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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第9話 沈んだ名は、還らないまま眠っていた
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第六節 ― 海の中を、帆船が沈む

 沈都潜航路の入口は、海図にはなかった。


 目印になる岩礁もなければ、渦が巻いているわけでもない。海面の色が変わることさえなかった。


 メルナ=レイを離れてしばらく。港が水平線の向こうへ消え、周囲から他の船影も見えなくなった頃、エルンが突然言った。


「止めて」


 ルカはすぐに帆綱を緩めた。


 ナミル=レイがゆっくりと速度を落とす。


「ここ?」


「うん」


 見渡しても、海しかない。


 穏やかな午後の水面。雲は少なく、陽は高い。風もあり、海鳥まで飛んでいる。


「普通の海だけど」


「上は」


 エルンが答えた。


「上?」


「今見えてるのは、上の海」


 ルカは眉を寄せる。


「じゃあ、下にも海があるみたいな言い方だね」


「ある」


 即答された。


「あるんだ……」


 冗談のつもりだった。


 ルカは船縁から身を乗り出し、水面を覗き込む。陽光が揺れ、その下へ青が深く落ちている。それ以上は何も見えない。


 潮鏡を出してもいい。星砂盤を使ってもいい。普段ならそうしていただろう。


 けれど、エルンは何の道具も使わず、水面へ手を伸ばした。


「ここから眠ってる」


「海が?」


「名前が」


 指先が水へ触れる。


 小さな波紋が広がった。


 その瞬間、ナミル=レイの両舷に吊られた名札が、一斉に止まった。


「……え?」


 風は吹いている。帆も揺れている。縄も軋んでいる。


 なのに、名札だけが動かない。


 次の瞬間、かちり、と音がした。


 すべての札が同時に下を向く。


 重力に従って垂れたのではない。紐ごと船底へ引かれるように、はっきりと傾いていた。


「ナミル?」


 ルカが船縁へ手を触れる。


 船霊も戸惑っているのか、名灯が弱く瞬いた。


 エルンは水面から手を離さない。


「来る」


「何が?」


「道」


 海が静かになった。


 波が消えたわけではない。


 音だけが遠ざかっていく。


 風も、海鳥も、帆の鳴る音も、船体の軋みも。すべてが薄い膜の向こうへ移ってしまったように、小さくなる。


 ルカは息を止めた。


 ナミル=レイの周囲で、海面が丸くへこんだ。


「うそ」


 最初は船の重さで沈み始めたのかと思った。


 違う。


 水そのものが避けている。


 船体の周囲だけを囲むように、透明な曲面が生まれていく。甲板を越え、帆柱の先まで包み込み、船首から船尾までナミル=レイ全体を覆う巨大な泡へ形を変えていった。


 ただし、泡の中へ空気が入ったのではない。


 もともと船がいた海面そのものが、丸ごと切り取られている。


「潜名泡……」


 ルカは、古い航海記録で見た言葉を思い出した。


 そこには詳しい説明などなかった。


 ――沈名は水に沈まず。


 ――沈むべき名の周囲に、水面を携える。


 子どもの頃は、何を言っているのか分からなかった。


 今なら分かる。


「これが……」


 潜名泡の外側へ海水がせり上がり、透明な壁の向こうで甲板より高くなった。


「エルン」


「うん」


「これ、沈んでる?」


「まだ」


「まだ?」


 ぞくりとした。


 水面が船縁を越え、ルカの頭より高くなり、さらに帆柱の中ほどへ達していく。


 それでもナミル=レイは濡れていない。


 甲板は乾いたまま。


 帆には風まである。


 外にはもう、風などないはずなのに。


「どうなってるの……」


 泡の内側だけに、海面の環境が残っている。


 海の中なのに、船は海の上にいる。


 その矛盾を抱えたまま、ナミル=レイはゆっくりと沈み始めた。


「うわ……」


 ルカは船縁を握る。


 身体が浮く感覚はなかった。落下しているわけでもない。


 ただ、世界の方が上へ昇っていく。


 海面が遠ざかる。


 水越しの空。青。白い雲。太陽。


 それらが頭上へ少しずつ離れていった。


 最初は手を伸ばせば届きそうだったものが、やがて家の屋根ほどの高さになり、鐘楼ほど、崖ほど遠ざかり、ついには空そのものが明るい円へ変わっていく。


「……きれい」


 怖いのに、言葉が漏れた。


 陽光が海中へ細い柱となって差し込み、その中を小魚の群れが銀色に横切っていく。


 ナミル=レイの帆は、まだ張ったままだ。


 名札は下を向き、かすかに揺れている。


 甲板には風がある。


 そのすぐ外側には、何百、何千という水の重みがある。


「変な感じ」


「うん」


「泳いでる魚より、私たちの方がおかしい」


「たぶん」


「また、たぶん」


 エルンが少しだけ笑った。


 数十メートル。


 百メートル。


 さらに深く。


 ルカには、もう正確な深さが分からなかった。


 星潮航法なら、本来、位置を失うことなどない。空の星と海。その二つさえ見えれば、自分がどこにいるかを読める。


 けれど今、頭上の空は水の向こうへ消えつつあった。


 星など見えない。


 昼だからではない。


 もう、空そのものが届かなくなり始めている。


 ルカは星潮羅針盤を取り出した。


 針は回っていた。


 北。


 南。


 東。


 西。


 一周して、また一周。


「……壊れた?」


「違うと思う」


「じゃあ、迷ってる?」


「ここ、北とか南が薄い」


「方角が薄いって何」


「名前みたいに」


「その例え、今の私には難しい」


 ルカは潮鏡も取り出した。


 浅い鏡へ海水を張る。


 普段なら水面へ空の星の位置が現れるはずだった。


 今は、真っ黒だった。


 自分の顔すら映らない。


「本当に使えない……」


 今まで何度も助けられてきた道具。


 星。


 潮。


 海図。


 その全部が、ここでは沈黙している。


 ルカは初めて、完全に現在地を失った。


「エルン」


「うん」


「今どこ?」


 少年は少し考えた。


「入口の下」


「それ、場所の説明として最低点だよ」


「ごめん」


「でもたぶん、今はそれしかないんだよね」


「うん」


 ルカは羅針盤をしまい、潮鏡にも布をかけた。


 使えないものへ執着しても仕方がない。


「じゃあ」


 舵の前から一歩退く。


「お願いします」


 エルンが目を瞬いた。


「何を?」


「道」


「僕が?」


「他に読める人いる?」


 周囲を見回す。


 もちろん二人しかいない。


 ナミル=レイが、ちり、と小さく名札を鳴らした。


「ナミルもいるけど」


「ナミルも分からないと思う」


「だよね」


 ルカは舵輪へ手を添えたまま、エルンを見る。


「どっち?」


 少年は泡の外へ視線を向けた。


 水。


 暗い青。


 まだ陽光の届く場所。その下には青緑があり、さらに奥は紺へ沈んでいる。


 そのどこにも、道らしいものなど見えない。


 エルンが目を閉じた。


「少し、浮く」


「上?」


「違う」


「……ああ」


 ルカはすぐに言い直す。


「呼ばれる方?」


「うん」


 エルンが斜め前方を指した。


 物理的には下へ進んでいるように見える。


 けれど、彼にとってはそこが「浮く」方向なのだ。


「右へ」


「右はあるんだ?」


「今は」


「今は?」


「あとでなくなるかも」


「先に言わないでほしかったなあ」


 ルカは帆を調整した。


 不思議なことに、泡の中の風が帆を押す。


 ナミル=レイは海中を横へ滑り、小魚の群れが驚いて散った。


「……本当に帆船で海の中を走ってる」


 口にすると、ますます異常だった。


 深くなるにつれて、光の色が変わっていく。


 やがて太陽の青ではない光が見え始めた。


 生き物の灯。


 最初に現れたのは、小さな魚だった。


 透明な身体の腹の奥へ、一列の青白い灯が並んでいる。


 十匹。


 百匹。


 群れがナミル=レイの周囲を巡り、暗い海の中へ小さな星空を作っていく。


「星、あるじゃん」


 ルカが言った。


「魚」


「分かってる。気分の問題」


 青い群れが去ると、次に現れたのは長い尾を引く生き物だった。


 頭部だけが淡く光っている。潜名泡へ近づくと、ナミル=レイの名札へ反応するように光が強くなった。


 エルンが手を上げる。


「触らない方がいい」


「触れないよ。水の向こうだし」


「名前を食べるかもしれない」


「もっと早く言って」


 ルカは反射的に泡の中心へ寄った。


 そのまま、さらに沈む。


 突然、巨大な影が現れた。


「船」


 ルカは息を呑んだ。


 沈没船だった。


 木造の大型帆船で、船体の半分は崩れ、帆柱は折れ、帆も残っていない。それなのに船首像だけが妙に鮮明だった。


 海底へ横たわってはいない。


 水中へ斜めに傾きながら、今もゆっくり沈み続けている。


「いつ沈んだ船?」


「分からない」


「新しい?」


「違うと思う」


「じゃあ、なんでまだ沈んでるの」


 エルンは沈没船を見た。


「まだ底についてないから」


「物理的に?」


「名前が」


 ルカは黙った。


 船腹には、かつて船名が刻まれていたらしい跡がある。


 今は削れて、読めない。


 名を失った船。


 だから何百年経っても、まだ沈み続けている。


「底って……どこなんだろ」


 エルンは答えなかった。


 次に見えたものを、ルカは最初、建物だと思った。


 黒い柱。


 そこから太い鎖が伸びている。


 近づいて、それが違うと分かった。


「鐘?」


 巨大な鐘が、水中へ吊られていた。


 逆さだった。


 口が上を向いている。


 鎖はさらに深い方へ伸び、その先が何に繋がっているのかは見えない。


 鐘そのものは動いていない。


 それなのに、


 ごうん。


 エルンが胸を押さえた。


「これ?」


 ルカが訊く。


「違う」


「違うんだ」


「似てるけど」


 また、ごうん、と響く。


 今度はルカにも分かった。


 音ではない。


 潜名泡の表面が震え、外の海水が一瞬だけ円を描いた。


「いっぱいあるの?」


「たぶん」


 進むにつれ、一つ、また一つと逆さの鐘が暗闇へ浮かび上がった。


 どれも大きさが違う。


 どれも、誰にも鳴らされていない。


 それでも時折、低い震えだけを海へ送り出していた。


 呼んでいるのか。


 送り出しているのか。


 ルカには分からなかった。


「眠る」


 エルンが言った。


 ルカは反射的に舵を切る。


「今度はどっち?」


「左」


「左へ行くと眠る?」


「うん」


「眠る方へ行って大丈夫?」


「今は」


「その言い方、ほんと怖い」


 それでも従った。


 エルンが指した先、暗い水の中へ白いものが漂っている。


 最初は雪かと思った。


 近づいて、ルカは目を細める。


「花?」


 白い花だった。


 細長い茎。半透明の花弁。


 海底から生えているのではない。


 水中へ根もなく浮かび、その場で咲いている。


 一輪。


 十輪。


 やがて視界いっぱいに、白い花の群れが広がった。


 ナミル=レイがその中を進む。


 花は潜名泡の表面へ触れると、ゆっくり開いた。


 その中心には、小さな文字のような光がある。


「名前?」


 ルカが近づこうとする。


「触らないで」


 エルンが止めた。


「これも?」


「眠ってる」


 ルカは手を引いた。


 花の一つがすぐ近くを流れていく。


 内側から、誰かの笑い声のような残響がした。


 ほんの一瞬だった。


 すぐに消える。


「……きれいなのに」


「うん」


「怖いね」


「うん」


 エルンは否定しなかった。


 白い花の群れを抜けると、今度は無数の名札が見えた。


 木札。


 貝札。


 金属板。


 布。


 紙。


 さまざまな時代、さまざまな形の名札が、すべて一斉にゆっくり沈んでいる。


 何千。


 何万。


「……これ全部」


 ルカは息を呑んだ。


 普段なら、名札は海面を流れる。


 風に押され、潮に運ばれ、いつか誰かの岸へ届く。


 ここでは違う。


 誰にも向かわない。


 ただ下へ、急ぐこともなく、静かに沈んでいく。


「読める?」


 エルンが訊いた。


 ルカは試した。


 一枚へ意識を向ける。


 何も聞こえない。


 二枚目。


 駄目。


 三枚目。


 かすかな輪郭すら拾えない。


「……全然」


「沈みすぎてる?」


「うん」


 ルカは唇を噛んだ。


「私には、もう名前に見えない」


 文字は見える。


 札も見える。


 そこに名があることも分かる。


 けれど、声がない。


 向きがない。


 誰かへ届こうとする意思がない。


 完全に、ルカの読める領域の外だった。


 エルンは一枚の名札を目で追う。


「この子は眠る」


「分かるの?」


「少し」


「あっちは?」


「閉じる」


「その隣」


「沈む」


 あまりにも自然に答えるので、ルカは思わず笑った。


「何?」


 エルンが訊く。


「いや」


 ルカは首を振った。


「本当に、今回はエルンの海だなって」


 少年は少し困った顔をする。


「僕の海?」


「そういう意味じゃないよ」


 ルカは舵から片手を離した。


「私じゃ読めないってこと」


「でも、船はルカが動かしてる」


「じゃあ身体担当」


「身体?」


「エルンが道を読む。私がナミルを動かす」


「それなら分かる」


「でしょ?」


 役割が変わった。


 それでも不思議と居心地は悪くなかった。


 むしろ今までより、二人で一つの航海をしているように感じる。


 水はさらに暗くなった。


 青い灯が減り、代わりに遠くで巨大な何かが動いた。


 最初は海底の山かと思った。


 影がゆっくり曲がる。


「……鯨」


 巨大な鯨だった。


 これまで見たどんな鯨よりも大きい。ナミル=レイなど、その目ほどもない。


 鯨は鳴かず、潜名泡へ近づきもしない。ただ暗闇の中を、ゆっくりと横切っていく。


 身体の表面には淡い光の線が走っている。


 傷のようにも、文字のようにも、古い海図に描かれた潮筋のようにも見えた。


 ルカは息をすることさえ忘れた。


 巨大な尾が遠くで動く。


 水がうねる。


 潜名泡が大きく揺れた。


「うわっ!」


 ルカは帆柱へ掴まった。


 ナミル=レイが傾き、名札が一斉に鳴る。


 ちりちりちり、と。


「大丈夫?」


 エルンが船縁を掴む。


「大丈夫! ナミルは?」


 名灯が二度瞬いた。


「たぶん大丈夫」


「本人に聞いて」


「ナミル=レイ」


 ちり、と一枚の札が鳴った。


「大丈夫だって」


「本当に?」


「たぶん」


「ナミルまでたぶんになったら困る!」


 少しして、潜名泡は安定した。


 鯨の影はもう遠く、その向こうにはほとんど光がない。


「次」


 エルンの声が変わった。


 ルカもすぐに気づく。


 今までより、明らかに緊張している。


「何?」


「閉じる」


 その一言だけで、泡の中の空気まで冷えた気がした。


「どっち?」


 エルンは前方を指した。


「真っ直ぐ」


 ルカは闇を見る。


「何かある?」


「ある」


「見えない」


「見えない方が近い」


「……それ、かなり嫌な説明だね」


 それでもルカは舵を真っ直ぐにした。


 ナミル=レイが暗い海へ進む。


 深海生物の灯も消えた。


 逆さの鐘も、白い花も、沈む名札も見えなくなる。


 何もない。


 その時、星潮羅針盤の針が、ついに止まった。


 方角を失ったのではない。


 針そのものが盤面へ沈み込み、見えなくなった。


「……完全に駄目だ」


 ルカは羅針盤を閉じた。


「ここから先、私は道を読めない」


 声にして、はっきり認めた。


 怖さはある。


 それでも、不思議と悔しくはなかった。


 前にはエルンがいる。


 彼は目を閉じ、鐘と、沈む名と、眠る名の流れを聞いている。


「少し右」


 ルカは舵を切った。


「次、眠る」


「了解」


「そのあと、浮く」


「上じゃない方ね」


「うん」


「もう慣れた」


「最後に閉じる」


 エルンが目を開ける。


 その視線は暗闇のさらに先へ向いていた。


「そこを越えたら」


「何がある?」


 彼は答えようとして、やめた。


「分からない」


 けれど、少し間を置いて続ける。


「道はある」


 その声だけは確かだった。


 ルカは頷く。


「じゃあ、行こう」


 帆を張る。


 ナミル=レイが、さらに暗い海へ進んでいく。


 空の星はもう一つも見えない。海図も羅針盤も潮鏡も、ルカへ次の道を教えてはくれなかった。


 これまでなら、それは航海を続けられないという意味だった。


 今は違う。


 ルカに見えないだけで、道そのものが消えたわけではない。


「次、どっち?」


「眠る方」


「分かった」


 エルンの声へ合わせて舵を切り、ナミル=レイを進ませる。


 この深さでは、名前はもう岸を目指さない。呼ばれることから遠ざかり、沈み、眠り、ときには自ら閉じる。その流れはルカには読めなかった。


 けれどエルンには、まだ聞こえている。


 だからルカは舵を取る。


 読めないからといって、自分まで進めなくなる必要はない。誰かに道を預けることも、航海の一部なのだと、今なら少し分かる。


 暗闇の中を、真珠色の帆を張った一隻の船が沈んでいく。


 その船には、深い海へ持っていくと自分たちで決めた三つの名がある。


 ルカ=ネリス。


 エルン=カイオ。


 ナミル=レイ。


 そして、そのうち今、船の進む先を読んでいるのは一つだけだった。


「もう少し右」


「了解」


 ルカはエルンの声に従って舵を切った。


 空も星も見えない海の中で、ナミル=レイは静かに帆を膨らませる。


 その先に何があるのか、ルカにはまだ分からない。


 それでも今は、エルン=カイオが読む道を信じて進めばよかった。

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