まるで壊れたおもちゃでも扱うかのように彼女への興味を失った。
「エンジ、片付けてくれ。俺は首都の物資調達でやるべきことがある」
「命令するな、道化師が」
「おいおい、そんなに意地悪するなよ。少しは血糖値でも上げとけさ」レモンはそう言い残すと、出口へと歩き出し、外の闇の中に消えていった。
エンジは重いため息をつき、冷酷な警戒態勢に入ると、静電気のうなりを立てる短剣を鞘からゆっくりと引き抜いた。
「よし、マルセリン・ダークネス。俺に余計な手間をかけさせるなよ。無駄な仕事は嫌いなんだ」
「チッ……」
*
【十四歳の地獄:スラム街の記憶】
その忌々しい記憶が、ハンマーで殴られたような強烈な衝撃を伴ってマルセリンの脳裏を襲った。当時、彼女はまだ十四歳だった。周囲の空気にはカビ、尿、そして濃密な絶望の臭いが漂っていた。
「ママ、パパはいつ帰ってくるの?」
「もうすぐよ、マーシー。ウラジミールが戻ってくれば、私たちの問題はすべて解決するわ。約束する」
それは、あまりにも切ない慰めの嘘だった。かつて『十二人の第三位・大ウラジミール』と呼ばれた彼が極秘任務に出発して以来、家族を守る鉄壁の盾は完全に消え失せていた。
かつて彼女たちを崇拝していたベネシアの村人たちは、彼女たちに流れる混血の血筋が明らかになった瞬間、手のひらを返して激しい憎悪を向け始めたのだ。村人たちは彼女たちを「汚れた血」「夜の寄生虫」と罵った。彼女たちから屋敷を奪い、金を奪い、そして最後には人間としての尊厳までも毟り取った。
「ママ……お腹が空いたよ」廃倉庫の片隅で、少女はそう蚊の鳴くような声で囁いた。
かつては優雅さの象徴だったマルセリンの母は、重度の栄養失調で衰弱しきっていた。青白い皮膚の下に、痛々しく肋骨が浮き出ている。彼女は力なく腕を伸ばし、かつて噛まれた生々しい傷跡を露わにした。
「マーシー……私の腕を噛んで。街にはもう、食べ物なんて残っていないのよ」
「でも、痛いよ! ママ、すごく弱ってるのに……!」
「いいのよ……私の血を飲んで。そうすれば強くなれるわ、私の可愛いマーシー。それがあなたの運命なの。そうしなければ、お父さんに会うまで生き延びることはできないわ」
頬を涙が焼くように流れ、心が粉々に砕け散る音を聞きながら、マーセリンは母の細い腕に噛みついた。母の生命そのものである、金属的で甘美な味が喉を激しく流れ下っていく。
――うっ……!
血管の中で沸き立つ圧倒的な力を感じながら、少女は激しい決意を胸に立ち上がった。
「食べ物を探しに行くわ、ママ。顔を隠していて。あの人間たちに、絶対に指一本触れさせたりしないから」
「マーシー、だめ! 待ちなさい!」
彼女は嵐のように市場へと駆け出した。母の血が、彼女に超自然的な神速を与えていた。瞬く間に、彼女はパンの入った籠を力任せに奪い取り、複雑に入り組んだレンガの迷路へと逃げ込んだ。
「おい! この吸血鬼のガキめ! 戻ってこい!」パン屋の怒号が響く。
「へへっ! これでママもやっと食べられるわ!」
冷たい雨が降り始めた。マルセリンは軒下に身を寄せた。それは凍えるような嵐であり、このスラム街においては病人に「死」を意味する過酷なものだった。母から預かった大切なパンを濡らさないよう、彼女は雨が止むのをじっと待つことにした。
だが、それこそが彼女の人生最大の過ちだった。
夜明けとともに雨は止み、泥と惨めさの跡だけが残された。マルセリンはパンを愛おしそうに胸に抱きしめて、薄暗い避難所へと戻った。
「ママ……?」
中に入り、小さく囁いた。
返ってきたのは、静寂だけだった。母の冷たくなった遺体は、部屋の中央に無残に横たわっていた。病気で亡くなったのではない。夜中にスラム街の暴徒に見つかってしまったのだ。「ハイブリッド(混血)」への恐怖に煽られた人間たちの憎しみは、飢えよりも遥かに致命的だった。彼女は激しく殴打され、もはや元の顔が分からないほどに殴り潰されていた。
その瞬間、世界は純紅色に染まった。
マルセリンの魂の中で、何かが決定的に砕け散った。




