第六節 ― 海の中を、帆船が沈む
沈都潜航路の入口は、海図にはなかった。
目印になる岩礁もなければ、渦が巻いているわけでもない。海面の色が変わることさえなかった。
メルナ=レイを離れてしばらく。港が水平線の向こうへ消え、周囲から他の船影も見えなくなった頃、エルンが突然言った。
「止めて」
ルカはすぐに帆綱を緩めた。
ナミル=レイがゆっくりと速度を落とす。
「ここ?」
「うん」
見渡しても、海しかない。
穏やかな午後の水面。雲は少なく、陽は高い。風もあり、海鳥まで飛んでいる。
「普通の海だけど」
「上は」
エルンが答えた。
「上?」
「今見えてるのは、上の海」
ルカは眉を寄せる。
「じゃあ、下にも海があるみたいな言い方だね」
「ある」
即答された。
「あるんだ……」
冗談のつもりだった。
ルカは船縁から身を乗り出し、水面を覗き込む。陽光が揺れ、その下へ青が深く落ちている。それ以上は何も見えない。
潮鏡を出してもいい。星砂盤を使ってもいい。普段ならそうしていただろう。
けれど、エルンは何の道具も使わず、水面へ手を伸ばした。
「ここから眠ってる」
「海が?」
「名前が」
指先が水へ触れる。
小さな波紋が広がった。
その瞬間、ナミル=レイの両舷に吊られた名札が、一斉に止まった。
「……え?」
風は吹いている。帆も揺れている。縄も軋んでいる。
なのに、名札だけが動かない。
次の瞬間、かちり、と音がした。
すべての札が同時に下を向く。
重力に従って垂れたのではない。紐ごと船底へ引かれるように、はっきりと傾いていた。
「ナミル?」
ルカが船縁へ手を触れる。
船霊も戸惑っているのか、名灯が弱く瞬いた。
エルンは水面から手を離さない。
「来る」
「何が?」
「道」
海が静かになった。
波が消えたわけではない。
音だけが遠ざかっていく。
風も、海鳥も、帆の鳴る音も、船体の軋みも。すべてが薄い膜の向こうへ移ってしまったように、小さくなる。
ルカは息を止めた。
ナミル=レイの周囲で、海面が丸くへこんだ。
「うそ」
最初は船の重さで沈み始めたのかと思った。
違う。
水そのものが避けている。
船体の周囲だけを囲むように、透明な曲面が生まれていく。甲板を越え、帆柱の先まで包み込み、船首から船尾までナミル=レイ全体を覆う巨大な泡へ形を変えていった。
ただし、泡の中へ空気が入ったのではない。
もともと船がいた海面そのものが、丸ごと切り取られている。
「潜名泡……」
ルカは、古い航海記録で見た言葉を思い出した。
そこには詳しい説明などなかった。
――沈名は水に沈まず。
――沈むべき名の周囲に、水面を携える。
子どもの頃は、何を言っているのか分からなかった。
今なら分かる。
「これが……」
潜名泡の外側へ海水がせり上がり、透明な壁の向こうで甲板より高くなった。
「エルン」
「うん」
「これ、沈んでる?」
「まだ」
「まだ?」
ぞくりとした。
水面が船縁を越え、ルカの頭より高くなり、さらに帆柱の中ほどへ達していく。
それでもナミル=レイは濡れていない。
甲板は乾いたまま。
帆には風まである。
外にはもう、風などないはずなのに。
「どうなってるの……」
泡の内側だけに、海面の環境が残っている。
海の中なのに、船は海の上にいる。
その矛盾を抱えたまま、ナミル=レイはゆっくりと沈み始めた。
「うわ……」
ルカは船縁を握る。
身体が浮く感覚はなかった。落下しているわけでもない。
ただ、世界の方が上へ昇っていく。
海面が遠ざかる。
水越しの空。青。白い雲。太陽。
それらが頭上へ少しずつ離れていった。
最初は手を伸ばせば届きそうだったものが、やがて家の屋根ほどの高さになり、鐘楼ほど、崖ほど遠ざかり、ついには空そのものが明るい円へ変わっていく。
「……きれい」
怖いのに、言葉が漏れた。
陽光が海中へ細い柱となって差し込み、その中を小魚の群れが銀色に横切っていく。
ナミル=レイの帆は、まだ張ったままだ。
名札は下を向き、かすかに揺れている。
甲板には風がある。
そのすぐ外側には、何百、何千という水の重みがある。
「変な感じ」
「うん」
「泳いでる魚より、私たちの方がおかしい」
「たぶん」
「また、たぶん」
エルンが少しだけ笑った。
数十メートル。
百メートル。
さらに深く。
ルカには、もう正確な深さが分からなかった。
星潮航法なら、本来、位置を失うことなどない。空の星と海。その二つさえ見えれば、自分がどこにいるかを読める。
けれど今、頭上の空は水の向こうへ消えつつあった。
星など見えない。
昼だからではない。
もう、空そのものが届かなくなり始めている。
ルカは星潮羅針盤を取り出した。
針は回っていた。
北。
南。
東。
西。
一周して、また一周。
「……壊れた?」
「違うと思う」
「じゃあ、迷ってる?」
「ここ、北とか南が薄い」
「方角が薄いって何」
「名前みたいに」
「その例え、今の私には難しい」
ルカは潮鏡も取り出した。
浅い鏡へ海水を張る。
普段なら水面へ空の星の位置が現れるはずだった。
今は、真っ黒だった。
自分の顔すら映らない。
「本当に使えない……」
今まで何度も助けられてきた道具。
星。
潮。
海図。
その全部が、ここでは沈黙している。
ルカは初めて、完全に現在地を失った。
「エルン」
「うん」
「今どこ?」
少年は少し考えた。
「入口の下」
「それ、場所の説明として最低点だよ」
「ごめん」
「でもたぶん、今はそれしかないんだよね」
「うん」
ルカは羅針盤をしまい、潮鏡にも布をかけた。
使えないものへ執着しても仕方がない。
「じゃあ」
舵の前から一歩退く。
「お願いします」
エルンが目を瞬いた。
「何を?」
「道」
「僕が?」
「他に読める人いる?」
周囲を見回す。
もちろん二人しかいない。
ナミル=レイが、ちり、と小さく名札を鳴らした。
「ナミルもいるけど」
「ナミルも分からないと思う」
「だよね」
ルカは舵輪へ手を添えたまま、エルンを見る。
「どっち?」
少年は泡の外へ視線を向けた。
水。
暗い青。
まだ陽光の届く場所。その下には青緑があり、さらに奥は紺へ沈んでいる。
そのどこにも、道らしいものなど見えない。
エルンが目を閉じた。
「少し、浮く」
「上?」
「違う」
「……ああ」
ルカはすぐに言い直す。
「呼ばれる方?」
「うん」
エルンが斜め前方を指した。
物理的には下へ進んでいるように見える。
けれど、彼にとってはそこが「浮く」方向なのだ。
「右へ」
「右はあるんだ?」
「今は」
「今は?」
「あとでなくなるかも」
「先に言わないでほしかったなあ」
ルカは帆を調整した。
不思議なことに、泡の中の風が帆を押す。
ナミル=レイは海中を横へ滑り、小魚の群れが驚いて散った。
「……本当に帆船で海の中を走ってる」
口にすると、ますます異常だった。
深くなるにつれて、光の色が変わっていく。
やがて太陽の青ではない光が見え始めた。
生き物の灯。
最初に現れたのは、小さな魚だった。
透明な身体の腹の奥へ、一列の青白い灯が並んでいる。
十匹。
百匹。
群れがナミル=レイの周囲を巡り、暗い海の中へ小さな星空を作っていく。
「星、あるじゃん」
ルカが言った。
「魚」
「分かってる。気分の問題」
青い群れが去ると、次に現れたのは長い尾を引く生き物だった。
頭部だけが淡く光っている。潜名泡へ近づくと、ナミル=レイの名札へ反応するように光が強くなった。
エルンが手を上げる。
「触らない方がいい」
「触れないよ。水の向こうだし」
「名前を食べるかもしれない」
「もっと早く言って」
ルカは反射的に泡の中心へ寄った。
そのまま、さらに沈む。
突然、巨大な影が現れた。
「船」
ルカは息を呑んだ。
沈没船だった。
木造の大型帆船で、船体の半分は崩れ、帆柱は折れ、帆も残っていない。それなのに船首像だけが妙に鮮明だった。
海底へ横たわってはいない。
水中へ斜めに傾きながら、今もゆっくり沈み続けている。
「いつ沈んだ船?」
「分からない」
「新しい?」
「違うと思う」
「じゃあ、なんでまだ沈んでるの」
エルンは沈没船を見た。
「まだ底についてないから」
「物理的に?」
「名前が」
ルカは黙った。
船腹には、かつて船名が刻まれていたらしい跡がある。
今は削れて、読めない。
名を失った船。
だから何百年経っても、まだ沈み続けている。
「底って……どこなんだろ」
エルンは答えなかった。
次に見えたものを、ルカは最初、建物だと思った。
黒い柱。
そこから太い鎖が伸びている。
近づいて、それが違うと分かった。
「鐘?」
巨大な鐘が、水中へ吊られていた。
逆さだった。
口が上を向いている。
鎖はさらに深い方へ伸び、その先が何に繋がっているのかは見えない。
鐘そのものは動いていない。
それなのに、
ごうん。
エルンが胸を押さえた。
「これ?」
ルカが訊く。
「違う」
「違うんだ」
「似てるけど」
また、ごうん、と響く。
今度はルカにも分かった。
音ではない。
潜名泡の表面が震え、外の海水が一瞬だけ円を描いた。
「いっぱいあるの?」
「たぶん」
進むにつれ、一つ、また一つと逆さの鐘が暗闇へ浮かび上がった。
どれも大きさが違う。
どれも、誰にも鳴らされていない。
それでも時折、低い震えだけを海へ送り出していた。
呼んでいるのか。
送り出しているのか。
ルカには分からなかった。
「眠る」
エルンが言った。
ルカは反射的に舵を切る。
「今度はどっち?」
「左」
「左へ行くと眠る?」
「うん」
「眠る方へ行って大丈夫?」
「今は」
「その言い方、ほんと怖い」
それでも従った。
エルンが指した先、暗い水の中へ白いものが漂っている。
最初は雪かと思った。
近づいて、ルカは目を細める。
「花?」
白い花だった。
細長い茎。半透明の花弁。
海底から生えているのではない。
水中へ根もなく浮かび、その場で咲いている。
一輪。
十輪。
やがて視界いっぱいに、白い花の群れが広がった。
ナミル=レイがその中を進む。
花は潜名泡の表面へ触れると、ゆっくり開いた。
その中心には、小さな文字のような光がある。
「名前?」
ルカが近づこうとする。
「触らないで」
エルンが止めた。
「これも?」
「眠ってる」
ルカは手を引いた。
花の一つがすぐ近くを流れていく。
内側から、誰かの笑い声のような残響がした。
ほんの一瞬だった。
すぐに消える。
「……きれいなのに」
「うん」
「怖いね」
「うん」
エルンは否定しなかった。
白い花の群れを抜けると、今度は無数の名札が見えた。
木札。
貝札。
金属板。
布。
紙。
さまざまな時代、さまざまな形の名札が、すべて一斉にゆっくり沈んでいる。
何千。
何万。
「……これ全部」
ルカは息を呑んだ。
普段なら、名札は海面を流れる。
風に押され、潮に運ばれ、いつか誰かの岸へ届く。
ここでは違う。
誰にも向かわない。
ただ下へ、急ぐこともなく、静かに沈んでいく。
「読める?」
エルンが訊いた。
ルカは試した。
一枚へ意識を向ける。
何も聞こえない。
二枚目。
駄目。
三枚目。
かすかな輪郭すら拾えない。
「……全然」
「沈みすぎてる?」
「うん」
ルカは唇を噛んだ。
「私には、もう名前に見えない」
文字は見える。
札も見える。
そこに名があることも分かる。
けれど、声がない。
向きがない。
誰かへ届こうとする意思がない。
完全に、ルカの読める領域の外だった。
エルンは一枚の名札を目で追う。
「この子は眠る」
「分かるの?」
「少し」
「あっちは?」
「閉じる」
「その隣」
「沈む」
あまりにも自然に答えるので、ルカは思わず笑った。
「何?」
エルンが訊く。
「いや」
ルカは首を振った。
「本当に、今回はエルンの海だなって」
少年は少し困った顔をする。
「僕の海?」
「そういう意味じゃないよ」
ルカは舵から片手を離した。
「私じゃ読めないってこと」
「でも、船はルカが動かしてる」
「じゃあ身体担当」
「身体?」
「エルンが道を読む。私がナミルを動かす」
「それなら分かる」
「でしょ?」
役割が変わった。
それでも不思議と居心地は悪くなかった。
むしろ今までより、二人で一つの航海をしているように感じる。
水はさらに暗くなった。
青い灯が減り、代わりに遠くで巨大な何かが動いた。
最初は海底の山かと思った。
影がゆっくり曲がる。
「……鯨」
巨大な鯨だった。
これまで見たどんな鯨よりも大きい。ナミル=レイなど、その目ほどもない。
鯨は鳴かず、潜名泡へ近づきもしない。ただ暗闇の中を、ゆっくりと横切っていく。
身体の表面には淡い光の線が走っている。
傷のようにも、文字のようにも、古い海図に描かれた潮筋のようにも見えた。
ルカは息をすることさえ忘れた。
巨大な尾が遠くで動く。
水がうねる。
潜名泡が大きく揺れた。
「うわっ!」
ルカは帆柱へ掴まった。
ナミル=レイが傾き、名札が一斉に鳴る。
ちりちりちり、と。
「大丈夫?」
エルンが船縁を掴む。
「大丈夫! ナミルは?」
名灯が二度瞬いた。
「たぶん大丈夫」
「本人に聞いて」
「ナミル=レイ」
ちり、と一枚の札が鳴った。
「大丈夫だって」
「本当に?」
「たぶん」
「ナミルまでたぶんになったら困る!」
少しして、潜名泡は安定した。
鯨の影はもう遠く、その向こうにはほとんど光がない。
「次」
エルンの声が変わった。
ルカもすぐに気づく。
今までより、明らかに緊張している。
「何?」
「閉じる」
その一言だけで、泡の中の空気まで冷えた気がした。
「どっち?」
エルンは前方を指した。
「真っ直ぐ」
ルカは闇を見る。
「何かある?」
「ある」
「見えない」
「見えない方が近い」
「……それ、かなり嫌な説明だね」
それでもルカは舵を真っ直ぐにした。
ナミル=レイが暗い海へ進む。
深海生物の灯も消えた。
逆さの鐘も、白い花も、沈む名札も見えなくなる。
何もない。
その時、星潮羅針盤の針が、ついに止まった。
方角を失ったのではない。
針そのものが盤面へ沈み込み、見えなくなった。
「……完全に駄目だ」
ルカは羅針盤を閉じた。
「ここから先、私は道を読めない」
声にして、はっきり認めた。
怖さはある。
それでも、不思議と悔しくはなかった。
前にはエルンがいる。
彼は目を閉じ、鐘と、沈む名と、眠る名の流れを聞いている。
「少し右」
ルカは舵を切った。
「次、眠る」
「了解」
「そのあと、浮く」
「上じゃない方ね」
「うん」
「もう慣れた」
「最後に閉じる」
エルンが目を開ける。
その視線は暗闇のさらに先へ向いていた。
「そこを越えたら」
「何がある?」
彼は答えようとして、やめた。
「分からない」
けれど、少し間を置いて続ける。
「道はある」
その声だけは確かだった。
ルカは頷く。
「じゃあ、行こう」
帆を張る。
ナミル=レイが、さらに暗い海へ進んでいく。
空の星はもう一つも見えない。海図も羅針盤も潮鏡も、ルカへ次の道を教えてはくれなかった。
これまでなら、それは航海を続けられないという意味だった。
今は違う。
ルカに見えないだけで、道そのものが消えたわけではない。
「次、どっち?」
「眠る方」
「分かった」
エルンの声へ合わせて舵を切り、ナミル=レイを進ませる。
この深さでは、名前はもう岸を目指さない。呼ばれることから遠ざかり、沈み、眠り、ときには自ら閉じる。その流れはルカには読めなかった。
けれどエルンには、まだ聞こえている。
だからルカは舵を取る。
読めないからといって、自分まで進めなくなる必要はない。誰かに道を預けることも、航海の一部なのだと、今なら少し分かる。
暗闇の中を、真珠色の帆を張った一隻の船が沈んでいく。
その船には、深い海へ持っていくと自分たちで決めた三つの名がある。
ルカ=ネリス。
エルン=カイオ。
ナミル=レイ。
そして、そのうち今、船の進む先を読んでいるのは一つだけだった。
「もう少し右」
「了解」
ルカはエルンの声に従って舵を切った。
空も星も見えない海の中で、ナミル=レイは静かに帆を膨らませる。
その先に何があるのか、ルカにはまだ分からない。
それでも今は、エルン=カイオが読む道を信じて進めばよかった。




