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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第8話 祈魚は、神ではない名を運んだ
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終節 ― 誰かを呼ぶ音

 夕暮れの海で、巡礼船をもう一度だけ見た。


 かなり遠く、互いの顔などもう分からない距離だった。それでも甲板からは、細い歌声が風に乗って届いてくる。


 沈んだ故郷の祭歌だった。


 祈魚の鱗は、もう彼女の手にはない。それでも歌は残っている。声は途中から夕暮れの風へほどけ、少しずつ聞こえなくなった。


 やがて巡礼船の帆が降りる。灰色髪の船長らしい人影が、畳みかけた帆を一度広げ直し、端を揃えてから今度こそ丁寧に畳んだ。


 ルカは船首からその様子を眺め、少しだけ笑った。


「ちゃんとやってる」


「何を?」


「帆」


 エルンも遠くへ目を向ける。


「ああ」


「怒られたからね」


「誰に?」


 ルカは少しだけ黙った。


「……昔のお母さんに」


「うん」


 巡礼船は、そのまま夕暮れの色へ溶けていった。


 返した声は、なくならない。手放した故郷も、なかったことにはならない。


 だから、もう追わなかった。


     *


 夜。


 ナミル=レイは、穏やかな外海を進んでいた。


 エル=ミラウは二度と水面へ現れなかった。船尾を振り返っても、そこにあるのは星を映す黒い海と、船腹へ静かに当たる波だけだ。昼間まで空と海の境目さえ消していた水鏡は、どこにも残っていない。


 それでもルカは何度か振り返った。


 三度目で、隣から声がする。


「まだ見たい?」


「……ちょっと」


 エルンは船縁へ背を預けていた。


「戻りたい?」


「それは違う」


「じゃあ、見たいだけ?」


「うん」


 ルカは素直に頷いた。


「名前、聞けなかったし」


「うん」


「家族の顔も見えなかった」


「うん」


「場所も分かんないし」


「うん」


「見せるなら、最後まで見せてほしいよね」


 エルンは少し考えてから言った。


「見せたかったのが、そこじゃなかったのかも」


 ルカは振り返る。


「何それ」


「変?」


「ちょっと神官っぽい」


「嫌?」


「似合わない」


「そっか」


 エルンは特に傷ついた様子もなく、また海を見る。


「そこは怒っていいんだよ」


「怒った方がいい?」


「それ訊かれると困る」


 ルカは笑った。それから胸へ手を当てる。


 今は、確かに四つある。


 最初の一音は胸の奥へ還ってきた。二つ目は、呼吸と身体が覚えている。三つ目は、一度手放した祈魚の辿った道から還った。そして四つ目は、名を失わなかった少女が誰かに呼ばれ、振り返った時にこちらへ届いた。


 どれも同じ場所にはなく、同じ方法で確かめることもできない。それでも意識を向ければ、四つとも今のルカの中で間違いなく応えてくれる。


「もう一回、見ようかな」


「何を?」


「四つ」


「声にする?」


「その前に」


 ルカは船室から持ってきていた潮鏡を取り出した。


 銀の浅い皿へ海水を少し注ぎ、月明かりの下で水面が静まるのを待つ。最初に映ったのは星とルカの顔、それから横から覗き込んできたエルンだった。


「近い」


「見えない」


「私の顔が?」


「鏡が」


「じゃあ、そっち寄って」


 二人で位置をずらすと、今度はルカの肩しか映らない。


「……何してるんだろ、私たち」


「潮鏡見てる」


「そういう意味じゃなくて」


 そんなことを言っているうちに、水面へ小さな波紋が生まれた。


 ルカは口を閉じる。


 中央から一つ、静かな輪が広がっていく。それと同時に、胸の奥で第一の一音が鳴った。


「一つ目」


 エルンが言う。


「うん」


 少し間を置いて、二つ目。


 今度は表面へ波が広がるのではなく、皿の中の水全体が一度だけ深く沈み、ゆっくり戻った。


 ルカの呼吸が自然に変わる。肺の底、喉、胸骨。考えるより先に、身体の方が二つ目を知っていた。


「二つ目」


 三つ目の波は、潮鏡の縁から入ってきた。


 外から中央へ一度集まり、それから再び外へ広がっていく。


 透明な祈魚。


 欲しいまま手放したもの。


 そして、その先を通って別の形で還ってきた音。


「三つ目」


 最後の四つ目は、鏡の底から小さな輪となって浮かび上がった。


 ほんの短い動きだった。誰かに呼ばれ、それが自分だと分かって振り返る。その一瞬に似ていると、ルカには思えた。


 輪が指先まで届く。


「四つ目」


 そう言ったあと、二人ともしばらく黙っていた。


 潮鏡には四つの波紋の余韻が残っている。


 同時には鳴らない。一つがあり、少し間が空き、次が来る。それぞれが自分の響きを持ちながら、次の一音が入る場所を残していた。


 ルカは第一の一音を、小さく声へ出した。


 続いて第二。こちらは声よりも、息に近い。


 三つ目。


 そして、四つ目。


 四音が短く繋がり、夜の海へ流れていく。


「……あれ?」


 声にしたルカ自身が、一番驚いた。


「何?」


「増えたのに」


 もう一度、四音を続ける。


「小さくなった」


「音が?」


「違う」


 ルカは自分の感覚に合う言葉を探した。


「なんか……近くなった」


 三音だった時より、さらに壮大さがなくなっていた。


 神殿の奥で唱えるような響きではない。何百人もの祈りを受ける神名でも、海全体へ届かせる古い祈唱でもない。むしろ音が増えるほど、そういう大きなものから遠ざかっているように感じる。


 短い。


 本当に、短い。


 呼んで、巡って、返り、また呼ぶ。そんな祈り特有の反復もない。


 ただ一度、誰かへ向かって呼びかける。


 それだけだった。


「変だね」


 ルカが呟く。


「何が?」


「神様の名前を集めてるなら、もっとすごくなっていきそうじゃない?」


「すごく?」


「こう……海が、どーん、とか」


 エルンが少し考える。


「どーん」


「真似しなくていい」


「うん」


「でも、これ」


 ルカは四音をもう一度、小さく続けた。


「全然そうじゃない」


 戻らない。広がらない。世界へ向かっていかない。


 まっすぐ、どこか一点へ届こうとしている。


「地名でもないよね」


「うん」


「エル=ミラウとか、メルナ=レイみたいでもない」


「うん」


「船名?」


 ルカがナミル=レイの船縁を軽く叩くと、吊られた名札が小さく鳴った。


「違うと思う」


「私も」


「じゃあ、どうして聞いたの?」


「一応」


 ルカは潮鏡を覗き込んだ。


 四つ。


 近い。


 小さい。


 あまりにも個人的だった。


 海へ向かって大勢で唱える名前ではない。神殿の高い天井へ響かせる言葉でもない。


 もっと近い。


 一人分の距離。


 そういう音だった。


「ねえ、エルン」


「うん」


「これ」


 少し言いにくかった。


「本当に神様の名前なのかな」


 エルンはすぐには答えなかった。


 潮鏡の中に残る第一、第二、第三、第四の余韻を見つめ、それからルカを見る。


「分からない」


「そっか」


「でも」


 一度、言葉を止めた。


「何?」


「誰かを呼ぶ音には聞こえる」


「誰か?」


「うん」


「どんな?」


 エルンは夜の水平線ではなく、すぐ近くに誰かが立っているような距離へ視線を向けた。


「遠くない」


「遠くない?」


「神殿から神様に呼びかける感じじゃない」


「うん」


「向こうにいる人に」


 少しだけ間を置く。


「こっち向いて、って言うくらい」


 ルカは黙った。


 分かる。


 その感じ。


 ねえ、と誰かへ声を掛ける。相手が自分のことだと分かって、振り返る。それくらい近い。


「……誰だろ」


 答えはなかった。


 潮鏡の波紋が少しずつ消えていく。


 その時だった。


 とくん、と新しい輪が一つ、水面へ生まれた。


「ん?」


 少し間を置いて、もう一度。


 とくん。


 速すぎず、遅すぎない。


 ルカは眉を寄せる。


「今、私何もしてない」


「うん」


 また、波紋が生まれる。


 とくん。


 とくん。


 ルカは無意識に自分の胸へ手を置いた。


 掌の下で心臓が鳴る。


 とくん。


 潮鏡にも、同時に一つの波紋が生まれた。


「……え」


 もう一度。


 心臓が打ち、鏡が応える。


「同じ」


 エルンも気づいた。


 ルカは自分の胸と潮鏡を何度も見比べた。


「たまたま?」


「分からない」


「だよね」


 笑おうとしたのに、少しだけ声が出なかった。


 これまで四つの音が自分へ反応することには、理由をつけられた。七潮鍵環航路を自分が通っている。ネル=エルの名へ近づいている。だから古い神名が、自分を通して戻ってくる。


 そんなふうに考えてきた。


「でもさ」


 ルカは胸へ手を置いたまま、潮鏡を見る。


「もし、ネル=エルの名前なら……なんで私の心臓と同じなんだろ」


 エルンは答えない。


「神様だから?」


「分からない」


「海だから?」


「分からない」


「……そっか」


 第一、第二、第三、第四。


 短く、一方向へ、一人へ向かう音。


 心臓と同じ間で鳴る。


 神名の祈り方とは違う。ネリュエだけではない。テレシ=グレイスで見た、ほかの古い祈りとも違っていた。


「そもそも」


 ルカは潮鏡へ問いかけるように言った。


「これ、本当に神様の名前なのかな」


 水面は、何も答えなかった。


     *


 潮鏡を船室へ戻したあと、ルカは眠る前に今日の記録を書くことにした。


 第二の音そのものは、今も紙へ書くことができない。第四まで並べても、四音すべてを文字へ置き換えることはできなかった。


 それでも、どこで何が起きたのか。何を見て、どんな反応があったのか。


 それなら残せる。


 机へ座り、潮紙を広げる。


 日付。海域。天候。発生した現象。


 最後に、記録者。


 いつものように筆を走らせる。


《ルカ=》


 そこで手が止まった。


「……?」


 ルカは筆先を見た。


 文字を忘れたわけではない。


 何百回、何千回と書いた名前。


《ルカ=ネリス》。


 今も、ちゃんと分かっている。


 それなのに次の一画へ入ろうとした手が、ほんのわずかだけ別の方向へ動こうとした。


 筆先が潮紙へ触れる直前で、ルカは止めた。


「何?」


 背後からエルンの声がした。


「見てた?」


「止まったから」


「……名前書いてただけ」


「書けない?」


「書ける」


 ルカはすぐに答え、もう一度筆を置いた。


《ルカ=ネリス》


 最後まで、今度は迷わず書く。


「ほら」


 少しだけ潮紙を持ち上げた。


「書ける」


「うん」


「私の名前だし」


「うん」


 ルカは、紙に書かれた文字を見つめた。


 ルカ=ネリス。


 嫌ではない。


 仮の札へ、とりあえず書いている名前だとも思っていない。


 この名で生きてきた。


 メルナ=レイで呼ばれた。カイラに呼ばれた。エルンに呼ばれた。ナミル=レイの上でも、何度となく呼ばれてきた。


 ルカ。


 そう呼ばれれば、今も迷わず振り返る。


 それは間違いなく、自分の名前だった。


 けれど、最初の一瞬だけ、手は別の何かを書こうとした。


 文字は分からない。


 音もまだ分からない。


 ただ身体のどこかだけが、《ルカ=ネリス》とは別の続きを知っているような感覚が残っていた。


 胸の奥で、四つの音が静かに鳴る。


「……変なの」


「何が?」


 エルンが訊く。


 ルカは一瞬考え、


「何でもない」


 と答えた。


 言ってから、自分で少し笑う。


「今、エルンみたいだった」


「うん」


「そこは否定してよ」


「何でもないんでしょ」


「そうだけど」


 記録を書き終え、潮紙を乾かしてしまった。


 それでも、ルカはまだ眠らなかった。


     *


 船首へ出ると、夜はさらに深くなっていた。


 空には星があり、海にはその光が揺れている。ナミル=レイは穏やかな波を小さく割りながら、静かな外海を進んでいた。


 ルカは船縁へ両手を置く。


「四つまで来た」


 少し遅れて、エルンも甲板へ出てきた。


「うん」


「じゃあ、残りもどこかにある」


 そう言ったあと、ルカは少しだけ考え直した。


「……ある、っていうのも違うのかな」


「どういうこと?」


「今まで全部、物みたいにどこかへ置いてあったわけじゃないから」


 胸へ指を置く。


 最初は音。


 次は呼吸。


 祈魚が運んだ道。


 水鏡の向こうから届いた響き。


 どれも違った。


「でも」


 ルカは暗い海を見る。


「通った道はある」


 それなら、追えるかもしれない。


 今の自分なら、ほんの少しだけ。


 第一。胸の奥。


 そこから第二へ繋がった身体の記憶。


 第三。祈魚へ渡り、手放した道。


 第四。水鏡と、選ばなかった日々から届いた一音。


 四つを別々のものとしてではなく、一つの流れとして読む。


 どこから来たのか。


 何を通ったのか。


 どこで手放されたのか。


 そして、まだ届いていないものが、どちらへ続いているのか。


 ルカの眉が、少しずつ寄った。


「……東じゃない」


 エルンも、もう同じ違和感を感じているようだった。


「うん」


「西でもない」


「うん」


「南でも……ない」


 北でもなかった。


 どの星へ船首を合わせても違う。海図の上へ横向きの線を引くことができない。


「方向がない」


 ルカが呟く。


 その横で、エルンは水平線を見ていなかった。


 海面。


 その下。


 さらに深く、夜の光が届かなくなる場所へ視線を沈めている。


「エルン?」


 返事はすぐに来なかった。


「見える?」


 一度、波が船腹へ当たる。


 長い沈黙のあと、エルンがようやく口を開いた。


「次は」


 声が少し低かった。


「下」


 ルカは海を見る。


「下?」


「うん」


「一つ?」


 エルンは首を横に振った。


「違う」


 彼の視線が、さらに深いところへ沈んでいく。


「三つ」


 ルカの息が止まった。


「残ってる三つ?」


「うん」


「全部?」


「全部」


 エルンは暗い海を指した。


「下にいる」


 ルカも目を閉じた。


 第一、第二、第三、第四。


 四つの先。


 さっきまで何も分からなかった場所へ、細い気配だけが伸びていく。


 下。


 一つ。


 そのさらに向こうに、もう一つ。


 もっと深いところに、三つ目。


 位置は同じではない。それでも、すべてが海の深い側へ沈んでいる。


「……ほんとだ」


 ルカの声が自然と小さくなった。


 今までとは違う。


 浅い海を流れていない。祈魚が明るい水へ運んでくるものでも、水鏡の向こうに浮かんでいるものでもない。


 もっと深い。


 光も、声も、星さえ届かなくなるところ。


 名そのものが沈んでいるような深さだった。


 ルカはナミル=レイの船縁を撫でる。


「ナミル」


 名灯が小さく揺れた。


「怖い?」


 すぐには返事がない。


 真珠色の帆がかすかに鳴り、少し遅れて名灯が一度だけ弱く瞬いた。


 ルカは小さく笑った。


「私も」


 それ以上は強がらなかった。


 怖い。


 ここまで来て初めて、名前を見つけることそのものが少し怖くなっていた。


 七つを集めれば失った名前が分かり、それで答えになる。以前は、どこかでそんなふうに思っていた。


 けれど透明な祈魚を、欲しいまま返した。


 名を失わなかった自分の人生を、欲しいまま選ばなかった。


 名前は見つけさえすれば、ただ持って帰ればいいものではないのかもしれない。


「……下なんだね」


「うん」


「深い?」


 エルンはしばらく暗い水面を見つめてから答えた。


「かなり」


「そっか」


 ルカは船首の名灯へ指先を置いた。


「怖いね」


 帆が小さく鳴る。


「でも――」


 そこまで言って、ルカは口を閉じた。


 行かなきゃ、とは言わなかった。


 行くべきだ、とも。


 今夜のうちに決める必要はない。


 ただ、残る三つがそこにいる。そのことだけは、もう分かってしまった。


 エルンがルカの隣へ立つ。


 二人で同じ海を見た。


 東でも、西でも、南でも、北でもない。星潮羅針盤には指すことのできない道が、星の下ではなく、その光さえ届かない深い海へ続いている。


 胸の奥では、四つの音が短く鳴っていた。


 世界へ向かう祈りではない。


 誰か一人を振り向かせるような、あまりにも近い名前。


 その続きを形作るはずの三つの気配が、海の深いところで静かに待っている。


 ルカはしばらく黙ってその暗さを見つめていた。


 名前を見つければ、失った過去が分かる。


 そう思って始めた航海だった。


 けれど今は、それだけではない。


 どんな名前が見つかったとしても、それに応えるのか。今の自分とどう繋ぐのか。その名前を知ったあと、どこへ行くのか。


 きっと、それを決めるところまでが自分の航海なのだ。


 潮は名を残すことができる。


 海は、失われた声さえ抱えていられる。


 けれど、見つかった名の先を生きるのは、潮ではない。


 ルカはまだ答えを持たないまま、暗い海の向こうへ続く三つの気配を見つめていた。

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