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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第9話 沈んだ名は、還らないまま眠っていた
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第五節 ― 持っていく名前

 沈都潜航路へ入る前に、ひとつだけ準備が必要だった。


 船を直すことでも、食料を積むことでも、深海灯を用意することでもない。


「名前を決めて」


 そう言ったのは、エルンだった。


 ナミル=レイの甲板から見えるメルナ=レイの港は、朝からずっと騒がしい。東浜だけでは足りず、西浜にも還名神官が配置され、浜守の小舟が何艘も沖を往復している。引き上げられた沈名貝は仮設の潮布倉へ運ばれ、すでに開いたものには一つずつ封潮布がかけられていた。


 それでも時折、浜の方から乾いた音が聞こえる。


 ぱき、と。


 また一つ、貝が開いたのだ。


 そのたびに、誰かの声が上がる。名前を呼ぶ声、それを止める声、泣き声。港全体が、いくつもの過去を同時に引き上げてしまったように騒がしかった。


 ルカは船縁からその様子を見渡していたが、エルンの言葉に振り返った。


「名前を決める?」


「うん」


「何の?」


「持っていく名前」


 ルカは少し笑った。


「私、自分の名前一個しかないけど」


 エルンは首を横に振った。


「いっぱいある」


「え?」


「ルカは」


 指を一本立てる。


「名拾い」


 二本目。


「潮名航海士」


 三本目。


「潮読み」


 少し考えてから、もう一本。


「ナミル=レイの船長」


「それはまあ、そうだけど」


「漂着児って呼ぶ人もいる」


 ルカの表情が、わずかに止まった。


「……それも数えるの?」


「名前みたいに付いてるものは、たぶん」


 エルンは自分の胸元へ手を置いた。


「深いところへ行くと、いっぱい持っていけない」


「どういう意味?」


「分からない」


「また?」


「うん」


 エルンは申し訳なさそうに頷いた。


「でも、そういう感じがする」


 ルカは両腕を組んだ。


「感じがする、で儀式を始めるの?」


「僕も変だと思う」


「そこは自信持ってよ」


「でも、やらないと危ないと思う」


 今度の声だけは真剣だった。


 ルカも笑うのをやめる。


「危ないって?」


「下へ行くほど、名前が引っ張られる」


「真名が?」


「それだけじゃない」


 エルンは甲板へ目を落とした。


「呼ばれてきたもの全部」


 その言葉に、ルカは黙った。


「役目も?」


「たぶん」


「誰かが勝手に呼んだ名前も?」


「それも」


 ルカは眉を寄せる。


「それを全部持っていったら?」


 エルンは少し考えた。


「どれが自分か、分からなくなる」


 風が真珠色の帆を揺らし、両舷の名札が細い音を立てた。


 ちり、と。


 誰かから見れば、ルカは名拾いだった。


 他人の失われた名を探す少女。


 別の誰かから見れば、潮名航海士。ナミル=レイを操る船乗り。


 港の古老から見れば、昔、名のない小舟で流れ着いた漂着児。


 カイラなら、生意気な小娘とでも呼うだろう。


 それらは全部、間違ってはいない。


「置いていけるの?」


 ルカが訊いた。


「仕事を?」


「なくすんじゃない」


 エルンは答える。


「上に置く」


「帰ったら拾える?」


「たぶん」


「便利なたぶんだね」


 それでも、拒む理由はなかった。


 むしろルカにも、少しだけ分かる気がした。


 深海へ持っていくのは荷物ではない。自分が自分であるための、いちばん細い芯。そこへ余計なものを結びすぎれば、沈む途中で何かへ引っかかり、切れてしまうのかもしれない。


 ルカは船室へ入り、潮紙箱を持ってきた。


 濡れても破れにくい薄い紙。名札を書くためのものだ。


 ただし今日は、誰かへ渡す名を書くのではない。


 甲板へ座り込み、一枚目を取り出した。


《名拾い》


 書いて、しばらく眺める。


 これは嫌いではない。


 誰かが失くしたものを拾う仕事。それで助かった者もいれば、泣いた者も、怒った者もいた。名前を返されたくなかった者だっている。


「置いていくって、ちょっと変な感じ」


「やめる?」


「ううん」


 ルカは紙を折った。


「これは、帰ってきたらまた拾う」


 船室入口の棚へ置く。


 二枚目。


《潮名航海士》


 書きながら、思わず笑った。


「これも置くの?」


「うん」


「これから航海するのに?」


「今までの航海とは違うから」


「それ言われると弱いなあ」


 紙を折り、棚へ置く。


 三枚目。


 そこで筆が止まった。


《漂着児》


 書こうとして、しばらく動かなかった。


 エルンは何も言わず、ただ隣に座っている。


 その言葉を、ルカが自分から名乗ることはほとんどなかった。


 誰かが説明する時に使う名前。


 昔、海から拾われた子。


 本当の名を知らない子。


 出自の分からない子。


 ルカが何者なのかを、分からないまま説明するために与えられた呼び方。


「これ」


 ルカは筆を持ったまま言う。


「置いていったら、楽かな」


「分からない」


「そこは、そうだよね」


 少し笑い、それでも書いた。


《漂着児》


 文字を見ていると、胸のどこかがひりついた。


 これは自分の始まり。


 けれど、自分のすべてではない。


「置いてく」


 ルカは紙を折った。


「帰ってきた時に必要だったら、また持てばいい」


 棚へ置く。


 残った潮紙を前にして、ルカは筆を止めた。


「じゃあ……」


 何を持っていく。


 本当の真名は知らない。


 四つの潮真名は胸の中にある。けれど、それらを自分の名前だとはまだ言えなかった。


 神の名かもしれない。


 誰か別のものかもしれない。


 ならば今、自分が呼ばれて振り返る名前。


 それしかない。


 ルカは潮紙へ、ゆっくりと書いた。


《ルカ=ネリス》


 書き終えた瞬間、胸の奥で四つの潮真名がかすかに鳴った。


 けれど邪魔はしなかった。


 むしろ、その名の周囲へ静かに収まったように感じた。


「これ」


 ルカは紙を持ち上げる。


「本当の名前じゃないかもしれないけど」


 エルンを見る。


「私が今、呼ばれてる名前」


「うん」


「これでいい?」


 エルンは迷わなかった。


「いいと思う」


「思う、じゃなくて」


「いい」


「よし」


 ルカは笑い、潮紙を胸元へ入れた。


「じゃあ私は、ルカ=ネリスだけ持っていく」


 口にしてみると、妙にすっきりした。


 名拾いでなくてもいい。


 潮名航海士でなくてもいい。


 漂着児でなくてもいい。


 ルカ=ネリス。


 それだけは残る。


「次、エルン」


「僕?」


「言い出した人がやらないのは駄目でしょ」


 潮紙と筆を渡すと、エルンは困った顔で受け取った。


「僕、そんなに名前ない」


「あるよ」


「何?」


「黒箱の子」


「それは名前?」


「今は違うけど、最初はそう呼ばれてた」


「……嫌だ」


「じゃあ置いてこ」


 ルカは笑う。


「沈んだ名を読む子」


「それも?」


「役割名っていうなら」


 エルンは少し考えた。


 けれど、それらを紙へ書くことはしなかった。


「僕は」


 筆を置く。


「エルン=カイオでいい」


 ルカは少しだけ目を細めた。


「全部じゃなくても?」


「うん」


 その答えは、出会った頃よりずっと自然だった。


 エルンは自分の胸元へ手を置いた。


「これで呼ばれると、僕は振り向ける」


 ルカは何も言わなかった。


「ルカが呼ぶと戻れる」


 静かな声だった。


「だから、これを持ってく」


 エルンは潮紙へ書いた。


《エルン=カイオ》


 まだ少し拙い文字だった。それでも、他の誰かが書いた名前ではない。


 エルン自身が書いた。


 紙を折り、胸元へしまう。


「決まり」


 ルカが言う。


「ルカ=ネリス」


「うん」


「エルン=カイオ」


「うん」


 二人は顔を見合わせた。


 その時だった。


 ちりん、と、甲板の端で名札が一枚だけ鳴った。


 二人が同時に振り向く。


 ナミル=レイだった。


「……あ」


 ルカが目を瞬く。


「ナミルも?」


 帆が、ばさりと一度だけ膨らんだ。


 風向きは変わっていない。


「持っていく名前、選ぶ?」


 問いかけると、名札が鳴った。


 ちり。


 ルカは船体を見回した。


 ナミル=レイにも、いくつもの呼ばれ方がある。


 小型名札船。


 星読巡礼船。


 潮名航海船。


 ルカの船。


 家。


 時には、ただ「ナミル」と呼ぶ。


 けれど、船霊が応える名前は一つ。


《ナミル=レイ》


「置いていく?」


 船縁を撫でながら訊いた。


「船名、上に」


 次の瞬間、帆が強く鳴った。


 ばさっ、と大きく膨らみ、両舷の名札まで一斉に揺れる。


 ちりちりちりちり、と、抗議するような音が甲板いっぱいに広がった。


「うわ」


 ルカは思わず手を引く。


「嫌なんだ」


 エルンが言う。


「すごく嫌みたい」


「分かった、分かった」


 ルカは船縁を両手で撫でた。


「ごめんって。置いてかない」


 名札の音が少し静かになる。


「ナミル=レイも、そのまま持ってく」


 船首の名灯が淡く光った。


 エルンがそれを見つめる。


「自分で選んだ」


「だね」


 ルカは笑った。


「ナミルは強情だなあ」


 帆が小さく鳴る。


「今の褒めたんだよ?」


 今度は反応がなかった。


 こうして、三つの名前が決まった。


 ルカ=ネリス。


 エルン=カイオ。


 ナミル=レイ。


 それが真名かどうかは、誰にも分からない。古い名前かどうかも関係なかった。


 ただ今、呼ばれて、自分から応える。


 その三つを、深い海へ持っていく。


     *


 準備を終えた頃、港の向こうから大きな怒鳴り声が聞こえた。


「その貝、勝手に開けるんじゃないよ!」


 ルカが顔を上げる。


 聞き覚えがあった。


「……まさか」


 黒い帆が港へ入ってくる。


 珊瑚赤の縫い目。


 牙を思わせる船首像。


 潮牙帆船《ネームレス・ガル》。


「カイラ!」


 船が接岸するより早く、女船長は舷側から軽々と桟橋へ飛び降りた。


 朝から海賊船長を迎えるには、メルナ=レイは少し上品すぎる港だった。


 当然、港役人が慌てて駆け寄ってくる。


「カイラ=マレイス! 入港許可を――」


「後にしな!」


「いや、しかし!」


「今、浜で名前が人を食ってんだろ!」


「食ってはいません!」


「じゃあ訂正する。ややこしいことになってんだろ!」


「それは……そうですが!」


「なら邪魔すんな!」


 役人を押し退ける勢いで、カイラはナミル=レイまで来た。


 日に焼けた顔。銅赤の髪。腰には海賊刀。


 その後ろではネームレス・ガルの船員たちが、すでに浜へ向けて潮布や縄を運び始めている。


「カイラ、どうして」


「赤い牙貝が変な音出してた」


「鳴らしてないよ?」


「お前が鳴らさなくても、海がうるさけりゃこいつも機嫌悪くなる」


 そう言いながら、カイラは懐へ手を入れた。


「それと」


 ルカの前へ、小さな赤いものを突き出す。


 赤い牙貝。


「え?」


「返す」


 ルカは自分の腰袋を探った。


 確かに、いつも入れている場所にはない。


「いつ取ったの?」


「前に会った時」


「気づかなかった!」


「それで海賊に勝てると思ってんのかい」


「勝とうとしてないよ!」


「なら問題ない」


 乱暴に手へ押しつけられる。


 赤い牙貝は、以前より少し温かかった。


「持ってきな」


「でも」


「潜るんだろ」


 ルカの顔から笑いが消えた。


「分かるの?」


「お前ら二人が、あんな顔で船に名前貼り直してりゃ嫌でも分かる」


 カイラは船室の棚を見る。


 そこには、ルカが置いた潮紙がある。


《名拾い》


《潮名航海士》


《漂着児》


 カイラは読もうとはしなかった。


 視線を向けただけで、すぐに外す。


 それがカイラだった。


「下へ行くって聞いた」


 ルカは頷く。


「沈都潜航路」


 カイラの顔から、いつもの笑みが少しだけ消えた。


「聞いたことはある」


「行ったことは?」


「ない」


「カイラでも?」


「海賊がどこにでも行くと思うなよ」


「行きそうだから」


「行ける場所と、帰ってこられる場所は別だ」


 カイラは海を見る。


 軽口ではなかった。


「私は浜を片づける」


「でも、数が多い」


「だから船一隻分、人手を持ってきた」


 ネームレス・ガルの方では、すでに船員たちが動いている。


 呼び名しか知らない者同士。


 本名を売らない海賊たち。


 今の名を守るという意味では、これほど頼れる者たちもいない。


「還名神官に言っときな」


 カイラは鼻を鳴らした。


「昔の名前を見つけたくらいで、勝手に誰かの人生を塗り直すなって」


 ルカはシアを思い出した。


 マレナ=フィル。


「……うん」


「で」


 カイラは赤い牙貝を指す。


「それ」


「持ってく」


「鳴らすのは一回」


「知ってる」


「本当に沈みそうな時」


「それも知ってる」


「違う」


 カイラがルカの額を指で弾いた。


「痛っ」


「船が沈む時じゃない」


「え?」


「お前らが帰ってこられなくなった時だけ鳴らしな」


 ルカは赤い牙貝を見る。


「帰ってこられない時」


「ああ」


「鳴らしたら来てくれる?」


「届くところならね」


 いつものように笑う。


 けれど、その言い方だけが妙に引っかかった。


「届かないところもある?」


「海にはある」


 カイラはあっさり言った。


「そういう場所が」


 ルカは少しだけ黙り、赤い牙貝を握った。


「分かった」


「よし」


 カイラは次にエルンを見る。


「坊主」


「うん」


「今回はお前が道読むんだって?」


 エルンは少し驚いた。


「ルカから聞いた?」


「顔見りゃ分かる」


「顔で?」


「責任背負ったやつは、だいたい同じ顔する」


 エルンは困ったように黙った。


 カイラはその肩を軽く叩く。


「迷え」


「え?」


「分かんない時は迷え。怖い時は怖いって言え」


 強くもなく、優しすぎもしない。


 ただ、船の上では当たり前のことだと教えるような声だった。


「でも、黙って沈むな」


 エルンはゆっくり頷いた。


「うん」


「それでいい」


 カイラは二人から離れた。


「こっちは任せな」


 振り返らずに手を振る。


「帰ってきた時には、浜くらい歩けるようにしといてやる」


「カイラ」


「あ?」


「ありがと」


 女船長は肩越しに笑った。


「礼は帰ってから払いな」


「何を?」


「高いよ」


「やっぱり!?」


 今度こそ、いつものカイラだった。


 ルカは赤い牙貝を腰へ結んだ。


 船室の棚には、置いていく名前がある。


 胸には、持っていく名前がある。


 そして隣には、もう一つ。


「エルン=カイオ」


 呼んでみる。


 少年が振り向いた。


「なに?」


「確認」


「確認?」


「ちゃんと振り向くなって」


 エルンは少し考え、それから呼び返した。


「ルカ=ネリス」


「はい」


 今度はルカが振り向く。


 二人で船を見る。


「ナミル=レイ」


 ちりん、と名札が答えた。


 三つとも、ここにある。


 ルカは船縁へ手を置いた。


「よし。持っていこう」


 本当の名でなくてもいい。


 過去のすべてを説明できなくてもいい。


 今この声で呼ばれて、自分でそれに応えられる名前なら、少なくとも深い場所へ沈む間、自分が自分でいるための糸にはなる。


 ルカは《ルカ=ネリス》と書いた潮紙の感触を胸元へ確かめ、隣に立つエルンを見た。エルンもまた、《エルン=カイオ》を胸へしまっている。その下で、彼にしか聞こえない鐘が、一定の間隔で鳴り続けているはずだった。


 そしてナミル=レイも、自分の名を置いていくことを拒んだ。


 古いか、新しいか。


 最初から与えられたか、途中で選ばれたか。


 そんなことよりも、今その名を呼ばれて振り向けるかどうか。


 それが、これから入る海では大切なのかもしれない。


 ルカはまだ、その理由までは知らない。


 それでも三つの名前は、互いを確かめるように同じ甲板の上へ揃っていた。


 ルカ=ネリス。


 エルン=カイオ。


 ナミル=レイ。


 深い海へ持っていくのは、それだけでいい。


 少なくとも今の二人と一隻は、そう信じて沈都潜航路へ向かうことにした。

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