終節 ― 誰かを呼ぶ音
夕暮れの海で、巡礼船をもう一度だけ見た。
かなり遠く、互いの顔などもう分からない距離だった。それでも甲板からは、細い歌声が風に乗って届いてくる。
沈んだ故郷の祭歌だった。
祈魚の鱗は、もう彼女の手にはない。それでも歌は残っている。声は途中から夕暮れの風へほどけ、少しずつ聞こえなくなった。
やがて巡礼船の帆が降りる。灰色髪の船長らしい人影が、畳みかけた帆を一度広げ直し、端を揃えてから今度こそ丁寧に畳んだ。
ルカは船首からその様子を眺め、少しだけ笑った。
「ちゃんとやってる」
「何を?」
「帆」
エルンも遠くへ目を向ける。
「ああ」
「怒られたからね」
「誰に?」
ルカは少しだけ黙った。
「……昔のお母さんに」
「うん」
巡礼船は、そのまま夕暮れの色へ溶けていった。
返した声は、なくならない。手放した故郷も、なかったことにはならない。
だから、もう追わなかった。
*
夜。
ナミル=レイは、穏やかな外海を進んでいた。
エル=ミラウは二度と水面へ現れなかった。船尾を振り返っても、そこにあるのは星を映す黒い海と、船腹へ静かに当たる波だけだ。昼間まで空と海の境目さえ消していた水鏡は、どこにも残っていない。
それでもルカは何度か振り返った。
三度目で、隣から声がする。
「まだ見たい?」
「……ちょっと」
エルンは船縁へ背を預けていた。
「戻りたい?」
「それは違う」
「じゃあ、見たいだけ?」
「うん」
ルカは素直に頷いた。
「名前、聞けなかったし」
「うん」
「家族の顔も見えなかった」
「うん」
「場所も分かんないし」
「うん」
「見せるなら、最後まで見せてほしいよね」
エルンは少し考えてから言った。
「見せたかったのが、そこじゃなかったのかも」
ルカは振り返る。
「何それ」
「変?」
「ちょっと神官っぽい」
「嫌?」
「似合わない」
「そっか」
エルンは特に傷ついた様子もなく、また海を見る。
「そこは怒っていいんだよ」
「怒った方がいい?」
「それ訊かれると困る」
ルカは笑った。それから胸へ手を当てる。
今は、確かに四つある。
最初の一音は胸の奥へ還ってきた。二つ目は、呼吸と身体が覚えている。三つ目は、一度手放した祈魚の辿った道から還った。そして四つ目は、名を失わなかった少女が誰かに呼ばれ、振り返った時にこちらへ届いた。
どれも同じ場所にはなく、同じ方法で確かめることもできない。それでも意識を向ければ、四つとも今のルカの中で間違いなく応えてくれる。
「もう一回、見ようかな」
「何を?」
「四つ」
「声にする?」
「その前に」
ルカは船室から持ってきていた潮鏡を取り出した。
銀の浅い皿へ海水を少し注ぎ、月明かりの下で水面が静まるのを待つ。最初に映ったのは星とルカの顔、それから横から覗き込んできたエルンだった。
「近い」
「見えない」
「私の顔が?」
「鏡が」
「じゃあ、そっち寄って」
二人で位置をずらすと、今度はルカの肩しか映らない。
「……何してるんだろ、私たち」
「潮鏡見てる」
「そういう意味じゃなくて」
そんなことを言っているうちに、水面へ小さな波紋が生まれた。
ルカは口を閉じる。
中央から一つ、静かな輪が広がっていく。それと同時に、胸の奥で第一の一音が鳴った。
「一つ目」
エルンが言う。
「うん」
少し間を置いて、二つ目。
今度は表面へ波が広がるのではなく、皿の中の水全体が一度だけ深く沈み、ゆっくり戻った。
ルカの呼吸が自然に変わる。肺の底、喉、胸骨。考えるより先に、身体の方が二つ目を知っていた。
「二つ目」
三つ目の波は、潮鏡の縁から入ってきた。
外から中央へ一度集まり、それから再び外へ広がっていく。
透明な祈魚。
欲しいまま手放したもの。
そして、その先を通って別の形で還ってきた音。
「三つ目」
最後の四つ目は、鏡の底から小さな輪となって浮かび上がった。
ほんの短い動きだった。誰かに呼ばれ、それが自分だと分かって振り返る。その一瞬に似ていると、ルカには思えた。
輪が指先まで届く。
「四つ目」
そう言ったあと、二人ともしばらく黙っていた。
潮鏡には四つの波紋の余韻が残っている。
同時には鳴らない。一つがあり、少し間が空き、次が来る。それぞれが自分の響きを持ちながら、次の一音が入る場所を残していた。
ルカは第一の一音を、小さく声へ出した。
続いて第二。こちらは声よりも、息に近い。
三つ目。
そして、四つ目。
四音が短く繋がり、夜の海へ流れていく。
「……あれ?」
声にしたルカ自身が、一番驚いた。
「何?」
「増えたのに」
もう一度、四音を続ける。
「小さくなった」
「音が?」
「違う」
ルカは自分の感覚に合う言葉を探した。
「なんか……近くなった」
三音だった時より、さらに壮大さがなくなっていた。
神殿の奥で唱えるような響きではない。何百人もの祈りを受ける神名でも、海全体へ届かせる古い祈唱でもない。むしろ音が増えるほど、そういう大きなものから遠ざかっているように感じる。
短い。
本当に、短い。
呼んで、巡って、返り、また呼ぶ。そんな祈り特有の反復もない。
ただ一度、誰かへ向かって呼びかける。
それだけだった。
「変だね」
ルカが呟く。
「何が?」
「神様の名前を集めてるなら、もっとすごくなっていきそうじゃない?」
「すごく?」
「こう……海が、どーん、とか」
エルンが少し考える。
「どーん」
「真似しなくていい」
「うん」
「でも、これ」
ルカは四音をもう一度、小さく続けた。
「全然そうじゃない」
戻らない。広がらない。世界へ向かっていかない。
まっすぐ、どこか一点へ届こうとしている。
「地名でもないよね」
「うん」
「エル=ミラウとか、メルナ=レイみたいでもない」
「うん」
「船名?」
ルカがナミル=レイの船縁を軽く叩くと、吊られた名札が小さく鳴った。
「違うと思う」
「私も」
「じゃあ、どうして聞いたの?」
「一応」
ルカは潮鏡を覗き込んだ。
四つ。
近い。
小さい。
あまりにも個人的だった。
海へ向かって大勢で唱える名前ではない。神殿の高い天井へ響かせる言葉でもない。
もっと近い。
一人分の距離。
そういう音だった。
「ねえ、エルン」
「うん」
「これ」
少し言いにくかった。
「本当に神様の名前なのかな」
エルンはすぐには答えなかった。
潮鏡の中に残る第一、第二、第三、第四の余韻を見つめ、それからルカを見る。
「分からない」
「そっか」
「でも」
一度、言葉を止めた。
「何?」
「誰かを呼ぶ音には聞こえる」
「誰か?」
「うん」
「どんな?」
エルンは夜の水平線ではなく、すぐ近くに誰かが立っているような距離へ視線を向けた。
「遠くない」
「遠くない?」
「神殿から神様に呼びかける感じじゃない」
「うん」
「向こうにいる人に」
少しだけ間を置く。
「こっち向いて、って言うくらい」
ルカは黙った。
分かる。
その感じ。
ねえ、と誰かへ声を掛ける。相手が自分のことだと分かって、振り返る。それくらい近い。
「……誰だろ」
答えはなかった。
潮鏡の波紋が少しずつ消えていく。
その時だった。
とくん、と新しい輪が一つ、水面へ生まれた。
「ん?」
少し間を置いて、もう一度。
とくん。
速すぎず、遅すぎない。
ルカは眉を寄せる。
「今、私何もしてない」
「うん」
また、波紋が生まれる。
とくん。
とくん。
ルカは無意識に自分の胸へ手を置いた。
掌の下で心臓が鳴る。
とくん。
潮鏡にも、同時に一つの波紋が生まれた。
「……え」
もう一度。
心臓が打ち、鏡が応える。
「同じ」
エルンも気づいた。
ルカは自分の胸と潮鏡を何度も見比べた。
「たまたま?」
「分からない」
「だよね」
笑おうとしたのに、少しだけ声が出なかった。
これまで四つの音が自分へ反応することには、理由をつけられた。七潮鍵環航路を自分が通っている。ネル=エルの名へ近づいている。だから古い神名が、自分を通して戻ってくる。
そんなふうに考えてきた。
「でもさ」
ルカは胸へ手を置いたまま、潮鏡を見る。
「もし、ネル=エルの名前なら……なんで私の心臓と同じなんだろ」
エルンは答えない。
「神様だから?」
「分からない」
「海だから?」
「分からない」
「……そっか」
第一、第二、第三、第四。
短く、一方向へ、一人へ向かう音。
心臓と同じ間で鳴る。
神名の祈り方とは違う。ネリュエだけではない。テレシ=グレイスで見た、ほかの古い祈りとも違っていた。
「そもそも」
ルカは潮鏡へ問いかけるように言った。
「これ、本当に神様の名前なのかな」
水面は、何も答えなかった。
*
潮鏡を船室へ戻したあと、ルカは眠る前に今日の記録を書くことにした。
第二の音そのものは、今も紙へ書くことができない。第四まで並べても、四音すべてを文字へ置き換えることはできなかった。
それでも、どこで何が起きたのか。何を見て、どんな反応があったのか。
それなら残せる。
机へ座り、潮紙を広げる。
日付。海域。天候。発生した現象。
最後に、記録者。
いつものように筆を走らせる。
《ルカ=》
そこで手が止まった。
「……?」
ルカは筆先を見た。
文字を忘れたわけではない。
何百回、何千回と書いた名前。
《ルカ=ネリス》。
今も、ちゃんと分かっている。
それなのに次の一画へ入ろうとした手が、ほんのわずかだけ別の方向へ動こうとした。
筆先が潮紙へ触れる直前で、ルカは止めた。
「何?」
背後からエルンの声がした。
「見てた?」
「止まったから」
「……名前書いてただけ」
「書けない?」
「書ける」
ルカはすぐに答え、もう一度筆を置いた。
《ルカ=ネリス》
最後まで、今度は迷わず書く。
「ほら」
少しだけ潮紙を持ち上げた。
「書ける」
「うん」
「私の名前だし」
「うん」
ルカは、紙に書かれた文字を見つめた。
ルカ=ネリス。
嫌ではない。
仮の札へ、とりあえず書いている名前だとも思っていない。
この名で生きてきた。
メルナ=レイで呼ばれた。カイラに呼ばれた。エルンに呼ばれた。ナミル=レイの上でも、何度となく呼ばれてきた。
ルカ。
そう呼ばれれば、今も迷わず振り返る。
それは間違いなく、自分の名前だった。
けれど、最初の一瞬だけ、手は別の何かを書こうとした。
文字は分からない。
音もまだ分からない。
ただ身体のどこかだけが、《ルカ=ネリス》とは別の続きを知っているような感覚が残っていた。
胸の奥で、四つの音が静かに鳴る。
「……変なの」
「何が?」
エルンが訊く。
ルカは一瞬考え、
「何でもない」
と答えた。
言ってから、自分で少し笑う。
「今、エルンみたいだった」
「うん」
「そこは否定してよ」
「何でもないんでしょ」
「そうだけど」
記録を書き終え、潮紙を乾かしてしまった。
それでも、ルカはまだ眠らなかった。
*
船首へ出ると、夜はさらに深くなっていた。
空には星があり、海にはその光が揺れている。ナミル=レイは穏やかな波を小さく割りながら、静かな外海を進んでいた。
ルカは船縁へ両手を置く。
「四つまで来た」
少し遅れて、エルンも甲板へ出てきた。
「うん」
「じゃあ、残りもどこかにある」
そう言ったあと、ルカは少しだけ考え直した。
「……ある、っていうのも違うのかな」
「どういうこと?」
「今まで全部、物みたいにどこかへ置いてあったわけじゃないから」
胸へ指を置く。
最初は音。
次は呼吸。
祈魚が運んだ道。
水鏡の向こうから届いた響き。
どれも違った。
「でも」
ルカは暗い海を見る。
「通った道はある」
それなら、追えるかもしれない。
今の自分なら、ほんの少しだけ。
第一。胸の奥。
そこから第二へ繋がった身体の記憶。
第三。祈魚へ渡り、手放した道。
第四。水鏡と、選ばなかった日々から届いた一音。
四つを別々のものとしてではなく、一つの流れとして読む。
どこから来たのか。
何を通ったのか。
どこで手放されたのか。
そして、まだ届いていないものが、どちらへ続いているのか。
ルカの眉が、少しずつ寄った。
「……東じゃない」
エルンも、もう同じ違和感を感じているようだった。
「うん」
「西でもない」
「うん」
「南でも……ない」
北でもなかった。
どの星へ船首を合わせても違う。海図の上へ横向きの線を引くことができない。
「方向がない」
ルカが呟く。
その横で、エルンは水平線を見ていなかった。
海面。
その下。
さらに深く、夜の光が届かなくなる場所へ視線を沈めている。
「エルン?」
返事はすぐに来なかった。
「見える?」
一度、波が船腹へ当たる。
長い沈黙のあと、エルンがようやく口を開いた。
「次は」
声が少し低かった。
「下」
ルカは海を見る。
「下?」
「うん」
「一つ?」
エルンは首を横に振った。
「違う」
彼の視線が、さらに深いところへ沈んでいく。
「三つ」
ルカの息が止まった。
「残ってる三つ?」
「うん」
「全部?」
「全部」
エルンは暗い海を指した。
「下にいる」
ルカも目を閉じた。
第一、第二、第三、第四。
四つの先。
さっきまで何も分からなかった場所へ、細い気配だけが伸びていく。
下。
一つ。
そのさらに向こうに、もう一つ。
もっと深いところに、三つ目。
位置は同じではない。それでも、すべてが海の深い側へ沈んでいる。
「……ほんとだ」
ルカの声が自然と小さくなった。
今までとは違う。
浅い海を流れていない。祈魚が明るい水へ運んでくるものでも、水鏡の向こうに浮かんでいるものでもない。
もっと深い。
光も、声も、星さえ届かなくなるところ。
名そのものが沈んでいるような深さだった。
ルカはナミル=レイの船縁を撫でる。
「ナミル」
名灯が小さく揺れた。
「怖い?」
すぐには返事がない。
真珠色の帆がかすかに鳴り、少し遅れて名灯が一度だけ弱く瞬いた。
ルカは小さく笑った。
「私も」
それ以上は強がらなかった。
怖い。
ここまで来て初めて、名前を見つけることそのものが少し怖くなっていた。
七つを集めれば失った名前が分かり、それで答えになる。以前は、どこかでそんなふうに思っていた。
けれど透明な祈魚を、欲しいまま返した。
名を失わなかった自分の人生を、欲しいまま選ばなかった。
名前は見つけさえすれば、ただ持って帰ればいいものではないのかもしれない。
「……下なんだね」
「うん」
「深い?」
エルンはしばらく暗い水面を見つめてから答えた。
「かなり」
「そっか」
ルカは船首の名灯へ指先を置いた。
「怖いね」
帆が小さく鳴る。
「でも――」
そこまで言って、ルカは口を閉じた。
行かなきゃ、とは言わなかった。
行くべきだ、とも。
今夜のうちに決める必要はない。
ただ、残る三つがそこにいる。そのことだけは、もう分かってしまった。
エルンがルカの隣へ立つ。
二人で同じ海を見た。
東でも、西でも、南でも、北でもない。星潮羅針盤には指すことのできない道が、星の下ではなく、その光さえ届かない深い海へ続いている。
胸の奥では、四つの音が短く鳴っていた。
世界へ向かう祈りではない。
誰か一人を振り向かせるような、あまりにも近い名前。
その続きを形作るはずの三つの気配が、海の深いところで静かに待っている。
ルカはしばらく黙ってその暗さを見つめていた。
名前を見つければ、失った過去が分かる。
そう思って始めた航海だった。
けれど今は、それだけではない。
どんな名前が見つかったとしても、それに応えるのか。今の自分とどう繋ぐのか。その名前を知ったあと、どこへ行くのか。
きっと、それを決めるところまでが自分の航海なのだ。
潮は名を残すことができる。
海は、失われた声さえ抱えていられる。
けれど、見つかった名の先を生きるのは、潮ではない。
ルカはまだ答えを持たないまま、暗い海の向こうへ続く三つの気配を見つめていた。




