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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第9話 沈んだ名は、還らないまま眠っていた
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第二節 ― 還ってきた名前を、喜べない少女

 ナミル=レイを繋ぐより先に、ルカは桟橋から飛び降りた。


「ルカ、縄」


「あっ」


 エルンに言われて振り返ると、船尾の係留索がまだルカの手に残っていた。


「ごめん、ナミル!」


 慌てて杭へ二重に巻き、最後に船縁をぽんと叩く。吊られた名札飾りが、ちり、と不満そうに鳴った。


「ちゃんと帰ってくるから」


 もう一度、ちり、と鳴る。


「怒ってる?」


「たぶん」


「あとで謝る」


 エルンがナミル=レイから降りるのを待ち、二人はそのまま東浜へ走った。


 朝はすでに明けていた。


 それなのに浜には、夜明け前とは別種の薄暗さが残っている。


 無数の貝殻が光っているからだった。


 白砂の上には細い縄が何本も張られ、浜はいくつもの区画へ分けられている。まだ開いていない貝、すでに割れた貝、名前だけが確認されたもの、持ち主と思われる人物や家族が見つかったもの。


 還名神官たちは区画のあいだを走り回り、潮紙へ次々と記録を書きつけていた。


「白殻、三十七。未開封!」


「青黒殻、十二。名反応あり!」


「こちら、照合できた! 三十年前に海難記録あり!」


「本人は?」


「死亡。娘が来てる!」


「なら遺品と照合しろ。まだ触れさせるな!」


 いつもの還名とは、まるで違う。


 普段なら、一つの名へ何人もの神官が時間をかける。潮の状態を読み、記録を照合し、誰へ返すべきかを確かめてから、ようやく家族へ渡す。


 今日は数が多すぎた。


 浜全体が、巨大な還名場になっている。


 その中央で、青白い名前が次々と立ち上がっていた。


「ルカ!」


 白青の祭衣を着た神官がルカへ気づき、駆け寄ってくる。額には汗が浮いていた。


「ちょうどよかった。名拾いが足りない」


「これ、何なんですか」


「分からん。深海性の貝だという者もいるが、この辺りで見つかった記録がない」


「開いた名前を返してるんですか?」


「照合できたものからだ。何十年も前の失名記録と一致するものもある」


 神官は言いながら、少し離れた区画を指した。


「見ろ。あそこは三件とも家族が確認した。本人しか知り得ない呼び名まで一致している」


 確かに、泣いている者がいた。


 年老いた男が開いた貝を両手で包み込むようにし、その隣では家族らしい者たちが肩を抱いている。別の場所では、若い女性が青い光へ向かって何度も誰かの名を呼んでいた。


 喜んでいる。


 奇跡だと思っている。


 それでもルカの指先には、あの青黒い貝へ触れた時の冷たさが残っていた。


 陽の届かない深さ。


 長い眠り。


 そして、あの弱い拒絶。


 ――戻さないで。


「勝手に返さない方がいいです」


 神官の顔が強張った。


「何か読んだのか?」


「一つだけ。でも、いつもの漂着名と違いました」


「どう違う」


「まだ、うまく言えません」


 ルカは浜を見渡した。


「だから、もう少し待ってください」


「待てと言っても――」


 神官が振り返る。


 その先では、人々の声が幾重にも重なっていた。


 もう何十年も待った。


 やっと還ってきた。


 なぜ渡してはいけないのか。


 神官は疲れた顔で息を吐いた。


「分かった。少なくとも未照合のものは止める。お前は開いたものを見てくれ」


「はい」


「エルンも頼めるか」


 呼ばれたエルンは返事をしなかった。


 浜の向こうを見ている。


「エルン?」


「あっち」


 少年が指差した。


 人だかりが一つ、妙に騒がしかった。


 ほかの場所とは違う。


 泣いて喜ぶ声ではない。


「返して!」


 少女の声だった。


「それ、閉じてよ!」


 ルカとエルンは顔を見合わせ、そのまま人垣を抜けた。


 砂の上に、一つの貝が置かれている。


 青黒い殻はすでに完全に開き、中央には暗い海水が溜まっていた。その上へ細い光が立っている。


 名前だ。


 文字ではない。


 耳へ届く音と、水面へ浮かぶ輪郭とが重なり、一人の人間を示している。


 その周囲には五、六人の男女が集まっていた。いずれも同じ家系なのだろう。顔立ちのどこかが似ている。


 その中で、一人だけ明らかに様子の違う少女がいた。


 十七、八歳ほど。栗色の髪を肩のあたりで切りそろえ、生成りの仕事着の上へ薄い青の外套を羽織っている。急いで家を出てきたのか、片方の靴紐がほどけたままだった。


 少女は貝と親族たちのあいだに立っていた。


 まるで、何かを守るように。


「シア、いい加減にしなさい」


 年配の女が諭す。


「どうして嫌がるの。あなたのお母さんの名前なのよ」


「母さんの名前は、マレナ=フィルです」


「それは後から使っていた名前でしょう」


「だから何?」


「だから……」


 女が困ったように周囲を見たところへ、中年の男が口を挟んだ。


「シア。悪いことじゃないんだ」


「何が?」


「お前のお母さんが、ようやく昔の名前まで取り戻せたんだぞ」


「取り戻したって、誰が言ったの」


「海が返したんだろう」


 男は開いた貝へ視線を落とした。その顔には、本物の喜びがある。


「これでようやく、本当の名前で弔える」


 シアの顔が歪んだ。


「やめて」


「シア」


「それを本当って決めないで」


 浜のざわめきの中でも、その声だけははっきり聞こえた。


 ルカは足を止める。


 少女は泣いていない。


 怒っていた。


 けれど、その声は震えている。


「母さんは、マレナ=フィルだった」


「だから、その前の名も――」


「知ってる!」


 シアが叫んだ。


 周囲の者たちが黙る。


 彼女は胸元を強く握った。


「昔、別の名前だったことくらい知ってる。母さんから聞いたこともある。全部は話してくれなかったけど、そこを出た時に捨てたって」


 男の表情が曇る。


「若い頃の話だろう」


「そうだよ」


「なら、なおさら――」


「なんで?」


 シアが睨んだ。


「なんで昔の名前が出てきたら、今までの母さんが偽物になるの?」


 誰も答えなかった。


「ちょっと見せてもらっていい?」


 ルカが声をかけると、全員の視線が集まった。


「名拾いのルカ=ネリスです」


 シアはルカの顔を見た。次に腰の潮紙箱、それからエルンへ目を向ける。


「……この名前を返しに来た人?」


「違う」


 ルカはすぐに答えた。


「何が起きてるのか調べてる」


 シアの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。


「触っても?」


 ルカが貝を示す。


 シアはためらった。


「持っていかない?」


「勝手には」


 その一言で、少女は小さく頷いた。


 ルカは貝の前へしゃがみ込む。


 近づいただけで、名前の輪郭が皮膚へ触れた。


 古い。


 けれど壊れてはいない。


 名前そのものから、苦しさは感じなかった。誰かを傷つけようとしているわけでも、偽名でも、後から作られた名でもない。


 かつて確かに、この名を呼ばれて振り向いた人がいた。


 この名で食事をし、眠り、叱られ、笑った。誰かに抱かれ、誰かを嫌い、泣いた。


 まだ若かった一人の女性の人生が、そこには残っている。


「……嘘じゃない」


 ルカは思わず呟いた。


「ほら」


 親族の男が言う。


「名拾いにも分かるんだ」


「待って」


 ルカは顔を上げた。


「そういう意味じゃない」


 もう一度、名へ触れる。


 確かに本物だ。


 なら、何がいけないのか。


 マレナ=フィルも本人で、この古い出生名も本人だった。二つとも、本当に彼女が生きた名前なら、どちらかを偽物と決める必要はない。


「シア」


「何?」


「お母さんは、この名前を嫌ってたの?」


 少女は少し考えた。


「分からない」


「分からない?」


「嫌いだったのかもしれない。でも、そうじゃなかったのかもしれない」


 シアは貝を見る。


「母さん、昔のことを話したがらなかったから」


「じゃあ……」


 ルカは言葉を選ぶ。


「どっちも、お母さんの名前だったって考えるのは駄目なのかな」


 その瞬間、シアの目がルカへ向いた。


 強い目だった。


「だったかもしれない」


 否定ではなかった。


 ルカは少し意外に思う。


 シアは続けた。


「昔、その名前で生きてたなら、その時の母さんには本当だったんだと思う」


「なら――」


「でも」


 少女は遮った。


「母さんが捨てた名前を、死んだあとで勝手に本当へ戻さないで」


 ルカは口を閉ざした。


「昔の名前が嘘だったなんて言ってない。なかったことにしたいとも言ってない」


 シアの声が低くなる。


「でも、母さんはその名前を置いてきたんだよ」


 誰も何も言わない。


「それから何年も、マレナ=フィルで生きた」


 シアは一つずつ確かめるように言った。


「父さんと会った時も。私が生まれた時も。私を叱った時も。笑った時も。病気になった時も。死ぬ時も」


 唇が震える。


「最後に私が呼んだのも、マレナ=フィルだよ」


 初めて、その目に涙が浮かんだ。


「それを、昔の名前が出てきたからって……『こっちが本当でした』って。そんなの、おかしいよ」


 ルカの胸の奥で、何かが小さく痛んだ。


 本当の名。


 その言葉を、自分はどれほど追いかけてきただろう。


 ルカ=ネリスは、本当の名前ではない。


 心のどこかで、そう思っていた。


 いつか失った真名が還ってくれば、自分が何者なのか分かる。だから七つの響きを追っている。


 もし、いつかそれが全部揃ったら。


 その時、《ルカ=ネリス》は何になるのだろう。


 借り物なのか。


 仮の名なのか。


 間違っていた名前なのか。


 それまで生きてきた自分より、昔の名前の方が「本当」になるのだろうか。


 胸の奥で、四つの潮真名がかすかに揺れた。


 ルカは反射的に首元へ手をやる。


「シア」


 親族の女が戸惑った声を出した。


「でもね、私……」


 女は貝から立ち上る古い名前を見つめる。


「この名前、知ってる気がするの」


 シアが振り向いた。


「え?」


「おかしいわね。私、姉さんと知り合った時には、もうマレナだったはずなのに」


 女はこめかみを押さえた。


「でも……ずっと、こっちで呼んでいたような」


「そんなわけない」


「そう、よね」


 女自身が混乱している。


 別の男も眉を寄せた。


「いや……待て」


 彼は古い名前を小さく口にする。


 一度。


 もう一度。


「俺も、昔からその名前だったような気がしてきた」


「やめて!」


 シアが鋭く叫んだ。


「その名前で呼ばないで!」


「だが――」


「母さんはマレナ=フィル!」


 少女はほとんど叩きつけるように言った。


「マレナ=フィル!」


 開いた貝の光が揺れる。


 その時だった。


「ルカ」


 エルンが呼んだ。


 彼はシアたちではなく、その横に置かれた小さな木箱を見ている。


 遺品箱らしい。シアが家から持ってきたのだろう。中には古い髪留め、小さな裁縫鋏、擦れた指輪、潮紙の束、そして一枚の薄い貝札が入っていた。


「これ……」


 エルンが指差す。


 貝札には名前が刻まれていた。


《マレナ=フィル》


 ルカは息を呑んだ。


 文字が薄い。


 古びて摩耗したのではない。まだはっきり読める部分と、消えかけている部分との境目があまりにも鮮明だった。


「これ、いつから?」


 ルカが訊く。


 シアも初めて気づいたらしい。


「そんな……」


 遺品箱の前へ膝をつき、札を持ち上げる。


「朝、持ってきた時はちゃんと読めた」


《マレナ》の部分が特に薄い。


 貝の内側へ刻まれていたはずの文字が、海水へ溶けるように輪郭を失っていた。


「嘘……」


 シアの指が震える。


「母さん」


 指先で擦る。


 当然、文字は戻らない。


「マレナ」


 もう一度呼ぶ。


「マレナ=フィル」


 消えかけた文字が、ごくわずかに光った。


 ルカは目を見開く。


「もう一回」


「え?」


「名前を呼んで」


 シアは札を胸へ抱いた。


「マレナ=フィル」


 弱い。


 けれど、確かに反応した。


「マレナ=フィル」


 今度は少し強く。


「母さんは、マレナ=フィル」


 古い出生名を宿した貝が、青黒く脈打った。


 そのたびに遺品の文字が薄くなる。


 一方で、シアが《マレナ=フィル》と呼ぶと、消えかけた文字は辛うじて踏みとどまった。


「……食ってる?」


 ルカが呟く。


 エルンは首を横に振った。


「違うと思う」


「じゃあ、何?」


「押してる」


「押してる?」


 エルンは開いた貝を見る。


「こっちが上に来るほど、今まであった名前が沈んでる」


 ぞくり、とルカの背中が冷えた。


 名前が一つ戻ったから、もう一つが消える。


 そんなものを、本当に還名と呼んでいいのか。


「神官さん!」


 ルカは立ち上がった。


「これ、他でも起きてないか調べて!」


「何がだ!」


「還ってきた名前と関係のある人の、今使ってる潮名! 遺品! 記録! 何でもいい!」


 神官の顔色が変わる。


「消えてるのか?」


「たぶん!」


「分かった!」


 男はすぐに走り出した。


 ルカは再び貝を見る。


 古い名は、やはり悪くない。


 そこに悪意などない。


 かつてマレナ=フィルになる前の女性が、確かに生きた証だ。


 だから余計に分からなかった。


 どちらも本物なら、どうして一方が一方を押し退けるのか。


 どうして戻ってきた名が、今まで残っていた名を薄くするのか。


「名って……戻ればいいんじゃないの?」


 ルカは小さく言った。


 誰に訊いたわけでもない。


 いつだって、そうしてきた。


 帰りたい名を拾った。沈みすぎた名を呼んだ。誰かに届かなかった名を、届くところまで運んだ。


 還ることが救いではない場合もあるとは、知っていたつもりだった。読まないことで守る名があり、他人が勝手に決めてはいけない名もある。


 それでも心のどこかでは、最後には還った方がいいのだと思っていた。


 失われたままよりも。


 忘れられたままよりも。


 いつかは持ち主へ戻った方がいいのだと。


 けれど、目の前で起きていることは違う。


 古い名が偽物だから危険なのではない。


 本物だからこそ、今ある名を押しのけようとしている。


 二つとも、その人が生きた名前なのに、まるで古い方だけが「最初から正しかった」と言わんばかりに、後から選ばれた名を沈めていく。


 潮は、名を覚えている。


 けれど、覚えていることと、それを今へ戻すことは同じではない。


 ルカはその違いを、今初めて目の前へ突きつけられていた。


 シアが遺品札を抱いたまま顔を上げる。


「名拾いなんでしょ」


「うん」


「だったらお願い」


 涙が頬を伝っていた。


「母さんを返して」


 ルカは答えられなかった。


 シアは開いた貝を見ない。


 胸元の札だけを見つめている。


「昔の母さんを消せって言ってるんじゃない」


 震える息を吸う。


「でも、今まで生きた母さんまで消さないで」


 そして、何度目か分からないほど強く、その名前を呼んだ。


「マレナ=フィル」


 薄れた文字が、小さく光る。


「母さんは、マレナ=フィルだった」


 その声には、昔の名前を否定する響きはなかった。


 ただ、自分が知っている母親を、今ここから消させまいとしていた。


 ルカはその姿を見つめながら、無意識に自分の胸へ手を置いた。


 そこには、四つの潮真名がある。


 まだ知らない名前へ続いているかもしれない音。


 ずっと探してきたもの。


 戻ってきてほしいと願っていたもの。


 その四つが、今までとは違う響きで胸の奥を震わせている。


 もし七つすべてが揃った時、昔の名が《ルカ=ネリス》を押しのけようとしたら。


 もし、自分を呼んできた今の名前が薄れ、知らない誰かの名だけが「本当」として浮かび上がったら。


 それでも自分は、還ってきたと喜べるのだろうか。


 ルカには、まだ答えられなかった。


 ただ一つ分かったのは、ずっと待ち望んできたはずの「本当の名」が、初めて少しだけ怖く聞こえたことだった。

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