第八節 ― 昨日の僕と、今日の僕
最初に聞こえたのは、笑い声だった。
ルカは舵を握ったまま、思わずエルンを見る。
「今、聞こえた?」
「うん」
「人?」
「たぶん」
暗い海の奥で、青と白の灯りが帯のように並んでいる。
近づくにつれ、それが単なる灯火ではないことが分かった。
道だった。
海の中に、道がある。
もちろん石畳ではない。淡い青色の潮流が何本も交差し、その流れに沿って光が並んでいる。住民たちはその潮へ身体を預け、泳ぐというより、流れそのものに運ばれるように移動していた。
「……町だ」
ルカは呟いた。
これまで見てきた深海には、沈んだ船と名札、逆さの鐘、眠る白い花ばかりがあった。暗く、静かで、忘れられたものだけが沈んでいく場所。そんな印象が、目の前の景色で一気に崩れていく。
白珊瑚の家々が並んでいる。
どれも海底へ建っているわけではない。巨大な珊瑚の枝へ抱かれるように、上下も左右も関係なく住居が広がっていた。窓には薄い貝膜が張られ、軒先には小さな潮灯が下がっている。青、緑、淡い紫。家ごとに違う光が灯っていた。
ある場所では、細長い魚を干すように潮流へ吊るしている。別の場所では、大きな貝の中へ料理を盛り、家族らしい者たちが囲んでいた。香りまでは潜名泡の中へ届かない。それでも、湯気のような光が料理の上からゆらゆら立ちのぼっている。
「食事してる」
ルカの声が少し弾んだ。
「うん」
「普通に」
「うん」
「もっとこう……」
「怖いところだと思ってた?」
「ちょっと」
「僕も」
二人で顔を見合わせる。
少しだけ、安心した。
深海は、眠る名だけの墓場ではない。
ここにも朝があり、食事があり、子どもが走り回る。誰かが誰かを叱り、誰かが笑う。ただ、その全部が水の中にある。
ナミル=レイが潮庭集落へ近づくと、住民たちがこちらを見始めた。
ネレイオン。
人に似ている。けれど、同じではない。
耳の後ろに薄い鰭を持つ者。首筋へ細かな鱗が走る者。髪が水草のようにゆらめく者。皮膚が青灰色の者もいれば、淡い真珠色の者もいる。年齢もさまざまだった。
彼らは驚いてはいたが、騒ぎはしなかった。ナミル=レイの周囲にある潜名泡を見て、何か納得したように互いへ声を交わしている。
「なんて言ってる?」
ルカが訊く。
「全部は分からない」
エルンは耳を澄ませた。
「でも……沈み客、みたいな」
「客なんだ」
「たぶん」
「歓迎されてる?」
「珍しがられてる」
「それは分かる」
海の中を帆船が進んでいるのだから、珍しくない方がおかしい。
やがて子どもたちが集まってきた。
五人、七人、十人。
ナミル=レイと並ぶように泳ぎながら、潜名泡の外から中を覗き込んでいる。頬を押しつけるように近づく子までいた。
「近い近い」
ルカが笑い、泡越しに手を振る。
子どもたちも手を振り返した。
その中の一人が、急に前へ出る。
十歳くらいだろうか。薄い水色の髪をして、耳の後ろには半透明の小さな鰭がある。腰には貝殻をいくつも繋いだ飾りを巻いていた。
少年は泡へ掌を当て、何か言った。
「何?」
ルカがエルンを見る。
「入っていいかって」
「この中に?」
「うん」
「入れるの?」
「分からない」
「また?」
「僕に聞かれても」
もっともだった。
ルカが困っているうちに、少年は勝手に入ってきた。
「えっ」
泡の表面が揺れる。
水が流れ込むことはない。少年の身体だけが、するりと膜を通り抜けた。
甲板へ降りると、身体から一瞬だけ水が落ちる。
ばしゃ、と。
それだけだった。
「……入れるんだ」
ルカは目を丸くした。
少年は当然のような顔をしている。
「こんにちは」
言葉は少し変わった響きだったが、通じた。
「こんにちは」
ルカも返す。
少年はナミル=レイの甲板を珍しそうに見回した。帆柱へ触れ、吊られた名札を眺め、最後には船底へ耳を当てる。
「船、怖がってる」
突然そう言った。
「分かるの?」
「うん」
少年は船縁を軽く撫でた。
「でも、ちゃんと名前ある」
ルカは少し驚く。
「名前、聞こえる?」
「少し」
「何て?」
少年は首を傾げた。
「今はナミル=レイ」
今は。
その言い方が引っかかった。
「今は?」
「うん」
少年はあっさり頷き、それから自分の胸へ手を当てた。
「僕は今日は、ルイ=ナ」
「今日は?」
ルカは思わず聞き返した。
少年の方が不思議そうな顔をする。
「うん」
「名前、変わったの?」
「昨日は違った」
「どうして?」
少年はますます不思議そうにした。
「昨日の僕には、昨日の名前があったから」
ルカは黙った。
「……どういうこと?」
「どういうことって?」
「昨日と今日で、別の名前なの?」
「うん」
「じゃあ……」
ルカは少し迷った。
「本当の名前は?」
少年が首を傾げる。
「どれ?」
今度はルカの方が言葉を失った。
「どれって……」
「昨日の?」
「いや」
「もっと前?」
「そうじゃなくて」
ルカは頭を掻いた。
「一番、本当の名前」
少年はさらに困ったような顔をした。
「一番?」
「うん」
「ないよ」
「ない?」
「全部だよ」
あまりにも当然のように言う。
「昨日の僕には昨日の名前が本当だったし、今日はルイ=ナが本当」
「じゃあ明日は?」
「明日にならないと分からない」
少年は、にこっと笑った。
ルカは完全に返す言葉を失った。
「困らせた?」
柔らかな声がした。
泡の外から、大人の女性が入ってくる。
深い青緑の髪。首元には何本もの細い貝紐を下げている。子どもの母親か、それとも集落の大人なのだろう。
「この子、説明が下手で」
「僕、ちゃんと説明した」
「あなたは自分で分かっているからね」
女性が笑うと、少年は少し不満そうに頬を膨らませた。
ルカは助かったように女性を見る。
「本当に、名前って毎日変わるんですか?」
「毎日変える者もいる」
「全員じゃない?」
「もちろん」
女性は甲板へ腰を下ろした。
まるで近所の家へ遊びに来たような自然さだった。
「地上では、名前は一つなの?」
「一つっていうか……」
ルカは少し考える。
「潮名とか仮名とか、いろいろ持つ人はいます。でも、本当の名前は別にあるって考える方が普通です」
「なるほど」
女性は面白そうに頷いた。
「こちらでは、少し違う」
「どう違うんです?」
「名前は、その時の本人へ付くものだから」
女性は少年を見る。
「この子が生まれた頃には幼名があった」
「幼名」
「小さな子に付ける名」
「それは分かります」
「少し育って、自分で潮へ出るようになれば潮名を持つ。成人すれば成人名。誰かと伴侶になれば伴侶名。子を持てば親名。老いれば老名。そして、死ねば死後名」
ルカは目を瞬いた。
「そんなに?」
「もっと持つ者もいるよ」
「じゃあ」
また同じ問いが口から出る。
「どれが本当なんです?」
女性は微笑んだ。
「全部」
即答だった。
「幼名の時は、その子だった」
少年を指す。
「潮名の時は、海へ出るその子」
「成人名なら?」
「大人になったその子」
「伴侶名は?」
「誰かと生きることを選んだその人」
「親名」
「誰かから親として呼ばれるその人」
「老名」
「長く生きたその人」
「死後名は?」
女性の笑みが少しだけ静かになった。
「残された者たちが、死んだその人へ最後に渡す名前」
ルカは黙った。
「昔の名前は、なくならないんですか?」
「なくならない」
「でも、今は使わない?」
「使わないこともある」
「それでも本当?」
「本当だよ」
女性は穏やかに答えた。
「昔の自分が嘘になるわけじゃないから」
胸の奥へ、何かが落ちた。
マレナ=フィル。
古い出生名。
その後、自分で選んだ名前。
どちらか一方だけが本当なのではない。
シアも、そう言っていた。
昔の名前が嘘だったとは言っていない。なかったことにしたいとも言っていない。
ただ、死んだあとで他人が勝手に「こちらが本当だった」と決め直すな、と。
「でも」
ルカは女性を見る。
「昔の名前へ戻すことは?」
「戻したいなら戻せばいい」
「本人が?」
「誰が決めるの?」
逆に訊かれた。
ルカは答えられなかった。
女性は少し不思議そうにする。
「名前って、自分より外の人が本当を決めるの?」
「……場合によっては」
「変わってるね」
悪意はなかった。
本気で文化の違いを面白がっているだけだった。
ルカは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
甲板の下で、ナミル=レイの名札が小さく鳴る。
ちり。
ルイ=ナがその音へ振り向いた。
「この船も、名前変わる?」
「たぶん変わらない」
ルカは答える。
すると少年が訊いた。
「どうして?」
「ナミル=レイだから」
「ずっと?」
「うん」
「船がそうしたいなら?」
ルカは少し考えてから、船縁へ手を置いた。
「そうしたいなら、たぶんずっと」
「じゃあ本当だ」
「え?」
「今、本当」
少年は笑った。
単純な答えだった。
古いから本当ではない。
最初だから本当でもない。
今、その名で呼ばれ、本人がそれへ応える。
だから本当。
「……今、本当」
ルカは小さく繰り返した。
*
その後、ルカとエルンは潮庭集落へ降りた。
潜名泡を一時的に白珊瑚の係留枝へ留め、ナミル=レイには休んでもらう。
「ナミル=レイ」
ルカが呼ぶ。
ちり、と名札が鳴った。
「待っててね」
また、ちり、と返事がある。
船霊も、少しは落ち着いたようだった。
集落は近くで見るほど賑やかだった。
潮流そのものが通りになっている。速い流れ、遅い流れ、子ども用の浅い潮、荷物を運ぶ太い潮。住民たちは身体を少し傾けるだけで流れを選び、それぞれの目的地まで運ばれていく。
「危なくないのかな」
ルカは流れの前で足を止めた。
「乗る?」
エルンが訊く。
「ちょっと怖い」
「僕も」
二人で立ち尽くしていると、先ほどの少年が後ろから突っ込んできた。
「行くよ!」
「え?」
背中を押される。
「わあっ!」
三人まとめて青い潮へ乗った。
身体が浮く。
水の中なのに、息はできる。潜名泡の外へ出ているはずなのに、苦しくない。
「え、なにこれ!」
「潮庭だから!」
「説明になってない!」
少年は笑う。
エルンまで笑っていた。
流れが曲がる。
白珊瑚の家々が横へ流れていく。
青い潮灯。市場。貝皿に盛られた細い魚。半透明の海藻菓子。丸い殻へ詰めた蒸し料理。水中なのに、火のような赤い光で煮込まれている鍋まである。
「おいしそう」
ルカが思わず言う。
「食べる?」
少年が訊く。
「いいの?」
「お金ある?」
「深海のお金はない」
「じゃあだめ」
「現実的!」
近くの店主が笑った。
子どもたちも笑う。
ルカも笑った。
こんな場所に、こんな日常がある。
海面から見れば、ただ暗い底。
名前が沈み、忘れられたものが行き着く場所。
けれど、ここで生きている者たちにとっては、ただの家なのだ。
市場の向こうでは、小さな子どもたちが光る貝を投げ合って遊んでいた。誰かが転び、笑い、泣き、別の子が手を引く。少し離れたところから母親らしい者が名を呼ぶと、呼ばれた子がすぐに振り向いた。
その名前は、さっき聞いたものとは違っていた。
ルカは思わずそちらを見る。
「また違う名前」
「今は家の名前」
ルイ=ナが言った。
「家の名前?」
「お母さんが呼ぶ時の」
「それも本当?」
「うん」
もう、さっきほど驚かなかった。
「すごいなあ」
「何が?」
「名前がいっぱいあっても、迷わないんだね」
少年は首を傾げる。
「なんで迷うの?」
「どれが自分か分からなくならない?」
「全部僕だから」
また。
当たり前のように答える。
ルカは歩みを止めた。
エルンが気づく。
「ルカ?」
「ううん」
海面のメルナ=レイを思い出していた。
シア。
胸へ抱いた遺品札。
消えかけた《マレナ=フィル》。
昔の出生名が還ってきたことで、周囲が勝手に「本当」を塗り替え始めた。
昔の名も本当。
マレナ=フィルも本当。
なら問題は、どちらが本当かではない。
誰が、いつ、どの名で生きるのか。
それを決める権利が、誰にあるのか。
――母さんが捨てた名前を、死んだあとで勝手に本当へ戻さないで。
シアの声が、胸の奥で蘇る。
「ルカ」
エルンがもう一度呼んだ。
「うん」
「大丈夫?」
「大丈夫」
ルカは答えてから、少し笑った。
「ただ、分かった気がしただけ」
「何が?」
すぐには答えず、代わりにエルンの名を呼んだ。
「エルン=カイオ」
少年が振り向く。
「なに?」
「ううん」
もう一度。
「エルン=カイオ」
「だから、なに?」
「ちゃんと今日のエルンだなって」
少年が眉を寄せた。
「昨日もエルンだった」
「そうだね」
「たぶん明日も」
「それなら、それも本当」
ルカが笑う。
エルンは少し考えてから、今度は彼女の名を呼んだ。
「ルカ=ネリス」
「はい」
ルカは振り向く。
「今日のルカ?」
「今日のルカ」
「昨日は?」
「昨日もたぶんルカ」
「明日は?」
「明日にならないと分からない」
さっきの少年の言葉を真似る。
エルンが少し笑った。
ルカも笑う。
胸の奥で、四つの潮真名がかすかに鳴った。
それは、本当の名前へ続いているのかもしれない。
そうではないのかもしれない。
いつか七つすべてが揃えば、自分が失ったもっと古い名へ辿り着くのかもしれない。
それでも、その時《ルカ=ネリス》まで嘘になるとは限らない。
古い名が本物なら、今の名が偽物になる。そんなふうに、どちらか一つだけを選ばなければならないわけではないのかもしれなかった。
ルカ=ネリスと呼ばれれば、今の自分は振り向く。
その名前で出会った人がいる。
その名前で笑い、怒り、迷い、海へ出てきた。
それもまた、自分が生きた時間だった。
その考えは、まだ小さかった。
確信と呼べるほど強くもなく、少し潮が乱れれば消えてしまいそうなほど頼りない。
それでも、四つの響きが胸の奥で鳴るたびに、《ルカ=ネリス》という今の名も消えずにそこにある。
潮は古い名だけを覚えているわけではない。
呼ばれ、応え、生きられた名前もまた、確かにその人の中へ残っていく。
ルカはまだ、そのことを答えにはしなかった。
ただ今日の自分の名を胸へ置いたまま、賑やかな潮庭集落をエルンと並んで歩いた。
その足元を流れる潮に、小さな波紋が一つ、静かに残っていた。




