第五節 ― 選ばなかった名
ルカの手首は、まだ水鏡の向こう側にあった。
あたたかい。
水へ入れているはずなのに、濡れているという感覚より、誰かの手の中へ触れているような温度の方が強かった。ほんの少し身体を傾ければ肘まで入る。船縁を越えれば、その先へ行けるのかもしれない。
水鏡の向こうで、少女は笑っていた。
朝の食卓。髪を梳いてくれる誰か。嫌いなものを皿へ戻してくる手。菓子を取り合って喧嘩する相手。出かける時、肩を叩く誰か。帰れば灯りのついている家。
そして、名前を呼ばれれば迷いなく振り返る日々。
そのどれ一つとして、ルカには記憶がない。それなのに、自分のものだったかもしれない。その可能性だけで胸が痛かった。
「……ずるいなあ」
ルカが呟くと、隣でエルンが首を傾げた。
「何が?」
「ここまで見せるくせに」
鏡の中で、少女が誰かに呼ばれる。唇が動き、一つの名前を形作る。確かにそこにあるはずなのに、その部分だけ音が海の底へ沈んでしまう。
「名前だけ聞かせてくれない」
「うん」
「家族の顔も見せないし」
「うん」
「どこの島なのかも分からない」
「うん」
「だったら余計、知りたくなるじゃん」
エルンは何も言わなかった。止めもしなければ、先へ進めとも言わない。ただ、そこにいる。
ルカは小さく息を吐いた。
「知りたいよ」
今度は誰へ聞かせるでもなく、はっきりと言った。
知らなくていい。そんなふうには、もう言えない。
「名前。本当の名前、知りたい」
身体の中で、三つの音がわずかに揺れた。
「誰が呼んでたのかも」
少女の後ろでは、顔の見えない誰かが髪へ小さな飾りを挿している。少女は嫌そうにそこへ手を伸ばし、その手を、ぺし、と軽く叩かれて頬を膨らませた。
ルカは思わず笑った。同時に、目の奥が熱くなる。
「家族にも会いたい」
声が少し掠れた。
「会えるなら……会いたい」
誰と暮らしていたのか。何を食べていたのか。どんなことで怒られ、どんなことで笑ったのか。どんな声で自分の名前を呼ばれていたのか。
「全部」
ルカは胸へ手を置いた。
「全部、知りたい」
欲しい。
今も。
水鏡へ入れば、その答えへ触れられるかもしれない。透明な祈魚の時より、ずっと強く欲しかった。あの魚が持っていたのは、名前へ続くほんの少しの響きだった。けれど、ここには生活そのものがある。
名前を持ち、家族と暮らし、帰る場所を持った――自分だったかもしれない少女。
ルカは水鏡の向こうへ入った手を見つめ、そのまま、もう少しだけ押し込んだ。水面が肘の手前まで来る。
「ルカ」
エルンが呼んだ。
「うん」
「呼んだだけ」
「……そっか」
また、それだけだった。
決めてくれない。
ルカは少しだけ笑った。
けれど、その声で、こちら側にも自分の名前があることを思い出した。
ルカ。
ルカ=ネリス。
誰が最初につけたのか。失った名とどう繋がるのか。まだ全部は分からない。それでも今、そう呼ばれれば自分は振り返る。
それも嘘ではない。
ルカはもう一度、水鏡の向こうを見た。
少女の人生。失わなかったもの。
そして、こちら側。
今の自分。失ったあとに増えていったもの。
メルナ=レイ。真珠港の浜。名拾いの仕事。ナミル=レイ。エルン。カイラ。拾った名前。返した名前。泣いた人。笑った人。船の上で眠れない夜を過ごしたこと。腹を立てたこと。怖かったこと。それでも次の海へ出たこと。
全部、自分が生きた時間だった。
ルカの眉が少し寄る。
違う。
ここを、きれいな話にはしたくない。
もし名を失わなければ、この人たちには会わなかったかもしれない。だからといって、名を失ってよかったことには絶対にならない。
「……名を失ってよかったなんて、思わない」
ルカがぽつりと言った。
エルンは黙って聞いている。
「海に流されてよかったとも思わない。家族と離れてよかったとも……思わない」
水鏡の向こうで、少女が誰かと笑っている。
その痛みまで、今の自分を作るために必要だったことにしたくなかった。
奪われたものは、奪われたまま悲しい。
悔しい。
取り戻したい。
それでいい。
でも、だからといって、そのあと自分が生きてきた時間まで偽物になるわけではない。
ルカは水鏡へ沈めていた手を、ゆっくり引いた。
手首。手の甲。指先。
鏡は最後までルカを止めなかった。引き戻そうともしない。
水から抜けた手が朝の潮風へ触れ、指先から水滴が一つ落ちた。
その瞬間、ルカは初めて、きちんとこちら側へ立った気がした。
「……決めた?」
エルンが訊く。
ルカは濡れた手を見つめた。
「うん」
それから水鏡へ目を戻す。
「知りたい」
もう一度、はっきり言う。
「全部、知りたい」
名前も、家族も、故郷も、失った時間も。
「でも」
ルカは濡れた手を胸へ置いた。
「今の私をなかったことにして戻るのは嫌」
三つの音が、そこにある。
「今の私を消してまで、戻りたくない」
水鏡は静かなままだった。
少女も消えない。
ルカの言葉を否定しない。
だから、ルカも向こう側を否定しなかった。
「あなたが偽物だって言ってるんじゃないよ」
少女は聞いていない。それでも言いたかった。
「そっちが間違いだったとも思わない」
名を失わず、家族と暮らし、普通の日々を生きたかもしれない少女。それも大切だった。
「ただ、今はそっちに行かない」
選ばない。
でも、捨てない。
諦めない。
今すぐ、その人生へ入り直す方法を選ばないだけだ。
「いつか」
ルカは少女を見る。
「ちゃんと会いに行く」
少女へ。そして、その向こうにいる顔の見えない人たちへ。
「あなたにも。家族にも。私の名前にも」
聞こえない名。
「逃げない。知らなくていいなんて言わない」
本当に知りたい。
今も、その気持ちは何一つ変わっていない。
「だから、いつかちゃんと会いに行く」
少し息を吸う。
「今の私のままで」
その言葉を口にしたあと、ルカは何かを待った。
海が光るかもしれない。水鏡が答えるかもしれない。
けれど、何も起きなかった。
ルカは少しだけ肩の力を抜く。
「……よし」
「何が?」
エルンが訊く。
「言いたかっただけ」
「そっか」
「うん」
その時、エルンが少しだけルカを見た。
「ルカ」
「何?」
「ルカはルカだと思う」
ルカは一瞬、黙った。
決める前だったなら、もしかすると、その言葉へ縋ったかもしれない。
今は違う。
自分で手を引いたあと、自分で選んだあとに、エルンがその選択を受け取ってくれた。
それが嬉しかった。
「……うん」
ルカは笑う。
「私も、そう思う」
「でも」
エルンが続けた。
「朝弱い」
「そこで終わらせて」
「髪も適当」
「エルン」
「片づけも――」
「今いいところだった!」
ルカが振り向くと、エルンは少しだけ笑っていた。
「ほんとにさあ」
ルカも笑う。
水鏡の少女も、向こう側で誰かと笑っていた。
別々の場所。
別々の日々。
それでも、どちらかを笑えば、もう一方が消えるわけではない。
そんなことを、ほんの少しだけ思った。
鏡の中で、少女がふいに足を止めた。
誰かが背後から呼ぶ。
名前。
ルカには、やはり聞こえない。その部分だけ、音が深く沈む。
少女は迷わず振り返った。
自分が呼ばれたのだと分かって。
そして、返事をした。
何と答えたのかは聞こえない。
はい、なのか。
なに、なのか。
それすら分からない。
ただ、その瞬間、少女の足元へ小さな波紋が生まれた。
「……え?」
丸い輪が一つ、ゆっくりと広がっていく。
家も、道も、食卓も、顔の見えない人たちも、少女が生きたかもしれない日々も、その波紋はすべてを通り抜け、こちらへ向かってきた。
エルンが水面へ身を寄せる。
「来る」
「何が?」
「ルカに」
ルカは手を出さなかった。
取ろうともしない。
もう、水鏡から手を引いている。
それでも波紋は止まらず、鏡の境目を越えた。
向こうの海とこちらの海が、一瞬だけ同じ水になる。
輪がナミル=レイの船腹へ触れ、そこからルカへ届いた。
「――っ」
一音。
耳からではない。
第一のように胸へ直接還ったのでもない。第二のように呼吸へ残ったのでもなく、第三のように祈魚が運んできたのでもない。
波紋がルカへ触れ、そのまま身体の奥へ入った。
少女が名前を呼ばれ、振り返った。
その時、そこにあった一音。
呼ばれた名へ、自分が応じるための響き。
「……四つ目」
ルカが呟く。
胸元の護符が淡く光った。
第一は胸の奥。
第二は呼吸の底。
第三は海を通った残響。
そして第四は、水鏡から今、届いた音。
四つがそれぞれ違う場所で、ルカへ応える。
「全部……違う」
隠され方も、戻り方も、残り方も違う。同じ箱に四つの欠片が入っていたわけではない。
それでもルカが四つの音を順番に確かめると、第一、第二、第三、第四と、どれも自然に次へ続いた。
「……ちゃんと続く」
エルンは答えない。
ルカも、その意味を決めつけなかった。
ただ一つだけ分かる。
水鏡へ行かなかったから、第四の音をもらったわけではない。
少女を選ばなかったから、海が褒めたのでもない。
あの少女は、あの少女の人生の中で誰かに名前を呼ばれ、振り返った。その出来事は、ルカがこちらへ残ると決めても消えなかった。
選ばなかった人生にも、名前はあった。
そこを通った名の痕跡が、今、一音だけこちらへ届いた。
それだけだった。
ルカは水鏡の少女を見る。
「……そっか」
胸が少しだけ軽くなる。
「選ばなかったからって、なくなるわけじゃないんだ」
諦めることと、今は選ばないことは違う。
少女は家の方へ戻っていく。
ルカは追わなかった。
けれど、目を逸らしもしなかった。
「またね」
小さく言う。
「いつか」
今度は、ちゃんと約束する。
「名前、聞きに行くから」
水面が少しずつ揺れ始めた。
空と海の境目が戻ってくる。エル=ミラウの島が遠ざかり、白い浜も、家も、灯りも、顔の見えない人々も、最後には少女の姿も、普通の海へ溶けていく。
ルカは止めなかった。
鏡を壊す必要もない。あの人生を消す必要もない。
そこに、あったかもしれないものとして残っていればいい。
やがて波がナミル=レイの船腹へ普通に当たり、風が帆を鳴らした。
海の上に、もう鏡はない。
「行ったね」
エルンが言う。
「うん」
「寂しい?」
「ちょっと」
ルカは正直に答えた。
「行きたかった?」
「すごく」
「そっか」
「うん」
行きたかった。
でも、行かなかった。
その二つは矛盾しなかった。
「いつか、本当に会えるかな」
ルカが訊く。
「誰に?」
「みんな」
「みんな?」
「家族」
ルカは海を見る。
「さっきの私」
それから胸へ触れる。
「名前」
エルンは少し考えた。
「会いたい?」
「うん」
「じゃあ……探すんじゃない?」
ルカが振り返る。
「私が?」
「うん」
「航海士だから?」
「船長でもある」
ルカは少し笑った。
「両方だった」
「うん」
「じゃあ、探すか」
今すぐ取り戻さなくてもいい。
知らないままで終わらせるつもりもない。
いつか、今の自分としてそこへ行く。
それでいい。
胸の奥では、四つの音が静かに並んでいた。それぞれ別々の道を通り、違う残り方をしながら、今のルカへ辿り着いた音たちだった。
そして四つ目は、選ばなかった人生を消さないまま、その向こうから今のルカへ、一音だけを渡していた。




