第一節 ― 四つの名は、すべて下を向く
エル=ミラウを離れてから、ルカは同じことを何度繰り返したか分からなくなっていた。
ナミル=レイの船尾にある小さな星見台。潮鏡には新しい海水が張られ、その脇には星潮羅針盤、開いた海図、貝殻盤、星砂盤が所狭しと並んでいる。
夜はもう深かった。
空には星がある。海にも星がある。本来なら、それだけでルカには十分だった。空と水面、二つの星を重ねれば、たとえ普通の海図にはない場所でも、どこへ向かえばいいのかくらいは読める。
けれど、今夜ばかりは何度やっても同じだった。
潮鏡の中央には、四つの波紋が浮いている。
一つ目は、胸の奥で鳴るような響き。二つ目は、鯨歌から受け取った、文字へ移せない一音。三つ目は、返された記憶の中から残った響き。そして四つ目は、エル=ミラウの水鏡で受け取った、まだ新しい音。
どれも形はない。貝殻へ刻めるものでも、潮紙へそのまま書き留められるものでもなかった。それでも今では、ルカが意識を向ければ潮鏡の上へ呼び出せる程度には、自分の中へ馴染んでいる。
四つの波紋が順番に広がった。
一つ、二つ、三つ、四つ。
間隔を少し変えてみる。逆から鳴らしてみる。二つずつ重ねてもみる。
どの組み合わせでも、四つは互いを拒まない。
むしろ、繋がろうとしていた。
「……やっぱり、一つの名前なんだよね」
ルカは潮鏡へ頬杖をついた。
四つを続けて響かせる。
ほんの一瞬だけ、ばらばらだった音が一つの呼びかけへ近づいた。
けれど、そこで途切れる。
続きを待つように、水面だけが小さく震えていた。
神の名なら、もっと長い。
ネリュエの祈祷名でも、神殿で用いられる正式な祈りには反復がある。呼びかけと応答。潮へ預ける音。還りを待つ音。一つの神名へ祈るだけでも、その中には潮が巡るような響きが何重にも重なっている。
この四つには、それがない。
あまりにも短い。
まるで誰か一人へ向かって、ただ名を呼んでいるような響きだった。
ルカは唇を尖らせる。
「神様じゃないなら、誰なんだろ」
返事はなかった。
少し離れた船縁には、エルンが座っている。膝を抱え、暗い海をじっと見ていた。
いつもなら、ルカが潮鏡をいじり始めれば途中で覗きに来る。分からなくても一緒に見ているし、ときにはルカより先に妙なところへ気づく。
今夜は来ない。
「エルン」
「うん」
「退屈?」
「退屈じゃない」
「じゃあ、難しい顔してる」
エルンがこちらを見る。
「ルカもしてる」
「私は考えてる顔」
「僕も考えてる」
「何を?」
訊くと、エルンはまた海へ視線を戻した。
「まだ分からない」
最近、その答えが多い。
ルカは少しだけ眉を寄せたものの、それ以上は追及せず、星潮羅針盤へ手を伸ばした。
「じゃあ、こっちは私が何とかする」
星潮羅針盤の盤面には、空の星を模した細かな銀点と、潮流を示す青緑の線が刻まれている。
ルカは四つの潮真名を、一度羅針盤へ聞かせた。
針が震える。
北へ寄る。
違う。
南へ傾き、それも違うように戻ってくる。東へわずかに振れたかと思えば、西へ揺り返した。
「……迷ってる?」
普通なら、こんな動きはしない。
潮名に残った航路を読めば、少なくとも「どちらへ行こうとしているのか」は出る。名前そのものは方角を知らなくても、向きを持っている。
誰かへ。
故郷へ。
海へ。
祈りへ。
失われた場所へ。
どれほど弱い名でも、何かを求めているなら、その方角へ向かう揺らぎが残る。
けれど、四つの響きは違った。
どこにも向かわない。
「……じゃあ」
ルカは星潮羅針盤を持ち上げ、そのまま上下を逆さにした。
「ルカ?」
「方角が駄目なら、見方を変える」
「逆さにしても星は同じだと思う」
「言わないで。今ちょっと賢いことした気分だったから」
「ごめん」
「謝られるともっと悲しい」
エルンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
ルカは逆さにした羅針盤を覗き込む。
針はゆっくり揺れ、やがて止まった。
「……駄目かあ」
盤面のどこも指していない。
ルカは羅針盤を元へ戻し、今度は潮鏡を両手で持ち上げた。そのまま船縁まで運び、海へ向けてみる。
何も出ない。
空へ向ければ星しか映らない。船首へ、船尾へと角度を変えても変化はなかった。
「ええい」
最後に床板へ向ける。
海水を張った鏡面には、当然のように船底の木目だけが映った。
「……私、何してるんだろ」
「潮鏡で船底を見てる」
「説明しなくていい」
ルカは肩を落とした。
それでも諦めきれず、今度は海図を広げる。
ネル=エル諸海域。メルナ=レイ。南方浮上都市群。ウェル=メリア。テレシ=グレイス。エル=ミラウ。
これまで通った航路を、指先で一つずつなぞっていく。
第一の響き。
第二。
第三。
第四。
それぞれを得た場所には、確かに流れがあった。
名が漂着した。
記憶された。
返された。
選ばなかった可能性と、今の自分が並んだ。
なら、次にも何かあるはずだった。
名が、さらに次の状態へ移るための道。
それが、どこかに。
「……北じゃない」
ルカは呟き、指を東へ滑らせる。
「東でもない。南でも、西でもない」
四つの響きへ意識を重ねる。
やはり、何も返ってこない。
腹が立って、海図を裏返した。
白い裏面が出る。
「ルカ」
「分かってる。たぶん意味ない」
「うん」
「そこは少しくらい期待してよ」
「裏にも海が描いてあるかもしれないと思った」
「ないよ」
「なかった」
「見れば分かるでしょ」
言いながら、ルカ自身も笑ってしまった。
けれど、その笑いは長く続かなかった。
裏返した海図の上へ手を置く。
何も読めない。
四つまで来た。半分を越えた。
なのに、次がない。
これまでなら、どこかで潮が呼んでいた。
名札が鳴った。鯨が歌った。祈魚が運んだ。水鏡が道を作った。
今回は、何もない。
海が急に口を閉ざしたようだった。
「……ねえ、エルン」
「うん」
「本当に何も感じない?」
エルンは答えなかった。
ルカは顔を上げる。
少年は暗い海を見たままだった。
さっきまでとは違う。
考えているのではない。
聞いている。
「エルン?」
「静かにして」
低い声だった。
ルカは口を閉じた。
波。
帆。
縄の軋み。
船腹を水が撫でる音。
両舷の名札が、ちり、と小さく触れ合う。
ルカには、それ以外の何も聞こえない。
エルンの瞳がわずかに細くなる。
「また?」
小声で訊くと、彼は頷いた。
「何が?」
少し迷ってから、エルンは胸元へ手を当てる。
「鐘」
ルカの動きが止まった。
「鐘?」
「うん」
「いつから?」
「……何日か前」
「何日か前って」
「エル=ミラウに着く前から」
「聞いてたの?」
「うん」
「言ってよ」
「遠かったから」
エルンは困ったように眉を寄せた。
「前にも聞いたことがあったし」
ルカはすぐに思い出した。
黒い箱。
ナラ=オルテ。
底がないように見えた暗い水。
箱の中を覗いた時、海底のさらに下から響いてきた鐘。
ごうん。
骨の内側まで震わせるような、あの低い音。
エルンが水面へ現れた始まりにも、鐘があった。
「同じ音?」
「似てる」
「似てる?」
「同じ鐘だと思う。でも」
エルンはそこで言葉を切った。
「前と違う」
「何が?」
彼は夜の海を見る。水面は穏やかで、星だけが揺れていた。
「前は、遠くで鳴ってた」
エルンの指が、胸元の衣服を少しだけ握る。
「海のずっと下で」
ごうん。
ルカには聞こえない。
けれど、エルンが一瞬だけ呼吸を止めたことで、鳴ったのだと分かった。
「今は?」
すぐには答えが返ってこない。
もう一度、鐘が鳴ったのだろう。
エルンの肩が小さく震えた。
「近いの?」
「違う」
エルンは首を振る。
「近づいてるんじゃない」
「じゃあ?」
「僕に鳴ってる」
ルカは何も言えなかった。
エルン自身も、その感覚をうまく説明できないようだった。
「音が、こっちへ来てるんじゃない」
胸へ手を当てたまま、ゆっくりと言葉を探す。
「鳴るたびに、僕の中の下が返事してる」
ルカは無意識に潮鏡を見た。
四つの波紋は、まだそこにある。
第一。
第二。
第三。
第四。
どれも海図のどこへも伸びない。
なのに、エルンは別の何かを聞いている。
「その鐘、どっちから聞こえる?」
「どっち?」
「北とか南とか。海の向こうとか」
エルンは考えた。
顔を上げて星を見る。船首へ目をやり、次に船尾を見る。そして最後に、ゆっくりと足元へ視線を落とした。
「下」
ルカも床板を見る。
「海底?」
「分からない」
「下なんでしょ?」
「うん。でも、海底っていう感じじゃない」
エルンはしゃがみ込み、甲板へ掌を当てた。
その向こうに船室がある。さらに船底。その下には海があり、もっと深いところへ暗さが続いている。
「深い?」
「……深いとも違う」
また鐘が鳴ったのだろう。
エルンの目がわずかに揺れた。
「忘れていく方」
「え?」
「誰にも呼ばれなくなる方」
ルカは眉を寄せる。
「それが、下?」
「たぶん」
「また、たぶん」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
ルカは潮鏡を持ち上げ、四つの波紋をもう一度呼び出した。
今度は海図へ向けない。
鏡を水平に戻し、指を水面へ近づける。
響きを一つずつ重ねた。
一。
二。
三。
四。
その続きを待つ。
何もない。
けれど、今までとは少しだけ違って見えた。
四つの波紋は、広がっていない。
いや、一度広がったあと、中心へ戻っている。
円が縮んでいく。
沈むように。
潮鏡は浅い器だ。指一本分ほどしか水は入っていない。それなのに、波紋の中心だけが底の見えない穴のように暗く見えた。
「……下」
ルカは呟いた。
エルンが顔を上げる。
四つの響きは、どの方角も指していなかったのではない。
海図の上に、答えがなかったのだ。
「まさかね」
ルカは潮鏡を覗き込む。
「次の道、海の下なの?」
答えるように、ごうん、と響いた。
今度はルカにも、ほんのわずかに聞こえた気がした。
耳ではない。
潮鏡を持つ指先の骨が、低く震えた。
「……今」
「聞こえた?」
「音っていうか」
ルカは胸へ手を当てる。
「何か、鳴った」
エルンの表情が硬くなった。
その瞬間、ナミル=レイの名灯が強く瞬いた。
白い灯ではない。
青。
深い海の底で発光する生き物のような、冷たい青だった。
「ナミル?」
ルカが船首を振り返る。
名灯がもう一度明滅する。
一度。
二度。
三度。
漂着名を見つけた時の知らせではない。危険潮の警告でもない。
港からの呼び灯。
しかも、メルナ=レイ側からだった。
ルカはすぐに星潮羅針盤を取る。
今度は針が迷わない。
まっすぐ母港を指していた。
「メルナ=レイ?」
ルカは帆綱へ手を伸ばす。
「何かあった」
夜明けまでは、そう遠くない。
ナミル=レイはもともと帰港する予定だった。それでも、急ぎの灯なら話は別だ。
「エルン、帆お願い!」
「うん」
二人が同時に動く。
白い帆が風を孕み、船首が大きく向きを変えた。
ナミル=レイはメルナ=レイへ向け、夜明け前の潮を走った。
*
港が見え始めた頃には、東の空が白みかけていた。
いつもなら真珠色の屋根が朝日に浮かび、漁船が一隻ずつ港を出ていく。浜では名拾いたちが、一晩の潮が置いていったものを確かめているはずだった。
けれど、沖から見ても人が多すぎた。
「何、あれ」
東浜に人影が集まっている。
還名神殿の白青い祭衣。
浜守。
漁師。
町の者たち。
何十人ではない。
もっといる。
そして、その足元で無数の光が瞬いていた。
白。
青。
青黒。
真珠色。
朝日の反射ではない。
浜一面に、見たことのない貝殻が打ち上げられている。
ナミル=レイが港内へ入った。
その瞬間、ルカは息を呑んだ。
岸だけではなかった。
海面にも浮いている。
一つ。
二つ。
十。
数えきれない。
まるで沈みかけていたものが底から次々に押し上げられてくるように、貝殻が水面へ現れていた。
しかも、潮へ流されない。
波に揺れながら、どれも同じ場所へ留まり続けている。
「ルカ」
エルンが船縁を握った。
顔色が悪い。
「鐘が」
ごうん。
彼は胸を押さえた。
「すごく近い」
浜から叫び声が聞こえる。
「また開いたぞ!」
「神官を呼べ!」
「触るな!」
別の場所では、誰かが泣いていた。
「還ってきた!」
歓喜の声が上がる。
「父さんの名だ!」
「こっちは姉さんだ!」
ルカは舵を握る手へ力を込めた。
還ってきた。
その言葉を聞いたのに、胸は少しも温かくならなかった。
潮鏡へ現れた四つの響きは、すべて下へ向かっていた。
エルンを呼ぶ鐘も、下から鳴っている。
そして今、その下にあるはずのものが、メルナ=レイの浜へ大量に浮かび上がっている。
「……エルン」
「うん」
「これ」
ルカは、朝の光に染まり始めた浜を見つめた。
「帰ってきたものなのかな」
エルンはすぐには答えなかった。
ただ、水面へ浮かぶ青黒い貝を見ている。
やがて、ほとんど独り言のように言った。
「分からない」
その直後、また鐘が鳴る。
ごうん。
朝の港に、その音を聞いた者はいない。
けれどエルンだけは、はっきりと顔を上げた。
誰かに名を呼ばれた者のように。




