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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第9話 沈んだ名は、還らないまま眠っていた
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第七節 ― ナミル=レイを呼び続ける

 深くなるほど、ナミル=レイは静かになった。


 最初に気づいたのは、ルカではなくエルンだった。


「ルカ」


「ん?」


「ナミル、変」


 ルカは舵輪から手を離さず、船内を見回した。


 帆は張っている。船体にも目立った異常はない。潜名泡は安定しており、透明な曲面の向こうには暗い水が広がり、遠くで青白い深海生物の灯がいくつか瞬いていた。


「どこが?」


「音」


 エルンは耳を澄ませる。


 ルカも聞いた。


 帆布が鳴る。縄が軋む。船底を空気が撫でるような、潜名泡特有の低い震え。


 それだけだった。


「……あ」


 ようやく気づく。


 名札が鳴っていない。


 ナミル=レイの両舷には、これまで拾い、預かり、還してきた無数の名札が吊られている。普通なら風が吹けば、ちり、から、と乾いた音を立てる。時には一枚だけが強く鳴り、船霊の意思を伝えてくれる。


 今は、一枚も鳴っていなかった。


「風あるのに」


 ルカは船縁へ近づき、そこでさらに異常へ気づいた。


「……下?」


 名札が垂れている。


 普通なら紐へ吊られた札は、風に合わせて甲板側へ揺れる。潜名泡へ入った直後から多少船底へ引かれる癖はあったが、今はそんな程度ではなかった。


 すべての札が、まっすぐ下を向いている。


 紐まで伸びきっている。


 水の重さに引かれているのではない。


 何かに呼ばれているように、船底のさらに下、暗い方へ向かっている。


「やだなあ、これ」


 ルカは一枚を持ち上げ、手を離した。


 ぱた、と札はすぐに戻った。


 下へ。


「ナミル」


 船体を軽く叩く。


 返事はない。


「ナミル=レイ?」


 いつもなら、どこかの名札が鳴る。帆が揺れる。名灯が瞬く。何かしら返ってくる。


 今は、何もない。


 ルカの胸へ嫌な重さが落ちた。


「止める?」


 エルンが訊く。


「どこに?」


 答えながら、ルカは周囲を見た。


 止める場所などない。


 海底すら見えない。


 暗闇と、沈んだ名の流れ。その先には眠る方向があり、閉じる方向があり、今のナミル=レイはその途中を進んでいる。


「少し、浮く方へ戻れる?」


「戻れると思う」


「じゃあ――」


 言いかけた時、船首の名灯が動いた。


 光そのものが、下へ曲がった。


「え」


 ルカは目を見開く。


 名灯は船首へ取りつけられている。漂着名や還るべき祈りへ反応し、進路の先を淡く照らす小さな灯籠だ。


 今、その光は船首を照らしていなかった。


 灯籠の中の青白い光が細い筋となって船腹を伝い、船底へ向かっている。


「ナミル!」


 ルカは舵をエルンへ任せ、船首へ走った。


 名灯へ手を触れる。


 冷たい。


 けれど、いつもの冷たさではない。


 深い。


 触れた指先から、船そのものがずっと下へ引かれているような感覚が伝わってきた。


「こっち見て」


 ルカは灯籠を両手で包んだ。


「下じゃない。私、こっち」


 光は戻らない。


「ナミル=レイ」


 呼ぶ。


 かすかな震えだけが返った。


「聞こえてる?」


 もう一度。


「ナミル=レイ」


 船体が、ごく小さく軋んだ。


 痛がっているような音だった。


「ルカ」


 エルンの声が低くなる。


「これ」


 彼は船尾側を指していた。


 ルカが振り返る。


 白い船体。真珠色の船腹。青緑の潮紋。


 そして、その中央に記された船名。


《ナミル=レイ》


 ルカの足が止まった。


「……薄い」


 文字の端が、消えかけていた。


 塗料が剥げたのではない。


 潮に削られたわけでもない。


 名前そのものの輪郭が、少しずつ白い船体へ溶けている。


「嘘」


 ルカは駆け寄り、指で文字をなぞった。


 触れられる。


 刻まれている。


 それなのに、目を離すと輪郭が曖昧になる。


 最初の《ナ》の端。《レイ》の最後。


 まるで、名前を思い出せなくなっていくように。


「ナミル=レイ」


 呼ぶ。


 文字がほんのわずかに濃くなった。


 ルカは息を止める。


「今、戻った?」


「少し」


 エルンも見ていた。


「もう一回」


「ナミル=レイ」


 今度は、はっきり。


 最後の文字がかすかに光る。


 それでも、しばらくするとまた薄くなり始めた。


「呼んでないと消える?」


 ルカは船体へ掌を当てた。


「そんなの駄目」


 少し強く叩く。


「ナミル=レイ」


 とん、と船体が鳴る。


「ナミル=レイ」


 もう一度。


 船霊の返事はない。


 けれど、文字が薄れる速度は止まった。


「僕も呼ぶ」


 エルンが言った。


「うん」


 二人で船体を挟む。


「ナミル=レイ」


 エルンの声。


「ナミル=レイ」


 ルカの声。


 交互に呼ぶ。


「ナミル=レイ」


「ナミル=レイ」


 最初は何も起きなかった。


 暗い水。


 静かな船。


 名灯は下を向いたまま。


 名札も、垂れ下がったままだ。


 それでも呼び続ける。


「ナミル=レイ」


「ナミル=レイ」


 ルカは船縁を叩いた。


「聞こえてるなら、返事して」


 とん、と音が返る。


「ナミル=レイ」


「ナミル=レイ」


 やがて――ちり、と、ごく小さな音がした。


 二人が同時に止まる。


「今」


「うん」


 船尾。


 名札が一枚だけ揺れていた。


 風ではない。


 本当にほんの少しだけ。


 ちり。


「ナミル!」


 ルカは笑った。


「いる!」


 もう一枚が揺れる。


 ちり。


 続いて、別の一枚。


 ちり。


 大きな音ではない。いつものような賑やかな響きでもない。


 それでも確かに、船霊が答えている。


「ナミル=レイ」


 ルカが呼ぶ。


 ちり。


「ナミル=レイ」


 エルンも呼ぶ。


 ちり。


 名灯の光が、わずかに船首へ戻った。


 完全ではない。まだ船底側へ引かれている。それでも、さっきより前を向いている。


 ルカは船体へ額をつけた。


「びっくりさせないでよ」


 ちり。


「怖かった?」


 返事はない。


 けれど、名札が小さく震えた。


「……怖いよね」


 当たり前だった。


 ナミル=レイは海面の船だ。


 名を運び、星を読み、還る名を海へ送る。


 深い場所へ降りるための船ではない。


 まして、名前そのものが沈んでいく海など。


「ごめんね」


 ルカは船縁を撫でた。


「私が行くって決めたから」


 ちり、と一枚鳴る。


「でも」


 そこで手を止めた。


「一緒に来てほしい」


 名札は鳴らなかった。


 少し間があってから、帆がほんのわずかに膨らんだ。


「……うん」


 ルカは笑う。


「ありがと」


 少し離れたところで、エルンが船名を見つめていた。


「どうして薄くなったのかな」


「深いから?」


「名前が引っ張られてるって言ってたよね」


「うん」


「ナミルも?」


「たぶん」


 エルンは文字へ触れず、見るだけだった。


「船も、名前で自分を保ってるから」


 ルカが顔を上げる。


「船も?」


「ナミル=レイって呼ばれるから」


「船霊がいるから?」


「それもあると思う。でも、それだけじゃなくて」


「何?」


「ずっと呼ばれてきたから」


 静かな言い方だった。


「ルカが」


 胸の奥へ、何かが引っかかった。


「私が?」


「うん」


「ナミル、って?」


「ナミル=レイ」


 ルカは船体を見る。


 この船を手に入れてから、何度その名前を呼んだだろう。


 出航する時。


 帰港する時。


 嵐の夜。


 迷った時。


 漂着名を見つけた時。


 舵を預ける時。


 眠る前。


 朝。


 そして、何でもない時。


 家へ戻ったような気持ちで。


「呼んでるから、残る?」


「たぶん」


 ルカは小さく笑った。


「今回の『たぶん』は好きかも」


 エルンも少しだけ笑う。


 その笑みは長く続かなかった。


 さらに深くなると、船名がまた薄れ始めた。


「また!」


 ルカはすぐに船縁を叩く。


「ナミル=レイ!」


 エルンも続いた。


「ナミル=レイ!」


 ちり、と返事がある。


 今度は早い。


「よし」


 ルカは舵へ戻った。


 進む。


 呼ぶ。


「ナミル=レイ」


 帆を調整する。


「ナミル=レイ」


 その横で、エルンが道を読む。


「次、眠る」


「了解。ナミル=レイ、左へ」


 ちり。


「次は閉じる」


「ナミル=レイ、真っ直ぐ」


 ちり。


 いつしか、船名を呼ぶことそのものが航海の一部になっていた。


 舵を切る。


 帆を張る。


 名を呼ぶ。


 船が答える。


 そして、また進む。


 深海は名前の古さを量っているようにも思えた。


 本当の名。


 古い名。


 捨てられた名。


 眠る名。


 封じられた名。


 そうしたものほど深いのなら、《ナミル=レイ》という名前はどれほど古いのだろう。


 神代から続く真名ではない。


 古代文明の名でもない。


 この小さな白い船が、今の船になってから与えられた名前だ。


 それでも、


「ナミル=レイ」


 ちり、と返事をする。


 呼ばれれば、振り向く。


「……それでいいんだ」


 ルカが呟いた。


「何が?」


 エルンが訊く。


「いや」


 ルカは舵を握ったまま笑う。


「なんとなく」


 本当の名前ではないから弱い。


 古い名前ではないから偽物。


 そんなことはない。


 今ここで、何度呼ばれても同じ船が応える。


 それなら、その名前は確かにこの船を支えている。


 少なくとも、今は。


 ルカの手が、無意識に胸元へ触れた。


 そこには潮紙が入っている。


《ルカ=ネリス》


 それも、本当の真名ではない。


 少なくとも、自分ではそう思っている。


 それでも。


「エルン」


「うん」


「私の名前、呼んでみて」


 少年が不思議そうな顔をした。


「今?」


「うん」


「ルカ=ネリス」


 呼ばれた。


 ルカは振り向く。


「はい」


 あまりにも普通に返事をしてから、自分で少し笑った。


「何?」


「ちゃんといるなって」


「ルカが?」


「うん」


 エルンは理解したような、していないような顔をする。


「じゃあ」


 今度はルカが言った。


「エルン=カイオ」


「うん」


 エルンも、すぐに答えた。


 二人とも、ここにいる。


「ナミル=レイ」


 二人で呼ぶ。


 ちりん。


 今度は少し大きな音が返った。


 名灯の光が船首へ戻り、船名の文字も完全ではないながら輪郭を取り戻している。


 ナミル=レイは進んだ。


 暗い海を。


 星のない海を。


 自分の名さえ引き剥がされそうな深さを。


 ルカとエルンが呼ぶたび、小さく返事をしながら。


 ここまで沈めば、名が古いか新しいかなど、もう大したことではないのかもしれない。誰が最初につけたのか、どれほど長く使われてきたのかよりも、今その名で呼ばれ、今それに応じられることの方が、ずっと強く二人と一隻を繋いでいる。


 少なくともルカには、そう思えた。


 ルカ=ネリス。


 エルン=カイオ。


 ナミル=レイ。


 それぞれに、まだ分からない過去がある。もっと古い名があるのかもしれないし、知らない由来が残っているのかもしれない。


 それでも今、三つの名前は深い海の中で互いを呼び合うことができる。


 それだけで、ここでは十分だった。


 しばらくして、エルンが前方を見た。


「ルカ」


「うん」


「灯り」


 暗闇のずっと先。


 一つ。


 二つ。


 青い光が見えた。


 深海魚の灯ではない。


 規則正しく、横へ並んでいる。


 ナミル=レイが近づくにつれ、青だけではなく、白や淡い緑の光も見え始めた。それらは闇の奥へ途切れることなく連なり、まるで深い海の底へ、誰かが道を作っているようだった。


「町……?」


 ルカは目を細める。


 この深さに、人の暮らす場所があるというだけでも信じがたい。それでも、灯りは自然のものには見えなかった。間隔も高さも揃い、ところどころには窓のような四角い光まで浮かんでいる。


 エルンはしばらく見つめてから、ゆっくり頷いた。


「たぶん」


 潮の底に、人の暮らす灯りがある。


 その事実をまだ飲み込めないまま、ルカは舵輪を握り直した。


 ナミル=レイの名札が、かすかに鳴る。


 ちり。


 深い海に怯えながらも、船はまだ前を向いている。


「ナミル=レイ」


 ルカはもう一度、その名を呼んだ。


 ちりん、と返事があった。


 今度の音は、確かに前へ進むためのものだった。

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