序節 ― 海が返してはいけないもの
潮は、すべての名を還すわけではない。
還れないからではない。
まだ呼ばれたくない名も、
もう少し深いところで、
眠っていたい名もある。
もし沈んだ名を見つけたなら、
どうか、すぐに救おうとしないでほしい。
水面へ戻すことだけが、
優しさとは限らない。
待つこともまた、
名を失わないための航路なのだから。
メルナ=レイの浜に、貝殻が還ってきた。
最初にそれを見つけたのは、夜明け前の漁へ出ようとしていた老人だった。
真珠港都市の東浜。潮が大きく引く時間になると、白い砂地が遠くまで露わになる。いつもなら、夜の海が置いていった流木や海藻、砕けた珊瑚、ときには漂着名札までが、濡れた砂の上に細い帯となって並んでいる。
その朝も、老人は最初、それらをただの漂着物だと思った。
けれど、数が多すぎた。
白いもの。青黒いもの。灰色のもの。真珠のように淡く光るもの。掌ほどの大きさしかないものから、両手で抱えなければ持ち上がらないほど巨大なものまで、無数の貝殻が浜一面に散らばっている。
しかも、波打ち際だけではない。満潮線よりはるか上、昨夜の潮では届かなかったはずの砂地にもあった。岩陰にも、浜へ降りる石段の下にも、名灯籠を立てる低い石壇の周囲にも、まるで最初からそこへ置かれていたように並んでいる。
老人は足を止めた。
「……なんだ、これは」
夜明け前の海はまだ黒く、水平線だけがごく薄い藍色へほどけ始めていた。
波が寄せる。白い泡が砂の上を伸び、老人の足首を濡らした。いくつかの小石が転がり、乾いた海藻が浮き、半分埋もれていた木片が沖へ引かれていく。
それでも、貝殻だけは一つも動かなかった。
波は確かに触れている。貝の隙間を白い泡が通り抜け、殻の上を海水が流れていく。それなのに波が引いたあとも、貝殻は先ほどと寸分違わぬ場所に残っていた。
老人はしばらく立ち尽くした末、持っていた漁籠を砂へ置き、浜へ背を向けた。
「誰か起こせ!」
静かな港町へ声が走る。
「還名神殿へ知らせろ! 浜がおかしい!」
夜と朝の境目にあった町が、その声で一気に目を覚ました。
*
ほどなくして、東浜には人が集まり始めた。
漁師、名拾い、浜守、白青の祭衣を羽織った還名神官。寝間着の上へ外套だけを引っかけてきた者もいれば、裸足のまま駆けてきた子どもまでいる。
誰もが浜を見て、最初は声を失った。それから少しずつ、ざわめきが広がっていく。
「還名貝か?」
「いや、こんな色は見たことがない」
「でも、光ってるぞ」
「中に名があるんじゃないか?」
その言葉で、人々の空気が変わった。
名がある。
ネル=エル諸海域で、その一言はただの珍事では済まない。
海へ送った名は、いつか還る。潮紙に書かれて戻ることもあれば、名札となって浜へ流れ着くこともある。貝殻の内側に、文字として残されていることさえあった。
そのために待ち続けている者が、この町にも大勢いる。一年、十年、半生。あるいは、待っていた本人がもういなくなっても、その子や孫が代わりに名を待ち続けている。
誰かが一歩、貝殻へ近づいた。
「触るな」
還名神官が制した。
男は伸ばしかけた手を止める。
「まだ海のものだ。何が入っているか分からない」
「でも、還ってきたんだろ?」
「それを確かめるのが先だ」
神官はそう答えたものの、その声にも確信はなかった。
夜が明けきらない浜で、無数の貝殻だけが淡く光っている。どれも、生きた貝のように固く閉じたままだった。
誰かに見つけられるのを、ずっと待っていたように。
最初の一つが割れたのは、人が触れたからではなかった。
ぱき、と乾いた音がした。
人々が一斉に振り向く。
白い貝だった。小さな子どもの両手ほどの大きさで、表面には古い傷がいくつも走っている。その殻の中央に細い亀裂が入り、内側から青白い光が漏れ始めていた。
「下がれ」
神官が腕を広げる。
もう一度、ぱき、と音がする。亀裂はさらに広がり、殻がゆっくりと左右へ開いた。
中には、何も入っていなかった。
真珠も、肉も、名札もない。
ただ、水が一滴だけ溜まっている。
海水よりも青く、夜明けの空よりも暗い水。その表面がかすかに震え、一つの波紋が広がった。
そして、音がした。
声ではなかった。
けれど、その場にいた者たちには、それが名前だと分かった。
人が呼んだのではない。
貝の内側から、一つの名が立ち上がった。
「……ラウ?」
群衆の後ろで、女が呟いた。
誰も彼女を見ていなかった。女自身も、自分が声を出したことに気づいていないようだった。
それでも次の瞬間には、人をかき分けて前へ出ていた。
「ラウ……?」
年老いた女だった。髪はほとんど白く、片方の足を引きずっている。その顔が、見る間に崩れていった。
「ラウなの?」
貝から立ち上る青い光が、ほんのわずかに揺れた。
女は両手で口元を覆った。
「嘘……」
そのまま膝から砂へ落ちる。
「だって、四十年……」
隣にいた中年の男が、慌てて女を支えた。
「母さん?」
「お兄ちゃんよ」
「え?」
「私のお兄ちゃん」
女は泣きながら笑った。
「十四の時に嵐でいなくなったの。船も見つからなかった。名札も……何も……」
震える手を、開いた貝へ伸ばす。
「ラウ」
青い光が、もう一度揺れた。
女はもう堪えきれなかった。
「還ってきた……」
その声が浜へ落ちる。
ひどく小さな声だった。
それなのに、その言葉は誰より遠くまで届いた。
「還ってきた」
誰かが繰り返す。
「名が還ってきたんだ」
ざわめきが一気に広がり、恐れより先に期待が走った。
その直後だった。
ぱき、と別の場所で音がした。
続いて、ぱき、ぱき、と浜のあちこちで貝殻が割れ始める。
一つ。
三つ。
十。
たちまち数えられなくなった。
白い光。青い光。深い緑。ほとんど黒に近い紫。
無数の色が夜明け前の浜へ立ち上がり、その中から名前が溢れ出す。
「メル=サリア……?」
「待って、その名……」
「父さん?」
「そんなはずない。あの人は二十年前に――」
「ああ……ネリュエ様……!」
泣き声が上がる。
笑い声が上がる。
砂浜へ崩れ落ちる者がいれば、名を呼びながら走る者もいた。家族を呼びに町へ駆け戻る者までいる。
還名神官たちは制止しようとした。
「一度、落ち着いてください!」
「これは通常の還名とは違う!」
「名を直接呼ばないで!」
けれど、その声は歓喜に呑まれていった。
何十年も待ち続けていた名が、今、目の前にある。近づくなと言われて従える者ばかりではなかった。
東の空が明るくなり、朝の最初の光が海へ落ちる。その光を受けて、浜はまるで無数の星を敷き詰めたように輝いていた。
奇跡に見えた。
少なくとも、その時までは。
*
異変は、開いた貝殻のすぐそばで始まった。
「あなた」
一人の女が、夫の袖を引いた。
「なに?」
「いま、私のこと……なんて呼んだ?」
男は不思議そうに妻を見る。
「なんてって、ミアだろ」
「違う」
「何が?」
「今じゃない。その前」
男が黙った。
「あなた、私をリネって呼んだ」
その名を聞いた途端、男の顔がこわばった。女自身も青ざめている。
「それ……子どもの頃の名前なの。結婚する前ですらない。九つまでしか使ってなかった」
「俺は知らない」
「知ってるはずないよ。話したことないもの」
二人の足元には、青黒い貝殻が開いていた。内側に溜まった水だけが、小さく震えている。
男は何か言おうとした。
けれど、その前に別の声がした。
「母ちゃん」
年老いた漁師だった。
彼は、隣に立っている自分の娘を見ていた。娘はすでに五十を越えている。
「……父さん?」
「母ちゃん。舟、まだ出さないのか」
「何言ってるの?」
「朝だぞ。父ちゃんに怒られる」
老人の目には、目の前の娘が映っていなかった。
もっと古い誰かを見ている。
「父さん、私だよ」
「……誰だ?」
娘の顔から血の気が引いた。
老人の足元でも、白い貝が開いていた。
それでも、まだ誰も全体の異常には気づいていなかった。
あちこちで起きている小さな混乱は、長く沈んでいた名が突然戻ったせいだと思われていた。記憶が揺れているだけ。昔を思い出しただけ。還ってきた名に、心が追いついていないだけ。
そう言い聞かせようとする声の方が、まだ多かった。
けれど、名拾いの一人が叫んだ。
「待って!」
若い男だった。
彼は開いた貝の隣で、自分の首元を何度も触っている。
「僕の潮名札……」
胸元には、小さな貝札が吊られていた。朝の航海に使う潮名が刻まれている。
その文字が薄い。
濡れて擦れたのではない。
一文字ずつ、内側から消えていた。
「そんな……」
男は札を握り、呼び慣れた自分の潮名を口にしようとした。
「あ……」
声が止まる。
「なんだっけ」
周囲が静まった。
「僕の、船の名……じゃない。俺の……」
男は自分の胸を押さえた。
すぐ近くで、開いた貝の中から別の名が淡く光っている。
昔の名。
誰かに捨てられた名。
長いあいだ水面に存在しなかった名。
それが明るくなるほど、男の潮名札の文字は薄れていった。
「神官!」
誰かが叫ぶ。
「これ、違うぞ!」
歓声が止まり始めた。
泣いていた者が顔を上げ、名を抱きしめようとしていた者が手を止める。浜いっぱいに浮かんだ光は変わらず美しく、海も穏やかで、朝日は昇り始めている。
それなのに、つい先ほどまで奇跡に見えていた光の一つ一つが、急に別のものへ見え始めた。
還ってきたのではない。
何かが開いた。
開いてはいけなかった場所が。
「触らないで!」
浜の端から声が飛んだ。
人々が振り返る。
砂を蹴って走ってくる少女がいた。黒藍の短い髪が潮風に乱れ、肩から潮紙箱を下げている。息を切らしながらも、その目は浜へ立ち上る無数の名から逸れなかった。
ルカ=ネリスだった。
「全部、そのままにして!」
「ルカ!」
「名を呼ばないでください!」
還名神官の一人が駆け寄る。
「分かるのか?」
「まだ分かりません」
ルカは即答した。
「だから、呼ばないで」
名前は、呼ばれることで向きを持つ。
帰る先を失っている名へ、こちらの都合で道をつければ、何が起きるか分からない。
ルカは砂浜へ膝をつき、近くにあった一つの貝を見た。
青黒い殻。
大きさは掌ほど。
まだ開いていない。
波は何度もそこへ届いていたはずなのに、殻の表面には砂粒一つついていなかった。
ルカは手を伸ばしかけ、一度止める。
いつもの漂着名とは違う。
近づいただけで分かった。
名には向きがある。
家へ。
人へ。
祈りへ。
海へ。
戻りたい名なら、どれほど弱くても、どこかへ顔を向けている。
けれど、この貝からはそれが感じられなかった。
何もないのではない。
逆だった。
深い。
あまりにも深いところから、何かがこちらを拒んでいる。
「ルカ」
後ろから、エルンの声がした。
いつの間に追いついたのか、少年は少し離れた場所に立っていた。顔色が悪い。浜を覆う貝ではなく、その下の砂を見ている。
「これ……」
エルンが呟く。
ルカは振り返らなかった。
「分かる?」
返事はすぐには来なかった。
「下が、変」
それだけだった。
ルカは青黒い貝へ視線を戻し、指先でそっと触れた。
冷たい。
海水の冷たさではない。
陽の届かない深さ。
誰にも呼ばれなかった時間。
長い眠り。
それらが一瞬で指先から腕へ伝わり、息が詰まった。
いつものように、ルカは名の響きを探す。
誰なのか。
どこへ帰りたいのか。
誰に呼んでほしいのか。
けれど、何も上がってこない。
代わりに感じたのは、恐怖だった。
薄暗い場所へ閉じ込められた者の恐怖ではない。
光の方へ引きずり出されることへの恐怖。
次に、拒絶。
そして、眠り。
眠っていたい。
まだ。
まだ、ここではない。
ルカの指が震えた。
「……違う」
掠れた声が、自分の口から落ちる。
神官が聞き返した。
「何が?」
ルカはすぐには答えられなかった。
貝の奥で、何かがもう一度身を縮める。
その感覚はあまりにも弱く、声と呼ぶには遠すぎた。
それでも、ルカには伝わった。
帰りたい、ではない。
還して、でもない。
暗い潮のずっと奥で、その名はただ一つのことだけを願っていた。
――戻さないで。




