第五節 ― 持っていく名前
沈都潜航路へ入る前に、ひとつだけ準備が必要だった。
船を直すことでも、食料を積むことでも、深海灯を用意することでもない。
「名前を決めて」
そう言ったのは、エルンだった。
ナミル=レイの甲板から見えるメルナ=レイの港は、朝からずっと騒がしい。東浜だけでは足りず、西浜にも還名神官が配置され、浜守の小舟が何艘も沖を往復している。引き上げられた沈名貝は仮設の潮布倉へ運ばれ、すでに開いたものには一つずつ封潮布がかけられていた。
それでも時折、浜の方から乾いた音が聞こえる。
ぱき、と。
また一つ、貝が開いたのだ。
そのたびに、誰かの声が上がる。名前を呼ぶ声、それを止める声、泣き声。港全体が、いくつもの過去を同時に引き上げてしまったように騒がしかった。
ルカは船縁からその様子を見渡していたが、エルンの言葉に振り返った。
「名前を決める?」
「うん」
「何の?」
「持っていく名前」
ルカは少し笑った。
「私、自分の名前一個しかないけど」
エルンは首を横に振った。
「いっぱいある」
「え?」
「ルカは」
指を一本立てる。
「名拾い」
二本目。
「潮名航海士」
三本目。
「潮読み」
少し考えてから、もう一本。
「ナミル=レイの船長」
「それはまあ、そうだけど」
「漂着児って呼ぶ人もいる」
ルカの表情が、わずかに止まった。
「……それも数えるの?」
「名前みたいに付いてるものは、たぶん」
エルンは自分の胸元へ手を置いた。
「深いところへ行くと、いっぱい持っていけない」
「どういう意味?」
「分からない」
「また?」
「うん」
エルンは申し訳なさそうに頷いた。
「でも、そういう感じがする」
ルカは両腕を組んだ。
「感じがする、で儀式を始めるの?」
「僕も変だと思う」
「そこは自信持ってよ」
「でも、やらないと危ないと思う」
今度の声だけは真剣だった。
ルカも笑うのをやめる。
「危ないって?」
「下へ行くほど、名前が引っ張られる」
「真名が?」
「それだけじゃない」
エルンは甲板へ目を落とした。
「呼ばれてきたもの全部」
その言葉に、ルカは黙った。
「役目も?」
「たぶん」
「誰かが勝手に呼んだ名前も?」
「それも」
ルカは眉を寄せる。
「それを全部持っていったら?」
エルンは少し考えた。
「どれが自分か、分からなくなる」
風が真珠色の帆を揺らし、両舷の名札が細い音を立てた。
ちり、と。
誰かから見れば、ルカは名拾いだった。
他人の失われた名を探す少女。
別の誰かから見れば、潮名航海士。ナミル=レイを操る船乗り。
港の古老から見れば、昔、名のない小舟で流れ着いた漂着児。
カイラなら、生意気な小娘とでも呼うだろう。
それらは全部、間違ってはいない。
「置いていけるの?」
ルカが訊いた。
「仕事を?」
「なくすんじゃない」
エルンは答える。
「上に置く」
「帰ったら拾える?」
「たぶん」
「便利なたぶんだね」
それでも、拒む理由はなかった。
むしろルカにも、少しだけ分かる気がした。
深海へ持っていくのは荷物ではない。自分が自分であるための、いちばん細い芯。そこへ余計なものを結びすぎれば、沈む途中で何かへ引っかかり、切れてしまうのかもしれない。
ルカは船室へ入り、潮紙箱を持ってきた。
濡れても破れにくい薄い紙。名札を書くためのものだ。
ただし今日は、誰かへ渡す名を書くのではない。
甲板へ座り込み、一枚目を取り出した。
《名拾い》
書いて、しばらく眺める。
これは嫌いではない。
誰かが失くしたものを拾う仕事。それで助かった者もいれば、泣いた者も、怒った者もいた。名前を返されたくなかった者だっている。
「置いていくって、ちょっと変な感じ」
「やめる?」
「ううん」
ルカは紙を折った。
「これは、帰ってきたらまた拾う」
船室入口の棚へ置く。
二枚目。
《潮名航海士》
書きながら、思わず笑った。
「これも置くの?」
「うん」
「これから航海するのに?」
「今までの航海とは違うから」
「それ言われると弱いなあ」
紙を折り、棚へ置く。
三枚目。
そこで筆が止まった。
《漂着児》
書こうとして、しばらく動かなかった。
エルンは何も言わず、ただ隣に座っている。
その言葉を、ルカが自分から名乗ることはほとんどなかった。
誰かが説明する時に使う名前。
昔、海から拾われた子。
本当の名を知らない子。
出自の分からない子。
ルカが何者なのかを、分からないまま説明するために与えられた呼び方。
「これ」
ルカは筆を持ったまま言う。
「置いていったら、楽かな」
「分からない」
「そこは、そうだよね」
少し笑い、それでも書いた。
《漂着児》
文字を見ていると、胸のどこかがひりついた。
これは自分の始まり。
けれど、自分のすべてではない。
「置いてく」
ルカは紙を折った。
「帰ってきた時に必要だったら、また持てばいい」
棚へ置く。
残った潮紙を前にして、ルカは筆を止めた。
「じゃあ……」
何を持っていく。
本当の真名は知らない。
四つの潮真名は胸の中にある。けれど、それらを自分の名前だとはまだ言えなかった。
神の名かもしれない。
誰か別のものかもしれない。
ならば今、自分が呼ばれて振り返る名前。
それしかない。
ルカは潮紙へ、ゆっくりと書いた。
《ルカ=ネリス》
書き終えた瞬間、胸の奥で四つの潮真名がかすかに鳴った。
けれど邪魔はしなかった。
むしろ、その名の周囲へ静かに収まったように感じた。
「これ」
ルカは紙を持ち上げる。
「本当の名前じゃないかもしれないけど」
エルンを見る。
「私が今、呼ばれてる名前」
「うん」
「これでいい?」
エルンは迷わなかった。
「いいと思う」
「思う、じゃなくて」
「いい」
「よし」
ルカは笑い、潮紙を胸元へ入れた。
「じゃあ私は、ルカ=ネリスだけ持っていく」
口にしてみると、妙にすっきりした。
名拾いでなくてもいい。
潮名航海士でなくてもいい。
漂着児でなくてもいい。
ルカ=ネリス。
それだけは残る。
「次、エルン」
「僕?」
「言い出した人がやらないのは駄目でしょ」
潮紙と筆を渡すと、エルンは困った顔で受け取った。
「僕、そんなに名前ない」
「あるよ」
「何?」
「黒箱の子」
「それは名前?」
「今は違うけど、最初はそう呼ばれてた」
「……嫌だ」
「じゃあ置いてこ」
ルカは笑う。
「沈んだ名を読む子」
「それも?」
「役割名っていうなら」
エルンは少し考えた。
けれど、それらを紙へ書くことはしなかった。
「僕は」
筆を置く。
「エルン=カイオでいい」
ルカは少しだけ目を細めた。
「全部じゃなくても?」
「うん」
その答えは、出会った頃よりずっと自然だった。
エルンは自分の胸元へ手を置いた。
「これで呼ばれると、僕は振り向ける」
ルカは何も言わなかった。
「ルカが呼ぶと戻れる」
静かな声だった。
「だから、これを持ってく」
エルンは潮紙へ書いた。
《エルン=カイオ》
まだ少し拙い文字だった。それでも、他の誰かが書いた名前ではない。
エルン自身が書いた。
紙を折り、胸元へしまう。
「決まり」
ルカが言う。
「ルカ=ネリス」
「うん」
「エルン=カイオ」
「うん」
二人は顔を見合わせた。
その時だった。
ちりん、と、甲板の端で名札が一枚だけ鳴った。
二人が同時に振り向く。
ナミル=レイだった。
「……あ」
ルカが目を瞬く。
「ナミルも?」
帆が、ばさりと一度だけ膨らんだ。
風向きは変わっていない。
「持っていく名前、選ぶ?」
問いかけると、名札が鳴った。
ちり。
ルカは船体を見回した。
ナミル=レイにも、いくつもの呼ばれ方がある。
小型名札船。
星読巡礼船。
潮名航海船。
ルカの船。
家。
時には、ただ「ナミル」と呼ぶ。
けれど、船霊が応える名前は一つ。
《ナミル=レイ》
「置いていく?」
船縁を撫でながら訊いた。
「船名、上に」
次の瞬間、帆が強く鳴った。
ばさっ、と大きく膨らみ、両舷の名札まで一斉に揺れる。
ちりちりちりちり、と、抗議するような音が甲板いっぱいに広がった。
「うわ」
ルカは思わず手を引く。
「嫌なんだ」
エルンが言う。
「すごく嫌みたい」
「分かった、分かった」
ルカは船縁を両手で撫でた。
「ごめんって。置いてかない」
名札の音が少し静かになる。
「ナミル=レイも、そのまま持ってく」
船首の名灯が淡く光った。
エルンがそれを見つめる。
「自分で選んだ」
「だね」
ルカは笑った。
「ナミルは強情だなあ」
帆が小さく鳴る。
「今の褒めたんだよ?」
今度は反応がなかった。
こうして、三つの名前が決まった。
ルカ=ネリス。
エルン=カイオ。
ナミル=レイ。
それが真名かどうかは、誰にも分からない。古い名前かどうかも関係なかった。
ただ今、呼ばれて、自分から応える。
その三つを、深い海へ持っていく。
*
準備を終えた頃、港の向こうから大きな怒鳴り声が聞こえた。
「その貝、勝手に開けるんじゃないよ!」
ルカが顔を上げる。
聞き覚えがあった。
「……まさか」
黒い帆が港へ入ってくる。
珊瑚赤の縫い目。
牙を思わせる船首像。
潮牙帆船。
「カイラ!」
船が接岸するより早く、女船長は舷側から軽々と桟橋へ飛び降りた。
朝から海賊船長を迎えるには、メルナ=レイは少し上品すぎる港だった。
当然、港役人が慌てて駆け寄ってくる。
「カイラ=マレイス! 入港許可を――」
「後にしな!」
「いや、しかし!」
「今、浜で名前が人を食ってんだろ!」
「食ってはいません!」
「じゃあ訂正する。ややこしいことになってんだろ!」
「それは……そうですが!」
「なら邪魔すんな!」
役人を押し退ける勢いで、カイラはナミル=レイまで来た。
日に焼けた顔。銅赤の髪。腰には海賊刀。
その後ろではネームレス・ガルの船員たちが、すでに浜へ向けて潮布や縄を運び始めている。
「カイラ、どうして」
「赤い牙貝が変な音出してた」
「鳴らしてないよ?」
「お前が鳴らさなくても、海がうるさけりゃこいつも機嫌悪くなる」
そう言いながら、カイラは懐へ手を入れた。
「それと」
ルカの前へ、小さな赤いものを突き出す。
赤い牙貝。
「え?」
「返す」
ルカは自分の腰袋を探った。
確かに、いつも入れている場所にはない。
「いつ取ったの?」
「前に会った時」
「気づかなかった!」
「それで海賊に勝てると思ってんのかい」
「勝とうとしてないよ!」
「なら問題ない」
乱暴に手へ押しつけられる。
赤い牙貝は、以前より少し温かかった。
「持ってきな」
「でも」
「潜るんだろ」
ルカの顔から笑いが消えた。
「分かるの?」
「お前ら二人が、あんな顔で船に名前貼り直してりゃ嫌でも分かる」
カイラは船室の棚を見る。
そこには、ルカが置いた潮紙がある。
《名拾い》
《潮名航海士》
《漂着児》
カイラは読もうとはしなかった。
視線を向けただけで、すぐに外す。
それがカイラだった。
「下へ行くって聞いた」
ルカは頷く。
「沈都潜航路」
カイラの顔から、いつもの笑みが少しだけ消えた。
「聞いたことはある」
「行ったことは?」
「ない」
「カイラでも?」
「海賊がどこにでも行くと思うなよ」
「行きそうだから」
「行ける場所と、帰ってこられる場所は別だ」
カイラは海を見る。
軽口ではなかった。
「私は浜を片づける」
「でも、数が多い」
「だから船一隻分、人手を持ってきた」
ネームレス・ガルの方では、すでに船員たちが動いている。
呼び名しか知らない者同士。
本名を売らない海賊たち。
今の名を守るという意味では、これほど頼れる者たちもいない。
「還名神官に言っときな」
カイラは鼻を鳴らした。
「昔の名前を見つけたくらいで、勝手に誰かの人生を塗り直すなって」
ルカはシアを思い出した。
マレナ=フィル。
「……うん」
「で」
カイラは赤い牙貝を指す。
「それ」
「持ってく」
「鳴らすのは一回」
「知ってる」
「本当に沈みそうな時」
「それも知ってる」
「違う」
カイラがルカの額を指で弾いた。
「痛っ」
「船が沈む時じゃない」
「え?」
「お前らが帰ってこられなくなった時だけ鳴らしな」
ルカは赤い牙貝を見る。
「帰ってこられない時」
「ああ」
「鳴らしたら来てくれる?」
「届くところならね」
いつものように笑う。
けれど、その言い方だけが妙に引っかかった。
「届かないところもある?」
「海にはある」
カイラはあっさり言った。
「そういう場所が」
ルカは少しだけ黙り、赤い牙貝を握った。
「分かった」
「よし」
カイラは次にエルンを見る。
「坊主」
「うん」
「今回はお前が道読むんだって?」
エルンは少し驚いた。
「ルカから聞いた?」
「顔見りゃ分かる」
「顔で?」
「責任背負ったやつは、だいたい同じ顔する」
エルンは困ったように黙った。
カイラはその肩を軽く叩く。
「迷え」
「え?」
「分かんない時は迷え。怖い時は怖いって言え」
強くもなく、優しすぎもしない。
ただ、船の上では当たり前のことだと教えるような声だった。
「でも、黙って沈むな」
エルンはゆっくり頷いた。
「うん」
「それでいい」
カイラは二人から離れた。
「こっちは任せな」
振り返らずに手を振る。
「帰ってきた時には、浜くらい歩けるようにしといてやる」
「カイラ」
「あ?」
「ありがと」
女船長は肩越しに笑った。
「礼は帰ってから払いな」
「何を?」
「高いよ」
「やっぱり!?」
今度こそ、いつものカイラだった。
ルカは赤い牙貝を腰へ結んだ。
船室の棚には、置いていく名前がある。
胸には、持っていく名前がある。
そして隣には、もう一つ。
「エルン=カイオ」
呼んでみる。
少年が振り向いた。
「なに?」
「確認」
「確認?」
「ちゃんと振り向くなって」
エルンは少し考え、それから呼び返した。
「ルカ=ネリス」
「はい」
今度はルカが振り向く。
二人で船を見る。
「ナミル=レイ」
ちりん、と名札が答えた。
三つとも、ここにある。
ルカは船縁へ手を置いた。
「よし。持っていこう」
本当の名でなくてもいい。
過去のすべてを説明できなくてもいい。
今この声で呼ばれて、自分でそれに応えられる名前なら、少なくとも深い場所へ沈む間、自分が自分でいるための糸にはなる。
ルカは《ルカ=ネリス》と書いた潮紙の感触を胸元へ確かめ、隣に立つエルンを見た。エルンもまた、《エルン=カイオ》を胸へしまっている。その下で、彼にしか聞こえない鐘が、一定の間隔で鳴り続けているはずだった。
そしてナミル=レイも、自分の名を置いていくことを拒んだ。
古いか、新しいか。
最初から与えられたか、途中で選ばれたか。
そんなことよりも、今その名を呼ばれて振り向けるかどうか。
それが、これから入る海では大切なのかもしれない。
ルカはまだ、その理由までは知らない。
それでも三つの名前は、互いを確かめるように同じ甲板の上へ揃っていた。
ルカ=ネリス。
エルン=カイオ。
ナミル=レイ。
深い海へ持っていくのは、それだけでいい。
少なくとも今の二人と一隻は、そう信じて沈都潜航路へ向かうことにした。




