第二節 ― 還ってきた名前を、喜べない少女
ナミル=レイを繋ぐより先に、ルカは桟橋から飛び降りた。
「ルカ、縄」
「あっ」
エルンに言われて振り返ると、船尾の係留索がまだルカの手に残っていた。
「ごめん、ナミル!」
慌てて杭へ二重に巻き、最後に船縁をぽんと叩く。吊られた名札飾りが、ちり、と不満そうに鳴った。
「ちゃんと帰ってくるから」
もう一度、ちり、と鳴る。
「怒ってる?」
「たぶん」
「あとで謝る」
エルンがナミル=レイから降りるのを待ち、二人はそのまま東浜へ走った。
朝はすでに明けていた。
それなのに浜には、夜明け前とは別種の薄暗さが残っている。
無数の貝殻が光っているからだった。
白砂の上には細い縄が何本も張られ、浜はいくつもの区画へ分けられている。まだ開いていない貝、すでに割れた貝、名前だけが確認されたもの、持ち主と思われる人物や家族が見つかったもの。
還名神官たちは区画のあいだを走り回り、潮紙へ次々と記録を書きつけていた。
「白殻、三十七。未開封!」
「青黒殻、十二。名反応あり!」
「こちら、照合できた! 三十年前に海難記録あり!」
「本人は?」
「死亡。娘が来てる!」
「なら遺品と照合しろ。まだ触れさせるな!」
いつもの還名とは、まるで違う。
普段なら、一つの名へ何人もの神官が時間をかける。潮の状態を読み、記録を照合し、誰へ返すべきかを確かめてから、ようやく家族へ渡す。
今日は数が多すぎた。
浜全体が、巨大な還名場になっている。
その中央で、青白い名前が次々と立ち上がっていた。
「ルカ!」
白青の祭衣を着た神官がルカへ気づき、駆け寄ってくる。額には汗が浮いていた。
「ちょうどよかった。名拾いが足りない」
「これ、何なんですか」
「分からん。深海性の貝だという者もいるが、この辺りで見つかった記録がない」
「開いた名前を返してるんですか?」
「照合できたものからだ。何十年も前の失名記録と一致するものもある」
神官は言いながら、少し離れた区画を指した。
「見ろ。あそこは三件とも家族が確認した。本人しか知り得ない呼び名まで一致している」
確かに、泣いている者がいた。
年老いた男が開いた貝を両手で包み込むようにし、その隣では家族らしい者たちが肩を抱いている。別の場所では、若い女性が青い光へ向かって何度も誰かの名を呼んでいた。
喜んでいる。
奇跡だと思っている。
それでもルカの指先には、あの青黒い貝へ触れた時の冷たさが残っていた。
陽の届かない深さ。
長い眠り。
そして、あの弱い拒絶。
――戻さないで。
「勝手に返さない方がいいです」
神官の顔が強張った。
「何か読んだのか?」
「一つだけ。でも、いつもの漂着名と違いました」
「どう違う」
「まだ、うまく言えません」
ルカは浜を見渡した。
「だから、もう少し待ってください」
「待てと言っても――」
神官が振り返る。
その先では、人々の声が幾重にも重なっていた。
もう何十年も待った。
やっと還ってきた。
なぜ渡してはいけないのか。
神官は疲れた顔で息を吐いた。
「分かった。少なくとも未照合のものは止める。お前は開いたものを見てくれ」
「はい」
「エルンも頼めるか」
呼ばれたエルンは返事をしなかった。
浜の向こうを見ている。
「エルン?」
「あっち」
少年が指差した。
人だかりが一つ、妙に騒がしかった。
ほかの場所とは違う。
泣いて喜ぶ声ではない。
「返して!」
少女の声だった。
「それ、閉じてよ!」
ルカとエルンは顔を見合わせ、そのまま人垣を抜けた。
砂の上に、一つの貝が置かれている。
青黒い殻はすでに完全に開き、中央には暗い海水が溜まっていた。その上へ細い光が立っている。
名前だ。
文字ではない。
耳へ届く音と、水面へ浮かぶ輪郭とが重なり、一人の人間を示している。
その周囲には五、六人の男女が集まっていた。いずれも同じ家系なのだろう。顔立ちのどこかが似ている。
その中で、一人だけ明らかに様子の違う少女がいた。
十七、八歳ほど。栗色の髪を肩のあたりで切りそろえ、生成りの仕事着の上へ薄い青の外套を羽織っている。急いで家を出てきたのか、片方の靴紐がほどけたままだった。
少女は貝と親族たちのあいだに立っていた。
まるで、何かを守るように。
「シア、いい加減にしなさい」
年配の女が諭す。
「どうして嫌がるの。あなたのお母さんの名前なのよ」
「母さんの名前は、マレナ=フィルです」
「それは後から使っていた名前でしょう」
「だから何?」
「だから……」
女が困ったように周囲を見たところへ、中年の男が口を挟んだ。
「シア。悪いことじゃないんだ」
「何が?」
「お前のお母さんが、ようやく昔の名前まで取り戻せたんだぞ」
「取り戻したって、誰が言ったの」
「海が返したんだろう」
男は開いた貝へ視線を落とした。その顔には、本物の喜びがある。
「これでようやく、本当の名前で弔える」
シアの顔が歪んだ。
「やめて」
「シア」
「それを本当って決めないで」
浜のざわめきの中でも、その声だけははっきり聞こえた。
ルカは足を止める。
少女は泣いていない。
怒っていた。
けれど、その声は震えている。
「母さんは、マレナ=フィルだった」
「だから、その前の名も――」
「知ってる!」
シアが叫んだ。
周囲の者たちが黙る。
彼女は胸元を強く握った。
「昔、別の名前だったことくらい知ってる。母さんから聞いたこともある。全部は話してくれなかったけど、そこを出た時に捨てたって」
男の表情が曇る。
「若い頃の話だろう」
「そうだよ」
「なら、なおさら――」
「なんで?」
シアが睨んだ。
「なんで昔の名前が出てきたら、今までの母さんが偽物になるの?」
誰も答えなかった。
「ちょっと見せてもらっていい?」
ルカが声をかけると、全員の視線が集まった。
「名拾いのルカ=ネリスです」
シアはルカの顔を見た。次に腰の潮紙箱、それからエルンへ目を向ける。
「……この名前を返しに来た人?」
「違う」
ルカはすぐに答えた。
「何が起きてるのか調べてる」
シアの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
「触っても?」
ルカが貝を示す。
シアはためらった。
「持っていかない?」
「勝手には」
その一言で、少女は小さく頷いた。
ルカは貝の前へしゃがみ込む。
近づいただけで、名前の輪郭が皮膚へ触れた。
古い。
けれど壊れてはいない。
名前そのものから、苦しさは感じなかった。誰かを傷つけようとしているわけでも、偽名でも、後から作られた名でもない。
かつて確かに、この名を呼ばれて振り向いた人がいた。
この名で食事をし、眠り、叱られ、笑った。誰かに抱かれ、誰かを嫌い、泣いた。
まだ若かった一人の女性の人生が、そこには残っている。
「……嘘じゃない」
ルカは思わず呟いた。
「ほら」
親族の男が言う。
「名拾いにも分かるんだ」
「待って」
ルカは顔を上げた。
「そういう意味じゃない」
もう一度、名へ触れる。
確かに本物だ。
なら、何がいけないのか。
マレナ=フィルも本人で、この古い出生名も本人だった。二つとも、本当に彼女が生きた名前なら、どちらかを偽物と決める必要はない。
「シア」
「何?」
「お母さんは、この名前を嫌ってたの?」
少女は少し考えた。
「分からない」
「分からない?」
「嫌いだったのかもしれない。でも、そうじゃなかったのかもしれない」
シアは貝を見る。
「母さん、昔のことを話したがらなかったから」
「じゃあ……」
ルカは言葉を選ぶ。
「どっちも、お母さんの名前だったって考えるのは駄目なのかな」
その瞬間、シアの目がルカへ向いた。
強い目だった。
「だったかもしれない」
否定ではなかった。
ルカは少し意外に思う。
シアは続けた。
「昔、その名前で生きてたなら、その時の母さんには本当だったんだと思う」
「なら――」
「でも」
少女は遮った。
「母さんが捨てた名前を、死んだあとで勝手に本当へ戻さないで」
ルカは口を閉ざした。
「昔の名前が嘘だったなんて言ってない。なかったことにしたいとも言ってない」
シアの声が低くなる。
「でも、母さんはその名前を置いてきたんだよ」
誰も何も言わない。
「それから何年も、マレナ=フィルで生きた」
シアは一つずつ確かめるように言った。
「父さんと会った時も。私が生まれた時も。私を叱った時も。笑った時も。病気になった時も。死ぬ時も」
唇が震える。
「最後に私が呼んだのも、マレナ=フィルだよ」
初めて、その目に涙が浮かんだ。
「それを、昔の名前が出てきたからって……『こっちが本当でした』って。そんなの、おかしいよ」
ルカの胸の奥で、何かが小さく痛んだ。
本当の名。
その言葉を、自分はどれほど追いかけてきただろう。
ルカ=ネリスは、本当の名前ではない。
心のどこかで、そう思っていた。
いつか失った真名が還ってくれば、自分が何者なのか分かる。だから七つの響きを追っている。
もし、いつかそれが全部揃ったら。
その時、《ルカ=ネリス》は何になるのだろう。
借り物なのか。
仮の名なのか。
間違っていた名前なのか。
それまで生きてきた自分より、昔の名前の方が「本当」になるのだろうか。
胸の奥で、四つの潮真名がかすかに揺れた。
ルカは反射的に首元へ手をやる。
「シア」
親族の女が戸惑った声を出した。
「でもね、私……」
女は貝から立ち上る古い名前を見つめる。
「この名前、知ってる気がするの」
シアが振り向いた。
「え?」
「おかしいわね。私、姉さんと知り合った時には、もうマレナだったはずなのに」
女はこめかみを押さえた。
「でも……ずっと、こっちで呼んでいたような」
「そんなわけない」
「そう、よね」
女自身が混乱している。
別の男も眉を寄せた。
「いや……待て」
彼は古い名前を小さく口にする。
一度。
もう一度。
「俺も、昔からその名前だったような気がしてきた」
「やめて!」
シアが鋭く叫んだ。
「その名前で呼ばないで!」
「だが――」
「母さんはマレナ=フィル!」
少女はほとんど叩きつけるように言った。
「マレナ=フィル!」
開いた貝の光が揺れる。
その時だった。
「ルカ」
エルンが呼んだ。
彼はシアたちではなく、その横に置かれた小さな木箱を見ている。
遺品箱らしい。シアが家から持ってきたのだろう。中には古い髪留め、小さな裁縫鋏、擦れた指輪、潮紙の束、そして一枚の薄い貝札が入っていた。
「これ……」
エルンが指差す。
貝札には名前が刻まれていた。
《マレナ=フィル》
ルカは息を呑んだ。
文字が薄い。
古びて摩耗したのではない。まだはっきり読める部分と、消えかけている部分との境目があまりにも鮮明だった。
「これ、いつから?」
ルカが訊く。
シアも初めて気づいたらしい。
「そんな……」
遺品箱の前へ膝をつき、札を持ち上げる。
「朝、持ってきた時はちゃんと読めた」
《マレナ》の部分が特に薄い。
貝の内側へ刻まれていたはずの文字が、海水へ溶けるように輪郭を失っていた。
「嘘……」
シアの指が震える。
「母さん」
指先で擦る。
当然、文字は戻らない。
「マレナ」
もう一度呼ぶ。
「マレナ=フィル」
消えかけた文字が、ごくわずかに光った。
ルカは目を見開く。
「もう一回」
「え?」
「名前を呼んで」
シアは札を胸へ抱いた。
「マレナ=フィル」
弱い。
けれど、確かに反応した。
「マレナ=フィル」
今度は少し強く。
「母さんは、マレナ=フィル」
古い出生名を宿した貝が、青黒く脈打った。
そのたびに遺品の文字が薄くなる。
一方で、シアが《マレナ=フィル》と呼ぶと、消えかけた文字は辛うじて踏みとどまった。
「……食ってる?」
ルカが呟く。
エルンは首を横に振った。
「違うと思う」
「じゃあ、何?」
「押してる」
「押してる?」
エルンは開いた貝を見る。
「こっちが上に来るほど、今まであった名前が沈んでる」
ぞくり、とルカの背中が冷えた。
名前が一つ戻ったから、もう一つが消える。
そんなものを、本当に還名と呼んでいいのか。
「神官さん!」
ルカは立ち上がった。
「これ、他でも起きてないか調べて!」
「何がだ!」
「還ってきた名前と関係のある人の、今使ってる潮名! 遺品! 記録! 何でもいい!」
神官の顔色が変わる。
「消えてるのか?」
「たぶん!」
「分かった!」
男はすぐに走り出した。
ルカは再び貝を見る。
古い名は、やはり悪くない。
そこに悪意などない。
かつてマレナ=フィルになる前の女性が、確かに生きた証だ。
だから余計に分からなかった。
どちらも本物なら、どうして一方が一方を押し退けるのか。
どうして戻ってきた名が、今まで残っていた名を薄くするのか。
「名って……戻ればいいんじゃないの?」
ルカは小さく言った。
誰に訊いたわけでもない。
いつだって、そうしてきた。
帰りたい名を拾った。沈みすぎた名を呼んだ。誰かに届かなかった名を、届くところまで運んだ。
還ることが救いではない場合もあるとは、知っていたつもりだった。読まないことで守る名があり、他人が勝手に決めてはいけない名もある。
それでも心のどこかでは、最後には還った方がいいのだと思っていた。
失われたままよりも。
忘れられたままよりも。
いつかは持ち主へ戻った方がいいのだと。
けれど、目の前で起きていることは違う。
古い名が偽物だから危険なのではない。
本物だからこそ、今ある名を押しのけようとしている。
二つとも、その人が生きた名前なのに、まるで古い方だけが「最初から正しかった」と言わんばかりに、後から選ばれた名を沈めていく。
潮は、名を覚えている。
けれど、覚えていることと、それを今へ戻すことは同じではない。
ルカはその違いを、今初めて目の前へ突きつけられていた。
シアが遺品札を抱いたまま顔を上げる。
「名拾いなんでしょ」
「うん」
「だったらお願い」
涙が頬を伝っていた。
「母さんを返して」
ルカは答えられなかった。
シアは開いた貝を見ない。
胸元の札だけを見つめている。
「昔の母さんを消せって言ってるんじゃない」
震える息を吸う。
「でも、今まで生きた母さんまで消さないで」
そして、何度目か分からないほど強く、その名前を呼んだ。
「マレナ=フィル」
薄れた文字が、小さく光る。
「母さんは、マレナ=フィルだった」
その声には、昔の名前を否定する響きはなかった。
ただ、自分が知っている母親を、今ここから消させまいとしていた。
ルカはその姿を見つめながら、無意識に自分の胸へ手を置いた。
そこには、四つの潮真名がある。
まだ知らない名前へ続いているかもしれない音。
ずっと探してきたもの。
戻ってきてほしいと願っていたもの。
その四つが、今までとは違う響きで胸の奥を震わせている。
もし七つすべてが揃った時、昔の名が《ルカ=ネリス》を押しのけようとしたら。
もし、自分を呼んできた今の名前が薄れ、知らない誰かの名だけが「本当」として浮かび上がったら。
それでも自分は、還ってきたと喜べるのだろうか。
ルカには、まだ答えられなかった。
ただ一つ分かったのは、ずっと待ち望んできたはずの「本当の名」が、初めて少しだけ怖く聞こえたことだった。




