第三節 ― 帰還ではなく、浮上
最初の一つだけなら、何かがおかしい名前だったのかもしれない。
二つなら、偶然が重なったとも考えられた。
けれど三つ、四つと触れていくうちに、ルカは認めざるを得なくなった。
これは、貝の中に入っていた個々の名前の問題ではない。
浜へ打ち上がったものすべてが、同じ異常を抱えている。
「次、お願いします」
ルカが手を差し出すと、還名神官は一瞬ためらってから、潮布に包んだ小さな貝を渡した。
「無理はするな」
「大丈夫です」
「さっきから四つ目だ」
「だからです。四つとも同じなら、たぶん次も同じです」
受け取ったのは白い殻だった。半分ほど開き、内側には淡い緑色の水が溜まっている。その中央で細い光が揺れていた。
名前はすでに確認されている。
二十五年前、南方の漁場で消息を絶った男の幼名。ただし本人は海難から生還しており、別の島へ漂着したあと、新しい潮名で暮らしていた。十数年前にはメルナ=レイへ移り、今も存命だという。
その現在の潮名が、貝の開封と同時に薄れ始めていた。
本人は浜へ近づけていない。それでも家に残されていた名札の文字が消えかけているらしい。
ルカは目を閉じ、指先を殻へ触れさせた。
冷たい。
その冷たさの向こうへ、意識を沈めていく。
いつもなら、この先に何かがある。
漂着した名へ触れた時、ルカが最初に探すのは名前そのものではない。
向きだ。
誰かを探している。家へ帰りたがっている。遺品へ触れたがっている。祈りの声へ引かれている。あるいは、海へ戻りたがっている。
名は言葉を持たなくても、どこへ行きたいのかだけは残している。
だからルカは航海できた。
文字を読んでいるのではない。名が向いている先へ、船を走らせてきた。
ルカは息を整え、白い貝の中へさらに深く触れる。
――どこへ行きたい?
答えはない。
いや、違う。
答えがないのではなかった。
何かを探そうとした瞬間、名の方が身を引いた。
「……っ」
ルカは眉を寄せる。
もう一度。
人?
反応しない。
場所?
違う。
遺品。祈り。故郷。家族。
どれにも向かわない。
それでも、完全に止まっているわけではなかった。
動いている。
そのことが、ルカには奇妙だった。
「どこ……?」
小さく呟き、名の気配を追う。
そこで、ようやく分かった。
自分が探し方を間違えている。
この名前は、何かへ近づこうとしているのではない。
何かから離れようとしていた。
眩しい。
騒がしい。
呼ばれる。
覚えられる。
形を与えられる。
そのすべてから遠ざかろうとしている。
ルカは目を開けた。
朝日が眩しかった。
浜には大勢の人がいる。誰かが名前を読み上げ、誰かが泣き、誰かが「還った」と叫んでいる。
その声を聞いた途端、掌の中の名が縮こまった。
「……嫌がってる」
神官が眉を寄せる。
「何をだ?」
ルカは答えず、貝を潮布へ戻した。
「次を」
「ルカ」
「お願いします」
今度は青黒い殻だった。
十年前に失踪した女性の出生名。現在の所在は不明。開いた瞬間、離れた場所にいる姉が、幼い頃の呼び名だけを突然思い出したという。
触れる。
同じだった。
誰にも向かっていない。
むしろ、水面から離れたがっている。
「次」
灰白色の殻。
死者の名。
触れる。
同じ。
次は真珠色。
持ち主不明。
それも同じだった。
一つとして、岸を求めていない。誰かの手を求めてもいない。
ルカは五つ目の貝から手を離した。
指先が冷え切っている。
潮の冷たさではなかった。陽の当たらない場所へ長く置かれていたものへ触れ続けたような、身体の芯へ残る冷たさだった。
「どうだ」
神官が訊く。
ルカは答える前に、浜を見た。
あれほど大量の名前があるのに、いつもの音がしない。
漂着名が多い日には、浜そのものがざわつく。
帰りたい。
見つけて。
ここ。
違う。
あっち。
声にならない無数の向きが重なり、潮の中へ細かな流れを作る。
今日は違った。
浜中の名が、一つの方向を避けている。
海面。
空。
朝日。
そして、人。
「これ」
ルカはゆっくり言った。
「漂着してない」
「何?」
「ここへ来たんじゃないです」
神官が貝殻の群れを見渡す。
「だが、現に浜へ上がっている」
「だから変なんです」
ルカは立ち上がった。
「漂着名なら、何かへ向いてます。人だったり、家だったり、遺品だったり。何でもいい。自分でもどこか分かってなくても、こっちへ行きたいっていうものがあるんです」
それを辿ってきた。
潮鏡で。
星で。
船で。
数え切れない名前を。
「でも、この貝にはない」
「帰る先が分からないということか?」
「違うと思う」
ルカは首を振った。
「帰る先を探してない」
その言葉に、自分自身が引っかかった。
名が還る。
そう信じてきた。
ならば、海面へ浮かんだ名前は、還るために来たはずだった。
けれど違う。
「むしろ……」
ルカは青黒い貝へ手を伸ばす。
「こっちにいたくない」
そこまで言って、言葉が止まった。
どう表現すればいいのか分からない。
人から逃げる、とも違う。特定の場所を拒んでいるわけでもない。
もっと広い。
水面そのもの。
呼ばれる場所。
名前が形を持ってしまう側。
そこから遠ざかろうとしている。
「貸して」
エルンの声がした。
ルカは振り向く。
少年はずっと少し離れた場所に立っていた。
神官たちが運ぶ貝を見ていたわけではない。
もっと下。
砂の向こう。
砂の下にある海。
そのさらに奥へ、意識を向けているようだった。
「読むの?」
「うん」
ルカは青黒い貝を見る。
「無理しないで」
「ルカもしてた」
「私は仕事だから」
「僕は?」
「……そういう返し覚えた?」
「ルカから」
「それはよくないなあ」
少しだけ笑おうとしたが、うまくいかなかった。
ルカは貝を差し出す。
エルンは両手で受け取った。
その瞬間、少年の肩が落ちた。
まるで、見た目からは想像もできないほど重いものを渡されたように。
「エルン?」
貝そのものは掌へ収まる大きさだ。重さなどほとんどない。
それでもエルンは両手で抱えるように持ち、息を止めていた。
「重い?」
「違う」
「痛い?」
「違う」
エルンは目を閉じる。
しばらく何も言わなかった。
波の音だけが聞こえる。
寄せて、引く。
開いた貝の隙間へ海水が入り、すぐに出ていく。
エルンの指先がわずかに震えた。
「……あ」
「何?」
「やっぱり」
目を開ける。
その視線は貝ではなく、足元へ落ちた。
「これ、浮きたいんじゃない」
ルカは黙った。
エルンは両手の貝を、さらに強く抱える。
「下へ戻ろうとしてる」
神官が眉をひそめた。
「海底へか?」
エルンはすぐには頷かなかった。
「海底、だけじゃない」
ルカはその言葉に覚えがあった。
数日前から聞こえる鐘。
下。
けれど、単純な深さではない。
「忘れられる方?」
ルカが訊く。
エルンが顔を上げた。
「うん」
「眠る方?」
「それも」
「閉じる方?」
少し間があった。
「……そこもある」
神官には意味が分からないらしい。
「どういうことだ?」
ルカにも、まだ完全には分からない。
ただ、エルンの言葉と、自分が触れた感覚とが初めて重なり始めていた。
「私が読んだ時は」
ルカはゆっくり説明した。
「何から逃げてるのかしか分からなかったんです」
自分の掌を見る。
「私は、名が行こうとしてる先を読むから」
それが今までの航海だった。
帰る名。
届く名。
流れる名。
誰かに呼ばれようとしている名前。
「でも、これは違う」
ルカはエルンを見る。
少年は青黒い貝を持ったまま、何かを聞いていた。
「エルンには分かるんだ」
口にしてみると、不思議な感じがした。
悔しいわけではない。
怖くもない。
ただ、これまでとは違う。
自分が読めない海を、エルンが読んでいる。
「どこまで分かる?」
ルカが訊く。
「これがいたところ?」
「場所の名前は分からない」
「方角は?」
「北とか南とか?」
「うん」
「ない」
「やっぱり」
エルンはしゃがみ込んだ。
貝を砂へ置かず、掌へ残したまま、もう片方の手を浜へ触れさせる。
「でも、戻る道はあると思う」
ルカの目が細くなる。
「道?」
「うん」
「読める?」
「少し」
「どんな?」
エルンは目を閉じた。
その唇が、聞いたことのない言葉を探すようにわずかに動く。
「浮く」
一つ。
「沈む」
二つ。
「眠る」
三つ。
そして、
「閉じる」
四つ。
ルカは浜の向こうに広がる海を見た。
自分の知っている航海用語ではない。
東西南北でもない。
星の位置でも、潮流でもない。
それなのに、エルンの声を聞くと、何を指しているのかだけは妙に分かった。
これは海底の地図ではない。
名前の深さを読むための言葉だ。
「私には、全然見えない」
思わず口から出た。
エルンが目を開ける。
「ルカ?」
「ううん」
ルカは苦笑する。
「今まで、私が分からない時はエルンに訊けば、下のことが少し分かったでしょ」
「うん」
「でも、結局どっちへ船を出すか決めるのは私だった」
星を見る。
潮を見る。
海図を読む。
ナミル=レイを走らせる。
それが自分の役目だった。
「今回は逆だね」
エルンは黙っている。
「たぶん、私じゃ無理」
言ってから、胸の奥が少しざわついた。
できない。
名拾いとして。
潮名航海士として。
それを認めるのは、思っていたより簡単ではなかった。
けれど今ここで意地を張れば、目の前の名前を自分の知っているやり方へ無理に当てはめることになる。
マレナ=フィルの古い名と同じように。
還ってきたのだから、還せばいい。
そんなふうに決めつけることになる。
ルカは小さく息を吐いた。
「エルン」
「うん」
「もう一つ、見てもらっていい?」
少年は頷いた。
神官が別の貝を運んでくる。
今度は真珠色。
エルンが触れる。
「沈む」
次は白。
「眠る」
青黒。
「閉じる。……すごく深い」
いくつ読んでも同じだった。
細かな違いはある。
すぐ沈みたがる名。
静かに眠ろうとしている名。
何かに触れられることそのものを拒む名。
けれど一つとして、「海面へ帰りたい」と言う名はなかった。
やがてエルンは一つの貝を抱えたまま、ぽつりと言った。
「押されたんだと思う」
「押された?」
「うん」
「どこから?」
エルンは足元を見る。
「下から」
ルカの背筋を冷たいものが走る。
「自分で浮いてきたんじゃなくて?」
「違う」
今度の答えは早かった。
「沈んでいられなくなった。だから、こっちへ押し出された」
ルカは浜を見渡した。
無数の貝。
白。
青黒。
灰。
真珠色。
それらは海から贈られたものではない。
少なくとも、祝福のように岸へ返されたわけではなかった。
深い場所にあった何かが崩れ、そこで眠っていた名前が居場所を失って、水面へ押し上げられている。
だから怯えている。
だから、戻されたくない。
「帰還じゃない」
ルカが呟いた。
還名神官が振り向く。
「何だ?」
ルカはもう一度、浜を見る。
海から名前が戻ってきた。
そう見えていた。
けれど実際には違う。
「これ、還ってきたんじゃない」
エルンを見る。
少年も頷いた。
「浮かんできただけ」
いや。
それすら正確ではない。
浮かびたかったのではないのだから。
「浮上……」
ルカは言った。
海面へ出る意思など持たないものが、何かの異常によって深みから押し上げられた。
その先にあるのは救いではない。
むしろ、名前たちにとっては事故なのかもしれない。
遠くで、また一つ貝が割れた。
ぱき、と乾いた音がする。
人々が振り向く。
青い光が立ち上がった。
少し前なら、それだけで誰かが歓声を上げただろう。
今は、誰もすぐには近づかなかった。
ルカはその光を見つめた。
自分では、帰る道を読めない。
なぜなら、この名は帰ろうとしていない。
ならば探すべきなのは、還る先ではなく、戻ることのできる深さだ。
「エルン」
「うん」
「この子たちがいた場所まで、行けると思う?」
問いかけてから、ルカは気づいた。
これまでとは逆だった。
いつもなら、エルンが訊いた。
どっちへ行く。
船を出せる。
ここから帰れる。
そしてルカが答えてきた。
今は、自分が訊いている。
エルンはしばらく黙っていた。
掌の中の貝へ耳を澄ませ、その向こうにある砂の下、海の下、さらに呼ばれなくなる方向へ意識を沈めていく。
ごうん。
ルカには聞こえない鐘へ、少年の瞳が揺れた。
「……たぶん」
まだ不安の残る声だった。
けれど、逃げなかった。
ルカはその返事を急かさずに待つ。
エルンはやがて顔を上げた。
海ではなく、ルカを見て言う。
「でも、今度は僕が道を読む」
ルカは一度だけ瞬きをした。
それから笑った。
「うん。お願い」
迷いはなかった。
潮名航海士ルカ=ネリスには、読めない海がある。
そのことを、初めてはっきりと認めた。
けれど、それで航海が終わるわけではない。
自分の目に映らない道を、隣にいる誰かが読めるのなら、その声を信じて舵を取ればいい。
名はいつも、一人で還るわけではない。
船だって、一人の航海士だけで進む必要はない。
浜の向こうでは朝の海が静かに光り、その下にはルカの知らない道が続いている。
今度は、エルンの見る海を辿る番だった。




