第四節 ― 沈都潜航路
止めても、止めても、足りなかった。
開いた貝には潮布をかけ、名前を呼ばせない。まだ閉じているものは縄で区画を分け、人を近づけない。現在使われている潮名や、遺品に残った生活名が薄れ始めた家には神官を走らせ、家族に今の名を呼び続けてもらう。
できることは、一つずつやった。
それでも海は、次を押し上げてくる。
「沖!」
浜守の声が飛んだ。
「また出たぞ!」
ルカが振り向くと、朝日に光る海面へ黒い点が一つ浮かんだ。続いて白、青。さらに沖でも一つ。
海底から泡が上がるように、沈名貝が次々と水面へ姿を現していく。
波に運ばれているのではない。浮かび上がった場所から動かず、その場でゆらゆら揺れていた。
「さっき回収したところなのに……」
還名神官の一人が、呆然と呟く。
小舟を出していた浜守たちが、また櫂を取った。網ですくい、浜へ運び、分類する。その間にも別の場所へ新しい貝が浮かび、いくら手を動かしても海の方が早かった。
まるで底に穴が開き、そこから際限なく溢れてきているようだった。
ルカは濡れた砂の上に立ったまま、拳を握った。
「これじゃ駄目だ」
隣にいた神官が顔を向ける。
「何がだ」
「拾ってるだけじゃ終わらない」
それは、名拾いとして何度もやってきたことだった。
漂着したものを拾い、一つずつ読み、行き先を探して、必要なら届ける。
けれど今は、そのやり方そのものが追いつかない。一つを閉じても二つ浮かび、二つを隔離している間に沖で五つ増える。
このままでは、メルナ=レイだけで済まない。
ル=マリナの潮へ乗れば他の島へ流れるかもしれないし、浮上都市へ届くかもしれない。それぞれの場所で、過去に沈められた名が現在の名を押し退け始めたら、被害がどこまで広がるのか想像もつかなかった。
「根っこを止めないと」
ルカは言った。
「根っこ?」
「この貝が出てくる場所」
「海底か?」
神官が沖を見る。
ルカはすぐには答えられなかった。
海底。
その言葉だけなら簡単だ。潜ればいい。深いなら、深海用の船を探せばいい。
けれど、エルンが読んでいる「下」は、そんな単純な場所ではない。
ルカは少年を探した。
エルンは少し離れた波打ち際にいた。人々が忙しく走り回る中で、一人だけ動いていない。裸足のつま先まで波が届いているのに、海を見ている様子もなかった。
目を閉じている。
聞いている。
「エルン」
呼んでも反応しない。
ルカは近づいた。
「エルン」
二度目で、ようやく瞼が開いた。
「……うん」
「鐘?」
エルンは小さく頷いた。
「ずっと?」
「さっきより多い」
「多い?」
少年は胸元へ手を置いた。
「一つじゃないみたいに聞こえる」
ルカは眉を寄せる。
「鐘が増えたの?」
「分からない。同じ音が、違う深さから返ってくる」
ごうん。
ごうん。
ルカには聞こえない。それでもエルンの呼吸で分かった。一度音を受け、少し間があって、もう一度。少年はそれぞれの響きへ耳を澄ませている。
「どっち?」
ルカが訊いた。
「鐘の方向」
エルンはすぐには答えなかった。右を見て、左を見る。沖へ視線を向け、次にメルナ=レイの街の方を見る。
やがて困ったように首を振った。
「どこでもない」
「また方角がない?」
「うん」
「でも、道はあるって言ったよね」
「あると思う」
「思う?」
「……ある」
言い直した声には、自分自身へ確かめるような硬さがあった。
ルカは少し待った。
「どこ?」
エルンの視線が、ゆっくり落ちる。
砂。
波。
その下。
「下」
やはり同じ答えだった。
ルカも足元を見る。
「潜ればいい?」
「違う」
今度は即答だった。
「じゃあ、海底じゃない?」
「海底も通ると思う」
「思う、かあ」
ルカは頭を掻いた。
「難しいね」
「うん」
「私の海図には載らない?」
「たぶん」
「星でも?」
「星は上にあるから」
「そりゃそうなんだけど」
ルカはため息をついた。
笑おうという気にはなれなかった。
エルンは砂の上へしゃがみ、片手を濡れた地面へ当てた。そのまましばらく動かない。波が来て指先を濡らし、また引いていく。
「何が分かる?」
ルカが訊いた。
「水の下に、流れがある」
「海流?」
「違う」
エルンは目を閉じた。
「名前の流れ」
ルカの表情が変わる。
「沈んでる名?」
「うん」
「どっちへ?」
エルンの指が砂の上を動いた。
沖へは向かわない。
横にも進まない。
ただ、同じ場所をゆっくり押す。
「ここから下」
「だから、その下って何?」
少し強い声になった。
エルンが顔を上げる。
ルカはすぐに息を吐いた。
「ごめん。怒ってない」
「うん」
「分からないのが悔しいだけ」
エルンはまた砂へ視線を落とした。
「僕も、ちゃんとは分からない」
「でも私よりは分かる」
「少し」
「それで十分」
ルカは彼の隣へしゃがんだ。
「言葉にできる範囲でいいから、教えて」
エルンは少し考え、やがて砂へ指で一本の線を引いた。
「ルカが読む名は」
「うん」
「こっち」
線を横へ伸ばす。
「流れて、誰かへ行く」
「そうだね」
「人とか、場所とか」
「うん」
その線の先へ、小さな丸を描く。
「呼ばれる方」
ルカは頷いた。
「そう」
エルンは今度、その線の途中から指を下へ押し込んだ。
砂がへこむ。
「こっちは?」
「沈む」
「ただ沈むだけ?」
「最初は」
エルンは言葉を探した。
「名前が、だんだん遠くなる」
「誰から?」
「みんなから」
ルカは黙った。
「呼ばれなくなる?」
「うん」
「忘れられる?」
「うん」
その答えは、本来なら冷たく聞こえるはずだった。
けれどエルンの顔には嫌悪も恐怖もない。ただ、そこにあるものを確かめているだけだ。
「もっと下は?」
「眠る」
「忘れられたあとに?」
「忘れられてなくても眠る名前はある」
ルカは眉を上げた。
「呼ばれてても?」
「たぶん」
エルンは少し迷ってから言う。
「帰りたくない時とか」
マレナ=フィル。
その名前が、ルカの頭へ浮かんだ。
古い出生名。かつて本人が持っていたけれど、その後の人生では使わなかった名。
「眠るって、消えることじゃない?」
「違うと思う」
「どう違う?」
「いる」
エルンは自分の胸元へ手を当てる。
「でも、起きてない」
奇妙な説明だった。
それでもルカには、少しだけ分かった。
「じゃあ、閉じるは?」
その問いに、エルンの表情が変わった。
ほんの少しだけ、肩が固くなる。
「エルン?」
「閉じる方は……」
ごうん。
少年が息を止めた。
「呼ばれないようにする」
「誰が?」
「分からない」
「本人が?」
「それもある」
「誰かが閉じることも?」
返事はなかった。
エルンは自分の胸元を押さえている。まるで鐘の音が、そこへ直接触れているように。
「怖い?」
ルカが訊く。
「少し」
珍しく、すぐに認めた。
「何が?」
「閉じる方」
「鐘はそこから?」
「もっと奥」
エルンは海を見る。
今度は本当に、海面を見ていた。
「眠るところを通って、閉じるところも通って、その先」
低い声だった。
ルカは背筋を伸ばす。
「そこに、貝がいた?」
「たぶん」
「沈んでた名も?」
「うん」
「それが今、押し出されてる」
「うん」
少しずつ、形になってくる。
どこか深い場所に、沈んだ名が集まっている。そこで異常が起き、眠っていた名前が水面側へ押し戻されている。
なら、その場所へ行かなければならない。
「道は?」
ルカが訊いた。
エルンは砂へ手を当てたまま、また目を閉じる。
長い沈黙が落ちた。
浜の喧騒が、遠くなったように感じる。
櫂の音。
神官の指示。
誰かが泣く声。
開いた貝が立てる乾いた音。
そのすべての下で、エルンだけが聞く鐘が鳴っている。
ごうん。
少年の指が動いた。
「ある」
今度は迷わなかった。
「どこに?」
「ここじゃない」
「じゃあ沖?」
首を振る。
「海図のどこか?」
「違う」
「……また下?」
「うん」
ルカは額を押さえた。
「エルン、その説明だと全部下だよ」
「ごめん」
「怒ってないって」
苦笑してから、ルカは少し考えた。
方角ではない。
地形でもない。
海流でもない。
名前がどの状態へ移るのか。
そこを辿る道。
「もしかして」
ルカはゆっくり言った。
「船が海を進むんじゃなくて、名前と同じように沈む?」
エルンが顔を上げた。
「……そう」
「合ってる?」
「近い」
初めて、明確な反応だった。
「名前が沈む流れに乗る?」
「うん」
「それなら、海面からでも行ける?」
「入口が開けば」
「入口」
ルカはその言葉を繰り返した。
忘れられる方へ。
眠る方へ。
閉じる方へ。
名前だけが流れていく道。
通常の航路ではない。海上の船が使うものでもない。
それでも、古い海洋伝承のどこかで聞いた覚えがあった。
沈んだ都市。深海へ続く潮。水面から消えた船が、何年も後に海底の別の場所で見つかる話。帰ってきた船員が、どこを通ったのか一言も説明できなかったという古い航海譚。
「……沈都潜航路」
ルカが呟いた。
エルンの顔がわずかに上がる。
「知ってる?」
「名前だけ」
ルカは立ち上がった。
「昔の海図の端に書いてあった。航路っていうより、注意書きみたいに」
――沈む名を追うな。
――深潮へ名を預けるな。
――沈都潜航路を船路と思うな。
子どもの頃、古い海図を眺めていて、意味が分からず笑った記憶がある。
航路なのに船路ではない。
そんなの、ただの言葉遊びだと思っていた。
「本当にあったんだ」
エルンは答えなかった。
けれど胸元の手が、少し強く衣服を掴んだ。
「そこを通れば、鐘のところへ行ける?」
「途中までは」
「途中?」
「鐘はもっと奥」
ルカは海を見た。
「でも、沈名貝がいた場所には近づける?」
「たぶん」
今度の「たぶん」は、さっきまでとは違った。
分からないから濁しているのではない。
未知の道へ入る前に、知っていることと知らないことを分けている。
そんな慎重さだった。
背後から足音が近づく。
「ルカ!」
還名神官が走ってきた。
「また三つ開いた。西浜でも貝が上がり始めたそうだ」
ルカの表情が引き締まる。
「西も?」
「ああ。このままだと港全体へ回る」
「町の井戸は?」
「海潮井戸は止めた。だが、これが潮流へ混じったら――」
「他の島へ行く」
神官が黙った。
それだけで十分だった。
ルカは浜を見渡す。
人手を増やしても追いつかない。すべての貝を拾い切ることなどできない。
今必要なのは、もっと速く回収することではない。
出てくる理由そのものを止めることだ。
「神官さん」
「なんだ」
「私たち、下へ行きます」
男が目を瞬いた。
「下?」
「沈都潜航路を探す」
神官の顔色が変わる。
「待て」
「知ってるんですね」
「伝承程度だ」
「私もです」
「なら、なおさらだ。あれは船が通る場所じゃない」
「そうみたいです」
「ルカ」
神官の声が強くなる。
「深海へ行くという話ではないぞ。あれは――」
「分かってます」
本当は、分かっていない。
けれど、その分からなさまで含めて、自分一人では読めないことだけはもう分かっていた。
「だから、私だけじゃ行けない」
ルカはエルンを見る。
神官も少年へ視線を向けた。
エルンは少し青い顔をしていた。それでも、その場から逃げようとはしない。
「この子が道を読めます」
「本当に?」
エルンはすぐには答えなかった。
ルカは代わりに言おうとした。
けれど、その前にエルン自身が口を開いた。
「全部は分からない」
神官が眉を寄せる。
「それでも行くのか」
「……うん」
声は小さい。
「怖くないのか?」
「怖い」
また、すぐに認めた。
ルカは何も言わなかった。
「でも」
エルンは浜へ並ぶ貝を見る。
「これ、戻りたがってるから」
白い貝。青黒い貝。眠りから無理に引き起こされた名前たち。
「帰るんじゃなくて、下へ戻りたがってる」
今までルカがしてきた還名とは、逆の方向へ。
けれど、その名が望む場所へ運ぶという意味では、もしかすると同じなのかもしれない。
還る先が、いつも人や家や浜とは限らない。
海の奥で眠ることを選ぶ名もある。
ルカはエルンの前へ立った。
「行ける?」
問いかけた瞬間、自分でも気づいた。
逆だった。
今まで、こういう時に訊くのはエルンだった。
知らない海を前にして。危険な潮を前にして。ルカなら進めるのかと。
そしてルカが決めてきた。
船を出す。
帰る。
追う。
逃げる。
どちらへ舵を切るのか。
今は、自分が訊いている。
エルンは答えるまでに少し時間がかかった。
海を見る。
浜を見る。
自分の胸へ触れる。
鐘はまだ鳴っている。
ごうん。
怖いのだろう。
顔を見れば分かる。
知らない場所へ行く怖さだけではない。
知っているかもしれない場所へ行く怖さ。
自分でも知らない何かが、そこで待っているような恐怖。
それでもエルンは、ゆっくり頷いた。
「たぶん」
ルカは急かさなかった。
少年が自分の中の音を確かめ、言葉にできるところまで戻ってくるのを待つ。
「でも」
やがてエルンが続ける。
その目が、まっすぐルカへ向いた。
「今度は僕についてきて」
ルカは一瞬だけ黙った。
潮名航海士としてなら、名拾いとしてなら、本来は逆の言葉を言うべきなのかもしれない。
私についてきて。
船は私が出す。
海は私が読む。
そう言ってきた。
けれど、これから入る海はルカの知る海ではない。星が道を示す海でも、還ろうとする名が方角を教えてくれる海でもない。
ならば、迷う理由はなかった。
「うん」
ルカは笑った。
「ついてく」
あまりにも簡単に答えたので、エルンが少し驚いた顔をした。
「いいの?」
「何が?」
「僕も、全部は分からない」
「私なんて、ほとんど何も分かってないよ」
「でも、ルカが船長」
「ナミル=レイではね」
ルカは沖へ目を向けた。
「でも航海士って、何でも一人で読む人じゃないでしょ」
風を読む者がいる。
星を読む者がいる。
潮を読む者がいる。
海底を知る者、港を知る者、船の声を聞く者もいる。
その全部を一人で知る必要はない。それぞれが見ているものを繋ぎ、船が進める一つの道にする。
少なくともルカは、今までそうやって海を渡ってきた。
「読める人がいるなら、任せる」
ルカはエルンの肩を軽く叩いた。
「だからお願い、航海士さん」
「僕が?」
「今回はね」
エルンはしばらく戸惑った顔をしていた。
やがて、本当にほんの少しだけ口元を緩める。
「……うん」
海の底で、鐘が鳴る。
ごうん。
もうそれは、遠い怪異の音だけではなかった。
エルンには、その響きの向こうへ道がある。
ルカには見えない道だ。
けれど、見えないから進めないわけではない。隣にそれを読める者がいて、その声を信じられるのなら、船長がすべきことは変わるだけだ。
今度はエルンが道を読み、ルカがその道へ船を乗せる。
そうして二人で沈都潜航路へ入る。
浜では、また新しい貝が一つ、朝の光の下へ押し上げられていた。
眠っていた名が、望まぬ場所へ浮かび続けている。
時間はない。
それでもルカは、急いでいるからという理由だけでエルンの決断を奪おうとは思わなかった。彼が怖いまま、自分で行くと決めた。そのことを受け取って、ついていく。
名が望む場所を勝手に決めないのなら、人の進む道だって同じでいい。
ごうん、と鐘がもう一度鳴った。
その鐘が本当に二人を呼んでいるのか、それともエルン一人だけを呼んでいるのか。
その違いを、まだルカは知らなかった。




