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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第8話 祈魚は、神ではない名を運んだ
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第五節 ― 選ばなかった名

 ルカの手首は、まだ水鏡の向こう側にあった。


 あたたかい。


 水へ入れているはずなのに、濡れているという感覚より、誰かの手の中へ触れているような温度の方が強かった。ほんの少し身体を傾ければ肘まで入る。船縁を越えれば、その先へ行けるのかもしれない。


 水鏡の向こうで、少女は笑っていた。


 朝の食卓。髪を梳いてくれる誰か。嫌いなものを皿へ戻してくる手。菓子を取り合って喧嘩する相手。出かける時、肩を叩く誰か。帰れば灯りのついている家。


 そして、名前を呼ばれれば迷いなく振り返る日々。


 そのどれ一つとして、ルカには記憶がない。それなのに、自分のものだったかもしれない。その可能性だけで胸が痛かった。


「……ずるいなあ」


 ルカが呟くと、隣でエルンが首を傾げた。


「何が?」


「ここまで見せるくせに」


 鏡の中で、少女が誰かに呼ばれる。唇が動き、一つの名前を形作る。確かにそこにあるはずなのに、その部分だけ音が海の底へ沈んでしまう。


「名前だけ聞かせてくれない」


「うん」


「家族の顔も見せないし」


「うん」


「どこの島なのかも分からない」


「うん」


「だったら余計、知りたくなるじゃん」


 エルンは何も言わなかった。止めもしなければ、先へ進めとも言わない。ただ、そこにいる。


 ルカは小さく息を吐いた。


「知りたいよ」


 今度は誰へ聞かせるでもなく、はっきりと言った。


 知らなくていい。そんなふうには、もう言えない。


「名前。本当の名前、知りたい」


 身体の中で、三つの音がわずかに揺れた。


「誰が呼んでたのかも」


 少女の後ろでは、顔の見えない誰かが髪へ小さな飾りを挿している。少女は嫌そうにそこへ手を伸ばし、その手を、ぺし、と軽く叩かれて頬を膨らませた。


 ルカは思わず笑った。同時に、目の奥が熱くなる。


「家族にも会いたい」


 声が少し掠れた。


「会えるなら……会いたい」


 誰と暮らしていたのか。何を食べていたのか。どんなことで怒られ、どんなことで笑ったのか。どんな声で自分の名前を呼ばれていたのか。


「全部」


 ルカは胸へ手を置いた。


「全部、知りたい」


 欲しい。


 今も。


 水鏡へ入れば、その答えへ触れられるかもしれない。透明な祈魚の時より、ずっと強く欲しかった。あの魚が持っていたのは、名前へ続くほんの少しの響きだった。けれど、ここには生活そのものがある。


 名前を持ち、家族と暮らし、帰る場所を持った――自分だったかもしれない少女。


 ルカは水鏡の向こうへ入った手を見つめ、そのまま、もう少しだけ押し込んだ。水面が肘の手前まで来る。


「ルカ」


 エルンが呼んだ。


「うん」


「呼んだだけ」


「……そっか」


 また、それだけだった。


 決めてくれない。


 ルカは少しだけ笑った。


 けれど、その声で、こちら側にも自分の名前があることを思い出した。


 ルカ。


 ルカ=ネリス。


 誰が最初につけたのか。失った名とどう繋がるのか。まだ全部は分からない。それでも今、そう呼ばれれば自分は振り返る。


 それも嘘ではない。


 ルカはもう一度、水鏡の向こうを見た。


 少女の人生。失わなかったもの。


 そして、こちら側。


 今の自分。失ったあとに増えていったもの。


 メルナ=レイ。真珠港の浜。名拾いの仕事。ナミル=レイ。エルン。カイラ。拾った名前。返した名前。泣いた人。笑った人。船の上で眠れない夜を過ごしたこと。腹を立てたこと。怖かったこと。それでも次の海へ出たこと。


 全部、自分が生きた時間だった。


 ルカの眉が少し寄る。


 違う。


 ここを、きれいな話にはしたくない。


 もし名を失わなければ、この人たちには会わなかったかもしれない。だからといって、名を失ってよかったことには絶対にならない。


「……名を失ってよかったなんて、思わない」


 ルカがぽつりと言った。


 エルンは黙って聞いている。


「海に流されてよかったとも思わない。家族と離れてよかったとも……思わない」


 水鏡の向こうで、少女が誰かと笑っている。


 その痛みまで、今の自分を作るために必要だったことにしたくなかった。


 奪われたものは、奪われたまま悲しい。


 悔しい。


 取り戻したい。


 それでいい。


 でも、だからといって、そのあと自分が生きてきた時間まで偽物になるわけではない。


 ルカは水鏡へ沈めていた手を、ゆっくり引いた。


 手首。手の甲。指先。


 鏡は最後までルカを止めなかった。引き戻そうともしない。


 水から抜けた手が朝の潮風へ触れ、指先から水滴が一つ落ちた。


 その瞬間、ルカは初めて、きちんとこちら側へ立った気がした。


「……決めた?」


 エルンが訊く。


 ルカは濡れた手を見つめた。


「うん」


 それから水鏡へ目を戻す。


「知りたい」


 もう一度、はっきり言う。


「全部、知りたい」


 名前も、家族も、故郷も、失った時間も。


「でも」


 ルカは濡れた手を胸へ置いた。


「今の私をなかったことにして戻るのは嫌」


 三つの音が、そこにある。


「今の私を消してまで、戻りたくない」


 水鏡は静かなままだった。


 少女も消えない。


 ルカの言葉を否定しない。


 だから、ルカも向こう側を否定しなかった。


「あなたが偽物だって言ってるんじゃないよ」


 少女は聞いていない。それでも言いたかった。


「そっちが間違いだったとも思わない」


 名を失わず、家族と暮らし、普通の日々を生きたかもしれない少女。それも大切だった。


「ただ、今はそっちに行かない」


 選ばない。


 でも、捨てない。


 諦めない。


 今すぐ、その人生へ入り直す方法を選ばないだけだ。


「いつか」


 ルカは少女を見る。


「ちゃんと会いに行く」


 少女へ。そして、その向こうにいる顔の見えない人たちへ。


「あなたにも。家族にも。私の名前にも」


 聞こえない名。


「逃げない。知らなくていいなんて言わない」


 本当に知りたい。


 今も、その気持ちは何一つ変わっていない。


「だから、いつかちゃんと会いに行く」


 少し息を吸う。


「今の私のままで」


 その言葉を口にしたあと、ルカは何かを待った。


 海が光るかもしれない。水鏡が答えるかもしれない。


 けれど、何も起きなかった。


 ルカは少しだけ肩の力を抜く。


「……よし」


「何が?」


 エルンが訊く。


「言いたかっただけ」


「そっか」


「うん」


 その時、エルンが少しだけルカを見た。


「ルカ」


「何?」


「ルカはルカだと思う」


 ルカは一瞬、黙った。


 決める前だったなら、もしかすると、その言葉へ縋ったかもしれない。


 今は違う。


 自分で手を引いたあと、自分で選んだあとに、エルンがその選択を受け取ってくれた。


 それが嬉しかった。


「……うん」


 ルカは笑う。


「私も、そう思う」


「でも」


 エルンが続けた。


「朝弱い」


「そこで終わらせて」


「髪も適当」


「エルン」


「片づけも――」


「今いいところだった!」


 ルカが振り向くと、エルンは少しだけ笑っていた。


「ほんとにさあ」


 ルカも笑う。


 水鏡の少女も、向こう側で誰かと笑っていた。


 別々の場所。


 別々の日々。


 それでも、どちらかを笑えば、もう一方が消えるわけではない。


 そんなことを、ほんの少しだけ思った。


 鏡の中で、少女がふいに足を止めた。


 誰かが背後から呼ぶ。


 名前。


 ルカには、やはり聞こえない。その部分だけ、音が深く沈む。


 少女は迷わず振り返った。


 自分が呼ばれたのだと分かって。


 そして、返事をした。


 何と答えたのかは聞こえない。


 はい、なのか。


 なに、なのか。


 それすら分からない。


 ただ、その瞬間、少女の足元へ小さな波紋が生まれた。


「……え?」


 丸い輪が一つ、ゆっくりと広がっていく。


 家も、道も、食卓も、顔の見えない人たちも、少女が生きたかもしれない日々も、その波紋はすべてを通り抜け、こちらへ向かってきた。


 エルンが水面へ身を寄せる。


「来る」


「何が?」


「ルカに」


 ルカは手を出さなかった。


 取ろうともしない。


 もう、水鏡から手を引いている。


 それでも波紋は止まらず、鏡の境目を越えた。


 向こうの海とこちらの海が、一瞬だけ同じ水になる。


 輪がナミル=レイの船腹へ触れ、そこからルカへ届いた。


「――っ」


 一音。


 耳からではない。


 第一のように胸へ直接還ったのでもない。第二のように呼吸へ残ったのでもなく、第三のように祈魚が運んできたのでもない。


 波紋がルカへ触れ、そのまま身体の奥へ入った。


 少女が名前を呼ばれ、振り返った。


 その時、そこにあった一音。


 呼ばれた名へ、自分が応じるための響き。


「……四つ目」


 ルカが呟く。


 胸元の護符が淡く光った。


 第一は胸の奥。


 第二は呼吸の底。


 第三は海を通った残響。


 そして第四は、水鏡から今、届いた音。


 四つがそれぞれ違う場所で、ルカへ応える。


「全部……違う」


 隠され方も、戻り方も、残り方も違う。同じ箱に四つの欠片が入っていたわけではない。


 それでもルカが四つの音を順番に確かめると、第一、第二、第三、第四と、どれも自然に次へ続いた。


「……ちゃんと続く」


 エルンは答えない。


 ルカも、その意味を決めつけなかった。


 ただ一つだけ分かる。


 水鏡へ行かなかったから、第四の音をもらったわけではない。


 少女を選ばなかったから、海が褒めたのでもない。


 あの少女は、あの少女の人生の中で誰かに名前を呼ばれ、振り返った。その出来事は、ルカがこちらへ残ると決めても消えなかった。


 選ばなかった人生にも、名前はあった。


 そこを通った名の痕跡が、今、一音だけこちらへ届いた。


 それだけだった。


 ルカは水鏡の少女を見る。


「……そっか」


 胸が少しだけ軽くなる。


「選ばなかったからって、なくなるわけじゃないんだ」


 諦めることと、今は選ばないことは違う。


 少女は家の方へ戻っていく。


 ルカは追わなかった。


 けれど、目を逸らしもしなかった。


「またね」


 小さく言う。


「いつか」


 今度は、ちゃんと約束する。


「名前、聞きに行くから」


 水面が少しずつ揺れ始めた。


 空と海の境目が戻ってくる。エル=ミラウの島が遠ざかり、白い浜も、家も、灯りも、顔の見えない人々も、最後には少女の姿も、普通の海へ溶けていく。


 ルカは止めなかった。


 鏡を壊す必要もない。あの人生を消す必要もない。


 そこに、あったかもしれないものとして残っていればいい。


 やがて波がナミル=レイの船腹へ普通に当たり、風が帆を鳴らした。


 海の上に、もう鏡はない。


「行ったね」


 エルンが言う。


「うん」


「寂しい?」


「ちょっと」


 ルカは正直に答えた。


「行きたかった?」


「すごく」


「そっか」


「うん」


 行きたかった。


 でも、行かなかった。


 その二つは矛盾しなかった。


「いつか、本当に会えるかな」


 ルカが訊く。


「誰に?」


「みんな」


「みんな?」


「家族」


 ルカは海を見る。


「さっきの私」


 それから胸へ触れる。


「名前」


 エルンは少し考えた。


「会いたい?」


「うん」


「じゃあ……探すんじゃない?」


 ルカが振り返る。


「私が?」


「うん」


「航海士だから?」


「船長でもある」


 ルカは少し笑った。


「両方だった」


「うん」


「じゃあ、探すか」


 今すぐ取り戻さなくてもいい。


 知らないままで終わらせるつもりもない。


 いつか、今の自分としてそこへ行く。


 それでいい。


 胸の奥では、四つの音が静かに並んでいた。それぞれ別々の道を通り、違う残り方をしながら、今のルカへ辿り着いた音たちだった。


 そして四つ目は、選ばなかった人生を消さないまま、その向こうから今のルカへ、一音だけを渡していた。


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