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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第9話 沈んだ名は、還らないまま眠っていた
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序節 ― 海が返してはいけないもの

潮は、すべての名を還すわけではない。


還れないからではない。


まだ呼ばれたくない名も、

もう少し深いところで、

眠っていたい名もある。


もし沈んだ名を見つけたなら、

どうか、すぐに救おうとしないでほしい。


水面へ戻すことだけが、

優しさとは限らない。


待つこともまた、

名を失わないための航路なのだから。

 メルナ=レイの浜に、貝殻が還ってきた。


 最初にそれを見つけたのは、夜明け前の漁へ出ようとしていた老人だった。


 真珠港都市の東浜。潮が大きく引く時間になると、白い砂地が遠くまで露わになる。いつもなら、夜の海が置いていった流木や海藻、砕けた珊瑚、ときには漂着名札までが、濡れた砂の上に細い帯となって並んでいる。


 その朝も、老人は最初、それらをただの漂着物だと思った。


 けれど、数が多すぎた。


 白いもの。青黒いもの。灰色のもの。真珠のように淡く光るもの。掌ほどの大きさしかないものから、両手で抱えなければ持ち上がらないほど巨大なものまで、無数の貝殻が浜一面に散らばっている。


 しかも、波打ち際だけではない。満潮線よりはるか上、昨夜の潮では届かなかったはずの砂地にもあった。岩陰にも、浜へ降りる石段の下にも、名灯籠を立てる低い石壇の周囲にも、まるで最初からそこへ置かれていたように並んでいる。


 老人は足を止めた。


「……なんだ、これは」


 夜明け前の海はまだ黒く、水平線だけがごく薄い藍色へほどけ始めていた。


 波が寄せる。白い泡が砂の上を伸び、老人の足首を濡らした。いくつかの小石が転がり、乾いた海藻が浮き、半分埋もれていた木片が沖へ引かれていく。


 それでも、貝殻だけは一つも動かなかった。


 波は確かに触れている。貝の隙間を白い泡が通り抜け、殻の上を海水が流れていく。それなのに波が引いたあとも、貝殻は先ほどと寸分違わぬ場所に残っていた。


 老人はしばらく立ち尽くした末、持っていた漁籠を砂へ置き、浜へ背を向けた。


「誰か起こせ!」


 静かな港町へ声が走る。


「還名神殿へ知らせろ! 浜がおかしい!」


 夜と朝の境目にあった町が、その声で一気に目を覚ました。


     *


 ほどなくして、東浜には人が集まり始めた。


 漁師、名拾い、浜守、白青の祭衣を羽織った還名神官。寝間着の上へ外套だけを引っかけてきた者もいれば、裸足のまま駆けてきた子どもまでいる。


 誰もが浜を見て、最初は声を失った。それから少しずつ、ざわめきが広がっていく。


「還名貝か?」


「いや、こんな色は見たことがない」


「でも、光ってるぞ」


「中に名があるんじゃないか?」


 その言葉で、人々の空気が変わった。


 名がある。


 ネル=エル諸海域で、その一言はただの珍事では済まない。


 海へ送った名は、いつか還る。潮紙に書かれて戻ることもあれば、名札となって浜へ流れ着くこともある。貝殻の内側に、文字として残されていることさえあった。


 そのために待ち続けている者が、この町にも大勢いる。一年、十年、半生。あるいは、待っていた本人がもういなくなっても、その子や孫が代わりに名を待ち続けている。


 誰かが一歩、貝殻へ近づいた。


「触るな」


 還名神官が制した。


 男は伸ばしかけた手を止める。


「まだ海のものだ。何が入っているか分からない」


「でも、還ってきたんだろ?」


「それを確かめるのが先だ」


 神官はそう答えたものの、その声にも確信はなかった。


 夜が明けきらない浜で、無数の貝殻だけが淡く光っている。どれも、生きた貝のように固く閉じたままだった。


 誰かに見つけられるのを、ずっと待っていたように。


 最初の一つが割れたのは、人が触れたからではなかった。


 ぱき、と乾いた音がした。


 人々が一斉に振り向く。


 白い貝だった。小さな子どもの両手ほどの大きさで、表面には古い傷がいくつも走っている。その殻の中央に細い亀裂が入り、内側から青白い光が漏れ始めていた。


「下がれ」


 神官が腕を広げる。


 もう一度、ぱき、と音がする。亀裂はさらに広がり、殻がゆっくりと左右へ開いた。


 中には、何も入っていなかった。


 真珠も、肉も、名札もない。


 ただ、水が一滴だけ溜まっている。


 海水よりも青く、夜明けの空よりも暗い水。その表面がかすかに震え、一つの波紋が広がった。


 そして、音がした。


 声ではなかった。


 けれど、その場にいた者たちには、それが名前だと分かった。


 人が呼んだのではない。


 貝の内側から、一つの名が立ち上がった。


「……ラウ?」


 群衆の後ろで、女が呟いた。


 誰も彼女を見ていなかった。女自身も、自分が声を出したことに気づいていないようだった。


 それでも次の瞬間には、人をかき分けて前へ出ていた。


「ラウ……?」


 年老いた女だった。髪はほとんど白く、片方の足を引きずっている。その顔が、見る間に崩れていった。


「ラウなの?」


 貝から立ち上る青い光が、ほんのわずかに揺れた。


 女は両手で口元を覆った。


「嘘……」


 そのまま膝から砂へ落ちる。


「だって、四十年……」


 隣にいた中年の男が、慌てて女を支えた。


「母さん?」


「お兄ちゃんよ」


「え?」


「私のお兄ちゃん」


 女は泣きながら笑った。


「十四の時に嵐でいなくなったの。船も見つからなかった。名札も……何も……」


 震える手を、開いた貝へ伸ばす。


「ラウ」


 青い光が、もう一度揺れた。


 女はもう堪えきれなかった。


「還ってきた……」


 その声が浜へ落ちる。


 ひどく小さな声だった。


 それなのに、その言葉は誰より遠くまで届いた。


「還ってきた」


 誰かが繰り返す。


「名が還ってきたんだ」


 ざわめきが一気に広がり、恐れより先に期待が走った。


 その直後だった。


 ぱき、と別の場所で音がした。


 続いて、ぱき、ぱき、と浜のあちこちで貝殻が割れ始める。


 一つ。


 三つ。


 十。


 たちまち数えられなくなった。


 白い光。青い光。深い緑。ほとんど黒に近い紫。


 無数の色が夜明け前の浜へ立ち上がり、その中から名前が溢れ出す。


「メル=サリア……?」


「待って、その名……」


「父さん?」


「そんなはずない。あの人は二十年前に――」


「ああ……ネリュエ様……!」


 泣き声が上がる。


 笑い声が上がる。


 砂浜へ崩れ落ちる者がいれば、名を呼びながら走る者もいた。家族を呼びに町へ駆け戻る者までいる。


 還名神官たちは制止しようとした。


「一度、落ち着いてください!」


「これは通常の還名とは違う!」


「名を直接呼ばないで!」


 けれど、その声は歓喜に呑まれていった。


 何十年も待ち続けていた名が、今、目の前にある。近づくなと言われて従える者ばかりではなかった。


 東の空が明るくなり、朝の最初の光が海へ落ちる。その光を受けて、浜はまるで無数の星を敷き詰めたように輝いていた。


 奇跡に見えた。


 少なくとも、その時までは。


     *


 異変は、開いた貝殻のすぐそばで始まった。


「あなた」


 一人の女が、夫の袖を引いた。


「なに?」


「いま、私のこと……なんて呼んだ?」


 男は不思議そうに妻を見る。


「なんてって、ミアだろ」


「違う」


「何が?」


「今じゃない。その前」


 男が黙った。


「あなた、私をリネって呼んだ」


 その名を聞いた途端、男の顔がこわばった。女自身も青ざめている。


「それ……子どもの頃の名前なの。結婚する前ですらない。九つまでしか使ってなかった」


「俺は知らない」


「知ってるはずないよ。話したことないもの」


 二人の足元には、青黒い貝殻が開いていた。内側に溜まった水だけが、小さく震えている。


 男は何か言おうとした。


 けれど、その前に別の声がした。


「母ちゃん」


 年老いた漁師だった。


 彼は、隣に立っている自分の娘を見ていた。娘はすでに五十を越えている。


「……父さん?」


「母ちゃん。舟、まだ出さないのか」


「何言ってるの?」


「朝だぞ。父ちゃんに怒られる」


 老人の目には、目の前の娘が映っていなかった。


 もっと古い誰かを見ている。


「父さん、私だよ」


「……誰だ?」


 娘の顔から血の気が引いた。


 老人の足元でも、白い貝が開いていた。


 それでも、まだ誰も全体の異常には気づいていなかった。


 あちこちで起きている小さな混乱は、長く沈んでいた名が突然戻ったせいだと思われていた。記憶が揺れているだけ。昔を思い出しただけ。還ってきた名に、心が追いついていないだけ。


 そう言い聞かせようとする声の方が、まだ多かった。


 けれど、名拾いの一人が叫んだ。


「待って!」


 若い男だった。


 彼は開いた貝の隣で、自分の首元を何度も触っている。


「僕の潮名札……」


 胸元には、小さな貝札が吊られていた。朝の航海に使う潮名が刻まれている。


 その文字が薄い。


 濡れて擦れたのではない。


 一文字ずつ、内側から消えていた。


「そんな……」


 男は札を握り、呼び慣れた自分の潮名を口にしようとした。


「あ……」


 声が止まる。


「なんだっけ」


 周囲が静まった。


「僕の、船の名……じゃない。俺の……」


 男は自分の胸を押さえた。


 すぐ近くで、開いた貝の中から別の名が淡く光っている。


 昔の名。


 誰かに捨てられた名。


 長いあいだ水面に存在しなかった名。


 それが明るくなるほど、男の潮名札の文字は薄れていった。


「神官!」


 誰かが叫ぶ。


「これ、違うぞ!」


 歓声が止まり始めた。


 泣いていた者が顔を上げ、名を抱きしめようとしていた者が手を止める。浜いっぱいに浮かんだ光は変わらず美しく、海も穏やかで、朝日は昇り始めている。


 それなのに、つい先ほどまで奇跡に見えていた光の一つ一つが、急に別のものへ見え始めた。


 還ってきたのではない。


 何かが開いた。


 開いてはいけなかった場所が。


「触らないで!」


 浜の端から声が飛んだ。


 人々が振り返る。


 砂を蹴って走ってくる少女がいた。黒藍の短い髪が潮風に乱れ、肩から潮紙箱を下げている。息を切らしながらも、その目は浜へ立ち上る無数の名から逸れなかった。


 ルカ=ネリスだった。


「全部、そのままにして!」


「ルカ!」


「名を呼ばないでください!」


 還名神官の一人が駆け寄る。


「分かるのか?」


「まだ分かりません」


 ルカは即答した。


「だから、呼ばないで」


 名前は、呼ばれることで向きを持つ。


 帰る先を失っている名へ、こちらの都合で道をつければ、何が起きるか分からない。


 ルカは砂浜へ膝をつき、近くにあった一つの貝を見た。


 青黒い殻。


 大きさは掌ほど。


 まだ開いていない。


 波は何度もそこへ届いていたはずなのに、殻の表面には砂粒一つついていなかった。


 ルカは手を伸ばしかけ、一度止める。


 いつもの漂着名とは違う。


 近づいただけで分かった。


 名には向きがある。


 家へ。


 人へ。


 祈りへ。


 海へ。


 戻りたい名なら、どれほど弱くても、どこかへ顔を向けている。


 けれど、この貝からはそれが感じられなかった。


 何もないのではない。


 逆だった。


 深い。


 あまりにも深いところから、何かがこちらを拒んでいる。


「ルカ」


 後ろから、エルンの声がした。


 いつの間に追いついたのか、少年は少し離れた場所に立っていた。顔色が悪い。浜を覆う貝ではなく、その下の砂を見ている。


「これ……」


 エルンが呟く。


 ルカは振り返らなかった。


「分かる?」


 返事はすぐには来なかった。


「下が、変」


 それだけだった。


 ルカは青黒い貝へ視線を戻し、指先でそっと触れた。


 冷たい。


 海水の冷たさではない。


 陽の届かない深さ。


 誰にも呼ばれなかった時間。


 長い眠り。


 それらが一瞬で指先から腕へ伝わり、息が詰まった。


 いつものように、ルカは名の響きを探す。


 誰なのか。


 どこへ帰りたいのか。


 誰に呼んでほしいのか。


 けれど、何も上がってこない。


 代わりに感じたのは、恐怖だった。


 薄暗い場所へ閉じ込められた者の恐怖ではない。


 光の方へ引きずり出されることへの恐怖。


 次に、拒絶。


 そして、眠り。


 眠っていたい。


 まだ。


 まだ、ここではない。


 ルカの指が震えた。


「……違う」


 掠れた声が、自分の口から落ちる。


 神官が聞き返した。


「何が?」


 ルカはすぐには答えられなかった。


 貝の奥で、何かがもう一度身を縮める。


 その感覚はあまりにも弱く、声と呼ぶには遠すぎた。


 それでも、ルカには伝わった。


 帰りたい、ではない。


 還して、でもない。


 暗い潮のずっと奥で、その名はただ一つのことだけを願っていた。


 ――戻さないで。

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