第七節 ― ナミル=レイを呼び続ける
深くなるほど、ナミル=レイは静かになった。
最初に気づいたのは、ルカではなくエルンだった。
「ルカ」
「ん?」
「ナミル、変」
ルカは舵輪から手を離さず、船内を見回した。
帆は張っている。船体にも目立った異常はない。潜名泡は安定しており、透明な曲面の向こうには暗い水が広がり、遠くで青白い深海生物の灯がいくつか瞬いていた。
「どこが?」
「音」
エルンは耳を澄ませる。
ルカも聞いた。
帆布が鳴る。縄が軋む。船底を空気が撫でるような、潜名泡特有の低い震え。
それだけだった。
「……あ」
ようやく気づく。
名札が鳴っていない。
ナミル=レイの両舷には、これまで拾い、預かり、還してきた無数の名札が吊られている。普通なら風が吹けば、ちり、から、と乾いた音を立てる。時には一枚だけが強く鳴り、船霊の意思を伝えてくれる。
今は、一枚も鳴っていなかった。
「風あるのに」
ルカは船縁へ近づき、そこでさらに異常へ気づいた。
「……下?」
名札が垂れている。
普通なら紐へ吊られた札は、風に合わせて甲板側へ揺れる。潜名泡へ入った直後から多少船底へ引かれる癖はあったが、今はそんな程度ではなかった。
すべての札が、まっすぐ下を向いている。
紐まで伸びきっている。
水の重さに引かれているのではない。
何かに呼ばれているように、船底のさらに下、暗い方へ向かっている。
「やだなあ、これ」
ルカは一枚を持ち上げ、手を離した。
ぱた、と札はすぐに戻った。
下へ。
「ナミル」
船体を軽く叩く。
返事はない。
「ナミル=レイ?」
いつもなら、どこかの名札が鳴る。帆が揺れる。名灯が瞬く。何かしら返ってくる。
今は、何もない。
ルカの胸へ嫌な重さが落ちた。
「止める?」
エルンが訊く。
「どこに?」
答えながら、ルカは周囲を見た。
止める場所などない。
海底すら見えない。
暗闇と、沈んだ名の流れ。その先には眠る方向があり、閉じる方向があり、今のナミル=レイはその途中を進んでいる。
「少し、浮く方へ戻れる?」
「戻れると思う」
「じゃあ――」
言いかけた時、船首の名灯が動いた。
光そのものが、下へ曲がった。
「え」
ルカは目を見開く。
名灯は船首へ取りつけられている。漂着名や還るべき祈りへ反応し、進路の先を淡く照らす小さな灯籠だ。
今、その光は船首を照らしていなかった。
灯籠の中の青白い光が細い筋となって船腹を伝い、船底へ向かっている。
「ナミル!」
ルカは舵をエルンへ任せ、船首へ走った。
名灯へ手を触れる。
冷たい。
けれど、いつもの冷たさではない。
深い。
触れた指先から、船そのものがずっと下へ引かれているような感覚が伝わってきた。
「こっち見て」
ルカは灯籠を両手で包んだ。
「下じゃない。私、こっち」
光は戻らない。
「ナミル=レイ」
呼ぶ。
かすかな震えだけが返った。
「聞こえてる?」
もう一度。
「ナミル=レイ」
船体が、ごく小さく軋んだ。
痛がっているような音だった。
「ルカ」
エルンの声が低くなる。
「これ」
彼は船尾側を指していた。
ルカが振り返る。
白い船体。真珠色の船腹。青緑の潮紋。
そして、その中央に記された船名。
《ナミル=レイ》
ルカの足が止まった。
「……薄い」
文字の端が、消えかけていた。
塗料が剥げたのではない。
潮に削られたわけでもない。
名前そのものの輪郭が、少しずつ白い船体へ溶けている。
「嘘」
ルカは駆け寄り、指で文字をなぞった。
触れられる。
刻まれている。
それなのに、目を離すと輪郭が曖昧になる。
最初の《ナ》の端。《レイ》の最後。
まるで、名前を思い出せなくなっていくように。
「ナミル=レイ」
呼ぶ。
文字がほんのわずかに濃くなった。
ルカは息を止める。
「今、戻った?」
「少し」
エルンも見ていた。
「もう一回」
「ナミル=レイ」
今度は、はっきり。
最後の文字がかすかに光る。
それでも、しばらくするとまた薄くなり始めた。
「呼んでないと消える?」
ルカは船体へ掌を当てた。
「そんなの駄目」
少し強く叩く。
「ナミル=レイ」
とん、と船体が鳴る。
「ナミル=レイ」
もう一度。
船霊の返事はない。
けれど、文字が薄れる速度は止まった。
「僕も呼ぶ」
エルンが言った。
「うん」
二人で船体を挟む。
「ナミル=レイ」
エルンの声。
「ナミル=レイ」
ルカの声。
交互に呼ぶ。
「ナミル=レイ」
「ナミル=レイ」
最初は何も起きなかった。
暗い水。
静かな船。
名灯は下を向いたまま。
名札も、垂れ下がったままだ。
それでも呼び続ける。
「ナミル=レイ」
「ナミル=レイ」
ルカは船縁を叩いた。
「聞こえてるなら、返事して」
とん、と音が返る。
「ナミル=レイ」
「ナミル=レイ」
やがて――ちり、と、ごく小さな音がした。
二人が同時に止まる。
「今」
「うん」
船尾。
名札が一枚だけ揺れていた。
風ではない。
本当にほんの少しだけ。
ちり。
「ナミル!」
ルカは笑った。
「いる!」
もう一枚が揺れる。
ちり。
続いて、別の一枚。
ちり。
大きな音ではない。いつものような賑やかな響きでもない。
それでも確かに、船霊が答えている。
「ナミル=レイ」
ルカが呼ぶ。
ちり。
「ナミル=レイ」
エルンも呼ぶ。
ちり。
名灯の光が、わずかに船首へ戻った。
完全ではない。まだ船底側へ引かれている。それでも、さっきより前を向いている。
ルカは船体へ額をつけた。
「びっくりさせないでよ」
ちり。
「怖かった?」
返事はない。
けれど、名札が小さく震えた。
「……怖いよね」
当たり前だった。
ナミル=レイは海面の船だ。
名を運び、星を読み、還る名を海へ送る。
深い場所へ降りるための船ではない。
まして、名前そのものが沈んでいく海など。
「ごめんね」
ルカは船縁を撫でた。
「私が行くって決めたから」
ちり、と一枚鳴る。
「でも」
そこで手を止めた。
「一緒に来てほしい」
名札は鳴らなかった。
少し間があってから、帆がほんのわずかに膨らんだ。
「……うん」
ルカは笑う。
「ありがと」
少し離れたところで、エルンが船名を見つめていた。
「どうして薄くなったのかな」
「深いから?」
「名前が引っ張られてるって言ってたよね」
「うん」
「ナミルも?」
「たぶん」
エルンは文字へ触れず、見るだけだった。
「船も、名前で自分を保ってるから」
ルカが顔を上げる。
「船も?」
「ナミル=レイって呼ばれるから」
「船霊がいるから?」
「それもあると思う。でも、それだけじゃなくて」
「何?」
「ずっと呼ばれてきたから」
静かな言い方だった。
「ルカが」
胸の奥へ、何かが引っかかった。
「私が?」
「うん」
「ナミル、って?」
「ナミル=レイ」
ルカは船体を見る。
この船を手に入れてから、何度その名前を呼んだだろう。
出航する時。
帰港する時。
嵐の夜。
迷った時。
漂着名を見つけた時。
舵を預ける時。
眠る前。
朝。
そして、何でもない時。
家へ戻ったような気持ちで。
「呼んでるから、残る?」
「たぶん」
ルカは小さく笑った。
「今回の『たぶん』は好きかも」
エルンも少しだけ笑う。
その笑みは長く続かなかった。
さらに深くなると、船名がまた薄れ始めた。
「また!」
ルカはすぐに船縁を叩く。
「ナミル=レイ!」
エルンも続いた。
「ナミル=レイ!」
ちり、と返事がある。
今度は早い。
「よし」
ルカは舵へ戻った。
進む。
呼ぶ。
「ナミル=レイ」
帆を調整する。
「ナミル=レイ」
その横で、エルンが道を読む。
「次、眠る」
「了解。ナミル=レイ、左へ」
ちり。
「次は閉じる」
「ナミル=レイ、真っ直ぐ」
ちり。
いつしか、船名を呼ぶことそのものが航海の一部になっていた。
舵を切る。
帆を張る。
名を呼ぶ。
船が答える。
そして、また進む。
深海は名前の古さを量っているようにも思えた。
本当の名。
古い名。
捨てられた名。
眠る名。
封じられた名。
そうしたものほど深いのなら、《ナミル=レイ》という名前はどれほど古いのだろう。
神代から続く真名ではない。
古代文明の名でもない。
この小さな白い船が、今の船になってから与えられた名前だ。
それでも、
「ナミル=レイ」
ちり、と返事をする。
呼ばれれば、振り向く。
「……それでいいんだ」
ルカが呟いた。
「何が?」
エルンが訊く。
「いや」
ルカは舵を握ったまま笑う。
「なんとなく」
本当の名前ではないから弱い。
古い名前ではないから偽物。
そんなことはない。
今ここで、何度呼ばれても同じ船が応える。
それなら、その名前は確かにこの船を支えている。
少なくとも、今は。
ルカの手が、無意識に胸元へ触れた。
そこには潮紙が入っている。
《ルカ=ネリス》
それも、本当の真名ではない。
少なくとも、自分ではそう思っている。
それでも。
「エルン」
「うん」
「私の名前、呼んでみて」
少年が不思議そうな顔をした。
「今?」
「うん」
「ルカ=ネリス」
呼ばれた。
ルカは振り向く。
「はい」
あまりにも普通に返事をしてから、自分で少し笑った。
「何?」
「ちゃんといるなって」
「ルカが?」
「うん」
エルンは理解したような、していないような顔をする。
「じゃあ」
今度はルカが言った。
「エルン=カイオ」
「うん」
エルンも、すぐに答えた。
二人とも、ここにいる。
「ナミル=レイ」
二人で呼ぶ。
ちりん。
今度は少し大きな音が返った。
名灯の光が船首へ戻り、船名の文字も完全ではないながら輪郭を取り戻している。
ナミル=レイは進んだ。
暗い海を。
星のない海を。
自分の名さえ引き剥がされそうな深さを。
ルカとエルンが呼ぶたび、小さく返事をしながら。
ここまで沈めば、名が古いか新しいかなど、もう大したことではないのかもしれない。誰が最初につけたのか、どれほど長く使われてきたのかよりも、今その名で呼ばれ、今それに応じられることの方が、ずっと強く二人と一隻を繋いでいる。
少なくともルカには、そう思えた。
ルカ=ネリス。
エルン=カイオ。
ナミル=レイ。
それぞれに、まだ分からない過去がある。もっと古い名があるのかもしれないし、知らない由来が残っているのかもしれない。
それでも今、三つの名前は深い海の中で互いを呼び合うことができる。
それだけで、ここでは十分だった。
しばらくして、エルンが前方を見た。
「ルカ」
「うん」
「灯り」
暗闇のずっと先。
一つ。
二つ。
青い光が見えた。
深海魚の灯ではない。
規則正しく、横へ並んでいる。
ナミル=レイが近づくにつれ、青だけではなく、白や淡い緑の光も見え始めた。それらは闇の奥へ途切れることなく連なり、まるで深い海の底へ、誰かが道を作っているようだった。
「町……?」
ルカは目を細める。
この深さに、人の暮らす場所があるというだけでも信じがたい。それでも、灯りは自然のものには見えなかった。間隔も高さも揃い、ところどころには窓のような四角い光まで浮かんでいる。
エルンはしばらく見つめてから、ゆっくり頷いた。
「たぶん」
潮の底に、人の暮らす灯りがある。
その事実をまだ飲み込めないまま、ルカは舵輪を握り直した。
ナミル=レイの名札が、かすかに鳴る。
ちり。
深い海に怯えながらも、船はまだ前を向いている。
「ナミル=レイ」
ルカはもう一度、その名を呼んだ。
ちりん、と返事があった。
今度の音は、確かに前へ進むためのものだった。




